敗戦時に起きた世紀的な事件,ソ連による日本兵などシベリア抑留問題

             (2010年12月30日,更新 2021年6月9日)

 ソ連によって,敗戦した日本軍の将兵など60万余名がシベリアに抑留された問題,これへの関与が強く疑われた旧日本軍高級参謀瀬島龍三が残した「歴史の闇」,軍隊というものの本質と性格は「敗戦した時にこそもっとも明白に露呈する」

 

  要点・1 いまだに真相が判明しない第2次大戦の日本敗戦処理をめぐる「この問題」をめぐる謎

  要点・2 瀬島龍三のごとき人物が敗戦後日本の経済社会のなかで活躍してきた形跡から,この国の本質に関してどのような含意を読みるべきか

  要点・3 旧日本兵は日本人だけではなかった

 

  シベリアに抑留された旧日本兵-日本人・中国人・朝鮮人

 本(旧・々)ブログは「2010.10.18」に,主題「戦後強制抑留者特別給付金請求受付」,副題「シベリア抑留問題など」「日本国籍者に限定する歴史的理由はあるのか?」を記述していた。この記述は本ブログ内にまだ復活・公表させていない。そこで,まずその要点を紹介しておく。

 『日本経済新聞』2010年10月12日夕刊「夕刊文化」欄に「こころの玉手箱女優 松島トモ子(1) シベリアに眠る父の墓の絵図 死後45年,ようやく現場探し出す」という寄稿(インタビュー記事を整理した文章)が掲載されていた。これは,「おそらく日本人の多くの家族たちが体験した,涙,なみだ,ナミダの,とても悲しい物語」,それもほんのひとつの実際例に過ぎなかった。

 ところが,「シベリアに強制抑留されたのは,日本人だけでなく他民族もいた」。日中戦争から大東亜戦争へと戦争が進行するなかで,日本軍はとくに植民地支配下朝鮮人若者も徴兵せざるをえなくなった。この関係で,旧「満洲満洲国」方面に日本軍兵士となって配置された朝鮮人も,ソ連が1945年8月9日未明に参戦し,日本が敗戦したあと,日本人兵士〔など〕たちとともにシベリア各地の収容所に抑留され,強制労働の奴隷的使役に駆りだされるはめになった。

 前記,本(旧・々)ブログ「2010.10.18」の記述は,最近作の白井久也『検証 シベリア抑留』平凡社,2010年3月のなかから,こういう統計を引用していた。なお,旧・々ブログの段階では添えていなかった白井の同書におけるその統計「表」を,ここではあらためて引用しておく。

 「シベリア抑留者総数と死亡者の明細」(「全国抑留者補償協議会」提供)は,その総数 63万9776名のうち「中国人1万5934名,朝鮮人1万206名,モンゴル人 3633名の計2万9773名」が含まれていた〔そのほか,満洲人・ロシア人・マレー人もいた〕事実を教えていた。つまり,シベリアに不法に抑留されたほぼ64万名のなかには,これほど多くの中国人・朝鮮人・モンゴル人などが含まれていた(同書,106頁)。

 

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  戦争が終わればもとどおり「赤の他人」

 1) シベリアに抑留された元日本軍の朝鮮人兵士

 日本帝国の敗戦を契機にこのように,日本軍の将兵になって〔=「にされて」〕戦い,命を失わないまでも,ソ連の虜囚となってしまった「旧植民地出身の人びと」が多数いた。ソ連・旧満州・中国方面のみならず,太平洋地域の各戦線に駆りだされた朝鮮人の軍人・軍属も大勢いた。こちらでも多数の戦争犠牲者を出している。要は,かつて帝国臣民となって「天皇陛下のために戦った〔戦わされた〕」他民族の中国人・朝鮮人が,歴史的に実在した。

