濱口桂一郎『新しい労働社会』2009年7月寸評,これを2020年12月の時点で再評してみた議論,学問以前の労働経済「講話」について再度の疑問提示

             (2010年4月20日,追補 更新 2020年12月7日)

 本(旧・々)ブログへの不可解な言及,「上から目線」では,とても,みえそうにもない「下界の実相」

 「ジョブ型雇用とメンバーシップ型雇用」という造語が1人歩きしてきた遍歴をたどってみると,理論の衣をかぶった “なにものか” が,「世間のための議論」を迷走させる効果をもたらした

 

  要点・1 「ジョブ型雇用とメンバーシップ型雇用」という〈対・観念〉の非学術的性格を理解しそこねた世間では,この観念をそのまま受容してきたが,その間(2010年から2020年)に,労働経済の実相は悪化する傾向一途

  要点・2 学術的な基礎訓練を欠いた識者が想像してみた「ジョブ型雇用とメンバーシップ型雇用」という疑似的な理論であれば,現実の産業界の立場からは,はかない物語風の教説に終始したのは必然であった

 

  お節介,それとも親切な教示,そして,濱口桂一郎という大学教員(当時の肩書き)

 本(旧・々のそれだった)ブログの,コントロール・パネル(管理欄)「最新のコメント5項」に,いまのところ〔実は昨日(ここでは 2010年4月20日のこと)まで〕は出ていた「2010.4.18 19:46:09  hgkjgggggiu」氏は,「トンデモ系の匂いがぷんぷん」という文句を付したコメントでもって,「濱口桂一郎のブログ」の存在を指摘してくれていた。

 さてそこで,hgkjgggggiu と称する「通行人」(こういう名称でコメントを寄せた投書者に対してはその掲載をいっさい拒否するブロガーもいるが,筆者はそうしていない)に対する〈当方の感想〉を,当時,こう述べておいた。なお〔 〕 内は,ここへの引用にさいして補足した語句である。

 「2010.4.19  06:14:56  管理人」--東大法卒エリート官僚出身の大学教員〔濱口桂一郎〕(の自意識)にあっては,世の中にあまた存在する〈トンデモ系〉も含めて〈ナンデモ・あり系〉の世間(底辺の世界も視野に入れて)全体像を,体系的にイメージすることが困難なようです。

 

 東大法卒の高級官僚は,同じ大学の他学部卒の国家官僚さえ「自分より下にみる」とは,元大蔵省官僚であった高橋洋一(理学部卒・現嘉悦大学教授)も指摘した点です。〔もっとも〕頭の「よさ」でいったら東大理三 [医学部] のほうが,はるかに上ですが・・・(日本一!)。

 

 正規労働と非正規労働の問題を,現状を基本においてかえずに小手先でいじって解決をめざしたところで,いまの日本の労働経済においては「百年清河を待つに等しい」試図です。抜本的な経済・社会政策を立てて一気に変革を試みなければ,21世紀の日本は太平洋のかなたに沈没するかもしれません。

 以上において指示されていた濱口桂一郎は,2009年7月に『新しい労働社会-雇用システムの再構築へ-』という岩波新書を公刊していた。濱口は自身の書く前掲のブログにおいて,本ブログ筆者が2010年4月14日の「旧・々」ブログの記述

 主題「高等教育の投機化現象

  副題1「元がとれるか,その保証がない『日本の高等(?)教育』」

  副題2「日本で大学にいくことの損得勘定:損を承知で進学するのか?」

「など」をとらえて,こちらも〈トンデモ系〉だと断定してくれたことがあった。

 本日の記述は,そのトンデモ系〔でもあるらしい?〕の本ブログの問題意識をたずさえてとなるが,濱口桂一郎に固有であった『理論的な訓練の欠落させた議論』をめぐる事情が,いったいどのような立論上の形成不全をはらませていたかという論点を,あらためて議論してみたい。もちろん「批判」になる検討をするが,なにせ学問以前の舞台において付きあってもらうほかない話題であった。

 補注)この議論はまだ,もちろん2010年段階におけるものであった。

 

  真意・底意を推測する

 濱口桂一郎は1958年大阪府生まれ,1983年東京大学法学部卒業,労働省に入省。のちに東京大学客員教授政策研究大学院大学教授を経て,現在,独立行政法人労働政策研究・研修機構労使関係・労使コミュニケーション部門統括研究員。専門は労働法,社会政策である。

