1942年4月18日,太平洋戦争の初期段階でアメリカ軍が決行した日本への「ドゥーリトル空襲」は,緒戦における旧大日本帝国の圧倒的な勝利に対して歯止めとなった作戦

 太平洋戦争は1941年12月8日(日本時間),日本軍の真珠湾奇襲をもって開戦した,当初は苦戦していたアメリカ軍であったが,その後4ヶ月あまりが経った1942年4月17日,それまでは連戦連勝でまさに破竹の勢いであった日本側に対して,それこそ頭から冷水を浴びせたごとき「仕返しの奇襲作戦」が「ドゥーリトル空襲」であった。

 この日本空襲に見舞われ頭に血が上った日本は,同年6月5日にミッドウェー海戦(Battle of Midway)をしかけることになった。この海戦で日本は虎の子の空母4隻とともに優秀な戦闘機乗りを失う結果にもなった。日本軍の当初の勢いはこの時を頂点とし,以後,下降線をたどるほかなくなった。

 1941年(昭和16年)12月8日月曜日のことであった。国営放送のNHKがこう放送していた。『大本営陸海軍部発表,12月8日午前6時。帝国陸海軍は本8日未明,西太平洋においてアメリカ,イギリス軍と戦闘状態に入れり」と,勇ましく帝国臣民たちに向けてしらしめた太平洋戦争の開始ではあったけれども,半年後にはすでに日本帝国「劣勢」に転回しはじめていた。 


  要点・1 市民無差別攻撃としての都市空襲

  要点・2 旧日本軍は日中戦争の時期から重慶市への「無差別攻撃となる爆撃」をおこなっていた


 「ドゥ-リトル日本本土空襲」の前に「重慶爆撃」がなされていた

 a) 重慶爆撃とは,日中戦争(1937年7月7日開始)において,日本軍が中国本土に向けて実行した都市空襲作戦である。その戦争の過程のなかでも,1938年12月から1941年9月まで,日本陸海軍航空部隊が中華民国の首都重慶に対して反復・実施した大規模な戦略爆撃を指していうものである。

 重慶爆撃は,軍事施設・政府中枢機関・軍需工場などを目標に爆撃していたが,視界不良,爆撃精度,目標の位置の関係で,一般市民にも多くの被害を出したため,無差別爆撃と批判された。当時,重慶がどのような被害・損害を人的・物的に受けていたか,ここではくわしくは触れないが,つぎのような軍事史的概観のなかで位置づけられる出来事であった。

 スペインが内戦中であった1937年4月26日,フランシスコ・フランコらの反乱軍による北方作戦の一環として,ゲルニカ爆撃がおこなわれた。このとき,ドイツ空軍遠征隊であるコンドル軍団の爆撃隊が,その支援として空襲をおこなっていた。

 太平洋戦争が末期に近づいたころ,1944年11月からはアメリカ軍のB29による日本本土への空襲が始まった。当初は軍事施設を目標としていたこのB29の空襲は,1945年3月10日未明からの東京下町大空襲に代表されるように,のちに日本全国の都市すべてを標的にした「市民無差別・絨毯爆撃」に変更された。

 以上,1939年9月1日にドイツ軍のポーランド侵略に始まる第2次世界大戦の開始以前から,市民に対する無差別殺戮となるほかない都市空襲作戦が実施されていた。

 その第1陣となったのがドイツ軍による内戦下スペインの都市ゲルニカに対する空襲,第2陣となったのが日本陸海軍機による中国本土の重慶市に対する空襲,第3陣となったのがアメリカ軍機による日本本土に対する空襲であった。

 そうした都市空襲作戦の歴史的な足跡を理解したうえで,太平洋戦争開始後の間もないころ,日本本土に襲来した「ドゥ-リトル空襲作戦」を位置づける余地があった。

 b) 1941年12月7日(現地時間),日本軍に真珠湾をいきなり攻撃されたアメリカは,その後もフィリピンから敗退を余儀なくされた太平洋戦争における形勢の不利を,事後においてなんとかして挽回するために,きわめて特殊な作戦を計画した。

 アメリカ軍は,通常であればけっしておこなうはずもないある大胆な作戦を立案・実行した。通常であれば空母には艦載しない(できないし,するわけもない)「陸軍の爆撃機」を,しかも「片道切符のかたち」で日本本土に向けて発艦させたのである。

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 付記)空母ホーネット艦上に係留されているB25。通常は絶対にみられない光景。

 

