明治以降,歴代天皇の相撲観覧記録(その1)

              (2010年8月12日,更新 2021年1月9日)

     いわゆる天覧相撲開始から 満 126年〔137年目〕などの話題

 

  【要  点】  明治天皇昭和天皇・平成天皇・令和天皇は相撲を観覧しているが,なぜか大正天皇に関してその種の記録はない

 

  相撲の歴史と日本の天皇天皇

 1) 明治維新天皇相撲観覧

 明治天皇の〈世の中〉になって維新を実行した日本は,相撲という肉体競技を,裸体をさらけだす〈野蛮な〉スポーツとして一時期,社会から排除しかねないなりゆきになっていた,いいかえれば「文明開化」の波に見舞われたことがあった。

 しかし,つぎ〔②〕にかかげる一覧表に記録されているなかでも,明治天皇が明治17〔1884〕年3月10日,浜離宮延遼館で開催されたいわゆる〈天覧相撲〉を契機に,一躍「国技」としての性格をもつことができた。次段で引用する風見 明『相撲,国技となる』大修館書店,2002年を公刊した出版元は,本書をこう解説している。

 明治初期,文明開化にそぐわないとして存亡の危機に陥った相撲。しかし,天覧相撲などを経て人気を回復し,明治42年には国技館が誕生する。これを機に,投げ祝儀の禁止,羽織袴姿での場所入り,幟・積樽の廃止,行司の烏帽子直垂装束,東西対抗制の導入,力士報酬制度の改善などが行われ,近代化を果たしていく。

 注記)http://plaza.taishukan.co.jp/shop/Product/Detail/40771?p=0&a=風見明

 風見の同書は,天覧相撲を「明治天皇の信任が厚く,事実上実力一の政治家だった内務郷の伊藤博文が企画したものとされている」と解説している。伊藤博文は,明治維新前後からの波瀾万丈であった日本近代史のなかで,ただ1人「明治天皇睦仁の兄貴分」に当たる役割を果たしてきた。

 その伊藤博文はまた,日本帝国を,欧米先進国の精神文化に対抗できる歴史・伝統の持ち主であるかのように装飾しようと必死の努力を傾注してきた代表的な政治家である。たとえば,天皇家の墓だといわれる〈陵墓〉は,いまもなお,そのほとんどが比定できていない。にもかかわらず,神話の時代の神武天皇の墓からすべて,いちおうその実在が治定(特定)できているという,まことに摩訶不思議な創り話がまかりとおっている。

 明治維新を迎えてからの日本帝国は,この国の大昔の物語をどのように「創造しておく」かという関心事をめぐっては,日本の文化・伝統のすべてが《天皇天皇制》に由来・淵源するかのように装おうことにした。そこで,古代から日本の伝統的な競技として継承され発展してきた相撲も,早速「明治天皇が支配する世の中」における〈ひとつの文化〉として位置づける政策のもと,さらにその発展の歴史をたどることになった。

 2) 古代から中世にかけての相撲史

 大日向克己『古代国家と年中行事』講談社,2008年2月は全6章のうち第3章を「相撲節」(読みは「すまいのせち」)に充てている。本書は「古代における国家儀礼としての相撲」において,その相撲節をこうまとめている。

 a) 異形異類性が高い相撲の力士像は,朝鮮半島における喪葬にかかわっている。さらには,中国・北方アジアから環東アジア海域まで視野に入れた考察が必要である(164-165頁)。相撲と喪葬の関係は,天皇の葬送に対して強い従属性の関係を示唆している(166頁)。なかでも,隼人の相撲は,まさに異形異類性をもつ夷狄の王権に対する服属と力による守衛のための奉仕を表現している(167頁)。

 b) 田を舞台とした神事的芸能としての相撲の性格を説く節も多い。在地から召集され,力の強さを披露し,天皇に奉仕するというモチーフは,そのまま8~9世紀の相撲節における相撲人のありかたを反映している。つまり,「力競べと国譲りを結びつけてストーリーが構成されており」「田・大地の支配にかかわって観念されていたことを示している」(168頁)。

 c) a)  と  b)  が意味するのは,『日本書記』『古事記』にみられた力競べと大地の支配の観念が結合されて,律令国家における相撲節が成立したといえる(168頁)。

 全国から召集された膂力者が相撲人として,一律に裸体に犢鼻(とくび〔=ふんどし〕)という特殊な姿でその出自する国の服属を体現して奉仕することになる。相撲人とともに貴族官人層も左右の相撲司に編成される。天皇を唯一の首長として擬制的な共同体的諸関係をもって成立した律令国家にとって,貴族官人層もその成員として相撲人とともに奉仕することが必要だったのである。