 社会科学を研究する同業者として,相手の論著をなにも参照しないで言及するのは,失礼に当たる。そこで,昨日〔19日〕昼から出かける用事があったので,この出がけに最寄りの書店に寄って岩波新書の棚をのぞいたところ,濱口桂一郎の最近作『新しい労働社会-雇用システムの再構築へ-』2009年7月をみつけた。これを買い,目的地に着くまでの片道1時間半内を利用して読了した。

 濱口は,同書の副題に「再構築へ」という表現を含めている。この関係でいっているのか,主題「新しい労働社会」に関して「定性的な議論をするのは難しい」ゆえ,「構造的な議論を主に展開」すると断わってもいた(22頁)。本ブログの筆者が本書を読んで感じたのは,あれこれ関連する諸論点を議論してはいても,全体としてなにをいいたいのか,いいかえれば,なにを中心に議論したかったのか判然としなかった,ということである。

 労働法・社会政策〔論ではない〕を専攻する法学研究者の論及のしかたを反映しているせいか,内容記述の方法ににじみ出ている特徴は,もっぱら逐条的な論旨の構成である点にうかがえる。つまり,『新しい労働社会-雇用システムの再構築へ-』の中身を,ともかくあれこれ読んでみてください。しかし,あとの詰めとなる議論は自分で考えてください,という論調が感じとれる。濱口は,前掲に指摘した〈自身のブログ〉は「労働関係では最も中身の濃いブログの一つだと自負してい」るそうである(212頁)。

 前段に触れたその〈濱口のブログ〉は,筆者の本ブログのほうをこう評している〔※〕。若干の思わせぶりがあるところが味噌である。触れたくもないが,少しは気になる(癇にさわる)ブログだ,とでもいいたげに聞こえる文句は披露していた。

 本ブログの筆者は,濱口の向こうを張るつもりは毛頭ない。ただ,筆者自身がいっていることではなく,「当方のブログの記述」を,それも濱口にいわせれば〈トンデモ系〉と批難したいらしい「領域でのある記事」を読んでくれた他者が,たとえばこう評していたことを紹介しておく。本ブログ内に陳列されている部門でいえば,項目(カテゴリー)「天皇・皇室」に属する記事に関した感想であった。

 「ここまで客観的に冷静に,『異説』として古代史理論をとらえ返したサイトのまとまった文章には初めてお目にかかりました」(「2010.3.18 10:58:25」「ネタ技術者」より)。

 

  濱口の論調に関する基本的な疑問点

 濱口は,昨今における「現実の教育システムの圧倒的大部分はなお職業への指向性がきわめて希薄なままで」あるから,「文部科学省管轄下の高校やとりわけ大学が職業指向型の教育システムに変化していくには,教師を少しずつ実業系に入れ替えることも含め,かなり長期にわたる移行期間が必要で」あると指摘している(145頁)。

 さて,本ブログの筆者はそのように〈悠長な視点〉を構え,経済社会対策史的に「職業指向型の教育システムに変化」を待つようでは,21世紀の日本産業社会はよりいっそう低迷化への歩調を加速するほかない。文部科学省がいつも実行しているように急速に,「日本の大学のうち3分の2」を,いままでの「どちらかというといつまでも古典的・伝統的な教養型大学教育」から「職業訓練型大学教育」へと,一気に改編させる集中的な方策の実行が〈火急の課題〉であると主張した。

 補注)2010年から10年が経ったいまの時点で,日本における高等教育の内外から寄せられている評価は,じわじわと凋落の傾向をたどってきた。とくに大学院へ進学する学生がいよいよ減少している問題があった。

 もっとも18歳人口の絶対的な減少がそこの統計数値には関係しているゆえ,慎重な解釈も必要である。しかし,日本の研究力全体が弱体化しており,これからはノーベル賞受賞者の輩出が困難になると,既存の受章者たちが口を揃えて心配している。

 また付言しておくが,いわゆる実業系出身の大学教員たちには,大学で教授する理論方面の力量に関して問題のある場合が多くあった。その問題「性」は濱口桂一郎がその事例のひとつを提供していた。

 ところが同時に,濱口は「大学で身に付けた職業能力によって評価されるような実学が中心にならざるを得ず,それは特に文科系学部において,大学教師の労働市場に大きな影響を与えることにな」ると(149頁),まさに大学の教員たち現実に対応を迫られている状況を,まことにのんびりした気分で横目にながめているかのような,はたからの観察をおこなっている。

