『朝日新聞』土曜日朝刊be連載,原 武史「〈鉄道のダイヤグラム〉今も残る思い出の駅そば」2021年3月6日は「花より団子」になった鉄道記?

 上野駅を始発にして成田駅まで直通のSL列車が運行されていた時代 もあったという記憶

 

 【要  点】  原 武史による「今日の連載記事〈轍号のダイヤグラム」は,花:鉄道そのものよりも「団子:駅そばの記憶」を重視した執筆になっていた


  成田線関係・予備知識

 1)1902〔明治〕35年と1973〔昭和48〕年などの成田線

  1902年3月1日 日本鉄道上野駅成田駅間直通列車運転開始
      4月   上野成田直通列車に日本初の喫茶室付一等客車が連結される(食堂車としては            日本で3番目) 喫茶室には,回転椅子とテーブルが置かれ,ビールやコー             ヒー,果物類が販売され,新聞雑誌も備え付けられていた

  1973年9月28日 成田駅我孫子駅間が電化
  1991年3月19日 成田駅成田空港駅間の支線が開業

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 補注)この写真(上)は1968年4月撮影。

 

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 2)「成田線の歴史」成田線活性化推進協議会』2020年9月4日,午前 11:51:57,http://www.naritaline.com/rekishi.html

  1949年6月1日  鉄道省廃止 日本国有鉄道発足
            常磐線松戸-取手間電化 我孫子-成田間に気動車導入
  1950年10月12日 東我孫子駅開業
  1969年4月1日   新木駅開業
  1973年10月1日 成田-我孫子間の旅客列車廃止し,電車化
  1984年2月1日  成田-我孫子間の貨物輸送廃止
  1987年4月1日 JR東日本旅客鉄道発足 

 

  上野発成田行きのSLに乗車というブログの記述

 以下に記述は,『しゅうちゃんのお出かけ日記  by シュウチャン』の「 (№ 586) 上野の蒸気機関車」2010/09/05 23:59,https://sl-taki.blog.ss-blog.jp/_pages/user/iphone/article?name=2010-09-05 というブログを参照しつつ議論する内容となる。。

 --今回はチョット古い写真を。昭和〔1965〕40年10月1日ダイヤ改正で新設列車をみに上野にいった時に蒸気機関車牽引成田行きの列車もみてきました。この日から165系の前橋行き準急「はるな」が誕生しましたが翌年の3月には急行に格上げされました。

 成田行きのこの列車はC57かC58が牽引するのですが,当日いってみないとなにが付くのか分かりません。この日はC58が牽引していました。本当はC57を期待していたのです。C58の左にはその準急「はるな」,右には京浜東北と山手線の101系がみえます。

 補注)ここでは,準急「はるな」を撮した写真ははぶきそのほか5葉を,このブログから借りて紹介する。関連する類似の写真も参考にまでに併せてかかげておく。東京都などに住んでいて都心のJR東日本を利用する人ならば,おそらくすぐに分かる風景(推測しうる写真の構図)だと思う。

 まず最初に紹介するこの写真は右側に山手線や京浜東北線の電車が走行している。当時,成田線で運行されていたこのSLのC58が写っているが,これが停車していたプラットホームの番線は,多分,現在の5番線に間違いないとみられる。

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【参考画像】

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【参考記事】

  この成田行きの列車は行商人のおばちゃんが早朝東京に来て野菜やお餅など売ってこの列車で帰ったらしいのです。そもそも成田からの早朝直通列車上野着の6時29分と7時13分は行商列車ともいっていたらしいです。蒸気機関車が停まっているにも関わらず,鉄っちゃんが少ないこと,いまでは考えられませんね。

 補注)本ブログ筆者の若かりしころ,ほんの短い期間であったが「鉄道友の会」(現在も活動)に入会していた。この事実はさておき,大昔のJR東日本がまだ国鉄であったころの話になる。

 当時は,ある友人と組んで2人で,朝早くからカメラをもって自転車をこいでだが,常磐線が荒川を跨ぐ鉄橋〔の北側に当たる土手上の場所〕にまでいき,そこを走行するSLを撮影しにいったものである。その時期,貨物列車はまだすべてD51が牽引していたので,このD51を主に撮影していた。

 補注中の 補注)敗戦後において日本がまだ連合国の占領下にあった1949〔昭和24〕年7月5日朝,国鉄総裁の下山定則が出勤途中に失踪したのち,翌7月6日未明,轢死体になって発見された「下山事件(しもやまじけん)事件」が発生した。

 

 下山のその轢死体が発見された場所は,この常磐線北千住駅」を出てから荒川鉄橋を北側まで渡りきったあとにつづく下り勾配を右側に曲り,東武鉄道の(現在の)東武アーバンパークラインの下を交叉したのち,さらに少し進んだあたりであった。 

 

