伝統的家族観とはなんぞや,過去の日本においていつごろに,その家族観として伝統が形成されていたのか,まともに答えられるのか,古代,中世,それとも近代,現代? よく分からぬ家族観を絶対視する虚構と妄想にどっぷり漬かった「自民極右の想像妊娠的なその家族観」

 世界中で夫婦同姓を絶対視するのは日本だけである,そうであるからにはよほどりっぱな伝統的な家族観があったのかと思えば,そうではなかった

 明治後期に「創られた伝統」である夫婦同姓(とはいっても夫のそれがほとんど)に決めることによって,どうして「家族の絆」や「家族の一体感」の基盤が造られ,間違いなく維持できるというのか

 

  要点・1 「伝統的な家族観」そのものの不可解さというか,最初から理解に苦しむ「夫婦同姓にもとづく家族観」絶対視の「奇妙な独自性」

  要点・2 「家族の絆」「家族の一体感」は努力目標でしかないものだが,国家の側から要請されたり,ましてや強制される筋合いはなし

 

 🌑 前  論  🌑

 本ブログは,昨年(2020年)12月の13日と16日に「別姓」の問題をとりあげ,議論していた。以下では,その日にちの順序は逆になるが,それらの記述が冒頭にかかげていた「主題・副題」の文句を再度,ここに引っぱりだして,かかげておく。

 別姓問題にまつわる,それもとくに「伝統的家族観」としての「家族の絆」「家族の一体化」という観念が,いかにあやしい「面相」をかぶり振るまっているかを,ここでさきに感じてもらいたい。

 なお,とくに述語などの部分は適宜に補正しつつ,追加の議論をおこなっている。

 

 1) まず,2020年12月16日のこの記述の主題・副題などを抜き書きしておく。

 夫婦別姓を全面否定する「夫婦同姓派の化石的な思考」(つまり石頭の神経回路)は,夫婦同姓が日本社会の未来にどうしても必要・有益だと勘違いしている,それで仮にでも,人口減少社会である現状が改善できるかといえば不可に決まっている。

 夫婦間「別姓か同姓かの問題」を理性で議論しようとはせず,軟体動物的な感覚でのみ「別姓・ダメ論」をゴリ押ししたがる,それも自民党員的に「極右・反動」である頑迷脳細胞の持主たちは,やはり「▼(シ)ななきゃ治らない」ほどにひどく陳腐化したイデオロギー的病理に罹患している。 

  要点・1 先日,『朝日放送テレビ』〔2020年12月のある〕日曜日夜の番組「ポツンと一軒家」に登場したある山奥のお宅では,家族(祖先)のお墓も近くに造っていたが,そのお墓は銘々に1人用のお墓であって,家族が入れるような明治以降になって造られたお墓の様式とは違っていた,さてこちらの一族では「お墓の関係で家族の絆」はないとでもいえるか? このような問いを出すことじたいが無理筋というか余計な話題であった。

  補注)日本人のお墓に関して専門的に解明している識者として,岩田重則の使命を挙げておく。岩田は近著として『靖国神社論』青土社,2020年8月を公刊していたが,以上の話題に関連させては,入手しやすい以下の著作2著を紹介しておく。

  『戦死者霊魂のゆくえ-戦争と民俗-』吉川弘文館,2003年。

  『「お墓」の誕生-死者祭祀の民俗誌-』岩波書店(新書),2006年。

  現在,われわれの周辺に存在するお墓は例外がないとみていいくらい,家族単位で遺骨を納める形式の墓であるが,実は,明治以前はそうでなく個人ごとのお墓であった。話は飛ぶが,天皇の墓(陵)が個人単位である事実は,大昔からの墓の造築基準になっていたらしいが,なぜか,明治以降になるといきなりというか勝手に,日本人の墓のほうは家族単位になっていた。そういった「新しい伝統」が「創られていた」。

  同じ墓に入る家族たちとなれば,ふつうは当然,同じ姓の人がそこに収まっていることになる。だが,たとえば,一家のなかで,ある「姑」と非常に険悪な家族関係のなかで暮らしてきたある「嫁」が,夫と同じ墓(当然のことその姑も先に死んで納骨されているその墓)に,私は「死んでも(?),その姑が入っている家・家族の墓には入りたくない」という話は,よくあるものであった。