 ところで,今日における本ブログの話題に深く関連した,つぎのような新聞記事をみつけた。韓国の主要紙のひとつ『中央日報』の記事である。

    ★ 強制動員の朝鮮人捕虜2千人がシベリアで強制労働 ★

 

 第2次世界大戦当時に日本の中国侵略のために強制動員され,終戦後にシベリアや中央アジア一帯の捕虜収容所に抑留された朝鮮人が最低でも2000人余りに上ると公式に確認された。また,抑留され現地で死亡した60人余りの名簿も公開された。

 

 対日抗争期強制動員被害調査および国外強制動員犠牲者など支援委員会は〔2010年12月〕27日,「シベリア抑留朝鮮人捕虜問題真相調査」報告書をまとめ,「1945年の終戦後に,強制徴用された朝鮮人2万人余りのうち半分が捕虜として抑留され,彼らのうちシベリアや中央アジア一帯まで移され3年以上長期労役した人は最低でも2000人余り」と明らかにした。 これはロシア文書保管署の資料,朝鮮人捕虜名簿,ロシア政府が発給した労働証明書などを通じてえた数値だ。

 

 報告書によると終戦後に日本軍捕虜60万人余りが2000カ所余りの捕虜収容所に収容されたが,朝鮮人も日本軍と区分されずに抑留された。日本軍指揮官がソ連側に軍人名簿を渡すさいに韓国人の日本式の名前をそのまま記載したためよりわけることができなかったとみられる。

 

 当初捕虜として抑留された1万人のうち7000人余りは朝鮮人の身分が明らかになったり,健康が悪化するなどで比較的早い時期の1948年末に解放された。 60人余りは現地で死亡したことが確認されたが,1991年にソ連が日本政府に渡した抑留死亡者4万人余りの名簿から発見された。

 注記)http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=136151&servcode=400§code=400 〔 〕内補足は本ブログの筆者。この韓国紙『中央日報』発行年月日は,上記ホームページ・アドレスなどからは判読できず不詳。2010年12月27日の聯合ニュース(韓国)配信による記事である。

 2) 創氏改名悪影響

 この 1) の報道から判明するのは,つぎのような点である。

 a) 抑留死亡者4万人のなかに朝鮮人60名がいたのであれば,単純に考えてこれを15倍すれば,60万人という数字全体〔シベリア抑留者総数にほぼ近い〕に対応する朝鮮人死亡者の推定数は900名となる。しかし,これは死亡者数であり,抑留者数のうち死亡者の比率が約1割であったので,さらにこれを10倍しておくと朝鮮人の抑留者は9千名であったという数字が導きだせる。きわめて粗雑な計算であるけれども,シベリアに抑留された “旧日本軍の朝鮮人兵士の実数” に接近できた計算にはなっている。

 b) 「当初捕虜として抑留された1万人のうち7000人余りは朝鮮人の身分が明らかになった」のであれば,この比率を利用して,前段 a)  の数字をさらに 0.7 で割ると,1万2857名という人数が算出される。のちの議論で関連する数値ではないかと思われるものに,2万人の身元不詳者がいるので,この数値のなかには,a)  と b)  の計算推定数の違いを埋めあわせられる〈実数〉が含まれているかもしれない。

 c) 日本帝国による朝鮮統治のなかで,1940年から「創氏改名」政策が朝鮮人に強要されていたために,シベリアに抑留された旧日本軍の朝鮮人兵士が「本名」を名乗らず,敗戦後史のなかで「日本〔国籍〕人」あつかいされる結果をもたらした。

 ともかく,中央日報の記事は「強制徴用された朝鮮人2万人余りのうち半分が捕虜として抑留され,彼らのうちシベリアや中央アジア一帯まで移され3年以上長期労役した人は最低でも2000人余り」と報道しており,前出の白井久也『検証 シベリア抑留』平凡社,2010年3月も指摘するように,1万人強の朝鮮人がシベリア抑留の目に遭った事実が,歴史上の出来事としてより明確になった。

 d) 問題は,「朝鮮人も日本軍と区分されずに抑留された」のは,旧「日本軍指揮官がソ連側に軍人名簿を渡すさいに韓国人の日本式の名前をそのまま記載したためよりわけることができなかったとみられる」ことにある。創氏改名については金 英達『創氏改名の法制度と歴史』明石書店,2002年がくわしい歴史的な解明をおこなっている。

