1945年3月10日の東京下町大空襲と昭和天皇自身の「戦時の記憶」

             (2010年3月9日,更新 2021年3月10日)

  1945年3月10日東京下町大空襲と昭和天皇の敗戦後,天皇裕仁が「戦争責任」から逃れえて,そしてよく生きてきた「昭和の時代」

 東條英機に全責任を押しつけた昭和天皇生きざまと「庶民の戦争被害の問題」

 

 🌑 前  言  🌑

 a) 本日:2021年3月10日の新聞朝刊,購読している『朝日新聞』と『日本経済新聞』のうちとくに,『朝日新聞』のその朝刊には注意して目を通してみた。東京・地方版の紙面が朝の時間帯では,まだ閲覧できていなかったので,そのすべての紙面を完全に確認できたわけではない。

 けれども,「1945年3月10日未明,東京都の下町は,アメリカ軍B29の大編成になる空襲を受けた」という「歴史の記録」は,今年のこの日「3月10日」にかぎっては,記事としては特別になにもとりあらげられていない。

 その下町大空襲で庶民(当時の帝国臣民)たちは約10万人もの犠牲者を出した。空襲で命をうしなった人びとは,軍人たちが年金をもらえたのとは対照的に,なんら補償されないできた。関連する裁判も起こされているが,すべて国側が勝っている。

 前段で指摘したとおり,本日のとくに『朝日新聞』朝刊(東京版ではなく本ブログ筆者が住む「地方版」も含めて)の全紙面を再確認したが,ともかく「3月10日下町大空襲」に関係する記事がひとつもみつからない。昨年までは必らずなにかの記事があった。

 b) しかし,1週間前3月3日の『朝日新聞』夕刊6面「社会総合」には,「書く 話す  戦争を防ぐ一歩と信じて」という見出しをつけた記事が出ていた。このなかに登場する人物は,少年時代に東京下町大空襲を体験した早乙女勝元(1932年3月26日生まれ,満 88歳)である。記事の冒頭段落のみ引用してみる。

 1945年3月10日,米軍の爆撃機が東京の下町一帯を襲い,10万人が亡くなった。この東京大空襲を生き延び,戦争体験を語り継いできた作家の早乙女勝元さん(88歳)が,紙芝居『三月十日のやくそく』」(絵・伊藤秀男,童心社)を刊行した。「書くこと,話すことでは,戦争を防げないのは事実」という早乙女さん。それでも,「防ぐための一歩」を重ねつづけてきた。 

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 早乙女勝元はとくに『朝日新聞』関係では「3月10日東京下町大空襲」の話題になると,それこそ常連として顔を出す人物であった。今年は少し日にちをずらしてそれも早めの,ちょうど1週間前にこのような記事のなかで早乙女が登場にしていた。

 c) 本ブログ筆者はこの3月10日の東京下町大空襲の体験者ではない。それほど高齢ではないが,しかし,両親や当時すでにこの世に生まれて出ていた兄弟・姉妹がいて,彼・彼女らが戦争の時代に辛酸を舐めさせられ,ひどい生活を強いられてきた事実は聞かされてきた。

 なかでも母が実際に3月10日未明からの大空襲のなかを逃げまわり,九死に一生えた話は,この母がまだ生きていた時期に,まったく同じ内容のその話を「2度聞かされた」。彼女の話し方はまるで,ユーチューブの動画観るかのように活き活きとしたそれであった。何十年も経ったあとでの語り口であったにもかかわらず,それはたいそうリアル(迫真)な活写になっていた。

 d) 2021年3月10日は,明日に「3・11」東日本大震災・東電福島第1原発事故からちょうど10年を迎えるせいか,各紙の紙面はこちらの話題に重点を置いた報道になっている。

 明治維新を切開できた官軍政府:大日本帝国は,1945年8月に敗戦のうきめに遭わされるが,この契機のことを「第1の敗戦」と呼ぶのにつづけて,2011年3月11日に発生したフクシマの原発大事故を「第2の敗戦」と呼ぶ発想は,敗戦後における日本の歴史を再考するさい意味深長である。

 敗戦から今年の2021年ですでに76年が経過する。フクシマの「2011年〈3月11日〉」からは10年が経過した。だが,当面は後者の事件のほうが大きな関心事として意識されている。

 あるいは,延期になっていた2020東京オリンピックの開催が実現されれば,「コロナに打ち勝った(勝つ)」この日本国になれるのだといったふうな,完全に倒錯した時代認識が為政者の口から飛び出ている。つまり,その種のみごとなまでに奇怪な現状理解がつづくかぎり,旧日本帝国が本当に「敗北した歴史の意味」もこれまた “永久にまともに理解されること” はあるまい。

 e) 参考にまで,東京とこの近隣地域の地方紙である『東京新聞』の紙面を,Web版でだがざっと観たところ,3月の上旬に関してのみになるが,東京大空襲の話題としてはつぎの記事が出ていた。これらのうち2つの記事については,本文の一部も紹介しておく。