  その場合,その嫁であった女性がもしも個人ごとにお墓を造ってもらえれば,隣同士に墓石が並べられていても,同じ「カロート」(納骨室または納骨棺のことでは,もとの漢字は「唐櫃:カラウド」であり,「死者を葬る棺」という意味とのこと,土葬だった昔の墓にこのカロートはなし)には,自分の遺骨を埋葬されないで済む。もっとも,この女性の場合だと「姑」の隣でも,自分の墓は絶対に造ってほしくないと拒否されるかもしれないが……。

  以上の話題は,伝統的家族観に固執する21世紀の「同姓論者」の思考方式に特有である「日本的な家の伝統・仕来り」が誇れるはずの「家族の絆」など,皆目介在する余地すらなかった。それどころか,前段のように「姑」と同じカロートに入るなどといった「死後のあつかい」には,とうてい我慢ならぬといった反応を示すに決まっている「嫁」の立場からしたら,その「家族の絆」なるものの実体は,「拘禁服」を無理やり着せられるかのようにして,自分の一生を縛ってきた「荒縄」を意味するとしか受けとめられないはずである。

  ところが「家族の絆」や「家族の一体感」を絶対命題のごときにもちだせる「伝統的家族観」は,そのような「姑と嫁とが生涯をかけて持続させていた悶着」(日常的によくある話なのだが)など,初めから「絶対的に想定外」でありうるかのように観念できているのだから,その明治謹製になる家族像から産出される「理想論的な想像力」だけは感心できる。

  いま話題として登場させた「嫁」の立場(不満,怒り)は,その伝統的家族観とこれに依って撚(よ)られるべき「家族の絆」などは,それこそ「▼ソ食らえ」とでもいいたいはずである。

  もっとも,伝統的な家族内の立場において「嫁」として居た女性たちも,そのうち年齢を重ねていくと,こんどは自分が「姑」のほうの立場に移りかわっていき,そうなるとたいがいは「歴史は繰り返される」という経過=顛末をたどっていくのが,通例になっていた。

  またもっとも,最近の「姑と嫁」間の力関係はだいぶ変質しているといわれる。ただし,ここでそのあたりの事情を直接記述したら,キリがなくなりそうなので,ひとまずつぎの記述に譲っておき,今日のところは,こちらから若干引用するだけでいったん逃げておくとするが,おおよその感じは分かってもらえるはずである。

     ★「 “姑ストレス” は昔の話?  50代の『嫁・姑事情』まとめ」 ★
  = 『Webélat』2020年6月2日,https://eclat.hpplus.jp/article/54481/12/

 

 最近,「嫁姑問題」を扱ったドラマや小説が話題になることは,めっきり減った。それに悩む人はいなくなったのだろうか。けれど,友人のなかに嫁姑問題で長年悩んでいる人もいれば,姑が原因で離婚を踏み切ったという話も耳にする。

 

 いったいいま,嫁と姑の関係はどうなっているのだろう? アンケートと専門家への取材で見えてきた “現代の嫁姑関係” とは?

 

 (中略)  70代以上の姑が大半にもかかわらず,舅も健在が44%なのは,平均寿命が世界トップクラスの日本ならでは? 「ほかの実子と同居」は,長男にかぎらず,次男や娘というケースも多かった。

 

 なんと,同居は読者100人中3人のみ。2世帯住宅の人が数人いるものの,玄関もキッチンも別の完全独立型で,顔を合わせない日も多いからか,「別居」と回答していた。

〔ここで,1)  の主題・副題関係に戻る  ↓  〕

  要点・2 「家族の絆」と「同姓・別姓の問題」は基本としてまったく別問題たりうるにもかかわらず,この絆の有無(程度)が同姓か別姓かによって異なってくると主張するのだから,この観念は超絶的にアクロバット的な思考回路がなければとうてい成立不可能,夫婦別姓の国々では家族の絆など問うてはいけない話題としておくべきなのか? 

