2009年に語ってみた「日本経済社会はどこへいく?」という問題の「その後 2021年」

             (2009年2月26日,更新 2021年1月28日)

 日本経済社会はどこへいこうとしているのか,2009年2月の観察,そして2021年1月に再考してみる「日本国勢の凋落・衰退」

 人口統計の動向からみた日本・日本国の未来はどうなるか?

 

  要点・1 人口減少問題をどのように認識するか

  要点・2 21世紀における日本の存在価値

 

 🌑 前  言  🌑

 a) 最初に,総務省統計局から,本日の記述「改訂」にとって時宜となる「日本の人口統計」の資料を紹介しておく(以下しばらく能書きを垂れる記述になるので,後段の  b)  に出てくるが)。だいぶ以前から,少子高齢社会になっていたこの日本であるが,この趨勢が変わるという展望はまったくもてない状況に変わりなかった。

 かつて,自国民を「移民」として海外に出すことに熱心であった時代がいくどかあった割には,外国から逆にその「移民」を受けいれることは嫌悪し,それでいて実質的には「移民政策」を導入してきた現代日本における人口維持政策の一面は,外国人全般を化外の者たちとみなす排外精神が,いまだに解消できていない。

 日本は,そうした排外精神の心底にとぐろを巻いている差別意識を払拭できないまま,労働力不足である国内の経済事情を少しでも穴埋めするために,東南アジア諸国まで範囲を拡げてアジア人を低賃金労働者として呼び入れ,都合よく働かせる経済「態勢」を作りあげてきた。

 どのような人間であれ(日本人でも外国人でも),各種の「労働」に従事する人間は「労働者として労働力」を機能させて職務・仕事に就いているが,この人たちもまた「人間社会に暮らす生活者」として観れば,社会的に総合的な実在である。ところが,そうした生活実態を構築している外国人労働者群をとらえて,日本政府は「彼らはあくまで」も,単に一時的な在留者であるかのように仮想した受け入れ体制に徹しようとしてきた。

 ところが,「彼ら」(受け入れた外国人)が日本の暮らしを長くつづけていくとなれば,そのような法務省の方針・基本姿勢をもって,いつまでも「外国人あつかい」だけをするだけでは,日本社会のなかでまともに暮らしてきた彼らを適切に待遇すること,いいかえれば,法的にまっとうに処遇することができなくなっている。

 b) 本ブログ内で既述の論点であったが,21世紀のいまどきとなれば,国際結婚など珍しくはない時代になっており,この結婚社会学的な現象の進展が日本社会において「日本人と外国人」の相違性としての関係性を,あらためて考えなおす契機を与えていた。

 たとえば,日本は二重国籍を認めていないが,日本人と婚姻した外国人の母国ではそれを認める国々は多い。その点でみれば,日本の国籍法は先進国を自認しているにもかかわらず,きわめて閉鎖的な思考で充満している。19世紀的な縛りを鉄鎖として引きずっている。

 ましてや,いまどきになってもまだ「別姓を認めない」とかいいはっているような「家・家族観」では,国際化した時代における家族のあり方について,まともな議論はできない。

 脳内構造の前近代性を誇る一部の国粋右翼反動精神的な分子たちは,「夫婦は同姓でなければダメだ」と固執している。だが,世界(の先進国中)ではただ一国だけ,「わが日本国だけが国民たちに対して同姓を強要している事実」などまったくおかまいない。そうした偏執的な立場がしかも,「日本はすばらしい伝統の国だ」というための根拠になりうると錯覚までしている。これはもうほとんど処置なしであり,狂信のなせる「家族の絆」論を意味した。

 c) 「夫婦は同姓にせよ」という価値観を決めた法律は,明治の時代も終わりに近い時期に決められたものであって,もともと日本の伝統でもなんでもない。ただに「明治精神の創造(想像)物」に過ぎなかった。同姓の立場・思想にこだわる人びとは,そのあたりの問題にまでさかのぼり議論することが「お嫌い」である。という前にその史実に無恥である

 要は,ご都合主義の「夫婦は同姓でなければいけない」論が観念されていた。だが,そのような「家族の絆」論までとりこんでウンヌンしてきた夫婦同姓論の頑迷固陋さからは離れたところで,ともかく,日本の総人口(在住外国人も含めた人口)は21世紀になってから減少の一途になっている。

 こうなると「家族の絆」が大切だとか「夫婦は同姓」でなければといった「標語的な概念(観念の遊戯)」をもってしては,現実社会に発生している人口減少問題に対して,いくらかでも手当や支援になしうる実質がなかったことは,より明解になってきた。