 ※-1東京大空襲犠牲者10万人の言葉届け  鈴木一琥さんダンス公演 コロナ禍で初の動画配信も」2021年3月5日 07時12分,https://www.tokyo-np.co.jp/article/89591


 ※-2「1人1人の人生想像してほしい… 東京大空襲の犠牲者400人の名前,集会で読み上げへ」2021年3月6日 06時00分,https://www.tokyo-np.co.jp/article/89722

 

 ※-3「【動画】孤児たちの闘い~東京大空襲~ 戦争孤児と関係者の証言集」2021年3月6日 09時00分,https://www.tokyo-np.co.jp/article/88026?rct=tag_movie

 1945年の3月10日,東京の下町一帯を火の海にした東京大空襲。そこで両親ら肉親を失い戦争孤児となりながらも生き抜いてきた方々に,当時の苦労やつらい思い出,そして後世に伝えていくべき貴重な証言をうかがいました。(インタビューは2019年1~2月)


 ※-4東京大空襲墨田区の惨状を伝える碑が5キロ離れた台東区に…なぜ? 著述業の女性が建立時の情報求める」2021年3月8日 06時41分,https://www.tokyo-np.co.jp/article/90150

 

 ※-5東京大空襲,名前読み上げ追悼  約10万人『みんな名前あった』」2021年3月8日 20時36分,https://www.tokyo-np.co.jp/article/90297共同通信

 

 ※-6東京大空襲の証言ビデオ 20年以上放置  300人超の証言が封印の恐れ  都平和祈念館計画凍結で」2021年3月10日 06時00分,https://www.tokyo-np.co.jp/article/90540

 東京都が記録した東京大空襲など戦争体験の証言ビデオ300本以上が倉庫に放置され,活用されない状態が20年以上続いている。当初展示予定だった「都平和祈念館(仮称)」の建設計画は凍結。都は別の方法での公開には「本人同意が必要」とする一方,意向確認は進めていない。〔3月〕10日で大空襲から76年。証言者が高齢化するなか,「無責任」と批判の声が上がる。

 補注)東京都の知事は2016年8月から小池百合子になっており,現在2期目にある。このネトウヨ的な極右反動政治家は,戦争問題に対して,まさしく〈反動精神〉の仇花を咲かせてきた人物である。それゆえ,前段のごとき「都平和記念館」の構想・計画は,彼女が都知事である期間中にあっては,けっして進捗しないと観るのが妥当といえる。

 1945年3月10日東京下町大空襲の問題は,旧大日本帝国史を根幹から見直すために有意義である「戦争問題」の具体的な論点を提供する。だが,旧「帝国臣民」たちの被害者意識の範囲内にその問題の次元・視野が留まっているかぎり,「平和と戦争の問題全体」を歴史通貫的に展望し,吟味することはむずかしい。

 同年8月の6日と9日に広島と長崎に投下された原爆の問題も同じであって,戦争の被害者意識の地平・方途でしか論じないようでは,この問題を「平和と戦争」全体にかかわらせた議論は中途半端に終わるほかなくなる。

 f) 東電福島第1原発事故の問題のほうはとみれば,廃炉工程にまでまともに進めないでいる現状は,「3・11」から10年が経過した今日(明日)となれば,敗戦後76年を迎える「8・15」の問題にまで相似形的に通じる歴史的な含意をもつといわねばならない。

 

  横田耕一+江橋 崇編『象徴天皇制の構造-憲法学者による解読-』1990年
     の21世紀的な含意

 横田耕一+江橋 崇編『象徴天皇制の構造-憲法学者による解読-』日本評論社,1990年5月は,昭和天皇から平成天皇への代替りがなされた時期,明治以来の日本の天皇天皇制問題を「法制度論」の視座から考察した著作である。

 本書は「天皇制を思想的,文化的,歴史的に批判し,糾弾する試みの出版物はいくつかあった。だが,天皇制の法制度論になると,まるで発表されてないし,また見込みもないというのが当時の状況であった」と指摘する(〔あとがき〕280頁)。

 同書の編成〔B6版で本文など282頁,その目次〕を,以下に全部紹介しておく。これは「昭和の終焉をへて即位の礼大嘗祭へとつづく,天皇制の歴史的転換期に問う」ために準備された諸論点である。

序 章 いま,天皇制を問いつづける意味(奥平康弘)


 憲法第1章・注解(天皇制の憲法解釈)
 1 天皇の大権条項の変遷(江橋 崇)
  1 明治立憲体制の中での天皇の大権
  2 明治国家の天皇主権から日本国憲法の国事行為へ
 2 「象徴」天皇論の徹底-再構成のための覚書-(三輪 隆)
  1 再構成の方向
  2 「象徴行為」,「公的行為」論の批判
  3 裕仁天皇の「横すべり」
  4 世襲制の限定
 3 国事行為論(江橋 崇)
  1 国事行為の登場
  2 国事行為・日本側の解釈
  3 国事行為の類型
 4 皇室財政-大喪・即位の儀式を中心に-(吉田善明)
     問題の所在
  1 皇室に関する財政の概要
  2 即位,大喪の礼の皇室財政
  3 大喪の儀と公費の支出
  4 大嘗祭と公費の支出
  5 皇室関係諸費についての国会のコントロール
    おわりに


