旧ソ連邦の日本軍将兵シベリア抑留問題

             (2009年10月31日,更新 2021年6月11日)

 第2次大戦後に 旧ソ連・シベリアに抑留された日本軍の問題,社会主義国家体制の無法と暴力体質の問題

 

  【要 点】 シベリア抑留は,どこの・誰の責任であるのか?

 

  栗原俊雄『シベリア抑留-未完の悲劇-』2009年9月

 本書,栗原俊雄『シベリア抑留』岩波書店は,関連の著作があまた刊行・公表されている〈シベリア抑留〉問題を,あらためて統括的に考察した新書判の著作である。この本の帯には「極寒,飢え,重労働,そして吊るし上げ,墓掘り・・・」「60万人を襲った悲惨の全体像に迫り,帰還者らのその後の人生と闘いを描く」と,宣伝文句が謳われている。

 さらに,同書のカバーの内側に折りこまれた部分には,「敗戦直後,旧満州の日本人兵士ら約60万人がソ連軍に連行され,長期間の収容所生活を送った『シベリア抑留』。極寒・飢餓・重労働の中で約6万人が死亡したこの悲劇は,いまも完結していない。衝撃的な史料の発見,日本政府への補償要求と責任追及・・・。過酷な無賃労働を強いられた帰還者は,『奴隷のままでは死ねない』と訴える」,と書かれている。

 補注 2021年6月11日)この指摘,シベリア抑留という問題はいまも完結していないといわれる「歴史の出来事」は,ソ連が解体してロシアになってから関連する情報がかなり公にされたものの,あまりにも悲惨で残酷な「日本・日本人たちの戦後体験」は,これから何世紀が経とうとも,けっして忘却されえない〈敗戦直後〉の残酷な記録である。

 第2次世界大戦は,日本帝国の降服をもってようやく終結した。この帝国のミカド:昭和天皇は,日本の敗戦必至のみとおしがだいぶ以前より明白な戦局の段階になっていたにもかかわらず,1945年2月14日の時点で愚かにもこういっていた。

 「もう一度,戦果をあげてからでないとなかなか話はむずかしいと思う」など(たとえば,黒田勝弘・畑 好秀編『昭和天皇語録』講談社,2004年,170頁)と,帝国臣民がすでに戦争遂行のせいで塗炭の苦しみをしつつ戦時生活をしのいでいることなどそっちのけで,いまさらのように呑気にも戦争督励を,現人神の立場から吐いていた。

 日本帝国が世界に誇った,口径46センチもの主砲9門を搭載する戦艦「大和」は,1945 年4月,片道の燃料しか積まずに沖縄県に向かって出撃した。沖縄までたどりついたら座礁させ,そこで大和じたいを巨大砲台にして戦う作戦であった。しかし,大和は沖縄までたどりつけずに撃沈された。4月7日正午過ぎからのアメリカ軍攻撃機による雷撃・爆撃の猛攻に,並はずれた超弩級戦艦もなすすべもなく海の藻屑となった。

 21世紀のいまの日本で,あくまで想像での話になるが,大和・武蔵級の軍艦を1隻造ったら,どのくらいの経費が必要か? 主にアメリカが多く所有している航空母艦1隻の戦術的運用のためには,3千人以上にもなる乗員も含めて莫大な国家予算を費消する。

 最新式の戦車が 10数億円,最新式の戦闘機が1機百数十億円かかる。日本は,イージス艦艇を1隻1千数百億円でアメリカから買わされている。情報技術を最高度に駆使して戦うイージス艦は,IT装備を満載していても排水量1万トンにもならない軍艦である。

 今〔2009〕年1月に就役したアメリカの正式本格空母 “ジョージ・H・W・ブッシュ” は,排水量基準 81,600t,満載 105,500t以上,全長 333m,全幅 41m,吃水 12.5m,最大速 30ノット以上,乗員:士官・兵員:3,200名,搭載機 85から90機の原子力空母である。これだけの原子力空母の1隻の運用には,その3200名の人口をかかえる町が年間に樹てる予算とは桁違いの軍事費を充てることになる。

