明治以降,歴代天皇の相撲観覧記録(その2)

              (2010年8月14日,更新 2021年1月11日)

 いわゆる天覧相撲開始から 満 126年〔137年目〕などの話題 にくわえて,コロナ禍のもとで日本相撲協会が必死になって2021年1月場所を決行した状況は,東京五輪組織委員会の幹部たちは注視している

 

  要点・1 明治天皇昭和天皇・平成天皇・令和天皇は相撲を観覧しているが,なぜか大正天皇に関してその種の記録はない,令和の天皇はいまどき相撲観戦(天覧)にはいけないはず

  要点・2 コロナ禍のなかで1月場所を開催した日本相撲協会の動向を,東京五輪組織委員会は注目している,千秋楽までなんとか営業できれば,同委員会はもしかしたら「大歓迎」

【「本稿(1)」】は,以下のリンクに記述されている。

 

 🌑 前  論  🌑

 2021年1月9日の記述は「本稿」の「(2)」に相当する中身を書いていなかった。その代わりに,コロナ禍が猛威を振るいだしている最中に「営業を開始した」「日本相撲協会1月場所」が,実は,約1割の関取が新型コロナウイルス感染したりして休場するなかで実施されていた事実に触れる内容になっていた。

  新型コロナウイルス陽性者および濃厚接触の可能性のため初場所を休場する者 ★

  

 日本相撲協会は2021年1月8日,協会員878人を対象としたPCR検査を実施していた。この検査の結果,4部屋65人の力士が陽性者・濃厚接触者として休場する事態となった。

 

   「九重部屋」  力士全員 九重親方 行司1人 床山2人

   「友綱部屋」  力士全員 友綱親方 大島親方 玉垣親方 行司2人 床山1人

   「荒汐部屋」  力士全員 荒汐親方 行司1人 床山2人

   「宮城野部屋」 力士全員 宮城野親方 行司1人 床山1人

   「湊部屋」   行司1人

 

  補注)相撲部屋の数は2020年11月場所時点で44部屋ある。相撲は横綱から序ノ口まで10段階に分かれており,関取といわれる幕内と十両で70人,その下に約680人近くの力士がひしめきあう,裾野の広いピラミッド状になっている。

 このためにその「本稿(2)」は,1日遅れて本日1月11日に記述することになった。だが,本日も事前に追加するかたちで,コロナ禍中であっても初場所の取り組みを始めた「日本相撲協会の話題」に触れておきたい。

 1) まず『朝日新聞』朝刊である。昨日1月10日「初日の結果」を報じたこの朝刊8面「スポーツ」欄から,左側に配置されていた記事の段落を引用する。

  ※ コロナの影,色濃く 取組1時間短縮 / 懸賞100本キャンセル / 少人数土俵入り ※

 緊急事態宣言下,観客を入れて初日を迎えた初場所新型コロナウイルス関連で計65人の力士が休場した影響は色濃く出た。休場者は力士全体の約1割に及ぶ。取組数が大幅に減り,全体の取組時間は先場所初日より1時間以上短縮した。

【令和3年1月10日】 大相撲1月場所初日,コロナ感染者を含む16名の力士が休場,横綱白鵬鶴竜の2横綱もこの内に含まれます。大関・高景勝は小結・御嶽海に押し出され0-1、大関・正代は北勝富士を寄り切り1-0,大関・朝ノ山は引きで大栄翔に敗れ0-1,関脇・照ノ富士は琴勝峰を押し出して1-0,小結・高安は阿武咲に敗れ0-1。

 付記)この段落は別所から引用。

 影響は土俵を彩る懸賞旗にも。協会によると,企業からの懸賞申込件数は場所前,15日間分で約1400本だったが,腰痛が理由の横綱鶴竜を含め幕内7人が不在となったため,約100本のキャンセルが出たという。

 みどころである,土俵入りも普段と違う光景に。全員出場なら東,西14人ずつでおこなう十両土俵入りはこの日,東9人,西10人。力士同士の間隔が普段より広く,宇良は「どのくらいの距離を取っていいのか分からなかった」と戸惑っていた。

 直前のPCR検査でさらに多くの感染者が確認されていれば,中止もありえた場所。「できたのは奇跡に近いと僕は思う」と宇良。関脇照ノ富士は「場所があるかどうか分からない状況で調整していた。出場している力士で盛り上げていければいい」と話した。

 休場者の番付の扱いは未定。集団感染を理由に昨〔2020〕年秋場所を全休した玉ノ井部屋勢が,翌場所で地位を据え置かれた例がある。各日5千人を上限に観客を入れて千秋楽をめざす。芝田山広報部長(元横綱大乃国)は「(チケットの)払い戻しに関しては対応(する)」と話した。(引用終わり)