皇室典範』の法解釈
 『皇室典範』私注(横田耕一)
 1 総括的視点
 2 各条項の注釈
  第1章 皇位継承
  第2章 皇族
  第3章 摂政
  第4章 成年,敬称,即位の礼大喪の礼皇統譜および陵墓


 象徴天皇制をめぐる法と政治を考える
 1 新天皇の誕生と旧天皇の葬儀(笹川紀勝)
  1 今日の状況
  2 憲法から皇位継承の問題をみたとき
  3 新天皇の誕生にかかわる問題
  4 旧天皇の葬儀にかかわる問題
 2 即位の礼大嘗祭(笹川紀勝)
    はじめに
  1 基本的な論点として
  2 皇位継承の儀式
  3 結びとして
 3 皇族の活動(横田耕一)
  1 皇族の意味と位置
  2 皇族の活動と諸類型と憲法評価
  3 皇族の活動の意義
 4 天皇・日の丸・君が-天皇制の記号-(古川 純)
  1 「新学習要領」による「国旗=日の丸」「国歌=君が代」の強制
  2 日の丸と天皇
  3 君が代天皇
  4 戦後日本と日の丸・君が代
  5 沖縄と天皇制-「日の丸焼却」事件からの照射-
 5 天皇の戦争責任(山内敏弘)
  1 はじめに
  2 天皇の法的な戦争責任
  3 天皇の政治的・道義的な戦争責任
  4 結びに代えて
 6 元号制度の諸問題(大石 眞)
  1 はじめに
  2 明治憲法下の元号制度
  3 現行憲法下の再法制化と問題点


あとがき

 この横田耕一+江橋 崇編『象徴天皇制の構造-憲法学者による解読-』1990年は,公刊後20〔31〕年が経過している。しかしながら,この書物が指摘した天皇天皇制に関する法制度的な諸問題がいっこうに解決しないどころか,ほとんど進展していない実情にある。

 その意味でも本書をいま一度開いて読みなおせば,日本国憲法に書かれている天皇条項を吟味する知的作業としてあらためて,「日本と天皇天皇制」問題を再考するための重要な手がかりが与えられるはずである。

 とはいっても,本ブログ上において同書の全体を検討することはできない相談である。そのなかからは,Ⅲの5「天皇の戦争責任」で山内敏弘が講じる,天皇の「法的な戦争および政治的・道義的な戦争責任」を参照しながら,筆者なりに論旨を構成する議論としたい。

 

  昭和天皇の戦争責任

 1) 旧日本帝国から日本国へ

 1945年8月15日に〈玉音放送〉が流されて大東亜戦争の戦闘行為が停止され,9月2日に東京湾上に浮かんだアメリカ海軍戦艦ミズーリ号甲板において降服文書に調印した大日本帝国は,当時7千数百万人であった自国人口のうち戦闘員・非戦闘員を合わせて約310万人もの死者を出した。

 しかし,この大日本帝国に植民地支配された朝鮮や台湾出身の人びとが,どのくらい大日本帝国の軍人・軍属・性的女性奴隷などになって駆り出され,そしてどのくらい死者となって他界したのか。これをより正確に表わす統計・資料はみつからない。

 日本国は,自国人の戦争犠牲者の数については敏感に反応してその算定にこまかくこだわっても,あの戦争の時代「1億火の玉」となっていっしょに戦わされ死んでいった「彼ら」に対しては,昭和28〔1953〕年8月に復活した旧軍人のための「恩給法」を適用しなかった。

 それどころか,日本社会に止むをえず在住するようになっていた植民地出身の在日外国人〔「朝鮮」人・韓国人,「台湾」人〕の生活と権利を最低限にさえ認めようともしない待遇にしておき,あまつさえ邪魔者あつかいする国家精神を露骨に発揮していた。

 本日におけるこのブログは,そうした戦後処理において顕著に行使された旧植民地出身者に対する差別的な処遇とはまた別に,そして実は,それと同じ次元にもある自国民対する「天皇による日本人・日本民族」に対する差別問題から言及をはじめたい。

 以下,その手はじめとなる引用の段落のみは,山内敏弘の記述部分から唯一外れて,他所〔横田耕一+江橋 崇編『象徴天皇制の構造-憲法学者による解読-』日本評論社,1990年,Ⅲの4,古川 純〕の執筆箇所から引用する。

 2) 「天皇メッセージ」1979年

 古川 純は「天皇メッセージ」(新琉球処分!)に触れる。1972〔昭和42〕年5月,沖縄は日本の県に復帰する。そのあとしばらくは日の丸を振っていた琉球人は,1978年ころからは日の丸の掲揚を減らしていった。