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 付記)艦上・飛行甲板から離陸するB25。空母は全速力で風向かいに走行し,爆撃機の浮力がなるべく多くえられるように操舵しているが,このような光景は実に珍しいものである。逆に,爆撃機であるB25が空母の飛行甲板に着艦することは,とうてい無理ゆえ「片道切符」で出撃。

 要するに,その爆撃機(空母には16機のB25を「積んでいた」)は “爆撃機であるから” ,作戦終了後,空母には着艦(帰艦)することなど,初めからできない相談であった。それゆえ,片道切符の要領に即して飛行距離のほうを最大限に伸ばす作戦にしていた。

 それらの爆撃機は日本を横断するかたちで,東京や川崎,名古屋など大都市を通過しつつ爆撃する作戦を敢行した。そしてそのあとは,蒋 介石の中国軍が支配する中国国内地域にまで逃げ切って,とくに搭乗員たちが生きのびる戦術を採ったわけである。

 c) 太平洋戦争開始後,勝利を重ねてきて意気の上がっていた日本であるが,まさか敵機のそれも爆撃機が突如本土(しかも帝都!)へ突如襲来するとは思ってもおらず(いちおう警戒はしていたが,当時は実質的に「想定外」であった),ドゥーリトル中佐率いるB25爆撃機16機は,迎撃すらままならない状態で通過させていた。

 「ドゥ-リトル空襲」はともかく,太平洋戦争において日本本土を初めて襲った「敵機の空襲」となった。軍事施設だけでなく学校なども無差別にその空襲を受け,小・中学生からも犠牲が出ていた。

 さて,本日は2021年4月18日である。つぎの ② では『東京新聞』に出ていた関連の記事を引用するが,以上に説明した軍事史的な背景を踏まえて読む必要があることは,いうまでもない。

 

 「学校帰りに空襲,私は生と死の狭間にいた 初の本土爆撃から79年,敵機の記憶今も」東京新聞』2021年4月18日 06時00分,https://www.tokyo-np.co.jp/article/98810

 太平洋戦争開戦から4カ月余り経った1942年4月18日,真珠湾攻撃以降の連戦連勝に沸き立つ日本に,突如,米軍機が飛来した。初めての本土爆撃「ドゥーリトル(ドーリットル)空襲」では「帝都」東京も数カ所で被害を受けた。それから79年。淀橋区西大久保(現新宿区大久保)にあった自宅付近に焼夷弾を落とされた男性にとって,間近に迫った敵機の記憶はいまも生々しい。

  ※ 記事末尾の「解説」をここに出しておく ※


 ドゥーリトル(ドーリットル)空襲。1942年4月18日朝,太平洋上の米空母ホーネットから16機の爆撃機ノースアメリカンB25ミッチェルが飛び立ち,東京や埼玉,川崎,名古屋,大阪など各地に爆弾や焼夷弾を投下した初の本土空襲。作戦を指揮した1番機の機長名からドゥーリトル(ドーリットル)空襲と呼ばれる。全国で87人が死亡,500人近くが重軽傷。東京では尾久,早稲田鶴巻町,大久保,品川などが襲われ,十数人が亡くなった。

 

 その米爆撃機16機は,日本爆撃後,中国に向かった。しかし,15機の搭乗員は,飛行中に機外に脱出(パラシュート降下)するか不時着するかした。無事に中国に着陸した爆撃機は1機もなかった。中国で日本軍が支配する地域に不時着したために,捕虜になった搭乗員が8名いた。捕虜は日本に連行され,将校は民間人虐殺の咎で処刑された。

 ◆-1 見慣れない機体だな(?)と思ったら…

 「あそこを低空で,右から左へ飛んでいきました。その後ろで高射砲の弾がボーンボーンとはぜてね」。飯田橋の駅前から神楽坂を指さし,元小学校長小尾 昭さん(91歳)=新宿区=が話す。

 晴れた土曜の昼すぎだった。第一東京市立中(現九段中等教育学校)1年だった小尾さんは,半日授業を終えて駅に向かう途中,前方に見慣れない飛行機をみた。当時の少年たちは,日本の軍用機ならたいてい見分けがつく。

 だが,低空を飛ぶずんぐりとした機体は,しっているどの軍用機とも違う。しばらくボーッとしていると,不気味な空襲警報が鳴った。敵機はとっくに通り過ぎたあとだった。コースから,小尾さんがみたのはドゥーリトル隊長機だったとみられる。