 なお,東京都のJR両国駅より徒歩1分,都営大江戸線両国駅より徒歩5分に立地する国技館が「収容できる観客数の定員」は1万1098人だというから,観客を5千人入れるというのは,かなり密な観客の受け入れ方になっているといわざるをえない。

 実際にこの国技館で相撲を観戦したことがある人ならすぐに理解できると思うが,中段あたり(⇔この色)の庶民的な値段でもなんとか買える枡席は「4名座って観戦する造り」(座席の「広さ」)になっているが,実際に利用してみると非常に狭いと感じる。

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 以前,本ブログ筆者夫婦が国技館にいったときは,その4名座る枡席に2人で座り観戦したが,これでなんとか2人の体は自由に動かさせる程度の空間(広さ)であった。そこを4名で座るとしたら,基本的にはこの4名が皆正座でもして観戦しないことには,まともにこの枡席を利用できない。小さい子ども2人連れの夫婦であっても,まだ狭いか感じるほかない造作になっている。

 いうまでもないが,コロナ禍に対する予防方法としてソーシャル・ディスタンスを守るようにやかましく指示されているが,この枡席が前後左右に配置されている付近での話となると,4名ではなくて2名ずつで座ったとしたも,1.5~2メートルの間隔は全然空けられない。かりに枡席の真ん中に1人だけずつ座って観戦するとしても,1.5メートル(以上)の間隔はとれない。

 そこで,実際にその枡席はどのくらいの広さ(寸法)なのかを調べてみると,こういう指摘や表現があった。

 a)「一枡の大きさは,大体1m50cmで,ここに4人座るのはさすがに窮屈です。 〔大相撲の〕人気が落ちていたころに,4人枡のうち,お弁当をいただきやすいようにテーブルを置き,定員2名の枡としたものを国技館扱いで販売始めました。

 b)   桝席とは,パイプの枠で四角い「ます形」に区切られた席のことです。溜席のつぎに土俵に近い席になります。基本的にひとつの桝席で4人が座れます。4人用の桝席の広さは約1.3m × 1.3m と少し狭めのサイズ感。

 補注)この庶民が価格的にも利用しやすい枡席の場合,1名だけでその真ん中にそれぞれが座ったとしても,その間隔は要は「1.3メートル」となる。これでは,通常において対コロナ禍対策用に必要だとされる間隔を確保できていない。

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 補注)この画像を借りた記述の本文中には,以下の感想・指摘があった。

 

 「席選びの基本-升(マス)席か椅子(イス)席どちらが観やすい?-」国技館で相撲写真』2016/1/2,2019/11/15,http://sumo.smileandp.com/ready/sheet/

 

 ※-1 大相撲初心者はイス席

 大相撲観戦というと座布団(マス席)というイメージが強いためか,せっかく大相撲を観るなら・・・と敬遠されがちなイス席(2F席)ですが,国技館の2Fは非常に観やすいですしチケットも比較的お求め安いため,大相撲初心者をはじめ子連れお年寄りにも断然おすすめしたい席です。

 

 ※-2 ポイントはひじ掛け(イスAとBのみ)と視界の広さ

 私はマス席で相撲観戦デビューしてしばらくずっとマス席で観戦していたのですが,初めてイス席で観戦した時の開放感とその観やすさにはたいへん驚きました。天覧相撲で陛下がご覧になる席も椅子席の最前列ですから,観やすさという点ではお墨付きです。椅子席の最前列にはプレス用の席もあります。

 

 補注中の 補注)令和の天皇は,2020年1月25日(14日目)に大相撲を観戦していたが,今年は出向けないはずと推測する。

 それでいて,国技館が収用できる観客数定員「1万1098人」の約半分「5千人」までは,観客を入れるという方法には,ムリがあるのではないか?

  もしも,観客のなかから新型コロナウイルス感染拡大が発生したら,日本相撲協会は重大な社会的責任を負うことになる。同協会は,時たま発生する協会内の醜聞をアイマイに処理することに長けていても,こちらの問題はそうはいくまい。

 観客はとりあえず,PCR検査とは無縁である。 

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 両国国技館の座席表は,前段に紹介した図解をみてほしい。上の画像は管内の光景である(1階に相当する座席は土俵に「一番近い溜席」とその「周りに枡席」)。座席の種類は土俵に近い順に「溜席(たまりせき)」⇔「桝席」(以上1階)⇔「椅子席」⇔「自由席」(以上2階に相当する部分)となっている。溜席の大きさは「座布団のサイズ:縦63㎝ ✕ 横66㎝」であるゆえ,1人分の座布団を空けて座っても約 1.3メートルの間隔しか保てない。

 註記)以上,「東京本場所の座席の種類と料金」https://a-new-sumo-fan.com/hombasho/kokugikan-seating-chart.php#top  参照。

 2)つぎに『日本経済新聞』朝刊は,1月場所初日の様子などをどのように報じていたか。

   ★「休場98人,異例の幕開け 編成に苦慮,十両は9番のみ ★
       =『日本経済新聞』2021年1月11日朝刊33面 =

 