 とくに,夫婦が同姓だからといっても,子どもの数をたくさん殖やせるか,少子化問題に資せるかどうかという問題とはただちに,一気にはつながらない。ヨーロッパ先進国の関連する実態をのぞけば,その程度の知識はすぐに入手できる。

 d)   総務省統計局『人口推計(令和2年〔2020年〕8月確定値,令和3年〔2021年〕1月概算値』2021年1月20日公表は,日本の人口統計をこうまとめていた。なお,年次は西暦に統一し,表記はより簡略化。

 2021年1月1日現在(概算値

  「総人口」 1億2557万人,前年同月比「減少 42万人(0.33%)」

     『日本人人口』 1億2333万4千人,前年同月比「減少 54万6千人(0.44%)」


 2020年8月1日現在(確定値

  「総人口」 1億2580万9千人,前年同月比「減少 41万人(0.32%)」

     ※ 15歳未満人口  1506万4千人,  「減少 19万5千人 (1.28%)」
     ※ 15~64歳人口  7460万6千人,  「減少 52万5千人(0.70%)」
     ※ 65歳以上人口  3613万9千人,  「増加 31万人( 0.87%)」

 以上の人口統計を図表にしたものが,以下のものである。この折れ線グラフからは,日本の人口が最近になるとその減少率が「やや加速したかのようにも映ってみえる」。もちろん「つるべ落とし」という傾向までには至ってはいないものの,いかにも「落ちこみ傾向」がより顕著になりつつある,という印象(数値的な感想)は抱くほかない。

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 本ブログ内でもすでに話題にしてとりあげたが,日本の出生数や合計特殊出生率は敗戦後,つぎのように変動してきた。総人口はさておき,だいたいにおいて減少してきた。

   年 次     出生数   出生率

 1949年  2,696,638  4.32 (敗戦後最多,前後して第1次ベビーブーム)
 1952年  2,005,162  2.98 (いったんだが,200万人に近づいた前年)
 1973年  2,091,983  2.14 (第2次ベビーブームで増加に変化した)
 1983年  1,508,687  1.80 (150万人に近づいた前年)

  ……   ……

  ……   ……                        

 2015年  1,005,677  1.45 (100万人に近づいた前年)
 2016年   976,978  1.44
 2017年   946,060  1.43
 2018年   918,397  1.42
 2019年   865,239  1.36

 2020年   84.7 万人    (予測)
 2021年   80万人未満(予測)-コロナ禍の影響が大きく出るはず

 

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 【参考記事】

    ★ 藤波 匠「コロナ禍で加速する少子化-2021年には出生数が大幅減」★
    =『日本総研』2020年12月01日,https://www.jri.co.jp/page.jsp?id=37749

 

 2020年の出生数(日本人)は,当社推計にもとづく予測では,前年比▲1.9%の84.7万人となる見通し。1974年以来続く出生数減少の流れは食い止められてはいないものの,2019年にみられた大幅減少にはいったん歯止めがかかったかたちである。

 

 しかし,コロナ禍の影響を受け,5~7月の妊娠届出数は前〔2019〕年比,大幅減で推移。仮に8月以降も妊娠届出数が5~7月並みの水準で推移すれば,2020年の妊娠届出数は前年比▲4.4%となり,2021年の出生数は前年比▲7.5%の78.4万人まで落ちこむみこみである。

 

 これは,2019年の合計特殊出生率(TFR;total fertility rate)1.36が続いた場合の2030年ころの出生数に相当する。コロナ禍によって,少子化が一般的な想定より一気に,10年前倒しで進むことになりかねない状況である。

 

 くわえて,コロナ禍は婚姻数の下振れも招いており,このまま推移すれば2020年の婚姻数は▲16.2%の大幅減となるみこみとなった。2021年以降の出生数のさらなる下押し要因になりそうである。

 

 コロナ禍による少子化の加速を防ぐためには,経済支援を含め,若い世代が安心して結婚,出産,子育てができる社会環境を構築することが不可欠といえよう。

 付記)文章は読みやすくするために,あえて若干の補正をくわえた。

 

  古田隆彦『日本人はどこまで減るか』2008年5月

 本ブログの筆者は,2005年に制作・発行したある経営学教科書のなかで,「この本が公刊されるころ日本の人口統計は頂点に達し以後,減少の途をたどるみとおしである」,「いままで日本社会には中間階層が分厚く存在していたと認識されていた。けれども,このごろは貧富の差がめだちはじめており,所得階層が二極に分化する現象も指摘されている。弱肉強食の社会風潮さえうかがえる」と記述したことがある。