 創氏とは,日本の家制度を象徴する氏システム(同一戸籍に掲載されている者は全員戸主と同姓,夫婦同姓)を朝鮮に法的に導入することであり拒否は不可能であった(金『創氏改名の法制度と歴史』,伊知地紀子「あとがき」225頁)。

 中央日報の記事に書かれているように,シベリアに抑留された旧日本軍の朝鮮人兵士は,朝鮮人の身分であることが判れば早い時期に解放された。ところが日本帝国が朝鮮支配の末期,朝鮮人に強制した「創始改名」のために,上官の名簿作成・提出のさい朝鮮人が日本人と同じに措置された。

 『朝日新聞』2009年9月10日朝刊は,ロシアの公文書館に整理・保存されていたシベリア抑留者の個人カードの一部が,朝日新聞に公開されたことを報道していた。「日本政府の推定する死者約5万3千人のうち,いまも収容所や死亡地が判明していない人は約2万人にのぼる」とも説明していた。この約2万人という人数をめぐっては,日本人だけなのか,それとも朝鮮人も含めているのかというふうに問うてみる価値がある。

 3) シベリアに抑留された旧日本軍の日本人兵士と朝鮮人兵士

 小熊英二の著作『「民主」と「愛国」-戦後日本のナショナリズムと公共性-』新曜社,2002年の「あとがき」には,こういう話題が紹介されていた。小熊英二は,自分の父親が「シベリアに抑留された体験をし」た旧日本軍兵士の1人であって,「その父親(小熊謙二)は,シベリア抑留中に親友であった朝鮮人兵士」「が死んだ体験もし」た「事実を息子の小熊英二に語りついで」きた。

 補注)小熊英二『生きて返ってきた男-ある日本兵の戦争と戦後-』岩波書店,2015年は,「シベリア抑留」問題に関した「歴史の展開」の一事例を,「戦争史から生活史までおよぶ広い視野」をもって,より具体的に描いている。

 小熊英二はそのさい,自分の父親謙二の実体験をとりあげたわけだが,この父親の生涯における〈シベリア抑留〉問題を主軸に置き,これに関連するあれこれの問題をとりあげ考察する手法をもちい,執筆していた。この本は新書判だが400頁近い分量である。

 セルゲイ・I・クズネツォフ,岡田安彦訳『シベリアの日本人捕虜たち-ロシア側から見た「ラ-ゲリ」の虚と実-』集英社,1999年は,ソ連側の統計資料にもとづき「ソ日戦争中における関東軍の軍事捕虜数」〔総数61万3002名〕のなかに中国人1万5934名と朝鮮人1万206名をかかげている(白井久也『検証シベリア抑留』56頁)。

 「ソ日戦争中における軍事捕虜数」という表現は,ソ連側の勝手な命名であって,必ずしも両国の軍事行動中に捕虜されたのではない多くの旧日本軍兵士,それに民間人の男性たちや満洲国政府官僚たちも多数含まれていた事実を,一律にごまかすものである。ソ連に特有のごり押しの屁理屈的な表記である。これについてはさらに ③ で論及する。

 クズネツォフ『シベリアの日本人捕虜たち』は「日本の軍事捕虜の帰国者数(1956年10月まで)および「ソ連領土のラーゲリで死亡した日本の軍事捕虜の数」をかかげている(表6:196頁,表7:220頁)。このうち前者表6は「帰国者総数」のうち朝鮮人の数を1万134名と記しており,当初軍事捕虜にしたさいの数1万206名よりも若干減っている。この減った人数は,前述の『中央日報』の記述「現地で死亡したことが確認された」「60人余り」というものに近い。