 戦艦大和・武蔵1隻ずつの運用でも当時の日本帝国は,相当の予算を費やしていたはずである。当初の建造費まで計算に入れたら,それはもう莫大な国家予算を充ててきたのである。その並はずれた超弩級戦艦を造り,太平洋の戦いに送りだして結局,深海に沈めただけとなった。純粋に経済計算でみれば,無駄使いも甚だしいかぎりである。

 昭和天皇の話に戻ろう。戦艦大和が沖縄めざして出撃させられたのは,さきほど引用した1945年2月段階での彼のことば=「もう一度,戦果をあげて〔ほしい〕,そうなれば日本帝国は少しでも〔自身のためにも〕有利に大東亜〔太平洋〕戦争を終わらせることができるかもしれない」という,まことにはかない希望があったからであった。

 同年3月中旬から実質的に始まっていた日米間における沖縄での戦いは,6月下旬に終焉する。3月10日未明からの東京大空襲など,日本全国はすでにアメリカのB29による焼土作戦にいいように蹂躙されていた。

 だが,昭和天皇は日本の戦争を早期に止めさせるための〈聖断〉を下す時宜をみうしなっていた。彼はその間,戦後において自身がどのようにうまく生き残っていくかを考えるばかりであって,帝国の臣民である赤子を,ひたすら不幸・不運・災難の極致へと誘導する役目しか果たしていなかった。

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 同年8月になると6日と9日に広島と長崎に原爆が投下され,いよいよ日本は降服を決定的にするほかない段階に到達した。戦後30年も経った1975年10 月31日,訪米から帰国した昭和天皇は,日米記者クラブで初の公式記者会見をしたさい,「戦争責任についてどのようにお考えておられるか」と問われて,こう答えた。

 そういう言葉のアヤについては,私はそういう文学方面はあまり研究もしていないのでよくわかりませんから,そういう問題についてはお答えができかねます。

 過去における大戦争に関与した政治責任をこんなふうに,しかも,当時生き神様として最高指導していた天子様が無責任にいってのけたのを聞かされ,呆れるどころか怒り心頭に発した日本の庶民も多くいた。つまり,この人を日本の天皇として,それも現憲法で規定する「象徴天皇として戴いていて」いいのかと,大いに疑問に思った日本人も大勢いたのである。

 ところが,いま〔⇒2019年4月末日までのこととなっていたが〕も,その息子〔明仁,平成の天皇〕がこの国の「象徴天皇」役を演じている。日本の皇室の天下太平ぶりは,彼ら一家なりの悩みや苦しみが人間的次元においてあれこれあったにしても,昨今一般庶民の困窮ぶりを尻目に,あいかわらず平穏無事に,天照大神などを祭りながら皇室生活を優雅に過ごしている。

 戦前・戦中まで日本の皇室は,日本で突出した大金持ち,いいかえれば最大・最高の資本家・財閥であった。敗戦後も,その隠し金や金銀財宝がどこかの国際的銀行に預けられ,保管されているのではないかというような憶測が飛びかうのも,それなりに根拠がありそうに思えてならない。

 

  シベリア抑留と昭和天皇

 要は,天皇ヒロヒトは日本帝国臣民の幸せと未来をよく配慮し,アジア・太平洋戦争15年戦争とも呼ぶ〕を早めに切りあげておけばよかった。ところが,結局大詰めのどん底までもちこむという失態を犯してしまった。

 その結果,この国は津々浦々が焦土になるは,原爆の放射能は残るは,それはもう酷く惨めな敗戦後の地上風景となっていた。敗戦後,「国破れて山河あり」などとは,とてもではないがいえなかった。昭和20年代は「国土の荒廃,人心の壊乱」から脱却するのに精一杯の時期であった。