  要点・3 同姓の夫婦(家族)は問題なく皆が幸せであり,万事に満ち満ちた生活を維持できているわけでもあるまい,「それはそれ,これはこれ」であって,問題の設定じたいが最初からトンチンカン的に〈倒錯無双〉

 

 2)つぎに2020年12月13日のこの記述の主題・副題などを抜き書きしておく。

 夫婦別姓は絶対にダメだという高市早苗議員の,明治後期的に硬直した発想の救いがたい論理破綻のリクツ,歴史的にもなんら実証性のない単細胞的な思いこみ

 論理性も歴史性もなにも備えていない高市早苗流の日本的家族観は,支離滅裂の「家族の絆」信奉「感」であるが,昨今における日本の家や家族のあり方の問題は,そのような空虚な信念で議論しうる対象ではない

   要点・1 夫婦同姓「観」を絶対観念的に最上・至善と思いこみ,別姓への批判として「議論にならない議論」を繰り出す高市早苗議員の薄識ぶり

  要点・2 先進国としての位置づけすら最近はあやしいこの日本国であるが,家・家族観において,みずから意味不明の後進的な定位置に執着する,日本会議風:高市早苗的な脳細胞不活性的な民法「観」

 この 2) の記述からは,もう一度,つぎの段落を出しておくことにしたい。前段で触れたお墓のあり方変遷とも関連する考えたの問題が指摘されていた。

 けれども,高市早苗流の思考方式は,自分が戦後も16年が経った1961年の生まれ(59歳)であっても,旧態依然でありつづけている。なお話題が「明治史以降のそれであった」ゆえ,ここでは,つぎのように関連する事実史を記述しておくことが便宜である。

 ※-1 江戸時代(徳川時代)は一般に,農民・町民には苗字(姓)の使用は許されていなかった。

 ※-2 1870(明治3)年9月,太政官布告(明治時代初期に最高官庁として設置された太政官によって公布された法令の形式を意味する)によって,一般に「平民に姓の使用が許される」ようになった。

 ※-3 1875(明治8)年2月,太政官布告によって姓の使用が義務化されるが,これは,兵籍取調べの必要上,軍から要求されたものといわれる。ちなみに,1873(明治6)年1月,国民の義務として国民皆兵をめざす「徴兵令」が施行されている。

 ※-4 1876(明治9)年3月の太政官指令によって,妻の氏は「所生ノ氏」(実家の氏)を用いることとされた。つまり,妻は結婚しても姓は変わらなかった。明治政府は,妻の姓に関して実家の氏を名乗らせ,夫婦別姓」を国民すべてに適用することとした。

 ※-5 122年前の1898(明治31)年6月,民法(旧法)が成立し,夫婦は「家」を同じくすることにより,同じ姓を称することとされた(夫婦同姓制)。

 旧民法は「家」の制度を導入し,夫婦の姓について現行の民法とは違い,直接規定を置くことはせず,夫婦ともに「家」の氏を称することを通じて同姓になるという考え方を採用した。旧民法788条1項「婚姻ノ効力」は,「妻ハ婚姻ニ因リテ夫ノ家ニ入ル」と規定していた。

 当時におけるこの法的な規定から「家族の絆」という概念そのものをもちだすのは,いささかならず苦しい論理づけであった。それゆえ,その間(今と昔)を連絡づけるための “そのほかのリクツ” が,大きなオマケ(なにかとしてコジツケるためのリクツ)として,どうしても必要になっていた。

 ただし,この種の事情・理由の介在は,それじたいとして理解できなくはない。ところが,その種のあとづけ的な補足説明がぜひともほしい大事なところじたいが,実はもともとからして「もぬけの殻(?)」状態であったから,その収まりどころが定まらない。

 いずれにせよ,それから1世紀以上も経った現在の話題が,高市早苗流の思考方式にしたがい “夫婦が同姓を名乗る必要” についてとなれば,なんといおうが「日本は日本,外国は関係ない。堂々と日本として守っていけばいい」とのみ応えるほかなくなっていた。

 しかし,それでは説明になっていない。単に,特定個人の素朴な想念の発露でしかない。夫婦が別姓を使用している国々に人びとに対してでも,よく理解してもらえ納得させうるような「同姓婚」に関した説明が与えられていない。

 要するに,高市早苗は終始一貫,思いを同じする同志だちとの間でのみ毛繕いが可能な,つまりは「井の中の蛙」的な語り方しかできていなかった。

 

 「〈ThinkGender〉男女共同参画の行方:1 別姓婚,いつになったら選べる」朝日新聞』2021年1月18日朝刊33面「生活」

 夫婦がそれぞれの名前を変えずに結婚する。そんな選択肢を求める声が高まる一方で,議論が起こっては停滞する状況が30年近く繰り返されています。名前を変えない「事実婚」には,いまもさまざまなハードルがあります。