 また,濱口は「大学進学率が5割を超え,能力不足ゆえに進学できない者はほとんどいなくなってきた」(144頁)と記述している点からも分かるように,一般的により広い意味で使用される「能力」という漢字(用語)を,特定の意味で限定的に使用されるべき漢字(用語)である「学力(大学入試などで得点をとれる実力)」と同じに使用している。つまり,専門的に使用されるときの「用語」を,きわめて粗雑にあつかっており,不用意さを露呈させている。

 本ブログの筆者が提唱している具体策は,濱口の記述によればこうなっている。

 2009年夏に報告がとりまとられる予定ですが,新聞報道によると,大学レベルの職業教育機関として「専門大学」「職業大学」を設置し,実験や実習など仕事に直結する授業に重点を置き,企業でのインターンシップを義務づけるなど,まさに職業指向型の高等教育機関を目指しているようです(145頁)。

 はたして,大学レベルで実施する「職業教育」というものが,どのような程度・種類・内容のものであればいいのか,まだ詰めた議論はなされていない。しかし,「古きよき時代の大学像」からは完全にかけはなれてしまい,すでに不要とみなすほかない「日本の大学:3分の2」の教育内容が,改革を不可避にしている問題対象なのである。

 それら大学に学びにくる若者集団を否定しないで,より実効性ある技術教育を彼らに与えたい。そこで,哲学・思想・文学・歴史・社会とかに関した高踏的かつ抽象的な教養学科を学ばせるよりも,彼らが世の中に出ていって直接役立つ〔直結する〕諸学科を実践的に教授することが,より現実的な指向性になりうるはずである。

 前段における濱口の論及は,現実の大学における緊急課題を他人事のように呑気にのんびり語っている。『新しい労働社会-雇用システムの再構築へ-』という書物の著者の語り口としては,当事者である研究者が最低限もつべき学問上の緊張感すら欠いている。いささかならず放任的で雑駁な分析・論及が特徴的である。

 

  世の中の動き

 『日本経済新聞2010年4月19日(昨日)には,たまたま,大学・大学生関係の記事が3件出ていた。これらを紹介する。

 a)「未就職の大卒を支援」  --パソナ2000人一時雇用,リクルート中小紹介サイト,青学など留年の学費軽減。未就職の大卒者はIT(情報技術)バブルが崩壊した2000年度ごろから急増している。2003年度は卒業者54万人のうち未就職者が10万人程度にも達した。2006年度以降は5万人台まで減少したが,景気低迷でまた 10万人を超える可能性がある。

 この記事は,昨今における景気低迷の影響があるにせよ,大卒者が企業側の要求する能力や技能に応じられる〈学力〉=〈実力〉を備えていない事実を示唆している。またいえば,学生側における「費用対効果」の関係で判断するに,大学生が大学在籍中に納入した諸経費を投資とみなしたとき,これにみあうかあるいは十分に回収できることが,将来みこめるような職にありつけていない実情がうかがえる。

 b)「地方活性化の拠点に-大学を首都圏から一掃せよ」  --作曲家三枝成彰は「大学立国に限らず,いまの日本は30年単位の大改革を必要としている」と強調している。この三枝の主張は,本ブログの筆者の「大学観」と通底している。首都圏から大学を一掃することなどできるわけがないといったら,どだい「大学改革」はできないはずもない。筆者が「日本の大学」のうち「3分の2」が不要と主張した点と,この三枝の「大学を首都圏から一掃せよ」と主張した点とは,共通する実質がある。

 つまり,日本の大学のうち問題となる「3分の2」はひとまず視野の外に置いたかたちで,職業技術教育をするのではない〈伝統的という意味〉で,本来の大学といえる「3分の1」については,首都圏から地方に移動させるというのである。

 三枝は,地域経済の再生・復活を念頭においた議論を披露している。それとともに,30年という長期的・大局的な視点で提案している。三枝は,芸術系大学に通う大学生が「卒業即失業の現実」があるのに,それでも「けた外れに高額の投資」がなされているとすれば,この芸術系〔ここでは音楽系〕の大学を地方に配置する意義があるといっている。

 補注)いまは2020年,2010年から10年が経っている。前段のごとき三枝流の大学論「提言」に関していえば,たとえば首都圏ではとくに,大手私立大学の都市中心部への回帰現象がいちじるしく進行していた。日本の現状は,大学:高等教育全体に対する国家的な未来展望,これを実現するための理念や計画が実質的に不在である。

 c)「教育資金上手につくる,ローン,選択肢広がる-国と民間,条件見極めて,奨学金 少額でも可能に-」  --デフレ下で雇用・賃金不安が続くなか,子育てをめぐる環境は依然きびしい。そこでローンや奨学金を活用することで,教育資金を上手につくりだす工夫が必要である。