 その教科書の原稿を実際に書いていた時点(2004年春ころ)においては,日本の人口が頂点を迎える年は2006年になると予想されていた。しかし,筆者はあえて1年早めてその頂点を2005年に置いてみた。この推測が「外れないで当たればいいな」と思いながら書いていたから,もちろん少し心配していたが,幸いにも外さなかった。

 補注)その後〔現在の時点〕になっているから,つぎのような人口統計が記録されていた。たいしてむずかしい予想でもなかったが,日本の人口はつぎの数値のようにたどってきた。くわしい内容については,この年代・時期に関連する図表・統計もかかげておく。

   2015年 1億2709万5千人 (百人台以下は四捨五入)

   2016年 1億2693万3千人

   2017年 1億2670万6千人

   2018年 1億2644万3千人

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 さて,吉田隆彦『日本人はどこまで減るか-人口減少社会のパラダイム・シフト-』幻冬舎,2008年5月は「日本の人口は2004年末,1億2780万人でピークを超えました。長期滞在や永住の外国人,約150万人を差し引いた “純” 日本人の人口も,この前後に1億2630万人でやはりピークを超え,すでに減りはじめています」(7頁)と書きだしていた。やはり2004年から日本の人口は実質減少へと向かいはじめていたのである。

 2008年末までですでに,世界同時不況の甚大な影響を受けている日本経済社会にあっては,「外国人労働者(ここでは日系人およびその配偶者・家族なども含めて)」のみならず,「不法滞在の外国人などの日本滞在者」までも急速に国外に退出しだし,日本国内の人口総数を減少させる一因になっている。

 また,出稼ぎ意識で日本に移住してきた日系人・外国人にとって,この国はもう用事のない・魅力のない・金にならない経済社会しか提供できなくなった。それゆえ,こうした動向もくわわることで,2008年から2009年以降は本格的に,日本の人口が減少傾向をたどっていくと予測される。

 補注)前後する段落はもちろん,2009年2月下旬の記述であった。念のため,あえてことわっておきたい。

 吉田『日本人はどこまで減るか』は,いま日本社会で起きている現象を,「『少子化』ではなく『増子化』」という概念をもって独自に把握している。つまり,近ごろの日本社会においては30~40代になってもなお,「子ども」的意識しかもちあわせていない若者=人間が多い。

 それゆえ,彼らも「子ども」の範疇に入れておき,子ども的感性をもった成人「アダルト」ならぬ「コダルト」層としてとらえる,と主張する。いまや人生を80~90年も生きる時代であれば,少なくとも20歳未満,実質的には25歳くらいまでを「子ども」とみなしてよい,というのである(30-31頁参照)。

 補注)2021年になっている現在でも,いわゆる「引きこもり」の問題が依然深刻でありながら,かといってそれほど社会から注目されにくい社会問題として持続している。つぎの画像資料はNHKがとりあげていた「引きこもり」問題関係の番組案内である。

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 以上の主張は一見突飛なようではあっても,なんとなく理解できるから面白い。長年,大学の教育現場で若者と対面してきた筆者は以前より,昨今の日本・日本人の成人式は30歳にすべきではないか痛感してきた。それゆえ,吉田の意見はそれでもまだ控えめだと感じている。

 図体だけは「大人」サイズの「子ドナ」,精神水準にかぎってはいつまでも「子ども」でいながら,プライド:自負心だけは最高に「オトナ」気分の20歳代の若者が多い。大学の卒業式などに〈紋付き袴:振り袖〉姿で登場する彼ら・彼女らの雰囲気は,すっかり七五三気分。これでいよいよ本当の「子どもの仲間入り」ができそうだ,といったらよいほど〈幼さ〉を充満させている。

 

  松谷明彦『「人口減少経済」の新しい公式』2004年5月

 本書から引用する。--高齢化の速度の違いから,日本の人口の減少速度がドイツを大きく上まわり,先進国では未知の世界を先頭切って進んでいる(12頁)。先進国のなかで飛びぬけた高度成長を謳歌しつづけた日本が,こんどは最低の成長率になる。人口だけでなく経済についても日本の変化はきわだっている(19頁)。

 松谷は,自発的な労働力の上昇を前提し,そのために経済環境を社会的にととのえていくのではなく,「人口の減少高齢化にともなう経済の縮小や年金問題への対策として女性や高齢者の労働力の活用を図るという」施策は,戦時中の国家総動員法(1938年)の思想とかわらず賛成できないと主張する(30頁)。