 補注)この記事の議論において中心点にある問題性は,夫婦・世帯の成員たちが同姓でないことには,いまの日本社会のなかでは,あれこれ・いろいろと日常生活において「国家から妨害を受けるほかない法制の仕組になっている」ところにあった。

 そもそも「男女共同参画」という概念じたいになじまない基本の要素が,「夫婦は同姓,家族全員が同姓」という固定観念のなかには控えている。いまどき世界(先進国?)のなかで日本だけがまだ,夫婦別姓をどうしても認めていない。しかし,日本国民たちがこの実情に疑問を抱いていないわけではない。

 要は「夫婦の姓」を同じにするか別にするかといった問題点をめぐっては,先進国であるはずの日本が「明治的という意味での前近代的な封建遺制」という尻尾を引きずっている。今風にいいいかえると,なにかを勘違いして「日本,スゴイ」的な感性に拘泥した家族観をかかげている。

 家・家族の問題なると,その根本から勘違いした想念でしか議論できない精神構造の持主である人びとがいる。彼らは,政権党である自民党内でも極右・反動勢力の立場・イデオロギーに支えられているのだが,「同姓となる結婚こそ万々歳」といったごとき,完全に倒錯した立場を独自に堅持している。

 a)「対等」大切に事実婚,不条理も

 「夫婦別姓というかたちの両親のすごさを多少なりとも理解し,尊敬できるようになりました」。東京都調布市の山崎精一さん(71歳)は,4年前,結婚式での長男(36歳)からの言葉が忘れられない。婚姻届を出さない「事実婚」を貫いてきた。

 〔その〕選択に迷いはなかったが,心のどこかに「子どもたちに負担をかけたのでは」と不安もあった。長男の結婚式のスピーチで,山崎さんが「姓が異なり嫌な思いをさせられたこともあったかもしれない」と語ると,長男は「小さいころ,なんとなく面倒な親のもとに生まれてきたものだと嘆いたものです」としつつ,冒頭の言葉を続けた。

 補注)日本と同じ先進国であるフランスの場合については,「フランス人が結婚せずに子どもを作れる理由-6割が婚外子の国の姿 結婚は『してもしなくてもいい』もの」『現代ビジネス』2019年7月28日,https://gendai.ismedia.jp/articles/-/66067 という記事を読んでみれば,日本における同姓婚事情の無意味さが理解できる。

 フランスでは,結婚したら(!)その男女(?)2人は「同姓か別姓か」という問題など,まったく問題になりえない。よりはるか前線の地点でだが,ごく当たりまえに,「フランス人が結婚せずに子どもを作れる理由-6割が婚外子の国」になっている。このフランスの現状と日本の問題を比較してみるまでもなく,こちら日本風の「伝統的家族観」(だから同姓なのだ)という家・家族イデオロギーには,辟易させられる。

 話は,フランスが同じ先進国として,そうした家・家族観の現状にあるとかないとかいう “以外の圏域” にまで進んでいた。結婚して同姓になってもならなくても,男女が仲良くなっていっしょに生活し,性関係も結ぶことになれば,当然のこととして,そのうちすぐにでも子どもができ,生まれる。この男女が事実婚であってもなくても,その子どもを儲けるという事実そのものに変わりはない。

 そしてまた,多分,「家族の絆」(というものがフランスにありうると想定しておくが)も,フランスであってもそれなりに存在していると想像できる。その「家族の絆」というものは,日本だけに絶対的に固有・特別である「家族観の結びつき」を意味する表現ではない。

 しかし,それでもなお「日本には日本なりにかくべつに伝統のある家族像」がありえるのだと観念したがる人びとは,その「家族の絆」のありようについて,日本特殊的な類型化を準備しなければいけなくなる。つまりそれが,旧民法的な家と家族に関する思考方式であった。

 民法といえば,これは天皇家を日本社会の頂点に位置づける,別言すれば本家・本元とする政治的な組織原理を台本にしており,個々の日本人たちが構成する家・家族はその下位をそれぞれなりに構成する単位体に位置づけられていた。

 すなわち,この家・家族における夫婦や構成員が別姓ではまとまりがつかない,それではいけない,日本全体の家長が天皇家天皇の立場であるように,個々の家・家族にもいる家長(オンナはなれないそれ)もそれに似た立場に居なければならず,このオトコの姓に家族全員の姓も同じにしておかないと,日本社会の構成原理としては締まりがつかない,というリクツになっていた。