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 ウィキペディアに解説されている下山事件には,下の画像が添付されている。これは,前段などの地理・地図的な説明に合わせていうと,それとは「逆方向からみた風景」になっている。

 

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 つまり,後方には,東武鉄道の高架が常磐線を跨ぐかたちでみえるが,その左側が南方向にあたり,荒川鉄橋を渡ってすぐ北千住駅がある。そして,この写真で大きく写っている常磐線の線路を手前の方向へ戻って進むと,常磐線金町駅松戸駅に至る。反対側にいけば北千住駅である。

 記憶にはないのでいいにくいけれども,そのSLには成田線に直通させるためのC58やC57も「居た」はずである(当然,客車を牽引していた)。当時は成田線がまだ電化されていなかったゆえ,東京都内においてもSLが走る風景がまだみることができていた。当時,本ブログ筆者が撮影した写真類はいっさい残っていないので,デゴイチ以外にC58やC57も撮影していたのか,いまではどうか定かではない。

 つぎは,本ブログ筆者がその後に一時期,東京都から出て千葉県の松戸市に住んでいたころの話になる。

 成田線に直通して成田駅まで運行されていたSL列車そのものではなく,常磐線方面でさらに中距離を走るダイヤに組まれていた列車(これは当時は電車による運行ではなく,電気機関車が客車を列車として牽引され走行していた)は,「上野駅⇒日暮里駅⇒松戸駅……」と停車していくので,松戸で降りればいい列車として利用できた。

 東京から帰宅するとき日暮里駅でたまたまこの列車に出当たった時は,各駅停車ではないから多少は早く走って松戸駅まで着くのだろうとも考え(松戸駅までだと本当はなにも変わりはないが),躊躇なく乗りこんだものであった。

 実際にこの客車列車に乗ってみると,近距離ではなく中距離で乗車する人たちが多いせいか,社内の雰囲気がほかの通常の電車に乗車した時とは全然違うことに気づき,その違和感(差)のことについては,なんとはなしにでも興味をもったものである。

〔記事に戻る→〕 帰りがてら,ついでにつぎの停車駅の日暮里まで乗っていきました。日暮里に到着です。乗車時間わずか5分でしたが結構楽しかったようです。ホ-ムのすみで後追いを撮っていたら,京成電車が追いかけていきました。当時はまだ地上ホ-ムですね。

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 補注)上の写真は日暮里駅,下の写真は上野駅を出発した直後の風景,左側には運転席があるはずだから,身体を一部分外にせり出している乗務員は機関手(運転士)ではなく同乗者かもしれない。

 

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 補注)この写真では,右手に,私鉄京成線の千葉・成田方面行きの下り電車が走行している。左手を走行する国鉄成田線直通のこのSL列車は,右方に曲線を描いていくかたちで,京成線のこの先の線路下をかいくぐり交叉していく。これは,日暮里駅のプラットフォーム最北端から撮影した写真である。

 結局,この成田直通の蒸気機関車が牽引する列車をみにいったのはわずか2回しかいきませんでした。いつでもみれると思っていたら,あっという間になくなりました。

 補注)本ブログ筆者の場合,成田線直通でSLが牽引する客車列車で,日暮里駅から松戸駅まで乗車した体験はなく,利用したことがあるのは電気機関車が牽引する常磐線の中距離列車のほうだけであった。

 しかし,上野駅にそのSLが停車していた風景は,紹介した写真のようになんどもみたことがあったという記憶は,よく残っている。山手線や京浜東北線の電車に乗っていて上野駅を通るとき偶然に(とはいっても,時刻表にしたがって出発の時刻を待っているその時間帯なのであったが),このSLが停車している姿をみることもあった。

 当時受けた印象としては,なぜ,蒸気機関車上野駅から出発するかたちで,実際に運用(運行)されているのか,いささか訳もよく分からぬまま自分勝手に不思議に感じてもいた。

 おまけに「成田行き」の列車だという理解も漠然としてしかもっておらず,それにしてもSLが〔当時にという意味で〕よくいまどきに,上野駅にまで来て運用されているな,という印象をもっていた。

 さて,つぎの ③ は本日の記述を起こすきっかけをくれた原 武史の文章である。

 

 「〈歴史のダイヤグラム〉今も残る思い出の駅そば 原  武史」『朝日新聞』2021年3月6日朝刊「be4面」

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 初めて駅の立ち食いそばを食べたのは1971(昭和46)年,小学3年のときだったと思う。父と一緒に立川駅の中央線ホームの東京寄りにあった「奥多摩そば」に入った。地元の中村亭という老舗が営業していた。

 かけそばが60円,月見そばが70円,天ぷらそばが90円だった。天ぷらそばが食べたいと思ったが,父は月見そばを2人分注文した。横一列に客が立ち並び,隣の会社員風の男性があっという間に平らげたこと,並びきれない客がうしろで待っていて圧迫感を覚えたことが印象に残っている。急いで食べたせいか,味はよく覚えていない。