 今後の企業経営において心がけたいのは「適切な生産量」「効率的な生産」「適切な賃金水準」である。これらを守るかぎり「人口人口減少経済」は少しも恐くなく,同時に企業がそれらを守ることが,国民所得を最大として,国民生活を引きつづき豊かなものとするとも,松谷は提唱するのであった(73頁)。

 この提唱をはたして,企業経営に期待することがどのくらい現実味があるかどうか,本ブログの筆者は資本制営利企業の本質に鑑みて疑問を抱く。しかし,松谷は「国力」ということばにこめられた〈思想〉の古さ,つまり人口や経済(GNP)の大きさをその「国力」とみなし,これを重要とする考えかたを批判する。その代わりに「社会としての豊かさ」がどうなるかを心配すべきだという(168-169頁)。

 以上の基本思考にしたがい松谷はさらに,「日本の企業は単なる生産拠点ではなく,一つの社会なのである」から,企業に関するいままでような観念「から多様なライフスタイルは生まれえない」「個々人が自由に自分の人生,生活を設計することはむずかしい」と指摘する(179頁)。

 そもそも「日本企業の第1の経営目標は生産量の拡大にあ」るので,「終身雇用・年功賃金制を維持するためには,生産量を拡大することによって企業規模を拡大しつづけなければならな」かった。

 「もし若年労働者を含めて成果主義や能力給に移行したとする」と,従来より「若年労働者の労働生産性とその賃金水準の間にはかなりの格差がある」にもかかわらず,「終身雇用・年功賃金制を完全に廃止することはできない」となれば,結局「現在の動きは大量の中高年労働者の整理とその労働コストの圧縮に集中している」(180-181頁)。

 そこでくわえて注意したいのは「今日まで曲がりなりにも終身雇用・年功賃金制が維持できたのは女性労働者の増加による」ことである(183頁)。
 
 なかんずく松谷は,日本社会のありかたについてたとえば,「豊かな田園」といった方向への転換を提案する。その基本は,生産性が飛躍的に向上した農業とその関連産業の重層的な経済構造を想定し,自然環境とともに子どもたちの教育も重視されるようになる〈ライフスタイル〉を予定する(200頁参照)。

 松谷『「人口減少経済」の新しい公式』における議論は,人口減少経済の傾向を回避できなそうもない「この国の未来」における「持続可能性(サステナビリティ)」の実現を意識している。さらに,松谷の具体的な主張についてはさらに,本書をひもといてもらいたいが,最後に1点気になる記述に注意しておきたい。

 補注)2021年からみるとまだ最近のことであったが,2015年9月に国連で開かれたサミットにおいて世界のリーダーによって決められたのが,国際社会共通の目標「持続可能な開発目標」(Sustainable Development Goals)であった。このことば:標語が社会のなかに溢れている。この事実は誰もが自然に感じている。

 松谷『本書』の最後部分で「欧米諸国に比べて日本の社会ははるかに安全である。それには単一民族であることや所得格差が少ないことによる面もあるが,日本では社会のもつ求心力が強く,そのまとまりの良さが社会の安全性の最大の要因になっていると思われる」(241頁)という論及に接したとき,せっかくのそれまでの議論が興ざめになった。

 つぎのように反論しておく。「単一民族」論は単なる俗論である。日本社会「安全」論は,小学生が1人で登校できない社会になって久しいこの国の実情をしらないでいったのか。所得格差は先進国中第2位であることは,経済学や社会学で関連する研究成果が一般教養書としても数多く公刊されている。たとえば,橘木俊詔同志社大学経済学部教授や橋本健二早稲田大学人間科学学術院教授が公表してきた著作がある。 

 さらに松谷は,「日本人は赤信号ではほとんどの人が止まる。そうした法令の遵守こそが社会の求心力の明石書店である」(241頁)と断言するけれども,関西地方それも「大阪の人の信号無視」はたとえば,こう描写されている。

 愛知県から結婚で大阪にきたのですが,信号無視にびっくりです!

 若い子だけとかじゃなくて,老若男女とわず狭い道・大きな道でも信号無視しています。(もちろんしない方もいますが)

 一番びっくりしたのが小さな子供さんをつれたお母さんたちも平気で信号無視していることです。

 このまえは自転車に子供さんを乗せていたお母さんが,ひかれそうになりながら信号無視していました。

 註記)http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1212537607

 本ブログの筆者が大阪府の公道を歩いていたときの体験を話しよう。信号機のないT字路を向こう〔対面〕から直進してきた乗用車が,右折のウィンカーを点滅もさせないで,歩行中の私の真ん前をいきなり遮るかのようにして右折していった。私は轢かれそうになったから,それはもうびっくりさせられた。そのときは「怒るまえに大阪人の交通マナーの悪さに呆れた」!