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 新型コロナウイルスに関わる全休が,665人の全力士の約1割に当たる65人となった新年の土俵。けがなどによる休場を合わせれば,初日から休んだ力士は98人に上った。異例の休場多数により,運営面でも苦しい対応に追われそうだ。

 

 腰痛の横綱鶴竜を含め,関取16人が初日からいないのは戦後最多。野球賭博騒動で多くの謹慎者が出た2010年名古屋場所でも11人だった。もっとも影響が懸念されるのは,伊勢ケ浜審判部長(元横綱旭富士)が「むずかしいが,つくっていかないといけない」と頭を悩ませる取組編成だ。

 

 番数の大幅減少に伴う初日の取組開始は午前9時50分で,先場所より1時間15分も遅らせた。十両は28人中9人が不在で,通常なら14番ある取組は9番の寂しさ。場所中に感染者が出れば,さらに少なくなってしまう。

 

 尾車事業部長(元大関琴風)は「緊急事態宣言が出ているなかで相撲を観ていただいて,元気を出していただけたら」とコロナ禍で沈む世の中を思い,開催の意義を語る。両横綱を筆頭に多くの力士がいない土俵は興行として成立するか。重責を担う3大関で綱とりの貴景勝,かど番の朝乃山が初日から黒星。先行き不透明な今場所にいきなり暗雲が垂れこめた。

 日本相撲協会は公益財団法人ではあるが,主に相撲興行を営利事業として運営し,法人組織を維持・運営している組織体である。コロナ禍の関係を考えるさいとくに,相撲社会が「3密な日常生活集団」のなかで過ごしている事実は,いうまでもない。

 この点を踏まえたうえでさらにいえば,最近における新型コロナウイルス感染が急速に増加・拡大している状況のなかで,大都市部においてPCR検査をして陽性反応が出ているとくに若者層も含めてだが,10%台に達している時期・事例もしばしば発生していた。

 その点では,日本相撲協会が営業維持のために必死になってPCR検査をした点そのものは評価できる。だが,よく考えてみるまでもなく,なぜ,1月場所の直前になって急遽,この検査をやったかという点についていうと,「事前」にという意味あいでは,遅きに失したというほかない。

 それにもまして,コロナ禍が襲来してきた当初からPCR検査をいまだに徹底して実施しようとしない政府(厚生労働省)の基本姿勢は,国家の対応としてまったくお話にもならない体たらくぶりである。

 昨〔2020〕年の早い時期であったが,和泉洋人首相補佐官と大坪寛子・厚生労働省大臣官房審議官の2人は,たがいに好き勝手にし放題をしていながら,それも「コネクトルーム」的な不倫をおこなう仲にありながら,2月段階で世間をさわがせたクルーズ船「ダイヤモンドプリンセス」号内に発生していた新型コロナウイルス感染拡大に対しては,とくに大坪自身が適切な対応を講じられないで,むしろ事態を混迷させていた。

 そのために大坪寛子は厚生労働省の担当官である立場において,当時,襲来していたコロナ禍の「第1波」対策を,無闇に大混乱させるという看過しえない失策を犯していた。彼女の行動は,その後における日本国内の対・コロナ禍対策を決定的に悪化させていく素因を提供した。

 ともかく現在は,それからさらになにやかや1年が経った。このごろは「世界の感染者,累計で9000万人突破,2週間で1000万人増える」註記)といった状況にもなっている。この段階になってからだったが,日本政府が1月7日に発令した「緊急事態宣言」(第2回)は,1カ月だけに期間を限定する宣言だとされている。この宣言は多分,ほとんど実効性が期待できない見通しになりそうである。

 註記)『読売新聞 オンライン』2021/01/11 05:13,https://www.yomiuri.co.jp/world/20210111-OYT1T50058 のその記事は,こう伝えていた。

【ワシントン=船越 翔】 世界の新型コロナウイルスの累計感染者数が〔1月〕10日(日本時間11日),米ジョンズ・ホプキンス大の集計で9000万人を突破した。12月26日に8000万人を超えてから,約2週間で約1000万人増えた。世界の死者数は約193万人に上っている。

 ところで,日本相撲協会は1月場所の千秋楽を迎える日までのあいだ,PCR検査を追加しておこなうつもりはあるのか? この疑問は新型コロナウイルス感染の問題を考えるさい,ただちに提示されていい,当然の指摘である。

 昨日(2021年1月10日),国技館のある東京都の感染者数は1494人であったが,これは日曜日の統計としては最多になっていた。1年延期になっている東京オリンピックをどうしても開催したい森 喜朗や菅 義偉や小池百合子の立場からみて,日本相撲協会の1月場所開催は目を離せない行事となっている。