 第2次大戦で2千万人もの犠牲者を出したと推定される「ソ連は日本や極東諸国に自国の影響を拡めるため,軍事捕虜を利用しようとした。このためラーゲリ内では全体主義的なイデオロギー教育がおこなわれた。一部の日本人たちは特別の政治学校,マルクス・レーニン主義学校で学習させられた。ソ連は日本やアジアその他の国々で仕事をするための,一種の『影響を及ぼす人員』『秘密情報員』を養成したのである」(272頁)。

 本ブログの筆者が大学・大学院で勉強していた時期,某大学商学部の教員のなかにそのソ連の『影響を及ぼす人員』『秘密情報員』に該当すると推測される人物がいた。この教員は満洲国で仕事をしていた経歴を,たった1度だけ語ったことがあるが,これ以外はまったくといっていいほど,触れる機会がなかった。もっとも,クズネツォフ訳『シベリアの日本人捕虜たち』も指摘するように「ソ連内務省の政治機関がはらった努力はとうてい成功したとはいえない」という評価に賛同できるような,彼の姿:生活」を観察したつもりでもいる。

 

  根こそぎ日本帝国関係者男性を抑留したソ連

 1) ソ連に抑留された人びと

 セルゲイ・I・クズネツォフ『シベリアの日本人捕虜たち』の「訳者あとがき」は,こう解説している。

 1945(昭和20)年8月15日,日本がポツダム宣言を無条件受諾した結果,ソ連領内各地に抑留され,2年から4年間にわたり強制労働を余儀なくされた日本人は約 60万名といわれる。「軍事捕虜」といっても,抑留されたのはソ連軍と先頭をした旧満洲(現在は中国東北部)にいた関東軍,サハリンやクリル諸島などにいた軍人の将兵だけでない。

 

 ソ満国境近くにいた開拓民の農民,満洲国の官吏,満鉄(南満洲鉄道会社)や満業(満洲重工業開発会社)など国策会社と,さらに協和会や新聞社の幹部職員,また従軍看護婦や軍関係者の事務職員だった女性など約5000名も含まれている。これら軍人以外の人は,いわゆるソ連軍の「捕虜狩り」の網によって捕えられた人たちで,年齢も16,7歳から50歳くらいまでとさまざまであった(「訳者あとがき」282-283頁)。

 筆者は,満洲国「建国大学」で経営学の教授として活躍していたところを,ソ連参戦を受けて根こそぎ動員された結果,シベリア抑留の辛酸を舐めるはめになった経営学者と,昭和50年代前半に「論争した体験」を有する。

 シベリアに抑留され強制労働を経て日本に生還したその教授は,日本帝国が創設した傀儡官立「建国大学」で自身が挙げてきた「帝国主義思想」にもとづく研究成果を,敗戦後にも妥当すると誇っていた。彼の場合,シベリア抑留の経験はひたすら「たいへんであった」「戦争はこりごり」だという回想に終始していた。

 戦時中に自身が採用していた〈学問の立場〉が,日本帝国にひたすら忠実な思考をする知識人として,アジア侵略に加担する国家思想にもとづく理論を構想・展開していた〈事実〉を,客体的にはまったく認知できていなかった。それは歴史意識を欠いた半端な社会科学的な知見であって,時代の流れに盲目の立場を展示していた。

 補注)旧「満洲国」ではエリート層に属していた者が,敗戦を機にシベリア抑留組になってしまった実話はいくらでも残されている。ここでは,最初のほうで氏名が出ていた松島トモ子の父親の例を挙げておく。

    ★ 生後10ヶ月,引き揚げ船で日本へ ★

 