 日本政府・天皇・日の丸と君が代に対する沖縄県民の怒りは,1979年の〈新琉球処分〉ともいうべき「天皇メッセージ」の公表によって噴きだすことになった(横田・江橋編『象徴天皇制の構造』235頁)。

 「天皇メッセージ」とは要するに,昭和天皇が自分の地位延命工作として沖縄をアメリカに売り渡した秘密取引である。

 古川に語らせよう。「天皇メッセージ」は,戦後の太平洋における沖縄の軍事戦略上の重要性を早くから認識していた米・統合参謀本部によっても,日本非武装の代わりに沖縄の軍事占領継続による日本防衛方式を構想していた最高司令官によっても,日本のトップ指導層からのメッセージとして歓迎されたのである。その後の事態の進行はまさにこのとおりになった(236頁,後段の解説と該当文書を参照)。

 要するに,昭和天皇は敗戦後,自己保身のために沖縄を人身御供のようにアメリカに引き渡したのである。

 アメリカは,天皇軍事法廷東京裁判〕に引きだされて戦争責任が裁かれることがないように工作し,本当にそれを実現してくれた。ところが,敗戦後において,戦争責任のいっさいを背負わずに済んだ天皇裕仁が,新憲法日本国憲法)が施行されてから4カ月しか経っていない時点において,勝手にやったことがある。

    沖縄県公文書館の「米国収集資料 “天皇メッセージ” 」★

 

 米国国立公文書館から収集した“天皇メッセージ”を公開しました。(平成20〔2008年3月25日)

 同文書は,1947年9月,米国による沖縄の軍事占領に関して,宮内庁御用掛の寺崎英成を通じてシーボルト連合国最高司令官政治顧問に伝えられた天皇の見解をまとめたメモです。【資料コード:0000017550】

 

 内容はおおむね以下のとおりです。

 

  (1)  米国による琉球諸島の軍事占領の継続を望む。
  (2)  上記  (1)  の占領は,日本の主権を残したままで長期租借によるべき。
  (3)  上記  (1)  の手続は,米国と日本の二国間条約によるべき。

 

 メモによると,天皇は米国による沖縄占領は日米双方に利し,共産主義勢力の影響を懸念する日本国民の賛同もえられるなどとしています。1979年にこの文書が発見されると,象徴天皇制のもとでの昭和天皇と政治のかかわりを示す文書として注目を集めました。

 

 天皇メッセージをめぐっては,日本本土の国体護持のために沖縄を切り捨てたとする議論や,長期租借の形式をとることで潜在的主権を確保する意図だったという議論などがあり,その意図や政治的・外交的影響についてはなお論争があります。

 註記)https://www.archives.pref.okinawa.jp/uscar_document/5392

 補注)以下の画像資料が「天皇メッセージ」である。

 

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 しかもそれは,自分が天皇として在位している「日本国の安全」をアメリカに軍事的に保障してもらおうとする,それも自国を犠牲にした,天皇個人ための〈政治的な取引〉でもあった。

 彼は,新憲法が規定した象徴天皇の地位に確定された自身の立場に平然と違反する行為を犯してでも,前段に触れた「天皇(沖縄)メッセージ」をアメリカに個人的に伝達した。そうやって彼は,日本の政治外交的な問題を,自分の私的利害の問題にすり替えて「解決」させていた。

 沖縄はその結果,天皇の私個人的な利害,せいぜいいっても敗戦後における皇族一家のよりよき生き残り戦略のために,いとも簡単に踏みつけにされた。以後,日本国沖縄県は,アメリカ帝国の軍事一色に染められた〈基地の島〉でありつづけることを強要されてきた。

 1945年3月10日の東京下町大空襲に代表される日本国各地への無差別爆撃や,広島・長崎への原爆投下の責任などを問われたさい,それは「文学上のことばのアヤである」といいぬけようとした。これが昭和の歴史に生きてきた天皇裕仁の基本姿勢であって,この人は,大東亜戦争という「戦争の責任」全体を問われても「カエルの面にお▽っこ」という風情でいられたのである。

 

  昭和天皇の戦争責任

 それではここから,横田耕一+江橋 崇編『象徴天皇制の構造-憲法学者による解読-』Ⅲの5「天皇の戦争責任」において,山内敏弘がする議論に聞きたい。

 横田・江橋編『象徴天皇制の構造』が発行された 1990年1月18日,「天皇の戦争責任がある」と,あまりにも当然な事実を口にした当時の長崎市長本島 等が右翼に拳銃で狙撃され重傷を負った(241頁)。21世紀の現段階にあっても,本島と同じに率直に「昭和天皇の戦争責任」を口にすると,このようなテロ行為が昼日から平然とおこなわれるのが,この日本国であった。

 2010年3月8日〔昨日〕に配信されたあるニュースは,学習院初等科に通う皇太子(当時の徳仁)夫婦の娘が登校拒否を起こした出来事をめぐって,「学習院によると,欠席が報道された翌日の7日昼には右翼の街宣車が初等科周辺を巡回。同校や宮内庁には抗議や意見の電話などが寄せられている」などと,その騒ぎぶりを報道している。