 この1月場所がもしも,途中で中断されるような事態になったら,東京五輪の計画など “トンデモない国際大運動会の開催” となることが,さらに明々白々となる。

【参考記事】

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 さて今日は,ここからが,1月9日に記述をした「いわゆる天覧相撲から満126年〔137年目〕などの話題 (その1)」の「続編(その2)」となる。 

   
  歴代天皇の大相撲只見の記録〔承前:昨々日(1月9日)の ② 途中から続く〕

 「天皇家の諸行事」に関連させて「天覧相撲」も問題をめぐる議論から始めたい。現在における天皇一族が執りおこなっている年中行事には,つぎのものがある。年次はそれぞれの行事が開始(創始)された時期である。 

 イ) 「宮中歌会始」1869〔明治2〕年,「講書始」も 1869〔明治2〕年(がはじまりとされる〔→宮内庁の説明〕)

 ロ) 「お田植え」1927年〔昭和2〕年

 ハ)一般参賀」1948〔昭和23〕年

 ニ)文化勲章授与式」1937〔昭和12〕年

 天覧相撲のばあいもその伝統は,先述の説明にもあったように,皇室との関係でいえば相撲の歴史は中世でいったん途切れていたから,まさしく「ラッキョウかタマネギみたいに〔そのまでの系譜を〕剥いていくと」,結局はその芯がみつからない。それをみつけようにも,ただ〈古代史の伝統世界〉にさまようほかないことになる。だから,「その芯となるべき原点」は,明治政府が「古代史における相撲節」を仮想的に再夢想したうえで,これを意図的に設計・創造・再興させることになっていた。

 一昨日〔ここでは2010年8月11日のことだが〕『朝日新聞』朝刊「声」欄には,昨日(8月12日)の話題に合わせたかのように「大相撲は優勝〔外国人〕力士の国歌を」という投書が,偶然だが掲載されていた。

 しかし,「天皇賜杯→この〈冠〉である天皇という存在」=人間が「日本国を象徴する人物」であるならば,優勝した日本相撲協会所属の力士がその杯を授与されるという意味関係は一目瞭然である。そこでわざわざ「他国の国歌」を演奏するとなると,いまひとつ〈釈然としない要素〉が出来し,混入させられる。

 こういう思考をめぐらせておく必要もあるのではないか。--戦前における昭和天皇の時代〔実質19年ほど〕は,旧日本帝国の,いまでは亡霊の観念となった「大東亜共栄圏」思想,さらにすすんでは「日帝向けの全世界共栄圏」妄想を産んだ。これは,日本帝国というひとつの「国家概念を侵略主義的思想によって拡大・膨張させて作った政治経済の価値観」を意味した。

 日本は,いわば「八紘一宇」にもとづく「世界に冠たる神国日本」といった皇国史観で,敗戦まで暴走していった。21世紀の日本を観察するに,過去のそうした思い出をいまなお「旧日本帝国の野望が不完全燃焼した」としか認識できない人士がまだ絶滅していないが,これはまさしくこの国に固有の〈現代的な悲喜劇混淆の漫画絵〉というほかない。

 もっとも,上記の投書者〔主婦 65歳〕はこうもいっていた。「数々の表彰や賞品よりも優勝者をたたえるには,国歌吹奏が最高の賛美ではないでしょうか」。さてもしも,優勝者に対するそういう表彰のしかたになったら,現状の関取たちに占める外国人力士数から判断すると,毎場所,日本伝統の大相撲本場所千秋楽で「他国の国歌」吹奏という事態になる可能性が大である。

 補注)2010年1月場所以降の10年間,つまり60場所分のなかにおいて,優勝力士の四股名をみると,圧倒的にモンゴル出身の力士のそれが並んでいる。前段の意見にしたがっていたら,これでは千秋楽の表彰式ではほとんど「君が代」は聞けなくなる。その間の純ジャパ力士の優勝者は5名で,合計のその優勝回数は6回のみ。それゆえ,10場所に1場所しか純ジャパ力士は優勝杯を抱けていなかった。とくに2010年代前半は,日本人力士の優勝者はなしであった。

 現在〔2010年時点の話〕,51ある相撲部屋に対して外国籍人力士採用を1人に制限する措置がとられている。これを念頭に置いて考えよう。その主婦の提言は,「明治以来の伝統文化:日本の相撲」と「国際化」とのあいだに発生している〈摩擦・軋轢〉に関するものである。しかしながら,日本相撲協会は「本場所」で優勝者の栄誉を讃えるとき,ぜひとも演奏したい国歌は〈君が代〉以外にない,と思っているのではないか。それとも,主婦の指摘を受けて初めて気づかされる〈問題〉であったか。

 話は多少横にずれるが,国歌・国旗法〔国旗及び国歌に関する法律(平成11年8月13日法律第127号)〕はダテにあるのではない。国会でその原案が作られ可決するときは「強制しない法律である」とされていた。ところが,実際の教育現場でこの法律は国家権力の後押しを受けて〈強制されている〉。現場で逆らった者が罰せられている。