 松谷のあれこれの議論・記述,大いに勉強になる中身がある。しかし,新書版での記述だからといって〈いい加減〉な主張,つまり論証も実証もない,現実劇な裏づけのない叙述は困る。松谷は2004年に東大から博士(工学)を授与されている政策研究大学院教授である。たとえ教養書であっても,学問的な著述を最低限は維持したいつもりがあるならば,単なる思いこみでの筆致とは無縁でありたい。

 ともかく,松谷は結論部でこう述べている。

 田園の基幹はあくまで大農家,あるいは法人企業による生産性の高い農業,およびその地域経済の農業展開ができる田園こそが「豊かな田園」である。こうした空間の存在は高齢だけでなく,就業形態の多様化となって,より若い人をも引きつけるかもしれない。そのとき田園は,社会としても持続可能性を獲得できる(249-250頁)。

 本ブログの筆者は,そうした松谷の主唱に賛否の,その両論をもって同時的に対面するほかなくなる。農業においても生産性は重要な問題である。しかし,農業という人間のために食料を生産する活動に関連しては,「生産性の高い農業」という表現に堅くしばられるたような発想には賛成できない。ここでは「三澤勝衛の風土論」を想起しておきたい。大農家でなければいけないという見地も「豊かな田園」という字句とは違和感を抱かせる。

 

  山本 肇『日本経済をチャイルド・ショックが襲う』1990年7月

 1) 18歳人口の減少

 本書は,1990年の「今年の出生数はどうなるだろうか。今年も下がって,私の予想どおり120万を割るようだと,本当に日本の未来は危ない」と警告していた(217頁)。約20〔30〕年も以前に公刊された著作中の指摘である。

 つぎに参照する総務省の資料によれば,大学入学の時期を迎えた18歳人口でも分かるように,また山本も指摘することだが,1974年において200万人台だった〔右下:平成4年の生存〕出生数が,1990年においては〔左上:平成21年の生存〕出生数120万人台まで減少している(217頁)。さらに最近の2006年,2007年では出生数が110万人台を割る水準まで低下している。

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 そうした日本の人口統計に現われている事実をとらえて,山本『日本経済をチャイルド・ショックが襲う』かんき出版,1990年は,1990 年の時点で〔バブル経済の破綻が1月冒頭から始まった年だったがその寸前に〕,奇しくも「いま日本は,未曾有の好景気に浮かれている。しかし高度経済成長期のあとに石油ショックが来たように,『子どものいない社会』が日本経済を崩壊させる危険性もないとはいえないのだ。まさしく “チャイルド・ショック” の襲来である」と警告していた(218頁)。

 山本いわく「この “チャイルド・ショック” に対しては,まだなんの手も打っていない」(〔まえがきに代えて〕2頁)。「高齢化社会は日本が避けて通れない道である」「出生数の急減を防ぎつつ,理想的な高齢化社会に余裕をもってソフト・ランディングすることを考えるべき」である(〔同上〕8頁)。

 さらに「いまや日本は世界有数の経済大国になった。しかし日本の大企業は,欧米に比べて利益の社会還元の点で見劣りがする。これら大企業がこの問題に真剣にとりくみ,内部留保出生率向上のために投下してくれるようになれば,低出生率問題も大きく改善される」(〔同上〕8頁)と期待していた山本の予測は,この20〔30〕年間近くを経たのち,大きく外れる結果となっている。

 補注)この段落では「20年間」を「20〔30〕年間」に加筆しているが,要はその間の10年間,思いおこすまでもなく2012年12月26日に発足した第2次安倍晋三政権から,2020年9月16日のアベのあとを受けて成立した菅 義偉政権までの期間,18歳人口が減少していく問題の前提である(⇒18年先行する)はずの新生児出生数(絶対数)は,回復どころか減少の一途であった。

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 21世紀に入った現在であるが,この山本『日本経済をチャイルド・ショックが襲う』の目次内容をみただけでも,日本経済社会が深刻な様相に陥っている,最近の「人口統計」的〈諸困難〉がよく理解できる。

 まえがきに代えて-「チャイルド・ショック」に日本は耐えられるか

 第1章 「子なし社会」がやって来る! -出生数はどこまで減りつづけるか
   1 日本から子供が消える日
   2 厚生省の「将来推計人口」に疑問あり
   3 人口構成はどうなるか
   4 なぜ出生率が下がり続けるのか