 在地からの召集,相撲司の編成をへて相撲をおこなうことが毎年繰り返されることによって,天皇による組織の編成と統治を毎年確認していく儀式でもある。だから7月でなければならなかった。1年を二分して類似の年中行事が繰り返される構造が指摘されているが,正月の朝賀からはじまる天皇統治を確認する儀礼に対応するものとして,7月に設定されたといえる(168-169頁)。

 d)   ところが,こうした相撲節は9世紀末から大きく転換する。相撲司が編成されなくなり,王卿は天皇とともに観覧者の立場になる。近衛府が相撲人を率いて奉仕する行事へと再編される。射礼などと同じように律令国家の構造の変容に対応したものである(169頁)。

 国家儀礼としての相撲は,鳥羽院政期には一度もおこなわれない。後白河が譲位して院政を開始する直前の保元3年(1158)には,藤原信西の朝儀復興策の一環で復活しているが,その年かぎりである。後白河院政期の高倉天皇の承安4年に再びおこなわれたが,それが最後となった。国家儀礼としての相撲節は,この後白河院政期で廃絶した(169頁)。

 3) 明治時代における相撲界

 e) 新田一郎『相撲の歴史』講談社,2010年7月(山川出版社,1994年)は,相撲史の断絶について,こう論及している。

 14世紀,いわゆる「建武新政」の時期に維持され,あるいは復興されるべき朝廷の恒例・臨時の儀式次第を記録を残すために,後醍醐天皇によって著されたという『建武年中行事』にも,相撲のことはまったくみえない。相撲はもはや朝廷の公式行事として意識されなくなっていた(110頁)。

 江戸時代に再興していた相撲界は,前述のように明治時代に入ると混乱しており,これを収拾し挽回するのに苦労していた。ところが,明治天皇が「外部からの権威」として介在してきた。明治17〔1884〕年3月10日に芝〔浜離宮〕延遼館において,天覧相撲が挙行された(284頁)。

 明治初期には塗炭の苦しみを味わっていた相撲界も,明治後期になると,欧化政策への反動からくる「国粋」的な風潮,日清・日露戦争後のナショナリズムの勃興に乗って,しだいに人気回復をとげ,興行としての安定も回復するようになった(287頁)。

 f)天皇杯」 --相撲協会が公式の制度として個人優勝者と表彰するのは,大正15〔1924〕年4月,赤坂東宮御所でおこなわれた皇太子(のちの昭和天皇)の「台覧相撲」以来である。そのさいの下賜金をもって東宮杯(現在の天皇杯)が作製され,その光栄を相撲界全体で共有すべく,天皇杯を幕内優勝者の授与することになった(289-290頁,293頁)。

 以上のような説明に至れば,なぜ,大正天皇が相撲界に対して天覧することが記録されていないのか,またなぜ,とくに昭和天皇とその息子の〈平成天皇〉が足しげく蔵前国技館両国国技館に通ってきたのか理解しやすくなる。

 自分の地位〔天皇という名称〕を付けた優勝杯を競わせる大相撲の本場所は,いまでは年に6回も開催されているが,その優勝者にこの〈賜杯〉を授けるのであるから,あたかも国技=相撲という競技(スポーツ)の精神的支配者は,日本国の天皇であるという権威づけと秩序づけが強く前面に出てくる。この相撲界における小宇宙的な天皇の臨在の関係・模様は,昭和の時代になってから構築され確固なものとなった。

【参考記事】 ごくごく簡単に分かりやすく,日本における相撲の歴史(その起源など)を理解できる一文(  ↓   )。

 

  歴代天皇の大相撲只見の記録

 明治天皇(明治1年は1868年9月から始まる)

   慶応→4年(1868年)4月17日,

   明治→5年6月6日,14年5月9日,17年3月10日,

      18年11月27日,21年1月24日,22年5月24日,

      23年2月15日,25年7月9日

 昭和天皇:戦前(昭和1年は1926年12月から始まる)

      3年5月27日,4年3月10日,4年5月27日,
      5年4月29日,5年5月27日,6年4月29日,
      6年5月27日,8年5月27日,9年5月27日,
      10年5月27日,12年5月27日

 補注)以上,昭和天皇が敗戦前に天覧相撲に出かけた記録であるが,4月29日といったら,この天皇裕仁」の誕生日になる。また,3月10日は旧「陸軍記念日」,5月27日は旧「海軍記念日」であった。この,昭和20〔1945〕年の3月10日および5月27日はそれぞれ,東京都の下町と山の手地域に対して,アメリカ軍の大空襲:無差別の絨毯爆撃が実行された日付である。

 