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 付記)ドゥ-リトル中佐。日本奇襲の功績によってすぐあとに准将に昇進,中将までなった。帝国臣民側にいわせれば,いわゆる鬼畜米英のにっくき此奴となる……。

 止まった列車が動くのを待って家に帰った。大久保通りをいくと消防車のホースが延び,路地に入る角にロープが張ってある。立っていた警官に誰何され「僕の家,ここなんです」といって通してもらった。

【参考論文】から引用,東京都荒川区尾久町へ投下された爆弾の位置( 印)。

 

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 ◆-2 隣家に焼夷弾飛びこみ,宮様の視察も

 自宅前の空き地から先の十数軒が焼けていたが,かろうじて自宅は助かった。はす向かいの同級生(数学者として世界的に活躍した志村五郎さん)の家も無事だった。

 夕方,防衛総司令官だった宮様(東久邇宮稔彦王)が視察に来たのを2階の窓からみたが,母に叱られて家にこもった。不思議と恐怖感はなかった。

 大久保では幸い死者は出なかったが,小尾さんの隣家では「奥さんが窓を開けたところに焼夷弾が飛びこんだ。三和土に落ちて助かりました」。近くの家では飼い犬が焼け死んだ。周囲には焼夷弾が散乱し,生と死は紙一重だった。

 『都新聞』(東京新聞の前身の一つ)夕刊は「小癪,敵機京浜地方に来襲 九機を撃墜・忽ち撃退 我が方の損害軽微」と1面で報じた。実際は1機も撃墜できず,空襲により東京や大阪,名古屋で計87人が亡くなっていた。

 補注)大平洋戦争が深まるにつれ,この「ウソの公報」(いわゆる「大本営的な国家側の発表」式の虚偽戦果報告)が,事後においてもマスマス豪華かつ貧弱になっていく過程は,つとに有名な話であった。

 当時の軍部はすでに,ウソに満ちた公式発表を平然と繰り返していく予兆を,しっかりと準備していた。敗戦後も(いまもそうだが)「大本営発表」とはウソの代名詞として使用される決まり文句である。

 もっとも,最近における自民党政権はそれに勝るとも劣らぬ程度に,虚偽に満ちた政治をおこなっている。21世紀にいま,安倍晋三にせよ菅 義偉にせよ,戦時期に引けをとらないウソを吐きつづけている。

 被災を免れた小尾さんの家は,1945年4月13日,父の実家のある山梨に疎開した翌日,城北大空襲で全焼。大久保一帯は焼け野原となった。

 ◆-3 歴史を後世へ,原稿をつづる今日

 小尾さんら大久保小の卒業生たちは,ドゥーリトル空襲など戦争体験や戦前の暮らしをつづった原稿をまとめ,自分たちの歴史を後世に残そうとしている。

 小尾さんはいう。

 「さまざまな思い出を整理し,本にして残したい。大久保の子供たちは,戦時中でもどっこい生きていた。これから先もいろんな問題が起こるでしょうが『われわれも頑張ってきたんだからこれからの世代もがんば張って』というメッセージになるんじゃないかと思うんです」

 以上,『東京新聞』からの引用によって,「ドゥ-リトル空襲」を記憶する人物が語るところを聞いてみた。本ブログ筆者は,1945年3月10日「東京下町大空襲」についてはすでに記述したことがある。それに関連して最近,あらためて思いついた事実があった。

 というのはすでに故人になっているが,1942年4月17日,つまりドゥ-リトル空襲の前日に東京市(当時)の浅草で生まれていた兄がいたことである。下町大空襲の体験については母から2回ほど,ビデオに撮影してあった動画を観るかのように語ってくれた,その様子を聞いた。

 だが,この母が,1942年4月17日に東京の浅草で兄を産んだ翌日の18日に,ドゥ-リトル中佐が指揮する爆撃隊のB25が東京に襲来していた事実について,なんらか関係する記憶がなかったわけでないと推測してみた。

 だが,こちらの話は母が94歳で他界するまで語ることはなにもなく,聞けなかった。母が自身の記憶に残るような「1942年4月18日のドゥ-リトル空襲」を体験していなかったとは,とうてい思えない。彼女が浅草でお産をした翌日の,それも「大東亜」戦争初期に「帝都」が突然空襲に遭うという大事件が起きていた。

 要は, “多分あった” と思われてよい,その「空襲に関する母の記憶」に聞いてみなかった(「聞き取りができなかった」)のは,残念に感じる。とくにこの種の記憶,戦争の時代に人びとが体験した出来事については,「歴史の記録として文字に起こしておく」必要性を感じる。

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