 第2章  高齢化社会はどこまで進むのは-いびつな人口構造をもたらすもの
   1 「超高齢化社会」が日本を襲う日
   2 高齢化社会出生率

 第3章 出生率の低下で日本はこうなる!「人口空洞化時代」に伸びるビジネス,亡びるビジ      ネス
   1 いびつな人口構造
   2 幼稚園が危ない
   3 学校経営の危機と若者マーケット
   4 シルバー・マーケットはどうなるか
   5 男性の結婚難時代がやってくる
   6 労働力人口は,どう変わる
   7 日本の低出生率は世界をも揺るがすか

 第4章 出生率向上のために何をなすべきか -〈チャイルド・ショック〉を乗り切る方策        はあるか
   1 まず,出生率向上のムードづくりから
   2 出生率アップの財源はどこから?
   3 絵画やゴルフ会員権の含み益へ課税する
   4 企業が教育費を出し合って若者を育てる
   5 消費税は必要だ

 第5章 労働力不足にどう対処するか -人材難時代に企業は何をすべきか
   1 人材難時代への対応
   2 魅力ある企業づくりと中途採用の活用
   3 急増する外国人労働者
   4 外国人労働者をどう受け入れるか

 第6章 低出生率化で「トヨタ」が危ない -東海地区に忍び寄る,出生率低下の影
   1 トヨタの憂鬱
   2 乗用車が売れなくなる!?
   3 提言◆トヨタは何をなすべきか

 以上の目次をもってだが,1990年時点で指摘されていた「少子化傾向」に原因する諸問題は,非常に当たっているものもあり,またバブル経済破綻の影響をもろに受けてまったく外れたものもある。しかし,出生率低下によって日本経済社会にもたらされる諸困難は,的確に指摘していた。

 2) 出生率の低下とトヨタ自動車

 厚生労働省『人口動態統計特殊報告』によれば(前掲の図表を参照),敗戦直後,第1次ベビーブームでの出生率 4.5以上あったが,1950年代には3を割り,1975年には2を割りこんだ。21世紀になると2004年は 1.2888,2003年 1.2905,2005年 1.26へと低下した。2006年は団塊ジュニア世代の出産期ピークに当たり 1.32に回復,2007年は〔出生数そのものは前年よりやや減少するなかで〕1.34へと回復した。

 補注)2010年代における出生率そのものは 1.4 台を維持してきたが,2019年は 1.36になっていた。コロナ禍の影響がじかに出そうな2021年には 1.3を「再び下回る」かもしれない。一歩踏みこんでいうと,2005年に記録した最低の 1.26を,さらに下回ると予想されてもおかしくはない。

 今日,若者たちを中心に「ウォーキング・プア」が大勢社会に排出されている。また,非正規社員のみならず正規社員であっても,将来の展望を明るくもてる立場を獲得できそうな職業・職種・会社に就いている人びとは,けっして多数派ではない。

 高度経済成長からバブル経済破綻までの時期において日本政府は,自国経済社会を骨太にし,実質的に豊かにするための施策を忘れた。1990年の湾岸戦争においては,アメリカに多額の戦費を負担〔献金〕しても,自国民の福祉向上のための政治をおこないえないまま,1990年代の「失われた10年」を無策に過ごしてきた。

 補注)2021年にはいった現状の日本は,昨年から猛威を振るいだした新型コロナウイルス感染拡大「問題」の影響を受けて大打撃を受けており,その間すでに「失われた10年」を反復させるだけの内政に終始していた。

 安倍晋三の第2次政権がもたらした「負の成果」は,コロナ禍によって決定的な悪影響を日本の社会経済に与えた。悪政の見本をアベは展開してきた。さらに菅 義偉はスガで,コロナ禍に太刀打ちできる力量などもともと有さない政治屋であった。

 2021年におけるこれからの日本は,まったく希望がもてない。延期になった2020東京オリンピックの開催など滅相でもない。

 そうしているうち日本はいまでは,「化」の字を付ける必要もない「少子・高齢社会」になっていた。山本『日本経済をチャイルド・ショックが襲う』が警告した日本経済社会の脆弱さは,現実生活のあちこちの場面においてその影響=しわ寄せを出現させている。