 陸軍記念日…… 1905〔明治38〕年3月10日,日露戦争における「陸の決戦・奉天会戦」で日本軍が勝利し,旧満州(中国東北地方)の奉天(現:瀋陽)を占領した。それを記念して翌年から「陸軍記念日」が設けられ,この日には記念式典など各種の記念行事がおこなわれ,日本において軍国主義を鼓吹する場となった。1906年明治39年)~1945年(昭和20年)の間は祝日であったが,第2次世界大戦後に廃止された。

 

 海軍記念日…… 日露戦争,1905〔明治38〕年5月27日,日本海海戦において東郷平八郎とうごう・へいはちろう,1848~1934年)率いる日本海連合艦隊が,ロシアのバルチック艦隊を撃滅し,日本が歴史的な大勝利を収めたことを記念して設けられた「海軍記念日」である。こちらも敗戦後に廃止された。

 

 なお,1945〔昭和20〕年3月10日の東京大空襲は,この陸軍記念日を狙って実施されたという説がある。当時の日本で,この記念日にアメリカの大規模な攻撃があるとの噂が流布しており,この噂が後になって事実であるかのように出回っていた。日本には事実とする書籍や資料が存在するが,アメリカ側の資料では確認できない,という説明をしたものである。

 

 前段の解説はウィキペディアの記述によるが,しかしながら「3月10日の東京大空襲は,この陸軍記念日を狙って実施されたという」人たちの「説」だと表現している最後の段落のところで,「日本には事実とする書籍や資料が存在するが,アメリカ側の資料では確認できない」などと,わざわざ断わってはいるのは,苦しまぎれの論法である。

 

 それでは5月27日の海軍記念日に関してとなるが,1945年のその日,東京都の下町に対するアメリカ軍の空襲があった事実をめぐっても,前段と同じように論駁できなくはない。だが,こちらも苦しいリクツの動員にならざるをえない。

 

 ところで,A級戦犯として東京裁判極東国際軍事裁判)で死刑の判決を下された東條英機以下7名の処刑日はいつだったか? 1948年12月23日であった。この12月23日は明仁(当時,皇太子)の「15歳の誕生日」に当たっていた。

 

 東京裁判関連の資料のなかに,A級戦犯の死刑判決を受けての話となるが,わざわざ「皇太子明仁の誕生日である12月23日」にその絞首刑を実行する日に「決めたなどというふうに書いている文書などない」。ただ,その処刑日を「12月23日」に決めておいたというだけのことであった。むろん,決めた側が12月23日がなんの日であるかしらないわけなどなかった。

 

 すなわち,こうした件について話をするとなれば,「日本には事実とする書籍や資料が存在する」ことなどないし,「アメリカ側の資料では確認できない」ことも,また確かなのである。いうなれば,そのとおりであった「事実」が残され,記録されたに過ぎない。

 

 ということで,前段のごときウィキペディアの記述は,客観的な公正性および学術的な中立性を根本から欠いていながら,それでいて,あやふやな意見をもっともらしく吐いていた。

 

 ついでに触れておくとするが,1932年3月1日に中国東北部大日本帝国の属国(カイライ国家)として建国された「満洲国」は(2年後に「満洲帝国」を名のる),五族協和を謳っていたという点を併せて聞いておくとしても,実は,1911年3月1日に植民地朝鮮で起きた独立運動を強く意識した「建国時期(その日付:3月1日)の設定」であった。

 

 その点も「そうだ」と書いてある文献・資料はなかなかみつからないものの,そうであるとしか解釈のしようがない。偶然の一致などではないことも一目瞭然である。その五族とは「漢・満・蒙・朝・日」を指していたが,このうちの「朝」に釘を刺したつもりが,旧日帝側にあったと推理して,なんらおかしいところはない。

 

 もう1点,若干,意味あいを違わせるが,こういう話題も出しておきたい。

 

 敗戦した日本は1952年4月28日,サンフランシスコ講和条約日米安全保障条約が発効することで,連合国(実体はアメリカ中心の占領状態)からひとまず独立した。さて,この翌日が昭和天皇の誕生日であった。この前後関係から,はたして,どのような意味が汲みとれるかと問われたさい,いちいちこまかく答えようとするのはヤボというものである。

 昭和天皇:戦後元号はもちろん「昭和」で,開催施設は蔵前国技館となり,〔 〕内の数字は観覧した場所内の「何日目」かに当たる)。昭和30年は1955年。

 なお,戦時体制期が開始した「日中戦争」1937〔昭和12〕年7月7日から,第2次世界大戦期を敗戦で迎えるまで,さらには1954〔昭和29〕年までの昭和天皇は,大相撲観戦にいけなかった。