 終戦の年の昭和20〔1945〕年7月10日,松島トモ子さんは旧満州奉天(現在の中国瀋陽市)の満鉄の病院で生まれた。父は三井物産に勤務していたが,トモ子さん生まれる2ヵ月前,現地召集を受けシベリアで捕虜となっていた。

 

 そして終戦,10ヵ月のトモ子さんは母の懐に縫い付けられた袋に入れられ北奉天駅から無蓋貨車で引き揚げ船が待つ港へ。昭和21年6月のことだった。トモ子さんは「母はその時25才でした。想像を絶する苦境にもかかわらず “子守歌” と精一杯の “笑顔” を私に与えてくれたことは本当に感謝です。中国残留孤児のニュースを見聞きするたび複雑な思いがします」と語る。

 註記)「松島トモ子(まつしまともこ)プロフィール-感謝の心を忘れずに-」https://meguro.terminal-jp.com/number/0512/intv_01.htm

 2) シベリア抑留体験の物語化

 シベリアに抑留された日本軍将兵のみならず,満洲国関係者によるシベリア強制収容・強制労働の体験をつづった回想録が数多く公表されてきた。本ブログ筆者の手元にあるうちから2冊,日帝時代の満洲国のなかでその「底辺にいた兵士」と「頂点にいた法曹人」の著作をそれぞれ簡単に紹介する。

 a) 伊藤登志夫『白きアンガラ河-あるシベリア捕虜収容所の記録-』講談社,昭和60年〔思想の科学社,1979年〕は,上等兵であった著者の抑留体験記である。本書のカバーに書かれている解説は,こうなっている。

 飢えと寒さと絶望の強制労働の日々がつづく極限状態のなかで,旧軍隊組織が解体し,旧いイデオロギーを捨てて民主運動に目覚めていく過程が,個人のみならず集団の体験としてみごとにとらえられている。

 けれども ② の 3)  末尾で触れたような,のちに日本で『影響を及ぼす人員』『秘密情報員』となっていくはずの抑留者たちの話題は,シベリア体験のなかではそれほど表面化していない。

 伊藤登志夫は「日本人捕虜の作業能率を向上させるために,ソ連側が,自国民に対しておこなっているのと同じ手段,つまり,共産主義教育を進めてきたのは,いわば当然だった」といい,「それは戦時下の日本が,連行されてきた朝鮮人たちに皇道哲学を押しつけたことと似ていた」と記している(226頁)。

 そのようにシベリア体験を語った伊藤であっても,同じように強制労働をしていたシベリアの虜囚のなかに「朝鮮人がいた事実」には気づいていなかったようである。

 b) 高杉一郎『わたしのスターリン体験』岩波書店,2008年〔1990年〕は,東京文理科大学英文科卒業後,改造社に勤務した著者が,1944〔昭和 19〕年に徴兵されてから敗戦をハルピンで迎え,シベリア抑留を体験した軌跡を語っている。高杉が帰国後に書いた抑留体験記『極光のかげに』目黒書店、 1950年はベストセラーとなった。

 高杉『わたしのスターリン体験』は,シベリア抑留体験をとおしてかいまみたソヴェトへの憧憬=「理想」が偽りである点をみぬいた思想体験を語っている。この点でいえば高杉は,伊藤『白きアンガラ河-あるシベリア捕虜収容所の記録-』とは対照的な知的変遷の過程を告白している。

 c) 前野 茂『ソ連獄窓十年 (1) (2) (3) (4) 』講談社,昭和54年は,敗戦時,旧満洲国の文教部次長であった前野がソ連司法機関に捕えられから11年もの長きにわたって,スターリン治下のソ連政治監獄において過ごし,言語に絶する悲惨な人生となった時期を自伝に語ったものである。 

 旧「満洲国」で司法関係の仕事に就いていた法務官僚前野 茂は,『ソ連獄窓十一年 (1) (2) (3) (4) 』講談社文庫,昭和54年を,『生ける屍』春秋社,昭和36年の再版として公表している。前野は,ソ連に抑留者のなかでも最長に拘留された人物の1名である。