 たとえば「若者が結婚できない(しない)」という事実は,正規社員の立場にある者たちにとってさえ「出会いの場」が,なかなかえられない社会状態にある点を考慮しても,「人口統計という客観的な数値」には確実に反映されている。結婚などしなくても人間男女の性的交わりがあれば子孫は創れる。だが,日本社会において結婚じたいが相当に晩婚化,これに合わせて初産の年齢も高齢化し,生もうとする子供の数は多くてもせいぜい2人までがほとんどである

 しかし,すでにだいぶせちがらくなった日本の産業社会のなかでは「結婚して子供を創って」という人間生命の再生産構造すら,維持・発展させにくい社会経済の仕組・条件になっている。山本は「トヨタトヨタの関連企業へ就職すれば結婚できない」などという噂が若者のあいだでは真剣に囁かれるようになれば,豊田市を中心とする三河地区の自動車関連企業へ就職する若者はいなくなってしまうのではないか,という懸念を披露していた(197頁)。

 山本はまた,トヨタ自動車の高収益・高利潤を「日本の将来のため(これが結果的にトヨタの将来のためになる)に使うのである」ということも強説していた。だが,最近における自動車産業の全世界的な不況のせいで,そのような社会貢献をトヨタに考慮させうる余裕=企業会計的な経済領域は,完全に消滅させられている。もっとも,国家事業がになうべき仕事・業務を,営利企業においても同じように負担・遂行されうると期待することが筋違いであり,もとより無理な要請である。

 補注)この段落の記述はリーマンショックの後遺症があった時期に関していたゆえ,トヨタ自動車に対してはこのように書いていた。トヨタが社会的責任(CSR,corporate social responsibility)をいかように果たせる企業であるのかという論点については,疑問しか湧いてこないところが残念である。

 とはいえ,そのCSR〔企業の社会的責任〕の視点からいえば,そのような期待をトヨタ=〈世界的な大企業〉に抱くことは,けっして不当でも理不尽でもない。と同時にまた,もともと資本制企業である大会社に対して,そのような社会貢献を大々的に果たさせようと期待することじたいが,過大な望みでもある。

 トヨタを代表格とする日本の大企業が,自社のことよりも日本という国家の利害得失を第1に考えて経済行動していると観察するのであれば,これは営利産業の本質面を無視した表相的な視点を意味する。多国籍企業の経済行動をみれば分かるように利潤・利益を求めて活動するのが,資本主義的企業経営の本性であり,国家の立場と同一ではありえない経済的な本質を有する。

 補注)財務省が2020年10月30日に発表していた法人企業統計は,2019年度における内部留保(利益剰余金)が,金融業・保険業を除く全産業ベースで前年度比 2.6%増の475兆161億円となっており,8年連続で過去最大を更新した点を伝えていた。

 それに対して労働者側の賃金水準は,2000年代に入ってから長期にわたり横ばい状態に推移してきた。この背景としては,非正規労働者の単位労働コストが正規労働者のそれに比べられて抑制される関係が生まれ,「既得権益層」であった正規労働者の賃上げ要求が沈静化させられたことが指摘できる。

 3) 適正利潤とはなにか

 本ブログの筆者は以前,ピーター・F・ドラッカーの必要最低利潤という概念が実は,空想的といえるような高い水準での利潤を求めることに言及したことがある。硲 宗夫『悲しい目をした男』講談社,1995年は,松下幸之助が口にしていた適正利潤に関して,こう言及していた。

 適正利潤の「考え方は最低の利潤を確保するための論拠で,上は青天井なのかとも考えられる。会社側はそれを否定してきたが,正解は原価の秘密に紛れ込んでいて,さっぱりわからない」。「『利益』は社会から頂いたご褒美です』というのが幸之助の口癖だったが,それなら “たくさん稼ぐ会社” が『良い会社』となりがちで,行き着くところは “利益第1主義” の経営ということになる」と(110頁,111頁)。

 この指摘は,鋭くであったが,しごく当たりまえに,経営目的である〈利潤・利益〉の現実的な意味あいを説明するものになっていた。

 森 一夫『日本の経営-会社と人間のあるべき関係-』日本経済新聞社,2004年は,「21世紀に興隆する新しい日本の経営はまだ確立してい」ないけれでも,「市場に顔を向けて株式会社としてきちんと利益を上げるのは最低の条件で」あり,「もう一つくわえれば,経営者に会社を預かる責任の自覚と倫理がきびしく求められ」る,と記述していた。

 しかし,そこにいわれていた中身は,なにも21世紀の会社に対してとくべつに新しく求められるものではない。20 世紀においても早い時代から,かまびすしく議論だけはされていたのが,その種の経営課題であった。問題はなにゆえ,同じような主張が昔もいまも反復的に提唱されているかにあった。この意味に迫らない森の記述は,ある意味での空念仏。