 いまの時代になっても,皇室一族の問題のなにかが話題になると,いち早く皇室の用心棒のつもりか「右翼を名のる暴力団風の,否,暴走族風の街宣車」が街頭を賑やかにも騒がしく示威活動をする。今回の「愛子不登校」問題では当時,その〈犯人探し〉をする懸念も指摘されていた。

 要は,皇族内の人間にかかわる問題になるとその関係者たちに対する特別あつかいが,ともかく絶対的に無条件あるかのように,やかましく取りざたされる話題になる。

 1) 東京裁判に引きだされずに済んだ天皇裕仁の超・特別な立場

 天皇に関して確実にいえる,ある〈戦後的な事実〉がある。裕仁は「東京裁判に被告として出廷させられなかった」。とはいっても,彼に戦争責任がなかったからではない。ただ,その責任を問うことになったならば,敗戦後の日本において日本国民をGHQが上から上手に抑えつける〔統治支配する〕ために必要な,いわば〈文鎮〉としてもつ彼の貴重な機能を失いかねないと判断されたからである。

 山内敏弘はだからこう論断していた。

 ニュールンベルグ国際軍事裁判や極東国際軍事裁判東京裁判〕で認められた「平和に対する罪」や「人道に対する罪」に該当する行為の最高の責任者は,対外的には,元首である天皇とみなさざるをえない。この点の天皇国際法上の責任は否定しえない(243頁)。

 

 昭和天皇東京裁判に訴追されなかった事実を根拠に,国際法上の戦争責任の問題がないと主張するのは,早計である。また,その裁判で問われなかったからといって,彼の責任がなかったと帰結することはできない(244頁)。

 

 というのも「天皇東京裁判で訴追されなかったのは,アメリカをはじめとする連合国の高度に政治的な対日占領政策にもとづくものであって,それをもって天皇国際法上の責任がいっさいないものと認定されたわけではけっしてない」からである。

 

 東京裁判には,中国(蒋 介石政権)・インド・フィリピンの3カ国だけしか原告としてくわわっておらず,マレーシア・シンガポール・その他のアジア諸国,さらには日本に併合された朝鮮などはくわわっていなかった。これらの国々〔そしてその民衆〕に対する関係においては,天皇国際法上の責任は免除されていない(244頁)。

 2) 国内法の戦責問題

 日清・日露戦争などで戦勝していた時代に生きた明治天皇はまだよかった。というのは,負け戦の責任が問われることなど,まったく論外になっていたからである。

 しかし,昭和天皇は自分の元号の時代においてつぎつぎと進展していった戦争,すなわち「満州事変」以降ずっと継続されていった戦争・有事の時代においては,彼自身が大元帥の軍服を着て,陸海軍の将兵を督励(督戦)もする「統帥の立場」に立っていた。

 ところで「満洲事変」(9月18日)が起きたのと同じ1931年に「2・26事件」が起きていた。その2・26事件のとき裕仁は激昂した。

 「朕ガ最モ信頼セル老臣ヲ悉ク倒スハ,真綿ニテ朕ガ首ヲ締ムルニ等シキ行為ナリ」と憤激するあまり,明治憲法に規定されている君主天皇としての立場など無視してしまい,「朕自ラ近衛師団ヲ率ヰテ,此レガ鎮定ニ当タラン」とまで口にした。

 昭和天皇はその事件に対峙させられたさい,日本帝国大元帥としての強い意志を前面に出し,暴徒鎮圧の指示を繰りかえしていた。

 1945年8月における日本敗戦「聖断」も,明治憲法に規定されている天皇の役割を逸脱したものであった。もっとも,大東亜戦争中における彼は,日本軍の戦局・形勢に一喜一憂しながら,陸海軍の作戦の作戦行動に対してもその結果を左右するほど多大な影響を与えていた。

 以上のような戦史的事実も踏まえて山内敏弘はまず,日米戦争開戦についてこう述べる。

 明治憲法において天皇は,内閣の決定を覆したり,これに異議を申したてたりはいっさいできない趣旨とされていた。だが,山内は同時に,天皇が「不戦条約にも違反する開戦決定をおこなったことについて,天皇が,憲法上も責任を問われる可能性をもっていたといいうる」と断定する(247頁)。

 

 たとえば,15年戦争の発端となった中国大陸での軍部のもろもろの違法な侵略行為については,まさに軍の統帥権行使にかかわる事項として,内閣の輔弼責任は及ばず,むしろ最終かつ最高の権限と責任は,大元帥としての天皇にあったとみなすことができる(248頁)。

 

 明治憲法の政治体制は,天皇に絶対的な権力をもたせていたにもかかわらず無答責とされていたところに,まさにその絶対主義的・神権主義的な本質あるいは無責任の法体系をみることができるわけである。しかし,明治憲法の条規にしたがうことを要求されていた天皇は,実体法的には憲法違反行為の責任を問題にされうるのであった(248頁)。

 

