タカクラテルが敗戦直後に書いていた天皇論

             (2009年4月15日,更新 2021年3月5日)

 1946年7月7日に書かれた天皇論の意味

 いまも通用する天皇天皇制論

 

 【要点】 タカクラ・テルの「封建遺制としての皇室論」

 

 タカクラ・テル『日本の封建制理論社,1953年10月という本がある。この本は,B6版に小さな活字で2段組,本文〔7~〕332頁の分量であるから,けっこうな原稿枚数(字数)に逆算できる。その主な目次を紹介する。

  Ⅰ 新しい世界観    Ⅱ 青銅時代 その他

  Ⅲ ニッポン語の革命  Ⅳ ニッポン農業と封建制

  Ⅵ ミソクソ その他

 このうちⅠ「新しい世界観」は「天皇制と皇室の問題」「愛と死について」「一つの世界とは何か」の3項で構成されている。そのうちから,本日のこの記述で本ブログの筆者がとりあげるのは「天皇制と皇室の問題」である。

 

  タカクラ・テルの略歴など

 タカクラ・テル(高倉 輝 たかくら・てる,1891〔明治24〕年-1986〔昭和〕61年)は,日本の小説家・劇作家・著述家,そして,戦後は政治家になり,戦前から昭和をとおして農民や労働者の文化向上のために国家権力と戦いつづけた人物,と説明されている。

 註記)http://soutairoku.com/08_seitan/16_ta/takakura_teru.html

 本名は高倉輝豊であったがのちに輝と改名し,国語国字改革を推進する立場から「タカクラ・テル」と自称した。第三高等学校から京都帝国大学英文科に進み,卒業後京大嘱託を務めた。ロシア革命の影響を受け,河上 肇によってマルクス主義に接近,戯曲や翻訳を手がけ,やがて著述家として独立した。

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  1932(昭和7)年『都新聞』に連載した「狼」は,検閲によって中断され,同年,教員赤化事件で大検挙があったさい検挙・投獄され,家族は長野県外に追放となって東京に移住した。

 1934年に保釈されてからは東京に住み,のちに国民文学論の提唱とともに国語国字合理化運動を開始,みずからもカタカナ書きを実践した。革命的ローマ字運動事件,ゾルゲ事件等に関連して再三検挙,逮捕された。

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 なお,敗戦直前に三木 清が投獄されたのは,仮釈放中の高倉をかくまったことが理由だとされている。

 1945(昭和20)年10月に釈放され,日本共産党に入党。翌1946(昭和21)年長野県から日本共産党公認で候補し,衆議院議員に当選した。1950(昭和25)年6月全国区から参議院議員に当選したが,翌日マッカーサー指令により追放された。

 その後ソ連・中国その他を転々とした後,1959(昭和34)年4月に帰国するとただちに政治活動,文筆活動を開始した。政治的にはソ連共産党に追随することが多く,日本共産党が自主独立路線を確立したのちは,主流を外された。日本共産党中央委員会顧問。晩年は民俗芸能を守る会などの活動も精力的に行った。

 高倉 輝のいう国語国字改革は,戦前からのカナモジカイの主張と似ているが,カタカナの使用は固有名詞に限定していた。したがって「タカクラ テル」「アカハタ」となる。 

 註記)以上,http://ja.wikipedia.org/wiki/高倉輝 参照。

 

  『日本の封建制』1953年「Ⅰ新しい世界観」「天皇制と皇室の問題」

 本書『日本の封建制』の末尾に,神山彰一の「解説」が添えられている。神山はタカクラ・テルの「戦時中の労作についてみれば,その時期のコミュニストの多くがそうであったように,『封建制』に対するウイツトフォーゲル的な観方が,タカクラの解釈の根底を流れている。従って,またそのような理論水準がひとしく陥った,『生産力理論』のかげが,ユニイクなタカクラの視野を限定していた」と(神山「解説」334頁),注意を喚起している。

 本ブログの筆者は,そうしたタカクラの学問的制約を意識しつつも,今日における天皇天皇制に関する議論として通用する中身をみてとる。② の標題の箇所に題名を出した「天皇制と皇室の問題」は1946(昭和21)年7月7日の日付で執筆されているが,本書『日本の封建制』に収録されるに当たって〈加筆された部分〉での記述を紹介することから,ここの記述を始める。そのまえに,前提となる説明をしておきたい。