 ということで「主な教育ローンの比較」(金利は2010年4月1日現在)について,日本政策金融公庫(国の教育ローン)・三菱東京UFJ銀行・みずほ銀行三井住友銀行・損保ジャパンなど,教育ローンに関する企画をもつ諸銀行が紹介されている。

 最近は,奨学金を支給されている大学生の比率が45%にも近づいている。いまの日本の教育において大学に進学しようとすれば,平均的な所得の世帯では借金をしなければむずかしくなっている。かといって「費用対効果」の関係で吟味すると,めでたく卒業にまで漕ぎつけても,就職すならままならない学生が大勢いる。高い経費をかけて大学を卒業して就職できたばあいでも,はたして大学卒にふさわしいとみなせる職がえられたのかあやしい事例も多い。

 補注)2020/12/06 追補。「2018年度において,大学〔学部〕昼間部で奨学金を受給している人における,日本学生支援機構(JASSO)からのみの受給者は83.8%,その他の奨学金のみの受給者は8.6%,日本学生支援機構とその他の奨学金の双方を受給している人は7.6%となっている」のであり,貸与型奨学金を受けている学生が多数派である。

 コロナ禍が猛威を振るってきた2020年も12月になったが,貸与型奨学金を受けている学生が今後の生活に支障を来たす実例が,すでにめだちはじめている。この事実は,日本における奨学金制度の「制度的な弱点」を端的に表出している。

 以上,a)  b)  c)  の新聞記事などにみてとれる「日本の大学」教育の価値は,借金までして進学するほどの中身=内実がありうるのか,という最重要の基本的疑問にぶち当たるほかなくなる。濱口桂一郎もいうように「大学進学率が5割を超え,能力不足ゆえに進学できない者はほとんどいなくなってきた」のと併行して,大学を卒業して生涯賃金で3億円をもらえる職に付ける若者が,いかほど〔何割〕存在しうるかといえば,これはもうかなり低い比率にある。

 補注)東洋経済新報社2018年10月に伝えていた独自に調査した統計では,「調査対象に挙げた」会社従業員の平均生涯「給料は2億2304万円。母数がやや異なるものの,昨〔2017〕年同時期のランキング(2億2052万円)から若干増加した。また,生涯給料3億円超は215社と昨年の189社から増加。ただ,全体でみると7%弱に限られている。

 註記)前段補注については,以下を参照。

 その意味でも,濱口桂一郎『新しい労働社会-雇用システムの再構築へ-』2009年7月は,ああでもないこうでもないと最近日本における労働社会に関する分析・説明をするばかりである。もっと視野を広くもち,それも一貫する観点に立って,「あなた(濱口)はなにを労働社会政策的に提唱したいのか」。これが終始,明晰ではなかった。

 結局,その口つき:態度は「上から目線」である。それは,非正規労働に従事しながら働いている労働者・サラリーマン諸氏が現実に味わっている苦労を,真正面からよく理解も認識もしていない。もっとはっきりいえば,こちらの「下界の実相」を直視しない〔より正確にはみえていない〕議論を,濱口はおこなっている。政策提言力のない「知識ひけらかし型」の学問(?)営為に,いったいどれほどの理論的な価値がみいだしうるのか,大いに疑問である。

 

  2010年4月21日早朝:補記

 「老人性早起き症候群」が日常の体質になっている本ブログの筆者であるが,本日(2010年4月21日)午前6時まえにパソコンでメールを受信すると,HE氏による「下記」のコメント」を(本日記述の「下欄」)もらっていた。早速の適切な評言をもらい,濱口流の「学問営為」は「知識ひけらかし型」という指摘に同感してくれる人もいることに接しえた。

 なお,遅れてしまったがここに,濱口桂一郎『新しい労働社会-雇用システムの再構築へ-』の目次体系を紹介しておく。

 序 章 問題の根源はどこにあるか-日本型雇用システムを考える-
  1 日本型雇用システムの本質-雇用契約の性質-
  2 日本の労務管理の特徴;
  3 システムの外側と周辺領域

 第1章 働きすぎの正社員にワークライフバランス
  1 「名ばかり管理職」はなぜいけないのか?
  2 ホワイトカラーエグゼンプションの虚構と真実
  3 いのちと健康を守る労働時間規制へ
  4 生活と両立できる労働時間を
  5 解雇規制は何のためにあるのか?