 両国国技館で競技がおこなわれているのは,日本の伝統「相撲」である。その優勝者を表彰する土俵の上で,力士の出身国の国歌が吹奏され流れるのでは,「国技である相撲の伝統的な真価が問われる:損傷する」と批判する国士(愛国者)がいてもおかしくなく,当然の反応である。

 日本大相撲協会の開催する本場所の優勝者を表彰するさい,この力士の出身国の国歌を演奏して流すということは,日本の大相撲という「国技のための天皇賜杯」を彼に授与するという事実と,どのように関連づけられればよいか? たとえば,イギリス王国のエリザベス女王に対する日本の天皇の関係をもって類推すべきものか?

 

  天皇家の祭儀(祭祀)と天皇一族の大相撲観覧

 本ブログの筆者はすでに,以下に続く  1)   2)   3)   における議論のように,「創られた天皇天皇制」の〈具体的なしくみ〉に関して,その歴史的な由来を,専門家の議論を借りて説明してきた。

 いまの日本の天皇家が執りおこなっている「私家的な神道式の諸行事」は,そのすべてがといっていいくらい,明治以降に制作され開始された宗教的な儀式〔祭儀・祭祀〕である。

 ちまたでよくいわれるような「古式ゆかしき皇室の伝統行事」「うんぬん」と説明される宣伝は,天皇家の《近代における歴史の実態:創作性》に無知なまま,不正確でいいかげんな知識を世間に振りまいている。

 1)「建国記念日の謎-天皇家の架空先祖が国民の祝日たる理由」-西暦5000年ころにおける日本の祝日(休日)は1年に何日ありうるか?-

 日本の歴史のなかでみる「皇室の祭祀」は,新嘗祭大嘗祭など祭祀(行事)が中世期においては完全に断絶していた時期もあった。しかも,どこまでも天皇家の朝廷内における祭祀が,明治時代になって,根拠(!)も伝統(?)も不確かで不明な状態から「新しく創案」されていた。しかも,国民=臣民に対しては「昔からそうなっていたのだ」と,とりつくろい,ウソをついていた。

 1950年代後半に「建国記念日」に関する議論が巻きおこったとき,昭和天皇の末弟三笠宮崇仁(みかさのみや・たかひと)は,自分の所属する『史学会』(1889:明治22年11月創立)に対して「建国記念日」制定に反対する決議を迫った。三笠宮は,神武天皇の末裔を信じてやまない裕仁天皇とは〈天と地〉ほど,日本の歴史に関する認識においては大きな懸隔をもっていた。

 三笠宮は「科学の立場」から,皇室にかかわる「日本神話の理解」が兄とは完全に異なることを,当時宣言していた。これはいうなれば,日本古代史の認識に生じていた「皇族同士の内輪モメ:対立点」であった。

 だが,その『史学会』側は学術団体に政治的決議は馴染まないと応せず,皇族関係者との折衝を回避した。この非政治的=政治的(!)な態度に憤慨した三笠宮は「理事長独裁を批判する」とのコメントを出し,世間を騒がせた出来事となった。

 2)「天皇天皇制の歴史と本質」-現代における時代錯誤の夢想としての「昭和天皇と平成天皇による幻想:古代王朝史への白日夢-

   a)新嘗祭大嘗祭の断絶」

  古代天皇制の没落後における「新嘗祭」は,規模を縮小され簡略化しながらも年々続けられていた。しかし,応仁の乱の直前,後花園天皇の1642年を最後に途絶えた。「大嘗祭」は,1466年の後土御門天皇ののち9代:221年間,新嘗祭と同様に廃絶状態にあった。

 ところが,明治以降の近現代に生きてきた人びとの不正確な理解は,新嘗祭大嘗祭が「そのように途絶していた事実」など,想像すらしようとしないで済ませている。日本国の為政者は,明治天皇から平成天皇までの4代(令和の天皇の時代になっているので5代)にかけての「新嘗祭」「大嘗祭」という皇室祭祀を,あたかも古代から現代まで「連綿と途切れることもなく続いてきた」かのように,「帝国臣民:日本国民」に対して神話的に騙ってきた。

 このあまりにも〈明白なウソ〉のうえに「日本帝国とその臣民の立場」が国家理念的に成立させられていた。日本は1945年敗戦時,この寓話的:神話的な日本国づくり物語を根底から断ちきり,廃棄する機会を与えられたにもかかわらず,これを生かせず失敗した。

   b)新嘗祭大嘗祭)の像を村々のニヒナメの延長上に結ばせる誤り」

  われわれは,稲作にしたがう村々の生活を,天皇制の基層のなかに素朴に幻視する「歴史的認識としての限界性」をしらねばならない。天皇の「稲穂の国の〈王〉たる由縁」は,天皇制が農耕民の土俗の深層から発生した王権ではなく,〈天皇霊〉をめぐる服属儀礼が村落の農耕祭儀を接ぎ木的にとりこみ,そうして「土俗の時間」を「天皇制の時間の内部」に「巧妙に簒奪し尽くし」て,大嘗祭をはじめとする『天皇の祭祀を創出し,それを秘儀として』千数百年(?!)にわたって演じつづけてきたという「虚構の事実」に求めることができる。