 岩波書店が1945(昭和20)年12月に創刊した雑誌『世界』に「天皇天皇制」問題に関する投稿を依頼された津田左右吉は,同誌の昭和24(1949)年4月に「建国の事情と万世一系の思想」を寄稿した。しかし,この左右田の論稿は岩波書店『世界』編集部の期待に外れていて,敗戦後の日本政治社会において「天皇制を擁護」する内容であった。 

 f:id:socialsciencereview:20210305062154j:plain津田左右吉の「容姿」参照用・画像〕

 戦前・戦時において津田左右吉は,天皇天皇制の歴史的問題を学問的立場より真摯に考究していたがために,かえって迫害を受けていた。津田は昭和15〔1940〕年1月,出版法違反事件で「国体=天皇制」と学問の相剋・葛藤を体験させられた学究であった。にもかかわらず,敗戦後においては天皇天皇制に対して抱く親和感を正直に告白する気持を,前掲の「建国の事情と万世一系の思想」に論述していた。

 これに対してタカクラは,「『世界』の3月・4月(1949年)にわたって津田左右吉さんが天皇制と皇室の関係について書いている」が,「ひじょうにざんねんに思った」のは,「天皇制という制度と国民の皇室にたいする感情との区別さえも,はっきり見とめていない」ことだ,と述べていた(タカクラ『日本の封建制』11頁下段)。 

 つまり,津田「建国の事情と万世一系の思想」に関してタカクラは,岩波書店『世界』編集部に近い所感をもっていた。とくに,進歩派の視点からみたくわしいその経緯説明は,遠山茂樹『戦後の歴史学と歴史意識』(岩波書店,1968年,34-43頁〔2001年復刻版〕)に記述がある。

 岩波書店は,2003年の創業90年を記念して,岩波書店の歴史上の出来事や刊行された書籍を中心に項目を選び,写真と記事で紹介する「ネット上の年表」を作成している。この年表の3番めの大項目は,「戦争の荒波を超えて(1940-1948)」である。このなかには「津田事件おこる(1940年1月13 日)」「雑誌『世界』創刊号発行(1946年1月1日)」をとりあげている。

 註記)http://www.iwanami.co.jp/museum/chronicle/index.html 参照。

 タカクラが「ざんねんに思った」津田のその論稿は,さらにタカクラにいわせるとこう批判される。

 天皇制にたいしても,また,皇室にたいしても,とうぜんもっと『学問的な』光をあてなければならないはずの津田さんが,途中から,なんら『学問的な証明』をへないで,まるで善光寺まいりのばあさんのような古い感情のとりこになっているから,それで,『学問』をさえふみはずしたといって,津田さんのために惜しむのだ(タカクラ『日本の封建制』13頁)。

 そこでタカクラは,つぎの3点に分けて「天皇制や皇室の問題」を考える。

   政治制度としての天皇
   財閥としての天皇
   宗教的な崇拝の相手としての皇室

 

  タカクラ・テル津田左右吉天皇制・皇室論」批判

 1) 世界無比・万世一系という奇妙な迷信

 天皇制とは,天皇を中心として財閥・大地主・軍部・官僚の結集的な専制政治のかたち,軍隊・憲兵・警察を手先として,労働者・農民・一般勤労階級を暴力によって搾取し,支配し,弾圧した,野蛮な政治権力のことである(13頁下段)。

 タカクラは,日本の天皇制「発生」時期を「明治以後に初めて生まれた新しい制度」として理解する。「それ以前にも,皇室へのある階級からの尊敬はあったが,しかし,それはいまいう天皇制ではない」(14頁上段)とも指摘して,さらに大東亜戦争の時代をこう批判する。

 こんどの戦争は,日本に天皇制があったればこそ,おきた。『世界無比の国体』,それが私たちをこの敗戦とうえ死のどんぞこへ突きおとした。それではどうして,日本にだけ,そんなやばんな『世界無比』の政治制度がのこっていたのか?(14頁上段)

 

 だいいち,日本には,いまでも,封建的な搾取かんけいと資本主義的な搾取かんけいと,この二つの搾取かんけいが,ならんで,ほとんど同じ力をもって,たがいにもつれあいながら,存在している。問題の根本はここにある(14頁上段・下段)。

 

 もとより,封建的なものと資本主義的なものとは,対立する社会的な要素であることは,いうまでもない。その対立する二つの要素を社会のなりたちの底にふくんでいることが,明治以後の日本の社会のもっとも大きなむじゅんだった。そのむじゅんを統一し,むじゅんから政治権力のくずれおちるのをふせぐために,天皇制がなりたち,これまでつずいてきた(16頁上段)。

 

 要は,明治維新をつうじて封建的な要素が明治以後の資本主義社会へもちこされると同時に,この絶対主義的専制政治の要素はまた,新しいかたちと意味をもって引きつがれた(17頁上段)。

 

 皇室への崇拝のうちには,大昔からあったものと,比較的のちになってから生まれたものと,このふたつがすぐにはみわけられないように絡みあっている。これが今日,天皇制全体の問題を非常に面倒にしている根本の原因である(21頁下段-22頁上段)。

 

 天皇制に関して「万世一系」が高唱されるが,厳密な意味で個人の祖先というものはなく,少しさかのぼるとそれはすぐ共通になって,おのおのの個人はそれぞれ共通の祖先をもっている(22頁下段)。