 この思考方式にしたがっていえば,男女が正式に結婚しないで,事実婚で家族・世帯を構成したり,ましてや子どもを儲けたりするのは,おそらくけしからぬ社会の生き方とみなされる価値観が前面にせせり出ることになる。

 したがって,敗戦後における民法のなかに「家制度」じたいはもはや存在していないものの,「『家』制度を支える土台としての国家施設であった」戸籍制度じたいは,その後も確固として存在しつづけている。この点,「家」ではなくて,1人ひとりの個人が大事にされるはずの現民法下においても,婚姻や出生に消滅したはずの「家制度」が影響を与えてきたと観るほかない。

 註記)西田茂樹・木村正文「わが国の1920年以前の婚姻・離婚・身分別出生・身分別死産の動向に関する一考察」『民族衛生』第58巻第4号,1992年7月,233頁参照。

〔ここで記事に戻る→〕 長男は結婚のさい,妻に「別姓」の選択肢も伝えた。2人で話しあった結論は同姓での結婚。山崎さんは「親は親,子は子。どう生きるかはそれぞれの自由」と話す。山崎さんが妻(67歳)と同居を始めたのは1983年。

 妻も自分も,結婚で大切にしたいのは「対等」であることだった。婚姻届を出すには,どちらかが姓を変えなければいけない。どちらも姓を変えず,おたがいを大切にするために出さないと決めると,妻の父は「みっともないことをするな」と猛反対した。

 「周囲の反対」以外にも,事実婚の配偶者だと,姓が異なるため手術など医療行為への同意が認められないことがあったり,相続税は軽減されないなど金銭的な不利益を被ったりする。

 補注)日本にはすでに,大勢の外国人がそれも旧来と新来の外国人たちが多種多様に混ざりあいながら,居住している。この人たちがこの国で暮らしている時,その所属する国によっては別姓の夫婦(正式・本物)である場合,彼らの「姓が異なるため手術など医療行為への同意が認められないことがあったり,相続税は軽減されないなど金銭的な不利益を被ったりする」ことは,本ブログ筆者のしるかぎりではない。

 そうなると外国人では別姓の認められている夫婦だと許される上記の問題が,日本〔国籍〕人となるとダメだというのは,法律そのものがデタラメあるいは恣意的に運用されていることを意味する。別姓の外国人夫婦は,アジアの韓国や中国などが中心となって,在日外国人の半数近くを占める。なお,2020年1月1日の外国人人口は287万人で,過去最高を記録した。

 山崎さんは当初,法律上は子どもとも妻とも「他人」の状態だった。3人目の出産後に妻が一度退職したのち,公務員だった山崎さんが子を認知して扶養家族にした。

 「それぞれの姓で夫婦でありたいだけなのに」。困難に直面するたび,不条理を感じてきた。新たな不安も生まれた。もし老人ホームに入るとき「夫婦同室」にできないのではないか……。

 2018年から始まった新たな選択的夫婦別姓を求める訴訟で,妻と共に原告に名を連ねる。「形式的には『男女どちらが姓を変えてもいい』制度だけど,結果的に女性が変えるケースがほとんど。男の立場で男女平等ではない制度への異議を申し立てることで,男性も考えるきっかけになれば」と願っている。

 b) 消えた制度への言及,世論は「賛成」多数

 夫婦がそれぞれの姓のまま結婚できる選択肢をつくる民法改正案の要綱が,1996年に法相の諮問機関「法制審議会」で答申された。だが,「伝統的家族観」を重くみる自民党議員の反対が根強く,政府の改正法案は国会に提出されていない。

 1999年に施行された男女共同参画社会基本法にもとづいて5年ごとに策定される基本計画では,第4次計画まで「選択的夫婦別氏制度」という言葉が入っていた。だが,第5次計画ではなくなり,「家族の一体感」など慎重な文言がくわわった。

 補注)この「家族の一体感」とは「家族の絆」と同意であるが,核家族化どころか単身・1人世帯の割合がどんどん増えてきた日本社会のありかたとは,あたかも無関係にこの「家族の一体感」という単なるアドバルーン的な標語をかかげるのは,実質的に無意味に近い日本社会のあり方に関する認識であった。