 結局,企業経営にチャイルド・ショックの解決策を直接求めることは不可能である。とりわけ,日本企業内における女性活用はいまだに遅々していて,この関連問題として期待してみたいはずの課題のひとつ,いいかえれば,日本社会における出生数(率)の回復は期待すらできない。

 そこには,政府の行政が政治家の指導のもとに実行すべき難題がある。そのためには理念のある政治家の登場が要求されている。だが,いまの日本の政治状況にあっては,悲しいかな,ほとんど期待できるような政治家がいない。日本においてはそうした内政的に貧しい現状こそが最大の問題になっている。

  安倍晋三をみよ。

  麻生太郎をみよ。

  二階俊博をみよ。

  菅 義偉をみよ。

 この人たちは,まさしく『自民党的な老害・至悪の政治家』以外のなにものでもない。いってみれば,ただの世襲政治屋連中が「いまだけ,カネだけ,自分だけ」の私物化政治に熱中している。コロナ禍はすでに日本中に蔓延しており,現に,医療の崩壊・壊滅が医師団体側から指摘されているにもかかわらず,それでもまだできるだけ早い時期に,コロナ禍を拡大させる原因になった事実が判明している「Go To トラベル」キャンペーンを再開したいなどと企んでいる。

 結局,彼らとその政権は,国民の「生活と権利」「生命と財産」を本気になって護ろいうとする政治理念を,もとよりいっさいもちあわせていなかった。そのような行政的な思考を彼らに期待することがもともと無理であった。この事実は,2020年初春から始まっていたコロナ禍に対して対応してきた「自民党政権の行跡」によっても,より明白になっていた。

 チャイルド・ショックの問題は,ある意味でいえばたいそう衝撃的=ショックであり,この国全体が罹患している社会病理的な症状が,それに集約的に表現されていると解釈していいのである。人びとが安心して,経済的にも社会的にも文化的にも,最低限の余裕はもって生きていける日本ではなくなっている現状のなかでは,いきなり出生数(率)の改善・向上など期待しても,それこそお門違いであって望むべくもない。

 記述がすでに長くなっているので,最後にその題名だけを紹介しておきたい著作が,ここにある。津田眞澂『企業は人を捨て  国を捨てる』文藝春秋,1988年は,当時において早くから「日本は明らかに衰退の時期に入った」との考えを提出していた。「すべての官庁が長文の報告書を次々に刊行している」けれども,「すべての報告書がバラ色の見通しを述べてい」た(〔まえがき〕2頁)。

 20〔30〕年以上もまえから,そのように指摘する学者も存在した。本ブログの筆者は1980年ころ,津田眞澂とは知己の間柄にさせてもらっていた。この津田が『現代経営と共同生活体-日本的経営の理論のために-』同文舘,昭和56〔1981〕年という著書を公刊し,そのなかで「共同生活体」という概念を提唱したとき,世間のほかの学究・同業者たちが繰り出した〈誤解的反応〉には,非常に興味ある内実があった。

 この論点については,前段のごとき津田の「日本認識」が前提にされるべきであったけれども,それら学究・同業者が津田に投じた批判は,津田独自になる学問的な問題意識をまったく理解できずに批判(非難)していた。とりわけその批判は,津田が「経済の論理」を無視しているという誤解として,しかも,彼の著作を「批判する側」が通読したかどうかを疑わせる勝手な読みこみをもって発せられていた。

 そのなかでただ1人本ブログの筆者だけが,なぜか,批判者側における「その種のいい加減な,文献解釈に関する錯誤」を指摘した。つまり,津田は「経済の論理」を踏まえた主張を展開していると,正確に指摘したのである。津田の立場にあっては当然,筆者のその指摘が強力な援護射撃と受けとめられた。

 以上の話題に関連させていえば,いまどきの日本企業にあっては「共同生活体」という発想ないしは理念は,ほとんどありえなくなった。それにしても1990年代以来,「失われた10年」がいったい何回,反復させられてきたか?

 2011年の「3・11」東日本大震災と東電福島第1原発事故のことを「第2の敗戦」と呼ぶ者がいた。もしかすると,いまわれわれは菅 義偉政権下で,わざわざ(むざむざ?)「第3の敗戦」に突き進んでいるのかもしれない。

 そうした現状のなかでもまだ,「バカな大将(首相),コロナ(敵)よりも怖い」と認めねばならない「国家運営」の体たらくが止まないでいる。

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