 前野 茂は,ソ連軍が参戦したさい精鋭を誇るはずの関東軍が「一般市民を見捨て,いち早くおのれの妻子を戦線の後方遠く,もっとも重要な軍事輸送機関である鉄道を使用して逃がせる」,「あまりに身勝手すぎ,あまりに非見識のやから」がいた事実を,強く非難していた(『ソ連獄窓十一年 (1) 』47頁)。

 しかし,満洲国の高級法務官僚として,1945年敗戦時までにおける関東軍の実態推移--最強だといわれていた関東軍であったが,当時まですでに,南方戦線に向けて多くの戦力を引き抜かれており,実質カカシ状態になっていた--に皆目気づかなかったのであれば,これはうかつ以外のなにものでもなかった。

 前野 茂は,関東軍のそれも一部の高級将校たちだけが,自分たちの家族をまっさきに安全地帯に避難させた事実=「旧日本軍の体質」を,満洲国の高級法務官僚であった自分自身の問題性に関連づけて把持できていない。旧日本軍の規律:「上官の命令は天皇陛下の命令である」という絶対命題に忠実にしたがうことは,前野の立場においても同一であった。非難を放つ本当の相手はむしろ,敗戦後の身過ぎを上手にしてきた天皇ヒロヒトであった。

 ところが,前野 茂は『満洲国司法建設回想録』日本教育研究センター,1985年も公表し,旧「満洲国」における自身の貢献を自慢げに語っていた。いわく「われら司法同人の間には,一片の侵略的意志はなかった」(同書,序)という文句を聞かされると,旧「満洲国」法曹人によるこの種の「虚偽的な帝国意識」の高度な驕慢・無神経ぶりには,感心させられるという意味以上に,その無知さ加減が批判されねばなるまい。

 補注)前野 茂は関東軍に対して,前述のように「あまりに身勝手すぎ,あまりに非見識のやから」と,きびしく非難していた。だが,満洲国における司法にたずさわていた前野自身が,中国人や朝鮮人,ロシア人たちに対しては逆に,「あまりに身勝手すぎ,あまりに非見識のやから」の1人であった事実には,なぜか無頓着であった。

 上田誠吉『司法官の戦争責任-満洲体験と戦後司法-』花伝社,1997年は,前野 茂の司法感覚を,つぎのように批判している。

 「満洲国」の時代は「満洲戦争」の時代であった。日本帝国との関係だけを念頭に置いていた「治外法権の『撤廃』は『満洲国』の独立ではなく,その意味では撤廃ではなく,日本の支配の全面的な強化であった」。

 

 それゆえ「『満洲国』の司法官として海を渡った多数の裁判官,検察官たちが,この地の植民地統治に果たした役割」については,「植民地責任が,どのように意識され,論議され,そして清算されたのか,あるいは清算なかったのか」が問題となる(36頁,30頁参照)。

 

 前野 茂は,満洲国が建国されてから2年が経過した1934年,日本からこの満洲国の司法官として赴任したうちの1人であった(13頁)。

 

  自国将兵ソ連に手渡したと疑われた旧日本軍高級参謀:瀬島龍三

 栗原俊雄『シベリア抑留-未完の悲劇-』岩波書店,2009年は,関東軍参謀であった瀬島龍三が日本将兵ソ連抑留を認める〈密約〉を交わしたのではないかと疑われていた点を記述している(30-31頁)。瀬島自身も11年間のシベリア抑留を体験させられていた。

 この旧日本陸軍参謀瀬島龍三は,文民統制の効かなかった日帝時代の高級参謀として,きわめて恣意的に独断する行動を記録してきた人物である。そのために,ソ連軍と日本軍との停戦交渉に参加した瀬島が,日本軍将兵ソ連に提供する密約を交わしたのではないかと疑われたのである。