 「増える核家族と単身世帯 … 種類別世帯数の推移をグラフ化してみる(最新)」『ガベージニュース』2020/08/11 05:26,http://www.garbagenews.net/archives/1953968.html は,つぎのように解説していたが,この家・家族構造の変化・趨勢のなかで「家族の絆」を唱えることの「見当違い」に気づかないとしたら,ウカツ以前の問題意識の低さ(なさ?)といわねばならない。

 

 この50年の間に3世代家族の比率は10%ポイント以上減少し,その分単身世帯や核家族世帯が増加している状況が把握できる。構成比でみると核家族世帯よりも単身世帯の増加率が大きく,未婚の人が増加している様子が容易に想像できる。

 

 また,1990年前後までは比率において「単身世帯 … 横ばい,むしろ減少」「核家族世帯 … 増加」だったのが,それ以降は「単身世帯 … 漸増」「核家族世帯 … 横ばい」となり,1990年ぐらいを境に,世帯構成のトレンドが核家族から単身世帯にシフトしていくようすが把握できる。

 

 晩婚化,未婚化にくわえ,高齢者の単身世帯の増加といった,いわば「先進国病」的な社会構造上の変化が,このタイミングで顕著化してきたと考えれば,道理は通る。ちなみに日本の高度経済成長が終わったのも,ほぼこの時期である。(中略)

 

 核家族の増加は地域コミュニティの変化,子育てに関する問題を顕著化する。祖父母に育児の一部を任せられない夫婦の時間は制約され,婚姻世帯における共働きの加速化や待機児童問題へも連動しうる。また単身世帯の増加は結婚・少子化問題,そして世帯ベースでの貧困問題や健康事案に係わる安全性にも影響を与える。

〔記事に戻る→〕 内閣府世論調査で,法改正への賛成は増えている。2012年には,法改正に賛成する人と反対する人どちらも約36%と拮抗(きっこう)していたが,2017年には,賛成が42.5%になり,反対(29.3%)を上回った。賛成する人のうち,実際に法改正された場合に夫婦別姓を希望するという人は,約2割いた。

 法務省が2010年に主要各国に問い合わせたところ,日本以外に法律で夫婦同姓を義務づけている国はなかった。国連の女子差別撤廃委員会は2003年から2018年までに6回,日本政府に対して,選択的夫婦別姓の導入を含む民法改正の勧告や追加的情報の提供を求めている

 補注)この段落において出ている「国連の女子差別撤廃委員会」は,日本の民法を改正するのが好ましい,それを求めるといった基本姿勢である点は,すぐに理解できる。

 「選択的夫婦別姓・全国陳情アクション」によると,国会での議論を求める陳情や意見書を議決した地方議会は 177件(昨〔2020〕年12月21日現在)にのぼっている。

 社会問題に関心をもつ人びとのコミュニティーづくりに取り組む一般社団法人「Voice Up Japan」の山本和奈・代表理事(23歳)は,「『結婚』が遠くない将来にあるかもしれない私たちの世代にとって,夫婦別姓を『選べない』ことへの疑問はとても大きい。同姓がいい人に強要するものでも,誰かを傷つけるものでもないのに,なぜ選べないのでしょうか」と投げかけ,「声を上げつづけ,共感を広げていくしかない。仲間を増やすために,活動を続けます」とする。

 補注)この山本和奈の指摘,別姓という選択は「同姓がいい人に強要するものでも,誰かを傷つけるものでもないのに,なぜ選べないの」かという意見は分かりやすく,説得力がある。逆に考えてみればよいのである。

 現状の民法がいまだに旧民法的感覚丸出しにしたままにあるがゆえに,「別姓がいい〔という〕人に〔対してまで,なおも同姓を〕強要するもので」ある。そうでかぎり,そうした価値観(社会秩序感)がいままで「誰かを傷つけるもの」になっていた点は,敗戦後における日本社会がかかえる民法上の〈現実の問題〉でありつづけてきた。

 同姓論の主張には合理的な説明が不在であり,納得のいく解釈が明示されていないのに対して,別姓の主張はもっともであると受けとめられる訴えであった。だが,同姓論者の立場はその点をすなおに認めないまま,国家権力側の家・家族イデオロギーに同調する立場を武器にして,別姓論を闇雲に排除するだけであった。

 c) 第5次男女共同参画基本計画の文言(昨〔2020〕年末に閣議決定

 夫婦の氏に関する具体的な制度のあり方に関し,戸籍制度と一体となった夫婦同氏制度の歴史を踏まえ,また家族の一体感,子供への影響や最善の利益を考える視点も十分に考慮し,国民各層の意見や国会における議論の動向を注視しながら,司法の判断も踏まえ,更なる検討を進める。