 仮に明治憲法のもとでは,天皇の戦争責任を法的に追及できなくとも,日本国憲法のもとではその責任の追及がいっさいできないのか,という問題が残る。罪刑法定主義あるいは刑罰不遡及の原則からの反論は容易に理解できるけれども,それとは異なった見解も提起されている。つまり,狭い意味での刑事責任の追及ではなく,憲法上の責任の追及であるならば,「国際社会の認める法の一般原則」あるいは「法律を超える法(übergesetzliche Recht)」を根拠にして,天皇の法的な戦争責任を問題にすることも可能である(249頁)。

 こうした論法にすなおにしたがって考えるとすれば,昭和天皇東京裁判で永久戦犯となって絞首刑に処された人物たち以上に,とてつもなく大きな戦争責任問題を背負っていたことになる。この事実はいま一度あらためて想起せざるをえない論点であり,いまもなお少しも清算されていない「日本国の戦後史における重大な検討課題」である。

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 ましてや,天皇裕仁が「アメリカに落とされた2発の原爆」に関するその責任いかんについて,それは「文学的なことばのアヤ」だといいのがれるほかなかったのは,実は,背負い切れないほど大きな戦争責任にかかわっていたことを,彼自身,十二分に認識していたからである。

 そして,敗戦後の日本を支配統治したアメリカの立場=「日本に対する利害の〈縫い目〉」を読みとるようにうまく立ちまわりながら,あの戦争への関与者としては最高の責任者であった自身の延命工作を必死になっておこなってきた。

 補注)前掲の画像を借りたブロガーは,昭和天皇の戦責問題を,つぎのようにきびしく論及していた。

     ◆「裕仁 戦争責任『言葉の綾』 原爆投下『やむを得ない』発言45年」◆
 =『猛虎一路』2020-10-31 12:00:00,https://ameblo.jp/kakekane31/entry-12634968770.html

 

 昭和天皇大日本帝国の統治者でした。日中戦争において,大日本帝国中華民国を侵略し,日本軍は中華民国の市民を虐殺しました。太平洋戦争において大日本帝国は連合国と戦い,たくさんの外国人・日本人が戦死しました。

 

 昭和20年(1945年)8月,アメリカ大統領ハリー・S・トルーマンは6日に広島,9日に長崎に原子爆弾を投下しました。たくさんの人びとが原爆で虐殺された。昭和天皇終戦決定が遅れた。戦後,自身の延命と身分が保証されるかどうか,彼は不安に感じていた。アメリカ政府は降伏をなかなか受け入れない日本に原子爆弾を投下しました。

 

 戦後天皇の戦争責任は許され,天皇の地位に居れることを確認して,8月15日にポツダム宣言受諾を,裕仁は発表したのです。大日本帝国統治者であったが,「戦争責任」を問われれば,「言葉のアヤ」で,「文学方面は分からない」という,ふざけた暴言を吐きました。これほど無責任な暴君は,ほかにいないでしょう。この人を守るために,数多の日本人・外国人が犠牲になったのです。

 

 「天皇陛下万歳」と叫んで戦死した日本軍兵士の無念を思うと,憤りが心中に湧きます。亜細亜諸国で残虐行為を侵した兵士たちも,天皇陛下を守るために,お国のためになることと思いこまされ,軍隊での存在感を増すため,勇敢にみせるために惨たらしい蛮行を犯していた。その軍を統帥していた大元帥は,「言葉のアヤ」は文学方面で「研究していないから分からない」という卑怯な発言をしている。


 「広島に原子爆弾が投下」されて,昭和20年に20万人が死亡した。この痛ましい事実に,統治者であった裕仁は,「仕方がなかった」と軽々しく述べ,犠牲者を冒涜しました。

 

 朝日新聞は令和元年(2019年)9月5日の記事で,昭和天皇

 

  「あゝ悲し 戦の後 思ひつゝ しきに いのりをさゝげたるなり」

 

と詠んだと述べています。昭和天皇日中戦争・太平洋戦争に「あゝ悲し」と思ったとしても,「いのりをさゝげ」たとしても,責任が免罪されるわけではないのです。

 

 当人が戦争責任は「言葉のアヤ」とごまかし,「研究していないから分かりません」ととぼけて逃げているのです。戦争を起こしながら,国民が原爆で虐殺されたことに,「仕方がなかった」と愚弄する無責任に,強い怒りを覚えます。

 

 戦後75年間,日本国民は,アメリカ政府の意向を受けて,「昭和天皇は戦争に反対したが,軍部が陛下の御意向に逆らって戦争を侵したことを悲しまれて,昭和20年に戦争を終えてくださった」という嘘のシナリオを事実と思いこみ,「天皇戦争責任に触れるとどこから攻撃・襲撃を受けるか分からないし怖いので黙って,マスコミの先導に従って神格化しておこう」と自主規制してきました。

 

 天皇は責任を取らず,国民が払う血税で贅沢な生活をして,国家主導の万全の警備体制に守られ,最先端の医療を受け,安楽に87歳まで生きました。

 