 1973年4月1日に開通した武蔵野線に,開通当日父と乗ったことは前に記した。終点の新松戸で降りると,父は我孫子から成田線に乗って成田にいこうといった。我孫子までは,新松戸から常磐線の各停で5駅である。常磐線複々線化され,快速と各停の電車が別々の線路を走っていることにびっくりした。

 我孫子成田線に乗り換えようとすると,あいにく1時間近くも待たねばならなかった。当時の我孫子―成田間は単線非電化で,常磐線との落差を感じたものだ。ちょうど昼時で,ホームにあった立ち食いそば店はにぎわっていた。

 「奥多摩そば」のような固有名はなかったが,弥生軒という屋号が記されている。こんどは父にねだって天ぷらそばを注文した。幸いにもベンチが店のすぐそばにあったので,座ってじっくりと味わえた。

 丼にはかわいいSLのイラストが描かれていた。成田線は,首都圏で最後までSLが残った線のひとつだった。その記憶を刻んでおきたい思いが反映していたのだろう。

 常磐線は直流区間我孫子の2駅先の取手までで,その先は遅れて交流電化されたので,電気機関車に引かれた客車列車が長らく残っていた。だが1982〔昭和57〕年11月のダイヤ改定でついに全廃されるとしり,わざわざ乗りに出かけた。上野から下り列車に乗るよりも,我孫子から上り列車に乗るほうを好んだ。

 補注)本ブログ筆者が乗車したことがあるといって前段で触れてみたのが,この「電気機関車に引かれた客車列車」として「長らく残っていた」「常磐線」の「客車列車」であった。

 福島県の浪江を午前6時に出る上野ゆき422列車は,我孫子に11時2分に着いた。弥生軒で天ぷらそばを食べてからこの列車に乗った。途中松戸と日暮里にしか停まらないから,並行して走る各停を追い抜いてゆく。古色蒼然とした客車が最新鋭の電車を抜き去るのは痛快だった。車内では決まって東北弁で会話する客の姿がみられた。

 補注)本ブログ筆者は,このあたりの話も,上の指摘と同じに触れてみた。

 立川駅の中村亭はもうなくなったが,我孫子駅弥生軒はいまも健在だ。JR東日本の系列会社が首都圏のJRの立ち食いそば市場を独占しつつあるなか,弥生軒は多くのファンに支えられ,孤塁を守っている。政治学者)(引用終わり)

 原 武史は鉄道問題(鉄道史)も専門研究者として守備範囲に収めている学究であるが,成田線直通の列車,それもSLが運行されていた点について,今日の寄稿では触れていない。駅そばの話題に重点があって,「鉄・話」としては,ややもの足りなかった。もちろん,鉄ちゃんたちにあっては,駅そばの話題も大いに盛り上がうる材料であることは事実。

 本ブログ筆者がこの記述でとくに触れたのは,「成田線我孫子-成田」2019年2月22日 午前 12:47:59,https://omotetsu2.web.fc2.com/oldsl/naritasen/naritasen.htm  がつぎのように描写した歴史の一コマであった。本ブログ筆者もそうであったが,なにせ,だいぶ昔の話に関する記憶を,今日いきなり,思い起こすしだいになっていた。

 成田線我孫子-成田,ここは東京近郊でありながら,朝の通勤列車群をC57やC58が牽くことで有名で,一部の列車は蒸気牽引のまま上野へ直通運転をしていました。通勤列車ですから勝負は朝。

 当時世田谷に住んでいた私は,いつも一番電車で出かけていた記憶があります。なお,昔のことで記憶も曖昧で,撮影場所がいまひとつハッキリしません。撮影場所に勘違い等ありましたら,どうかご容赦を。


 ★ 1969〔昭和44〕の都内近郊〔を〕さよなら〔していた〕SL列車 ★

 

  3月15日「上野発⇒成田行(上野→我孫子→成田)」SL最終運転,825列車

  7月10日「両国発⇒館山行(房総西線〔現:内房線〕)SL最終運転,125列車

  8月20日「両国発⇒勝浦行(房総東線〔現:外房線〕)SL最終運転,221列車(都内発最終SL旅客列車)

  9月30日「千葉発⇒銚子行(総武本線)SL最終運転,325列車

  補注)SLは遠くになりにけりであるが,現在では観光用にSLが大いに活用され,活躍する時代になってもいる。関連する業界事情についてはたとえば,つぎの記述を参照されたい。

 

【参考記事】

 ともかく,いまはITの時代であり,AIが人間の能力を補完・助力・代替してくれる時代になっている。しかし,SLの魅力,つまり「人間の働き方:動き方」に似たような生き生きとした姿に魅力を感じる人が,しかも最近では女性まで含めて,大勢いる。

【参考記事】 

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