 もっとも,瀬島参謀のこの〈密約:労務提供〉問題については,前述に出ていた白井久也『検証シベリア抑留』平凡社,2010年が,こう触れている。「瀬島疑惑は」「第3者の手によって,完全に晴らされることになった」。「このことは」「関東軍将兵の長期シベリア抑留は,ソ連の当時の最高指導者スターリンの意思決定によっておこなわれたことにほかならない」(55-56頁)。

 ソ連の歴史的な独裁指導者スターリンは,いったいいかほど「人間を殺してきたのか」? この狂人的な指導者を長期間独裁者として戴いてきたソ連のみならず,周辺の社会主義諸国は,彼の生存中「最大限の政治的不運・経済的不幸・社会的不満」を配給されつづける日常生活を過ごしてきた。

 最後に,蛇足的な話題になる。島田敏彦『関東軍講談社,2005年は,大東亜戦争を始める昭和16〔1941〕年に関連する話題であるが,「原善四郎参謀が兵隊の欲求度,もち金,女性の能力等を綿密に計算して,飛行機で朝鮮に出かけ,約1万(予定では2万)の朝鮮女性をかき集めて北満の広野に送り,施設を特設して “営業” させた,という一幕もあった」と記述している(222頁)。

 旧日本軍に対して性的奴隷となって強制的に駆りだされた朝鮮人女性は,その分だけでなく,全体ではどのくらいの人数にのぼるのか? 考えただけでも恐ろしくなるほどの数字であることは予想がつく。シベリアに抑留された朝鮮人兵士もさることながら,こちら「従軍慰安婦:性的奴隷」に強制動員された朝鮮人女性は,消耗品のように使い捨てられてきた。

 現在(2020年代のこと)は,日本のネトウヨ的な思潮のなかでは,慰安婦はいたが従軍慰安婦は存在しなかったなどと,「歴史理解」としてならば,空想的に独自の意見を吐く者がいる。だが,その発想は「軍隊があった」が,「兵士はいなかった軍隊である」とでも表現したらよい,まさに〈矛盾そのもの〉に相当する奇妙奇天烈な考え方である。あるいはまた,それは,あの戦争の時代に「看護婦はいたが,従軍看護婦はいなかった」と強弁する話法にも似ている。

 大日本帝国時代の旧日本軍内に従軍慰安婦「制度」はなかったという〈意図的な誤解〉にこだわるネトウヨ的な思潮のなかには,確かに従軍慰安婦という歴史的な存在はありえないものかもしれない。

 けれども,いまの若者層の何代か前のオヤジたちが兵士だったころ,日本軍が侵出していた現地兵舎のそばには,そのほとんどにおいて慰安所が設営されていた。そこにはもちろん朝鮮人を主に日本人や現地の女性たちが慰安婦として動員されていた。

 従軍慰安婦というコトバの好き嫌いとはまた別に「歴史の事実」は,まっとうに認識されねばなるまい。林 博史『日本軍「慰安婦」問題の核心』花伝社,2015年は「慰安婦問題」について「これだけ膨大な資料がある! 歴史的事実は消せない」と討究する学術書として公刊されていた。

 林 博史の同書以外にも,従軍慰安婦問題に関する研究の蓄積は豊富に公表されている。シベリア抑留問題に関する研究もかなり進捗してきた。戦争の時代における諸問題である。日本人たちが加害者になった歴史の記録があれば,日本人が加害者になった歴史の記録もある。

 日本人の立場からは,両「歴史の問題」を同等・同質に直視できない点そのものは,理解できないのではない。しかし,だからといって,従軍慰安婦問題を全面否定したい者は,シベリア抑留問題も同様な観方であつかわないことには均衡がとれない〈歴史の理解〉になるのではないか?

 シベリア抑留問題に関連して瀬島龍三の問題は,回避できない重大な論点を提供しているが,この記述では詳論できなかった。日をあらためて議論することにしたい。

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