 【参考】(第4次計画は「選択的夫婦別氏制度の導入等の民法改正等に関し,司法の判断も踏まえ,検討を進める」)

 ここでは,問題点の指摘のみになるが,繰り返して述べておく。

 ※-1「戸籍制度と一体となった夫婦同氏制度の歴史を踏まえ」るとは,どういうことか? 戸籍制度そのものを表向きに出して民法の関連条項を運用できなくなった日本社会の現状は,どのように理解しているつもりか?

 ※-2「家族の一体感」や「子供への影響や最善の利益を考える視点」とは,いったいどのように定義されうるものなのか? いまさら「戦前回帰」などできない21世紀の社会状況のなかで,今日的に好ましいそれがどういうものでありうるのか説明されていない。現状の日本国憲法を否定したがるばかりである立場・イデオロギーで考えたつもりのその「一体感・視点」ならば,時代錯誤の一言で葬り去るほかない。

 『日本経済新聞』2020年12月29日「社説」は,「夫婦同姓を法律で義務づけているのは,主要国でも異例だ。家族の一体感のみなもとは『同姓であること』だけでもないだろう」と断言していた。そのとおりである。

 「家族の一体感」とは,家や家族を構成する人びとにとっては,1人ひとりが主体的・自主的に抱けばよいひとつの努力目標ではありえても,国家や誰かに指示されたうえで,意識的に努力してその具現に向かうべき性質のものではない。

 ※-3「国民各層の意見や国会における議論の動向を注視しながら,司法の判断も踏まえ,更なる検討を進める」といいながら,国民世論の平均的多数派の考え方を平然と無視してきた自民党の保守・反動形成でしかない極右の人士が唱える「選択的夫婦別氏制度の導入〈等〉」に対しては,これに期待などしないほうが順当である。

 そもそも「国民各層」とは,この国に生活する,いったい誰たちの存在を踏まえているのか? 「司法の判断」とはいっても,裁判所じたいが旧民法的な法感覚にまだ囚われて埋没した精神構造から脱却できないでいる。こちらの裁判官たちも含めて,自民党政権内の極右中心がおこなう「更なる別姓問題の導入問題」検討に対して,なにかを期待できる可能性は少ない。


  庶民の側の声は大多数が明解である

 『朝日新聞』2020年12月22日朝刊14面「オピニオン」には,こういう意見が開陳されていた。半世紀,いや1世紀も以前の旧民法的な感覚が,日本社会にまかり通っている様子がうかがえる。

     ◆〈声〉選択的夫婦別姓,真摯な議論を ★
    = 区非常勤職員 細田妙子(東京都,62歳)=

 

 民法750条は,婚姻届を出した夫婦が同じ姓を名乗ることを定める。33年前に結婚した時,婚姻届の夫婦の姓の欄に疑問が湧いた。

 

 慣例ではほとんどが夫の姓になり,妻の姓は旧姓とされる。これに納得できず,義父には私の思いを伝え,子どもが誕生するまで事実婚を通した。日本の姓については,明治民法施行まで夫婦同姓が強制されなかったそうで,同姓強要の考えには説得力がなく同感できなかった。

 補注)戦前の旧民法のもとでは「子どもが誕生するまで事実婚を通した」夫婦もかなり存在した。ただし「男子の誕生」がそのさい区切りになっていた場合もあったというから,別の問題もあった。

 

 結局,子どもが生まれて婚姻届を出し改姓したが,旧姓も使いつづけた。戸籍名が求められる学校の活動以外では,娘が「今日はどっちの名前を使ったらいい?」と普通に聞いてくる環境を維持してきた。一方で「姓を強制的に変えられた」との思いは消失することなく,娘が20歳を迎えたので,証人としてサインしてもらい離婚届を提出。旧姓に戻した。ただ夫とは同居を続けている。

 補注)同姓でなくなっても,この夫婦が夫婦であること:事実婚に変わりはない。この「婚姻の事実」を認めない国家の立場・イデオロギーのほうが,そもそもおかしくて,基本的にズレている。

 