 第2章 非正規労働者の本当の問題は何か?
  1 偽装請負は本当にいけないのか?
  2 労働力需給システムの再構成
  3 日本の派遣労働法制の問題点
  4 偽装有期労働にこそ問題がある
  5 均衡処遇がつくる本当の多様就業社会

 第3章 賃金と社会保障のベストミックス―働くことが得になる社会へ
  1 ワーキングプアの「発見」
  2 生活給制度のメリットとデメリット
  3 年齢に基づく雇用システム
  4 職業教育訓練システムの再構築
  5 教育費や住宅費を社会的に支える仕組み
  6 雇用保険生活保護のはざま

 第4章 職場からの産業民主主義の再構築
  1 集団的合意形成の重要性
  2 就業規則法制をめぐるねじれ
  3 職場の労働者代表組織をどう再構築するか
  4 新たな労使協議制に向けて;ステークホルダ-民主主義の確立-

 本書は,こう解説されている。--正規労働者であることが要件の,現在の日本型雇用システム。職場の現実から乖離した,その不合理と綻びはもはや覆うべくもない。正規,非正規の別をこえ,合意形成の礎をいかに築き直すか。問われているのは民主主義の本分だ。独自の労働政策論で注目される著者が,混迷する雇用論議に一石を投じる。

 本書はたしかに「一石を投じた著作である」。ところが,そのつぎにぜひ期待したかった「議論=労働経済問題に関する大枠の理念提示に関する検討」が不在である。結局,その〈ひとつの石〉は,日本という国の池に「ポチャンと落とされた」だけであった。

  どんぐりころころ ドンブリコ
    お池にはまって さあ大変
   どじょうが出て来て 今日は
    坊ちゃん一緒に 遊びましょう

  どんぐりころころ よろこんで
    しばらく一緒に 遊んだが
   やっぱりお山が 恋しいと
    泣いてはどじょうを 困らせた

    --『どんぐりころころ』1921(大正10)年10月--

 つまり,今後における日本の産業・労働社会において「新しい」「雇用システム」が,どうやったら「再構築」できるのか。その将来をみとおすための方向性だけでもいい,示唆してほしかったのである。だが,そのへんの記述は〈雲を掴むような中身〉しかない。つまり,その論点に限っていえば「中身が薄い」どころか,空白なのである。こまかい論点に関する検討はよく論及しているが,それ以上に視座を高められる討究は与えていない。

 補注)このへんに関する最新の雇用事情については,濱口桂一郎の出身官庁である厚生労働省が関連する統計を公表していた。この記述では末尾で参照している。

 皮肉ではなく率直に申すに,本書はいわゆる「羊頭狗肉」。 --この本に巻かれた「帯」には「問われているのは民主主義の本分だ」(!)と書かれている。しかし,濱口は「民主主義の本分」問題を直接語っているわけではない。したがって「看板倒れ」ともいうべき誇大宣伝。民主主義とはいっても,これは「会社の門までの話」だと比喩されたのは有名な文句。

 「問われている」のはむしろ,まず,現代日本における産業・労働社会が抱える深刻・重大な諸課題に向けて必要不可欠な,大局的な見地での「的を射た討究」であり,そしてつぎに,そこではなによりも「具体的な改革につながりうるような全般政策的な提言」が,どのようなかたちでもよいと思うが,おこないえているかどうかという点であった。

 

  文章は,なるべく,分かりやすい「日本語」で書いてほしい(英語のカタカナ語ではなく, ペダンティック:衒学的でもなく)

 濱口桂一郎『新しい労働社会-雇用システムの再構築へ-』2009年7月のなかには,つぎのような文章もある。

 その将来像として,今までの女性正社員の働き方を男女労働者共通のデフォルトルールとして,本人が希望して初めてそこから個別にオプトアウトできる仕組みとすることで,次章でみる非正規労働者との均等待遇問題に新たな視野が開けてくるように思われます(48頁)。

 文章そのものは口語体で書かれているけれども,専門用語的に新しい意味をもつ〈カタカナ語〉が,ここだけで2つ混ぜこまれている。日本語に訳した表現・用語にしておかないで,そのまま英語をカタカナ語にして文章を組みたてている。前後をよく読んでいないと,この文章だけ読んだ人は,岩波新書程度をふだんから読みこなせる層であっても,いったいどのような意味なのかとても把握しづらい。