 

 長男から長男へと財産を譲る「男子家長制」の封建的な「世襲制度」があったから,それで,父親から父親へとさかのぼる奇妙な祖先観が生まれた。その底には,社会的な歴史的な要素が含まれている。これは封建的な世襲制度が生みだした奇妙な迷信である(23頁下段)。

 2) シャーマニズム的な神秘主義

 津田左右吉は,天皇がもともと「宗教的崇拝の対象としての《神》」とはされていなかった点を指摘している(24頁下段)。日本古代の原始宗教〔のちの神道〕は,まさしくシャーマニズムであった。三種の神器「鏡・刀・玉」,さらに鳥居・玉垣・しめ縄などは,そのシャーマニズムの原始的な祭事に必要とされた小道具であり,舞台装置である(28頁上段・下段参照)。

  ★ しめ縄の意味と由来 ★

 

 お正月は『現世にやってきた年神様をおもてなしする行事』です。神様を迎えて祭る場所は,神聖な場所に整える必要があります。しめ縄は神の領域と現世を分け隔てる『結界』として,不純なものが入るのを防ぐという役目を担うものです。

 

 しめ縄の由来は,古事記に書かれた天照大神アマテラスオオミカミの神話だと言い伝えられています。その昔,岩戸にこもった天照大神を神々が連れ出した際「もう岩戸に入らないように」と岩戸にしめ縄をつけたそうです。

 

 このエピソードから,しめ縄は『神様のテリトリーを守る印』として使用されるようになりました。

 註記)「神社や神棚の「しめ縄」にはどんな意味がある?」『@DIME』2019.12.31,https://dime.jp/genre/794937/

 「日本のばあい,ヨーロッパとはひじょうにちがう現象があらわれた。ヨーロッパでは,来世思想の宗教または解脱宗教がはったつすると,そのまえの自然すうはいの原始宗教は,だいたい,亡びてしまって,これらのいっそうはったつした宗教が中心になった。ところが,日本では,そうならなかった」(31頁上段)。

 「みな『現世利益』を求めて行く。これらの信仰は完全にシャーマニズム化されている。べつのことばでいえば,日本民族は,すすんだ解脱思想の宗教である仏教をも,自然すうはいの原始宗教へ引きもどした。そして,自分たちの宗教にした」(31頁下段)。

 以上にようにタカクラが説明した日本の皇室=天皇天皇制は,あらためて,およそつぎのようにまとめられている。

 明治政府は,もともと,封建制と資本制と二つの対立物をふくみ,そのきその上に立つ政権だったから,天皇制は,そのむじゅんを統一する役目をはたし,かつ,アジアの封建制の絶対主的な要素を受けついだために,絶対主義的性格をもつと同時に,その理由づけとして,シャーマニズムからくる素朴な神秘主義の要素をもった。これが皇室への宗教的なすうはいの一ばんの石ずえだった(32頁下段)。

 ここで多少,本ブログの筆者を差しはさむならば,だから,敗戦後にすぐ昭和天皇は「人間宣言」をなしえたともいえる。明治以降,1945年までは「神国の生き神」とされてきた彼がいとも簡単に,それも自身は「天照大神の子孫である」と信じる根幹は隠しながらも,人間でしかない自分を,わざわざ人間であると宣言する〈摩訶不思議〉な変身行為が,当時の日本国民側おいては,顕教的な仮想世界の出来事として,特別の抵抗感もなく受容されていた。

 大東亜戦争のとき首相を務めた東條英機は,「日本にはヤマト魂があるから戦争に必らず勝つ」という信念を,誇らしげに吐いていた。だが,これは東條だけの言動ではなく,指導者層あるいは指導的な立場にいた人びとが一様に口にしなければならなかった〈決まり文句〉であった。

 3) 戦争中の学童疎開「醜の御盾」であった

 インターネット上に「學童集團疎開教育計畫案 大阪市花園國民學校」という文書が掲載されていた。これは,1944(昭和19)年7月18日政府の方針にもとづいた大阪府の「学童疎開並びに避難要項」にもとづき,「大阪市花園國民學校」が作成した文書である。

 その文書の内容は,

 (一)「趣旨」において「學童ヲシテ集團疎開ノ眞意義ヲ自覚體得セシメ,國家將来ノ隆昌ヲ擔フベキ皇國民タルノ自負ト決意トヲ以テ心身ノ錬成ニ邁進セシム。而シテ教師ハ決戰必勝ノ教育信念ノ上ニ実際即應ノ計畫ヲ立テ,児童本来ノ生活ト計画生活トノ融合シ,生ルル心身一如ノ規律アル團体生活ヲ樹立セントス」