 明治34年(1901年)4月29日に誕生し,昭和64年(1989年)1月7日に死去した昭和天皇。その87年の生涯で,彼に面と向かって,戦争責任を糾弾した存在は,昭和44年(1969年)1月2日の奥崎謙三だけでしょう。(引用終わり)

 なお,本ブログ内で奥崎謙三に言及した記述として,つぎがあった。

 

  昭和天皇の戦争責任,とくに国内的の政治的・道義的な責任問題

 1) 開戦責任

 山内敏弘は,旧日本帝国の戦争において天皇は宣戦大権を行使し,元首として対外的にも日本を代表する地位にあったゆえ,政治的・道徳的にも国際的にもその責任を負わないなどというのは,とうてい通用する議論ではないと述べる(横田耕一+江橋 崇編『象徴天皇制の構造-憲法学者による解読-』Ⅲの5「天皇の戦争責任」250頁)。

 昭和天皇の戦責問題を否定する根拠に挙げられる議論がある。「天皇自身は平和主義者であって,戦争への突入には最後まで反対したとか,開戦については,天皇立憲君主として政府や軍部の決定に従わざるをえなかったが,終戦については,天皇の意思で決定した」という議論である。しかし,このような議論は歴史的事実を踏まえたものとはけっしていえない」(251頁)。

 開戦決定について天皇は,閣議決定や軍部の意向にそのまま盲目的にしたがったわけでなかった。天皇は,最終的にみずから納得して開戦の意思を決定していた。1941〔昭和16〕年9月5日,御前会議での決定にさきだって,天皇近衛文麿首相,杉山 元陸軍参謀総長(陸軍),永野修身軍令部総長(海軍)を呼んで「絶対ニ勝テルカ」と聞き,杉山参謀総長の答えを聞いたうえで「アア分ッタ」と答えていた。さらに1941〔昭和16〕年10月16日,日米交渉継続の近衛内閣が総辞職し,代わって開戦派の東條英機が組閣を下命されるが,ここには天皇自身の選択が働いていた(252頁)。

 2) 敗戦責任

 戦争の終結においては確かに,1945〔昭和20〕年8月9日の御前会議において天皇の聖断を仰いで決定されるかたちを採った。だが,木戸幸一近衛文麿らのいわゆる宮廷派は,あくまで国体護持のためを配慮し,そのような非常手段を考えだしていた。それゆえ,天皇の聖断をことさら強調するのは要注意である。

 ならば,1945年2月の段階で近衛が早期終結論の意見書を提出したときに,天皇はすでに決断をすることができたはずである。その後にも続けられた戦争の段階に至るや,沖縄戦で約10万人の犠牲者,広島・長崎での原爆投下によって約60万人もの被爆者を出した。そのような早期終結論を「モウ一度戦果ヲ挙ゲテカラデナイト中々難シイト思フ」といって受けいれなかった(253頁)。

 山内は3月10日の東京下町大空襲など,日本全土に投下された焼夷弾による物的被害や人的犠牲には触れていない。だがこの被害・犠牲も,1945年というすでに圧倒的に〈負け戦〉の段階:過程において,昭和天皇がまだ「モウ一度戦果ヲ挙ゲテカラデナイト中々難シイト思フ」といいはっていたように,彼のはかない〈個人的な希望〉に執着していたためにもたらされていた。

 この空襲の被害・犠牲に関しては,アメリカ側のおこなった無差別爆撃としても戦争責任の問題があるのは当然である。しかし,それ以上に,大東亜戦争の戦争段階をそこまで引き延ばしてしまった「昭和天皇の〈戦争指導〉」の拙劣さは,彼の「政治的・道義的な責任」を免れがたいものにさせている。

 

  それでも,退位しなかった昭和天皇政治責任

 天皇裕仁は,大東亜戦争が出したその結果に即して「責任の所在を内外にはっきりと表明すること」がないまま続けて,戦後の日本社会を天皇として生きてきた。彼は,退位するというかたちでも責任をとらなかった(横田・江橋編『象徴天皇制の構造』Ⅲの5「天皇の戦争責任」253頁)。

 『マッカーサー回想記』は,1945年9月27日自分を訪ねてきた裕仁がいったという「戦争責任自己負担」説を提供している。しかし,この説は必要かつ十分に実証するための歴史的な材料をもちあわせていない(254頁)。マッカーサーが提供した俗説である。

 この昭和天皇による「戦争責任自己負担」説は,マッカーサーがのちに書いた回想録のなかで語っただけのものである。敗戦後ただちに,それもすなおに「自分の麾下に入った裕仁」のために,そのように潤色した記述をおこなったとみるほうが無難な「歴史と文献の解釈」である。

 山内敏弘いわく,昭和「天皇がそれに近い趣旨の発言をしたとしても,それは,一般国民にはそして戦争の被害を受けた諸外国の民衆にはなんら明確には表明されなかった」。結局「天皇の責任の問題は」「あいまいなままにしてしまったことは,第2次大戦後におけるアジアと日本の関係にとっても,また日本における平和的で,民主的な責任政治の発展にとっても,決してプラスにならなかった」(254頁)。