 3)「工藤 隆『大嘗祭の始原』1990年が説く日本皇室の意味」

 明治から大正・昭和へと「天皇即位の礼ののち,初めておこなう新嘗祭である大嘗祭」は,〔ここで引照した工藤の文献が論じる時点では〕まだ2度しかおこなわれていない。その儀式の中身は元来,どのような伝統と格式があって,これに付きしたがい執りおこなわれてきたのか。

 しかし,天皇家はどこまでもそれらを〈秘中の秘〉としておくことのほか,その宗教的な秘密価値を高められないのである。それが,「旧日本帝国主義的な皇室政策」を,いまもなお〈問題の焦点〉でありつづけるゆえんである。そこで注目されるべき固有の性格は,いわば「皇室行事において歴史的な始原とされた〈空無性〉の《実体》」である。

 

  天皇が〈天覧相撲〉の構図を作りあげ,演じる時代背景

 1) 天皇が大相撲観覧にいく意味

 明治以来,天皇家が一生懸命に制作・創造・整備してきた皇室神道の諸儀式は盛りだくさん用意されており,年中行事として執りおこなってもいる。大相撲を只見でいくのも天皇の仕事の一環であり,「臣民:国民に対して〈天皇がお目見え〉する行事の場になっている」。この事実は「本稿(1)」でくわしくその記録を紹介していた。 

 2) 明治神宮大相撲

 明治神宮と相撲とのかかわりは,その創建前の大正7〔1918〕年6月1日,明治神宮外苑の地鎮祭のさいして始まった。大日本相撲協会(当時の名称)による「地固相撲の神事」が執りおこなわれた。

 さらに,大正9年11月2日,明治神宮創建を奉祝する相撲大会が青山練兵場(現在の外苑)で開催され,大錦横綱方と栃木山横綱方とに分かれて勝敗を競いあい,大錦方が大勝して優勝旗をかかげながら神宮に参拝した。

 また大正11〔1922〕年11月2日,大錦が拝殿前石階下で横綱土俵入りを奉納した。これが明治神宮でおこなわれた最初の手数入り(でずいり)である。

 大正14〔1925〕年)11月1日,当時の栃木山西ノ海・常の花の3横綱が大前の参拝に続いて,豪快な手数入りを奉納した。

 同月3日に明治神宮相撲場(外苑)においてて第1回大会が開催された。これが現在,明治神宮例祭を奉祝して秋に行われる「全日本力士選士権大会」,通称明治神宮相撲大会の始まりである。

 江戸時代から始まる「横綱の推挙状授与式」は,第40代東富士までは相撲司の吉田襖風家の邸宅祭場でおこなわれていたらしいが,第41代千代の山より,その横綱の推挙状は明治神宮の神前において,相撲協会から推挙状が出されることになった。

 昭和26年〔1951〕年6月8日,神前で初めて横綱推挙式と手数入りがおこなわれて以来,横綱推挙式は恒例として明治神宮でおこなわれている。

 現在では,横綱推挙式のほか,正月の手数入り(例年1月5~7日ころ)と秋の相撲大会に横綱土俵入りがおこなわれている。ちなみに「手数入り」の「でず」とは,わざの意味で吉田司家の口伝に横綱土俵入りを「手数入り」といったことから由来する。

 注記)http://www.meijijingu.or.jp/qa/jingu/17.html  参照。

 天皇家に対する日本〔大〕相撲協会のこうした従属的な上下の位置関係は,明治以来の,天皇を頂点に据えるかたちに構築された天皇制国家体制にもっとも適合的な恭順・服従の姿勢を表わしていた。

 また明治政府は,中世の時代には完全に途絶えていた「天皇と相撲節」とに関する〈歴史的な記憶〉(?!)を,近代になって政治意図的に復活・再現させるという操作を介して,この相撲協会を国家支配のためにうまくはめこみ,都合のよい主従的な関係を確立したのである。

 3) 天皇家の祭儀(祭祀)の異様な多さ-その明治以降に創られた伝統-

 さて,天皇家の祭儀(祭祀)は,下記のとおりである。いずれも天皇家のための宗教的な行事であって,国民=臣民のためのものではけっしてないという厳然たる事実に注意したい。要は,新嘗祭大嘗祭以外のほどんどは,明治以降にあらためて,皇室神道の祭儀として創設されていた。