 もっとも,1950年6月25日に隣国で始まった動乱(北朝鮮軍の韓国侵略)によって生じた「日本経済の特需景気」は,たとえば松下電器のいいぶんだと,当時までのわが社もうもたない,潰れる,ダメだという瀬戸際になっていたところに,干天の慈雨どころか「起死回生」の好機をもたらしてくれた。

 もっと早めに,いいかえれば極端な話,ミッドウェー海戦(1947年6月初旬)の結果=大失敗を受けて,米・英・蘭との,なによりも中国との戦争を止めておけば,日本は,満州はともかく,台湾や朝鮮を植民地として領有したままの状態で,戦争を終結させることもできたはずである。しかし,戦争〔歴史の話〕にイフはなしということなので,ここではより現実的に話をすすめよう。

  1945年8月9日未明,まさに2発めの原爆が長崎に投下されるその日,当時「満州国」といわれた中国東北地域に建国されていたた日本帝国の傀儡国家に向かって,圧倒的な戦力を動員したソ連軍が一気に〈国境〉を越えて攻撃してきた。

 当時「満州」地域に配置されていた日本軍〔陸軍〕は,その兵員や兵器の相当部分を中国本土や太平洋地域での戦いのために転用させていた。ソ連軍参戦時においてはとくに,将兵たちの員数不足は深刻であり,このために満州地域にいた日本人男性は,18歳以上45歳までが有無をいわせずに「根こそぎ動員」された。

 同年8月15日に戦争事態は終わった。その後,ソ連軍が支配した地域にいた日本軍兵士のみならず,男性のかなりの人びとがソ連内部の強制労働収容所に引っぱられていった。その数なんと約60万人にもなる男性がその後,極寒の地シベリアなどの収容所にほうりこまれ,強制労働に従事させられてきた。

【参考統計資料】

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 その歴史的事実に関していまでは,数多くの書物が著わされており,5万人以上が生命を落としたその実態をしりたければ,それら文献をひもとくことで,その悲惨で残酷な強制労働の実態を想像することができる。

 たとえば,抑留された本人ではないが,斎藤貴男のように父親がシベリア抑留者であったという体験のために,この父が日本に生きて帰ってこられても「ソ連という国の思想:社会主義共産主義〔いわゆるアカ〕に染まったのではないかと疑われ,戦後の生活を立てていくのに大変な苦労をさせられたという。

 その結果,息子の斎藤貴男は,戦後日本社会に残されたままの理不尽に心底から怒る理性を呼びさまされてしまい,最近の言論界ではしらぬ者がいないくらい「体制批判的で自由主義者的な言論活動家」に育てられ,大活躍してきている。

 さて他方で,旧「満洲国」で司法関係の仕事をこなしていた体制派の法務官僚前野 茂は,『ソ連獄窓十一年(1)(2)(3)(4)』講談社文庫,昭和54年(初出,『生ける屍』春秋社,昭和36年の再版)を公表し,ソ連抑留者のなかでも最長の拘留をされた人物の1名として,その一昔という期間を越えた社会主義国家体制での虜囚体験を著作に記述していた。

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 前野 茂は,ソ連軍が参戦したさい,それまで精鋭を誇っていた関東軍満州に配備されていた日本陸軍〕が「一般市民を見捨て,いち早くおのれの妻子を戦線の後方遠く,もっとも重要な軍事輸送機関である鉄道を使用して逃がせる」「あまりに身勝手すぎ,あまりに非見識のやから」がいた事実を,強く非難していた(同書(1),47頁)。

 しかし,「上官の命令は天皇陛下の命令である」とされた旧日本軍の規律に忠実にしたがえば,前述のように,敗戦後の身過ぎを上手にしてきた天皇ヒロヒトをみならって,関東軍の,とくにそれも一部の高級将校たちだけが,自分たちの家族をまっさきに安全地帯に避難させた事実があったからといって,それほど非難すべきほどみにくい姿ではなかったはずである。非難をすべき(それが集約されるべき)相手は,むしろ昭和天皇その人であったからである。