 ちなみに,default rule と opt out が,そのもとの英語表現であるが,その専門的な用語としての意味は,別所に関連する記述があるので分かりえなくはないものの,当初からそれを適切な「日本語に直して(教養書として配慮して)おく手順」を抜かしている。新書版での記述だとすれば,これは不親切・手抜きではないか。日本語に飜訳しておく必要が全然ないというのであれば,以上の指摘は撤回してもよい。

 

  そのほかいくつか気になる点

 1)【付記1:2010年4月24日午前7時半の記】

 まず,『池田信夫 blog(旧館)』の a) 「濱口桂一郎氏にはフリーターが見えないのか」, b) 「濱口桂一郎氏の家父長主義」,c)「厚生労働者の家父長主義を解説したパンフレット」などの参照を薦めておきたい。

 「天下り教授」「なんちゃって教授」=濱口桂一郎のつたない議論展開を,ボロクソに批判する池田信夫の記述内容に関しては,数多くのコメントもぶら下がっていた。これを全部読むのはシンドイが,池田はともかく本文中で,hamachan なる人物を,こう裁断している。東大法卒も各種各様:ピンキリということらしい。

 「一つの記事の中で矛盾したことを書くのは」「頭がおかしいと思われてもしょうがない」。

 「彼は日本語が読めないようだ」(以上 a)  から)。

 「当〔池田信夫の〕ブログは,バカは相手にしないことにしているが・・・」( b)  から)。

 2)【付記2:2010年4月26日午前5時半:記】

 その後も,hamachan なる人物が,こんどは,本(旧・々)ブログの筆者の記述に関して「なにか触れていた」ことを教えようと,コメント欄にその情報をわざわざ送ってくれる読者が何人もいた。どうもありがとう。

 しかし,濱口の学問的次元と同居しているつもりのない本ブログの筆者は,これ以上「関説」する気になれない〔でいた〕。実際,その人物のブログにはもう興味もなにもないので,そのようにお断わりしておきたい。コメント欄に寄せられた同種の通知もとりあげていない。

 補注)それから10年が経った。十年一昔というが,いまさらとはいえ,あらためてこの記述をおこなうことになった。

 3)【付記3:2020年12月6日午後9時ころ:記】 いまから10年も前に書いていた,それもこのもとのブログの記述は,ブログのサイト(運営元)が閉鎖されてしまったゆえ,その後は削除された状態になっていた。

 しかし,本ブログ筆者に対して濱口桂一郎は,http://hamachan.on.coocan.jp/bookreviewlist.html  を参照すれば分かるように,池田信夫と並んで相当に辛口の批評を濱口に差し向けていた事実に関してだが,特定の感情(反応)を抱いていた様子を,正直に吐露していた。

 本ブログ筆者は,10年前〔2010年〕の時点で濱口桂一郎の所論について,「これ以上『関説』する気になれないと記していた。けれども,その後,ライブドアからさらにはてなブログに移動してからは,世の中において「ジョブ型雇用とメンバーシップ型雇用」という〈対・観念〉じたいが,まだまだ皮相的な理解や解釈を広範に惹起させつづけている実情に鑑み,2020年になってからあらためて,以下の「※印の8編」を関連する記述として公表してきた。なお,年代の点では逆順にかかげてある。

 要は,これらの記述を通して最終的に判明することになったのは,神林 龍(一橋大学)が2020年12月4日『日本経済新聞』朝刊「経済教室」に寄稿した文章のなかで結論したように,「ジョブ型雇用〔とかメンバーシップ型雇用という議論の方途〕は,契約の力を借りて日本的雇用慣行よりも曖昧さを減らすという程度の問題でしかない」点であった。

 ※-1 2020年12月5日
   https://socialsciencereview.hatenablog.com/entry/2020/12/05/130030

 ※-2 2020年12月4日
   https://socialsciencereview.hatenablog.com/entry/2020/12/04/113138

 ※-3 2020年11月8日
   https://socialsciencereview.hatenablog.com/entry/2020/11/08/160253

 ※-4 2020年6月11日
   https://socialsciencereview.hatenablog.com/entry/2020/06/11/112107

 ※-5 2020年6月1日
   https://socialsciencereview.hatenablog.com/entry/2020/06/01/132423

 ※-6 2020年2月24日
   https://socialsciencereview.hatenablog.com/entry/2020/02/24/111350