 

  3月10日下町大空襲などに対する天皇の謝罪はあったか

 昭和天皇は 1945年3月18日,大空襲跡から1週間以上経ってから,屍体などが始末されたものの無惨な焼け野原となった東京下町を視察した。そのとき撮影された昭和天皇の写真が,つぎのものである。翌日の3月19日,『毎日新聞』と『朝日新聞』の1面に掲載されたその写真を紹介する。

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 下の『朝日新聞』の天皇写真を借りたブロガーは,こう記述していた。

 

 --昭和の時代のヒロヒト回顧録となれば,毎度必らずこの写真が問題になる。東京大空襲で10万人が死んだ昭和20〔1945〕年の3月。その1週間後に焼け野原をきれいな軍服で視察するヒロヒトは,「まだまだこんなものか」と思い,まだまだ「1億玉砕には遠い」と思い,敗戦明らかな戦争を継続する。方針は変えない。

 

 笑い話なのだが,爆撃空襲に東京大火災に対抗する庶民の集団は,バケツリレーにあったということなのだ。都民1千万人が隅田川からバケツリレーですべての火災を消火すれば,米軍は爆弾がなくなって,戦争に負ける。あるいは低空のB29を竹やりで撃墜すると,マンガ程度の第2次大戦だったことは,かなり隠される。

 

 この3月に,いい加減に降伏でもすれば,広島長崎はなかったと,前には反天皇学者が大声で戦争責任を追及したものだが,彼らは死に絶えて,安倍晋三ごときの時代になれば,およそ改ざんされてくる。悪いのは東条英機で,ヒロヒトに責任はない。笑わせるな,ヒロヒト大元帥にいたのだ。

 

 その後4月には池袋に城北大空襲があって,同じ爆弾が落ちてきたが,山の手のこざかしい庶民はバケツリレーなど放棄して逃げた。だから3千人しか死んでいない。空襲のど真ん中で,逃げるな。バケツで消火しろとは,自爆被災しろという死刑にも等しいことを草民(国民)は強いられた。

 

 人の命などは「草」と同等と,ヒロヒトはいっていたのだ。天皇制などは架空のマンガでしかない。ヒトラーよりも,ルイよりも,強権な専制だったという学者もいるが,言論はいまでもかなり封じられている。

 

 ヒロヒトマッカーサーに死刑を自主申告したというのだが,それは拒否された。なのに,天皇無罪がいまでは主流派になっているとは,歴史は時間とともに好都合に解釈される。

 

 そんなうしろめたさがいまでもあって,アキヒトにしても,沖縄,広島,長崎に公式慰問はできていないのだ。原爆投下国のオバマが先に広島に来るというのに,身内が未だでは,それは歴史の改ざんおかしいというもんでしょ。情けない。

 

 実録を本気で描くなら,肝心なところ省略してはダメなんですが。日本の正しい歴史認識とは,永遠の向こうの宇宙の彼方に吹き飛ばされている。それを世界中が笑っているのだが。

 註記)「『昭和天皇実録』にない,ヒロヒト昭和天皇)戦争責任」『sptaka のブツブツDiary』2014-09-09 14:16:09,https://blog.goo.ne.jp/sptakagammon/e/914983c07a806b3d3d3c7abf25e30cfe

 前掲した新聞の写真には,東京下町大空襲のあとに残された「絨毯爆撃による悲惨な修羅場」が写っていた。しかし,この市民に向けられたアメリカ軍B29による市民無差別空襲のために殺された帝国臣民(天皇陛下の「赤子たち」)の屍体は,天皇が3月18日に視察に来るまでには,きれいに(?)片付けられていた。

 まるで戦場跡と化したそうした下町の様子を見学した天皇は,東京都民などに対して事後,その犠牲を心底から詫び,謝罪したことがあったか。この指摘は,毎年8月15日に武道館で執りおこなわれている「全国戦没者追悼式」で天皇が読みあげる追悼文に対して,なされるべきものではなかった。

 1945年の2月段階で,「モウ一度戦果ヲ挙ゲテカラデナイト中々難シイト思フ」とのたもうた彼であった。3月以降も日本全土に対して猛烈にしかけられていたB29 の「焼夷弾による都市焼尽作戦」をみせつけられていても,その信念・確信は変わらなかった。「国体の護持」(天皇一族の保持・延命:サバイバル)が,なによりも一番大切だと考えてきた。

 それゆえいつまでも,日本帝国側は「戦果ガ挙ゲテカラデナイト」いけないのだなどと考えつづけ,特攻作戦などを継続させていた。そうであったがゆえ,あの戦争を指揮した最高責任者としては,結局〈無知・無策の無責任きわまりない大元帥〉であったことになる。

 ただし,この人が,大東亜・太平洋戦争が推移していった大局そのものを,実は一番よくしりうる立場に居たこともまた,「歴史の事実」の一側面として否定できない。

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