 もっとも,前野 茂は『満洲国司法建設回想録』日本教育研究センター,1985年も公表しており,旧「満洲国」における自身の貢献を自慢げに誇るかのように語っていた。いわく「われら司法同人の間には,一片の侵略的意志はなかった」(同書,序)という文句を聞かされると,旧「満洲国」司法人によるこの種の「虚偽的な帝国意識」の高度な驕慢・無神経ぶりには,感心させられる。と同時に,20世紀中盤における東アジア史に関した前野の「その無知さ加減」は,これを明確に指摘してかつ批判しておかねばならない。

 

  日本帝国陸軍には朝鮮人将兵なども大勢含まれ,シベリアに抑留された

 ここでは,「満洲国政府」法曹界の最高幹部であった前野 茂も語った「シベリア抑留体験」,しかも,通常の強制収容・強制労働ではなく,「戦犯容疑」をもってソ連に連行され,強制労働よりも重いとされる禁固刑を11年間も受けるという「政治犯監獄」に投じられた事実とともに,さらには,シベリアに抑留された日本軍将兵のなかには,日本帝国臣民以外の異民族臣民将兵も多数含まれていた事実にも注目しなければならない。

 本ブログの筆者は,敗戦後にシベリアに抑留された日本軍人および満洲国に居住していたがために捕まってしまった日本人男性の総数が約60万人とされていたけれども,そのなかには,相当数の朝鮮人将兵がすでに日本陸軍将兵として徴兵・志願で従軍していたはずであるから,それに地理的な条件を配慮しても,シベリアに抑留された朝鮮人将兵が少なくとも3千人から5千人くらいはいたのではないかと,特別の根拠〔史料〕もなしに,いままでは推量していた。

 ところが,この栗原俊雄『シベリア抑留-未完の悲劇-』2009年9月を読むと,前段の疑問に答える数値が指摘されていた。

 「大日本帝国」の敗戦当時,朝鮮半島はその一部であった。戦争末期に徴兵された半島の人々はソ満国境に配備され,およそ1万人がシベリアに抑留された(146頁)。

 日本軍人のシベリア抑留問題については,日本・日本人・日本民族側からするソ連非難や責任追及の議論が非常に盛んではある。しかし,それとは対照的なのが,旧日本帝国が日本軍の将兵として引きずりこみ,日本帝国軍人と同じような目に遭わせた朝鮮人などを戦後になって少しでも慮る発言や,さらには多少でも救済・援助したというような話題を,筆者は寡聞にしてほとんど接しえていなかった。
 
 その点で日本国は,シベリア抑留問題に関していえば “被害者である” と同時に,内部においてはまた “加害者自身でもある” ともいうべき「別様に織りなす戦争責任」問題を,かつて植民地にした朝鮮出身の旧日本陸軍将兵に対する戦後責任として背負っている。しかし,この問題はいままで完全に看過されてきた。

 ちなみに,植民地出身者である朝鮮人は海軍には1名たりとも動員された者はいない。その理由はなにか? 怖かったのである。端的にいえば,日本帝国海軍の艦船=軍艦が,反日意識のある,反軍的な朝鮮人将兵によって,洋上で爆破されたり自沈させられたりしたらたまらないという恐怖である。

 過去に植民地で日本帝国がいいこともやってきたという日本の頑迷な政治家が何人もいた。けれども,そうであったならば海軍にも朝鮮人を動員してもなにも心配はなかったと思われる。だが,本心ではけっしてそうではなく,彼らの存在を非常に恐怖していた。いってみれば,軍艦の喫水線下に備えられているキングストン弁のことが気になっていたのである。日帝が植民地でなにをしてきたか反証する好材料である。

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