 ※-7 2020年2月22日
   https://socialsciencereview.hatenablog.com/entry/2020/02/22/131250

 ※-8 2020年2月21日
   https://socialsciencereview.hatenablog.com/entry/2020/02/21/125405

 なお,明日の2020年12月7日〔になれば当日〕には,『日本経済新聞』朝刊に「ジョブ型雇用とメンバーシップ型雇用」をとりあげた関連の寄稿が,もう1編(「上・中編」につづく「下」編として)掲載予定だとみているが 註記),それは明日以降にとりあげることにしたい。

 註記)その後,『日本経済新聞』12月7日朝刊に掲載された寄稿の題名は,本田由紀東京大学教授「〈経済教室〉ジョブ型雇用と日本社会(下) 専門性とスキルの尊重を」であった。

 4)【付記4:2020年12月7日午前9時の記】

 ともかく10年前にあっても,本ブログ筆者と同じ所感を,濱口桂一郎に呈示していた識者がいた。そのブログ記事から該当の段落のみ紹介しておく。下線は引用者である。

    ◆「犬も食わない池田-濱口論争を整理してみる」◆
 =『ニュースの社会科学的な裏側』 2011年6月13日月曜日,http://www.anlyznews.com/2011/06/blog-post_13.html

 

 濱口氏は厚生労働省出身の労働問題の専門家で,労働問題に関する論文・著作が多くある。学者としては分析手法で勝負するタイプではなく,事実関係を大量に積み上げるタイプの人のようだ。労働問題の専門家たる濱口氏は,すでに確固たる教育・研究業績と地位を気付いている(←「築いている」訂正用・補注)

 

 濱口氏が「池田信夫氏の3法則」で,池田氏の議論の姿勢を批判している。内容はともかく,濱口氏の立場の人が,このような批判をすることは感心しない。

 

 池田氏を批判する意義は,池田信夫氏ブログの読者に,専門的見地から社会問題を考えるための資料を提供することだ。池田氏に自身のエントリーを修正させることは,過去の事例からみるかぎりは,期待できない。

 

 たいていの第三者は,肩書きではなく内容で評価するため,同レベルで人格批判をおこなっていると,内容の批判が目立たなくなる問題がある。それでは批判エントリーの意義がなくなるので,池田氏の主張への批判に集中するべきだ。

 

 濱口氏のブログは専門家が一般人へ情報を提供している貴重なブログだと思う。内容的に毎日読む人が多いとは思わないが,完全に娯楽として読まれているブログと違って,真摯に情報を欲している人がアクセスしているはずだ。濱口氏には,そういう人に情報発信を続けて欲しいので,あえて濱口氏の池田氏批判を批判したい。

 この文章の意味を汲みとれたつもりでいうとしたら,濱口桂一郎の記述のなかに理論に相当するものを求めるのは,止めたほうが無難である。「ジョブ型雇用とメンバーシップ型雇用」については,これで「目から鱗が落ちる〔ことができた〕」みたいな感想を述べていた意見もあると,濱口自身が紹介していた。

 しかしながら,それでは,その「鱗」とともに「肝心の目玉・本体」もどこかに落としたも同然になる。前段で神林 龍が「ジョブ型雇用とメンバーシップ型雇用」の〈対・観念〉については,的確に位置づけていた。

 どう観ても,「程度の問題」(一部分の問題に関する定性の方法だけ)では「理論の問題」(問題全体に関した定量の測定や確定)には近づけず,あくまで「それ以前」の空間における詮議に局限されていた。それだけのことであって,要は “俗受けしてきた” のが,その「ジョブ型雇用とメンバーシップ型雇用」の “疑似的な分類論” に過ぎなかった。

 したがって,市井の人たちであっても,濱口桂一郎の「ジョブ型雇用とメンバーシップ型雇用」の眼目についてとなれば,つぎのように,その核心に触れる批判をおこないる人もいた。『朝日新聞』2020年12月3日朝刊「〈声〉オピニオン」で,こういう意見が提示されていた。

   ★ ジョブ型雇用,慎重な検討が必要 ★
   =『朝日新聞』2020年12月3日朝刊 =
   ◎ 無職 野津慧一郎(埼玉県,29歳)◎

 

 転職を経て,語学留学から帰国した直後にコロナ禍に遭った。職探しのなかで,働き方改革に関心をもっている。最近,特定の職務(ジョブ)ができる人をその仕事のポストで採用する「ジョブ型雇用」が話題だ。従業員の職務内容や責任範囲を明確にして専門性を高めるという。ただ,拙速な導入には問題があると思う。