と述べたあと,

 (二)「目標」において「敵愾心ノ昂揚ト殉國ノ精神ニ培フ」「堅忍不抜ノ逞シキ精神ヲ鼓吹ス」「剛健ナル心身一如ノ錬成ヲ期ス」

の3点を挙げていた。

 さらに,(三)生活指針を枚挙したのち,(四)言葉として  (1)  御製奉唱(毎朝),(2)  誓詞斉唱(毎朝),(3)  愛國和歌朗唱(毎晩三首宛)を要求していた。

 そして,この(四)の (2) の各首なかに「大日本ハ神国」「上御一人ハ現人神」「陛下ノ赤子ナリ」「我等ハ大君ノ御楯トナラン」などの文句が並び,(3) のなかには「大君の醜の御楯」「天皇の御楯」「大君の御楯」などという文句を出していた。

 註記)http://www.geocities.jp/jouhoku21/heiwa/si-hanazono-kyouiku.html

 ところで,大君は戦争中に逆に「赤子たちの御楯〔盾〕」になってくれていたか? 否,である。両者の関係は,ただに一方的な上下構成であって,それも強制的にしたがうべきものとされていた。

 敗戦を境に,天子様のために「醜の御盾」となって「鬼畜米英」を「撃ちてし止まむ」,と学童たちに叫ばせていた学校の先生たちが,いつのまに「民主主義」を説く人間に,それもたいそう身軽に,かつ即時的に変身しえていた。それというのは,タカクラも指摘したように,「けっきょく,皇室への宗教的なすうはいは,日本人民の生活のきょくたんな低さからきている」からであった。

 「そして,今では天皇制による絶対主義的あっぱくが人民の生活のきょくたんな低さを生み,その低さが,また,逆に,皇室への原始的なすうはいを生むという,どうどうめぐりをやっていた」からであった(32頁下段-33頁上段)。

     タカクラテルの戦後1950年代の著作「画像」-古本市場から-

 

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 元来,民主主義はルネッサンスの時代の科学発達にその源を発していたから,科学的精神というものを思想的な基礎としていた。天皇制も,皇室への宗教的な崇拝も,この科学的精神のまえには絶対に耐えられるものではない。これらはそれ自身,民主主義の社会から根絶やしされなければならない運命をもっている(33頁)。

 

  結 論

 以上,タカクラ・テル天皇天皇制批判に関する議論をとりあげ論及してきた。

 現行の日本国憲法第1条から第8条までにおける「天皇条項」は,「日本の民主主義」と徹底的に突き合わせ,根本から再考するとしたら,いったいどのように評価されるのか?

 日本の神道という宗教は,ウィットフォーゲル流に封建遺制という理解一辺倒では掬いきれない「豊富な中身」を有する研究対象であるから,それが「絶対神を欠く」という理由=1点をもってのみ,簡単に割り切った議論を進めるわけにはいかない。

 森 宏一『日本イデオロギー』真善美社,昭和22年10月は,敗戦直後において現象した〈天皇観の揺らぎ〉をとらえて,こう指摘していた。

 日本精神の美徳が人びとによってさまざまに説きあかされるのと同様に,国体もまたそのときどきにしたがい,ご都合しだいで解釈が付けられてきた。なんでもよいから「国体」という「天皇中心の上下関係制度」が維持されれば,というのが,為政者側の中心的な焦慮なのである(158-159頁)。

 タカクラが批判した天皇天皇制にまつわる理解,「神道イズムの初歩的原始性=シャーマニズム的実質」は,最優先に注目されるべき検討事項であるゆえ,あらためて銘記される価値がある。天皇が日本社会の象徴的存在ではあっても,その「最上部に位置」する(させられている)現実を,われわれはどのようにみてとるべきか?

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 上にかかげた画像資料「記事」は,2021年2月23日に61歳の誕生日を迎えた令和の天皇徳仁」夫婦を報道した『日本経済新聞』同日朝刊のものである。タカクラテルが批判した天皇天皇制は,現在もなんら揺らぐことなく,「主権在民」を謳う日本憲法のなかでの「世襲(制)」として,確固と持続させられている。

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 ちなみに,国会議員たちにも “何代もの世襲の立場” を経て,議席を確実に占めつづけることができている者が大勢いる。その事実が日本という国全体のありように与えている特定の制約(不利・短所)は,この国の政治・経済・社会・歴史・伝統・文化を考察し吟味するうえで,避けて通れない問題であった。

 ともかくタカクラテルが敗戦後になって,それもGHQの占領期が過ぎてから公刊した著作『日本の封建制』(など)が議論・批判していた〈日本問題・事情〉は,いまもなお今日的な検討課題でありつづけている。タカクラが戦前から卓越した「日本論」を業績に挙げていたけれども,日本の政治社会そのものの民主主義国家体制としての自己発展は,21世紀の現在になってもまだしもの感を否めない。

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