 私はけっして同姓を選択することを否定しない。むしろ2人で新しい姓にできるなら喜んでそうしただろう。問題は改姓の選択が平等かどうかだ。いまだに「嫁に行く」などという言葉が頻繁に使われている。今後も真摯(しんし)な議論を期待したい。

 以上の投書を採用して記事に乗せていた朝日新聞は,2020年12月18日の「社説」を,つぎのように論説していた。本ブログ筆者はこの意見に賛成できるゆえ,以下に引用しておく。

    ★〈社説〉夫婦別姓   社会の要請に耳澄ませ ★
     =『朝日新聞』2020年12月18日朝刊 =

 

 1人ひとりの尊厳が守られ,男女の性別に関係なく平等に遇される社会。その実現をめざして努力してきた多くの人の思いを踏みにじるおこないだ。選択的夫婦別姓(別氏)をめぐる自民党の対応である。政府が近く策定する「第5次男女共同参画基本計画」が同党の意向で書きかえられ,大幅に後退する内容になりそうだ。

 

 2000年に作られた最初の基本計画から2015年の第4次計画まで,具体的な施策や取り組みとして「選択的夫婦別氏制度」が明記されてきた。今回,内閣府は従来の「検討を進める」から「必要な対応を進める」に一歩踏みこむ原案を提示した。

 

 これに伝統的家族観の護持をかかげる自民党議員らが反発。導入にブレーキをかける文言を書きこませ,記載を「更なる検討を進める」に押し戻したうえ,あろうことか「夫婦別氏」という言葉まで削らせてしまった。

 

 人権感覚のなさと時代錯誤ぶりにあきれるばかりだ。

 

 法律で夫婦同姓を義務づける国は日本くらいとされ,96%の夫婦で女性が男性の姓にあらためている。明治以降定着した制度として積極的に受けとめる人がいる一方,改姓に伴う不利益や不便,アイデンティティーの喪失感に苦しむ人も少なくない。女性の社会進出とともに,選択的夫婦別姓制度を求める声が高まったのは当然といえる。

 

 内閣府世論調査でも「法律をあらためてもかまわない」と答える人が増え,2017年調査では42.5%と,「あらためる必要はない」の29.3%を大きく上回った。

 

 自民党の動きはこうした国民の声に背を向けるものだ。このままでは第5次計画は,改姓を強いられる人たちの痛みを無視し,社会の流れからも乖離(かいり)したものになってしまう。

 

 反対派は,別姓を導入すると家族の絆が失われ,子に悪影響が及ぶと唱える。だが事実婚でそれぞれの姓を名乗り,子どもとも良好な関係を築いている家庭はたくさんある。現実をみたうえでの主張なのだろうか。

 

 旧姓を利用しやすくして問題の解決を図る考えもあるが,国家資格など戸籍上の姓の使用を求められる場面は多い。二つの姓を使い分ける負担は重く,代替策にはなりえない。

 

 残念なのは,別姓の導入に前向きな発言をしていた菅首相上川陽子法相が,この事態に静観を決めこんでいることだ。

 

 11月の参院予算委員会で別姓への考えを問われた首相は「政治家として申し上げてきたことには責任があると思う」と答弁した。今後その「責任」をどう果たすのか。人々の苦悩と社会の要請に耳を澄ませば,答えはおのずとみえてくるはずだ。 

 菅 義偉という政治屋になにかを期待することは,いっさい止めにしたほうがよさそうである。3月ころにはこの人,首相を辞めざるをえないという裏情報もあるくらい,この菅 義偉という人物は「政治家としてはまったくなっていない小さい器の者」であった。

 菅 義偉に家や家族の諸問題について討論をもちかけたところで,なにもまともな反応は期待できない。その程度の人材であった。昨年(2020年)のいまごろから大問題になっていた新型コロナウイルス感染拡大「問題」に対する国家最高指導者としての采配ぶりは,安倍晋三前首相に勝るとも劣らぬダメぶりを発揮してきたのが,この菅 義偉君であった。

 この首相,昨年の9月16日から日本国総理大臣職を始めていたが,その指揮ぶりの幼稚さ・低調さのダメ加減と来たら,もう目も当てられないほどにひどい。この国を壊滅させかねないほどにコロナ禍に対する対応や措置のあり方が,後手後手であるだけでなく,もとより不適切で的外れである発言ばかりが目立っていた。このままだと日本国の先行きは真っ暗……。別姓だ同姓だといった「問題以前の大問題」が,いま,目の前で猛威を振るっている。

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