 1月1日  四方拝(しほうはい)歳旦祭(さいたんさい)

 1月3日  元始祭(げんしさい)

 1月4日  奏事始(そうじはじめ)

 1月7日  昭和天皇祭(しょうわてんのうさい)

 1月30日  孝明天皇例祭(こうめいてんのうれいさい)

 2月17日  祈年祭(きねんさい)

 春分の日  春季皇霊祭(しゅんきこうれいさい),春季神殿祭(しゅんきしんでんさい)

 4月3日  神武天皇(じんむてんのうさい)皇霊殿御神楽(こうれいでんみかぐら)

 6月30日  節折(よおり),大祓(おおはらい)

 7月30日  明治天皇例祭(めいじてんのうれいさい)

 秋分の日  秋季皇霊祭(しゅうきこうれいさい),秋季神殿祭(しゅうきしんでんさい)

 10月17日  神嘗祭(かんなめさい)

 11月23日  新嘗祭(にいなめさい)

 12月中旬  賢所御神楽(かしこどころみかぐら)

 12月23日  天長祭(てんちょうさい)

 12月25日  大正天皇例祭(たいしょうてんのうれいさい)

 12月31日  節折(よおり),大祓(おおはらい)

 毎月 1,11,21日 旬祭(しゅんさい)

 毎日  日供の儀(にっくにのぎ) 毎朝御代拝(まいちょうごだいはい)
   注記)http://www.kunaicho.go.jp/about/gokomu/kyuchu/saishi/saishi01.html  参照。

 この調子でいくと,冗談ではないが,こういう仮定もできる。--3百年後には約10名分の「○○天皇祭」が増える。3千年後には約100名分のそれもくわわる。9千年後のそれは約3百名分まで増えてしまう。

 そうなると,週1日を除いて週のあいだはほぼ毎日,先祖神のための祭儀に明け暮れる天皇家が到来する。もちろん,「国民の祝日」(!?としての「天皇誕生日」)だらけ,赤色〔休日〕の数字だらけのカレンダーが出現することになる。仮定の話だとしても,ほとんど笑い話の世界……。

 ここではさらに,竹前栄治修,日本国憲法・検証 1945-2000 資料と論点〈第2巻〉,高橋 紘『象徴天皇と皇室』小学館,2000年が末尾に紹介している,付録7「天皇陛下御日程記録(平成10年12月23日~平成11年12月22日)」(同書,345-360頁)をのぞけば分かるように,天皇の日常生活はまことに多事多忙である。

 

  天皇天皇制と日本相撲協会

 1) 大正「天皇」の相撲観覧の機会はなかった

 本ブログ冒頭の見出しには「なぜか大正天皇は記録に出ていない」のが,いわゆる展覧相撲の歴史であるとも書いておいた。このへんの事情を説明したい。既出,風見 明『相撲,国技となる』(大修館書店,2002年)に関連する論及がある。以下,これを素材に記述する。

  1954〔昭和29〕年9月に正式に完成した蔵前国技館において昭和天皇は,正面〔北側〕の貴賓席と称される席で観覧した。明治時代,最初の国技館におけるその名称は貴賓席ではなく〈玉座〉であった。当時のその〈玉座〉は,「土俵をみおろす正面の2階から4階までを使っており,檜扇菊花模様で囲まれた金色の王冠を上部に頂き〔戴き〕,天井にはシャンデリアを吊り下げるなど,威厳を感じさせるものであった」(81頁,82頁)。

 しかし,せっかく設けられた玉座天皇が座ることは,一度もなかった。もっとも,皇太子のときの大正天皇が,明治43〔1910〕年1月9日の特別開催の台覧相撲のとき一度だけ座ったことがあった。この玉座には,大正天皇昭和天皇が皇太子や皇孫の時代に座ったことはあっても,彼らが天皇になってからはまったく座ることはなかった(82-83頁)。

 明治45〔1912:大正1〕年春場所6日めには内務大臣・東京府知事東京市長アメリカ大使などが玉座で観覧していたせいか,新聞の報道のなかには玉座とはいわず貴賓席といっているところもあった。また皇族の観覧のときにも貴賓席と呼ぶことがあった。したがって,厳密に考えると「天皇以外の人が座ったのに玉座と呼ぶのは間違いであ」る。「この席の呼びかたには混乱がみられた」のである(84頁)。

 2) 戦前・戦時体制期に昭和天皇が相撲観覧をしなかった〔できなかった〕理由

 本ブログの前編(「本稿(1)」)〔2021年1月9日〕の ②「歴代天皇の大相撲只見の記録」をみれば分かるように,日中戦争が始まって以後,昭和天皇は両国にいきたくともいけなくなった。