 

 たとえば,ジョブ型に切り替えるというある会社が,テレビで報じられていた。管理職にもジョブ型が導入される。管理職向けの研修では,成果を出せない部下に対する厳しい査定をどう納得させるかが教えられていた。まるで人件費削減が目的で,従業員の自己責任を強調しているように映り,ジョブ型は成果主義のいいかえではないかと違和感をもった。

 

 ジョブ型の導入に当たっては,社員として採用していろいろな仕事をさせる従来型の雇用との違いなど,十分な検討が必要だろう。そうでないと,意欲向上どころか上司と部下の信頼関係の構築も危うくなり,生産性向上も阻害され,誰も得しない恐れがある。

 この「声」欄への投書にみられる意見のありようは,結局「ジョブ型雇用とメンバーシップ型雇用」という “疑似的な雇用概念” に特有であった,もとからの〈定義的な乱雑さ〉を,否応なしに反映させる中身になっていた。

 5)【付記5:本日,2020年12月7日早朝に配達された朝日新聞朝刊】を開くと,濱口桂一郎へのインタビュー記事が掲載されていた。見出しは「『ジョブ型』は成果主義じゃない 広がりどうみる-名付け親・濱口桂一郎さんに聞く」である。この記事の内容はあらためて,前段で触れた「本田由紀の寄稿」とあわせて,明日以降に紹介し検討したいが,一読してえた印象は「こういえば,ああいい,ああいえば,こういう」のたぐいに読めた。くわしくは明日以降に議論する。

 問題の大前提にはとくに「非正規雇用者の賃金水準が絶対的に低い」ところにあった。多分というまでもなく,不本意と本意とを問わず非正規雇用下にある労働者のうち多くの者が,実質的には,戦前の時代状況のなかで生まれた関連の著作が,次段でのように表現していた経済的な現実に近い待遇に置かれている。

 2020年に入って2月以降,目にみえてコロナ禍がじわじわと「彼らの生活基盤である労働生活そのもの」を破壊しつづけている。彼らにあっては「ジョブ型雇用とメンバーシップ型雇用」の問題など,縁遠い机上の空論にしか響いていない。

 すなわち,戦前に公表されていたある経済学書は,日本の労働者の賃金水準が「インド以下的低賃金」だと喝破したことがあったけれども,21世紀の現段階においても関連づけられて,こう言及されていた。

 心身ともにすりへるような重労働のあげくに女工の得た賃金は,山田盛太郎によって「植民地以下的=印度〔インド〕以下的な労働賃銀」(『日本資本主義分析』岩波書店,1934年,のち岩波文庫,1977年)と規定されたようなものであった。

 

 ただ,山田のこの規定については,向坂逸郎が実証上の難点があると批判し,この点をめぐって学界ではいくつかの論争がくりひろげられたものである。

 

 その後,名和統一の『日本紡績業と原棉問題研究』と高村直助の『日本紡績業史序説』上巻で,日印紡績職工の賃金比較がこころみられ,やはり日本の紡績職工の賃金はインドよりも低いと証明された。

 註記)「植民地以下的=印度以下的な労働賃銀」(by 山田盛太郎&中村政則)」『学問空間』2018-12-03,https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/88941dd9a9b165d210f32a95c6800543

 ここ10年以上もかけて問題になっていたコンビニ経営者(実態は本部に使われている労働者に相当)の,家族単位で集約労働的に抑圧されている低賃銀構造や,この記述の全体が問題にしている非正規雇用群が,はたして,前段のごとき「インド以下的低賃金」と無縁でない点は認めざるをえまい。「ジョブ型雇用とメンバーシップ型雇用」とかなんとか議論しようとする以前の現実問題が,現在していた。

 ※-1 ここで気になる統計・数値として「世界の1人当たり購買力平価GDP 国別ランキング・推移(IMF)」(2019年,データ更新日 2020年10月14日)から,日本が現在どこに位置するか,この上下にはどのような国々があるかみてみたい。

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 ※-2 つづけて,厚生労働省『「非正規雇用」の現状と課題』https://www.mhlw.go.jp/content/000679689.pdf からは,つぎの3点の統計図表を借りてかかげておく。ともかくしばらくは「ジョブ型雇用とメンバーシップ型雇用」といったごとき問題把握は,蚊帳の外に出しておいたほうがよい。

 補記)以下の図表はクリックで拡大・可。

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