 その背景(理由)としては,「旧大日本帝国」時代に大元帥であった地位に関連する特定の政治史的な事情と,敗戦後になってからも,かつての「大元帥」としての政治意識をまだ完全には捨てきれなかった「彼自身の側における精神構造の問題」とが挙げられる。

     30年5月27日(10日)
     31年5月27日(8日)
     32年6月2日(千秋楽)
     33年5月11日(8日)
     34年5月10日(8日)
     35年5月20日(13日)
     36年5月14日(8日)
     37年5月13日(8日)
     38年5月12日(初日)
     39年5月22日(13日)
     40年5月21日(13日)
     41年5月22日(8日)
     42年5月21日(8日)
     44年9月21日(8日)
     45年9月20日(8日)
     46年5月16日(8日)
     47年1月13日(8日)
     50年5月18日(8日)
     51年5月16日(8日)
     52年5月15日(8日)
     53年9月15日(6日)
     54年5月13日(8日)
     55年5月18日(8日)
     55年9月28日(千秋楽)
     55年5月10日(初日 )
     56年9月20日(8日)
     57年5月16日(8日)
     57年9月15日(4日)
     58年5月13日(8日)
     58年9月18日(8日)
     59年5月13日(8日)
     59年9月16日(8日)

      -以下からは両国国技館

     60年1月13日(初日)
     60年5月19日(8日)
     60年9月15日(8日)
     61年1月12日(初日)
     61年5月18日(8日)
     61年9月21日(8日)
     62年5月16日(7日)

 補注)以上の天覧日は中日(8日め)が多い。日曜日である。初日と千秋楽も日曜日である。 観客が多い日である。なるべく「大入り満員御礼」になりそうな日の「天覧」でないと, 天皇の権威にかかわるのかもしれない。昭和天皇は子どもころから相撲が大好きであった。

  ☆ 平成天皇(平成1年は1989年1月に始まる)

     2年5月13日(初日)
     3年5月19日(8日)
     4年1月12日(初日)
     5年1月10日(初日)
     6年1月16日(8日)
     7年1月15日(8日)
     8年1月14日(8日)
     9年9月7日(初日)
     10年1月18日(8日)
     11年1月10日(初日)
     12年1月16日(8日)
     13年1月20日(14日)
     13年1月13日(初日)
     16年1月18日(8日)
     17年1月9日(初日 )
     18年1月20日(13日)
     19年1月19日(13日)
     22年1月10日(初日)

      …………

     27年1月18日(8日)
     28年1月10日(初日)
     29年1月8日(初日)
     30年1月20日(8日)

  ☆ 令和天皇(令和1年は2019年5月に始まる)

     2年1月25日(14日)

      註記)以上,http://www.e-shiki.jp/page.sumo.tenran.htm 参照。

 補注1)以上の日程は主に,初場所の観覧に予定を組んでおり,初日が一番多くと中日が次ぐ。「初」にこだわっている様子が読みとれる。平成天皇は年次ごとの行事みたく,両国に相撲観戦に通っていた。

 

 補注2)平成19〔2007〕年から3年間,平成天皇は相撲観戦に出向かなかった。また,平成22〔2010〕年から5年間,平成天皇は両国に出向いていない。それは,日本相撲協会に発生していた不祥事を忌み嫌い,その間,事態の推移を観ながら,世評が落ちつく時期を来るのを待っていたからである。

 

 すなわち,「大相撲界で八百長や暴行などの不祥事が起こったさいは相撲協会側から宮内庁に辞退を申し出ている(平成20〔2008〕年,平成21〔2009〕年,平成24-26〔2012-2014〕年,平成30〔2018〕年)」という背景が控えていた。


 なお,2010〔平成18〕年には,夏に事件が発生していた野球賭博事件があった。こちらの事件は,大相撲側の事情と天皇の観戦とは無関係でありうるスポーツ業界の出来事とみなせる。くわえて,2011年3月11日の東日本大震災・東電福島第1原発事故発生も,天皇が両国にいかなった期間に一定の関係があったと観て,おかしくはない。

 

 以上は2010年8月の時点で書いていた文章に,その後,どのような関連する事情の推移が生じていたかについて適当に追補してみたが,なお,こまかい「対応の点」では説明しきれておらず,不足がある。しかし,天皇が「天覧する」「日本相撲協会」の「本場所取り組み」が,天皇家の存続問題にとっても関係づけられているらしい “なんらかの含意” には,それなりに注目するだけの価値(話題性:問題性)があることは,確実にいえる。

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 【未  完】 「本稿(その1)」の続編はできしだい,ここに(  ↓  )リンクを張る予定である。

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