 しかし,昭和天皇は晩年になってからは,昭和55〔1980〕年から昭和59〔1984〕年に2回ずつ,昭和60年と61年〔1985と1986年〕には3回ずつ相撲観戦を楽しんでいた。昭和62〔1987〕年の5月16日夏場所の7日めが,彼の生涯にとって最後の相撲観覧となった。

 風見『相撲,国技となる』は,戦争の時代に昭和天皇がそれほど好きだった相撲観戦が中断されていた事情を説明しているが,そのまえに戦前期〔昭和12:1937年7月7日以前〕において彼が相撲観覧にいけなかった「2つの年」(昭和7年と11年)に関する解説を与えておく。

 「前提の話」 昭和戦前時代において昭和天皇はとくに,昭和10〔1935〕年5月27日と昭和12〔1937〕年5月27日,いずれも芝水交社で開催された相撲競技を観戦している〔本ブログ「本稿(1)」参照〕。この水交社とは,1876〔明治9〕年にされた設立海軍士官のための福利厚生施設であり,海軍士官クラブの全国組織である。総裁に皇族を戴き,社長は時の海軍大臣であった。

 注記)芝水交社については,http://y-suikoukai.daa.jp/page1/rekishi1.htm 参照。

 「天皇になってからの裕仁」は毎年相撲観戦に出かけていた。けれども,昭和7年と昭和11年は1度も出かけていなかった。どうしてか?

 a) 昭和7年,昭和天皇は両国に相撲観戦にいっていなかった。この年の3月1日は「満洲国(2年後に満洲帝国)」が建国されていたが,それよりも5月15日に東京で,海軍の青年士官を中心とするクーデタ事件が起こされ,犬養 毅首相が暗殺されていた。これでは,天皇が同月の27日にのこのこと相撲観覧を楽しむために出かけることなどできなかった。

 b) また,昭和11〔1935〕年2月26日に発生した「二・二六事件」の影響で,同年〔5月27日に予定?〕の昭和天皇相撲観覧が中止された,と推測して間違いあるまい。この事件が起きたとき昭和天皇〔1901〔明治34〕年生まれ,当時満で33歳〕は,若気のあまり,

 『朕ガ最モ信頼セル老臣ヲ悉ク倒スハ,真綿ニテ朕ガ首ヲ締ムルニ等シキ行為ナリ』『朕自ラ近衛師団ヲ率ヰテ,此レガ鎮定ニ当タラン』と強い意志を表明し,暴徒鎮圧の指示を強く繰りかえしていた。

 彼がこのような精神状態に追いこまれた「二・二六事件」発生の3ヶ月あと,相撲見物を楽しみに出かけるという気分にはなれなかった。

 c) さらに,昭和天皇が敗戦後初めて国技館に観覧にいったのは,昭和30〔1955〕年5月27日(10日目)であった。敗戦直後においては,彼自身が《超》A級戦犯の指定を受ける危殆に瀕していた。そのころの彼は,東京裁判の法廷に引きずり出されるかもしれないという〈恐怖心〉にさいなまれていた。

 しかし,彼はまた「アメリ国務省-GHQ-マッカーサー」とじかに接する機会をもてた政治過程のなかで,なんとかそうした苦境を切り抜け,結果的に事後においても上手に生き延びることができていた。

 昭和20年代のそれも前半,さらに絞りこんでいえばその最初の2~3年は,ある意味で彼にとっては「生きるか死ぬか」と形容してもいいほど,個人的には過酷な試練の状況に追いこまれていた。

 だから,サンフランシスコ講和条約の締結・発効〔1951年9月8日・1952年4月28日(天皇誕生日の前日!)〕という日本占領体制のいちおうの解除を待って,さらに彼自身の精神的負担感の低減・弛緩が実感できる段階,すなわち昭和30〔1955〕年の5月になってようやく,18年ぶりに両国に相撲観戦のために出向く気分になれたのである。

 風見『相撲,国技となる』の話題に若干戻ろう。こういっていた。

 d) 戦時体制期〔昭和12年7月-20年8月〕において,国技館での天覧相撲の機会がなかったのは,昭和天皇が全軍を率いる大元帥であり,現人神であったことと関係がある。このような立場の人が国技館という大衆的な場所で相撲を観覧するのは,たしかにふさわしくなかった。

 ただし,相撲の観覧そのものにまったく問題がなかったことは,それ以前に昭和5年と6年の天長節祝典のさい,皇居で天覧相撲がおこなわわれていたことからも分かる(『相撲の歴史』83頁)。

 e) 昭和天皇陸軍記念日の偕行社に1回,海軍水交社に7回行幸し,毎回余興として行われた相撲を観覧したが,これらの行幸は軍の士気を高める意味をもち,完全に大元帥の立場からの行幸といえる。このような相撲観覧には積極的だったといえる(84頁)。

 以上,風見『相撲,国技となる』を手がかりにした議論をさらに続けたいが,本日はこれにて擱筆したい。後日,関連のある続編などを記述するつもりである。

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