毎年正月恒例の「皇室行事」は日本・国民たちにとってどのような政治社会的な意義があるのか

             (2011年1月3日,更新 2021年6月12日)

 今年(←2011年のこと)こそ少しはよい年になっていればよかったのだが,10年後の現在に回顧できる(その)2011年はどうだったかみれば,「3・11」に東日本大震災が発生,東電福島第1原発事故が起きてしまい,いまもなおその廃炉工程という本格的な後始末にまでは至れない段階 にある

 その2年半後,2013年9月に開催されたIOC総会において,安倍晋三は “フクシマはアンダーコントロールだ” と偽り,日本で2020年に開催予定だった「東京五輪」を承認されていた,だが,いま〔2021年6月段階〕になっても,なお引きつづきコロナ禍の最中に追いこまれていながらも,その五輪の開催強行しか念頭にない「壊国の首相:菅 義偉」が居る

 

  要点・1 この国が今年も「よい年になるためにはどうしたらよいのか」という「年頭における恒例あいさつ:天皇の期待表明」の行為は,皇室の家長:天皇だけがうまく・適切に発言できるそれなのか

  要点・2 天皇になにかをいわれなければ,この国はよくならないのか? 2012年12月に発足した安倍晋三政権,2020年9月に発足した菅 義偉政権,いずれもこの国を「滅亡へと向かわせるための国家指導ぶり」を,2人併せて発揮してきた

 

  皇居の一般参賀・皇族の新年祝賀

 1) 明仁,平成の天皇としての「22回めの新年」

 新年恒例の「一般参賀」が2011年1月2日,皇居であった。天皇明仁〕夫婦は,皇太子〔徳仁〕夫婦ら皇族らとともに宮殿のベランダに立ち,集まった人々に手を振った。天皇〈宮殿〉前に集まった〈国民〉に向かい,こうあいさつした。

 f:id:socialsciencereview:20210612084956p:plain

 

 2) 皇居で「新年祝賀の儀」を受ける平成天皇

 天皇夫婦が皇族,首相,三権の長,国会議員,外国大使などからあいさつを受ける「新年祝賀の儀」が,2011年1月1日,皇居・宮殿でおこなわれた。天皇夫婦は〈宮殿〉の「松の間」で,皇太子夫婦や秋篠宮夫婦など成年皇族15人からあいさつを受けたのち,皇族らとともに宮殿の複数の部屋を回りながら,つぎつぎとあいさつを受けた。

 衆参両院の議長らを対象とした松の間での儀式では,天皇が「一同の祝意に深く感謝いたします。新しい年をともに祝うことを誠に喜ばしく思います。年始に当たり,国の発展と国民の幸せを祈ります」と「お言葉」を述べた。また,皇太子夫婦の長女,敬宮(としのみや)愛子と秋篠宮夫婦の長女の眞子,次女の佳子の未成年皇族3人も,宮殿で天皇夫婦にあいさつをした。

 注記)http://sankei.jp.msn.com/culture/imperial/110101/imp1101011251005-n1.htm 参照。

 以上,天皇夫婦・皇族たちに関するニュースじたいが,正月からこの民主主義国である日本ではもっともだいじな恒例行事であるかのように報道されている。これら記事を読むと,どうやら日本国において一番エライ人は「象徴である天皇明仁夫婦〕である」らしく思える。そう思わないほうがおかしいくらい,彼ら夫婦に関する「新年の報道」が,このうえもなく,うやうやしくなされている。

 補注) なお,皇室主催の「新年祝賀の儀」に出席できるのは,認証官という「官職の身分」に就く官僚に限定される。--国務大臣副大臣内閣官房副長官,人事官,検査官,公正取引委員会委員長,宮内庁長官侍従長特命全権大使特命全権公使最高裁判所判事,高等裁判所長官,検事総長次長検事検事長。また,認証官とは「任免につき天皇の認証を必要とする国務大臣その他の官吏」のことをいう。任官者は「内閣総理大臣から辞令書を受け,その際,天皇陛下から〈お言葉〉がある」のが通例である。

 3) 皇居という名の宮殿

 さて,報道のなかに出てきたことば「宮殿」とは,なにか? ウィキペディアに聞くと,このように書いてある。

 王族,皇族などの君主およびその一族が居住する,もしくは居住していた御殿。君主が政務や外国使節の謁見,国家的な儀式などをおこなう部分と,君主が生活をおこなう私的な宮廷部分に分かれる。

 

 中世ヨーロッパにあっては,城壁に囲まれた城のなかに国王や領主が居住したことから,防衛機能と一体となった宮殿があるが,時代の変遷とともに防衛機能よりみた目の豪華さ,壮大さや居住性を重視して,都市のなかに建設されるようになった。ヨーロッパ大陸諸国では都市のなかに建てられた貴族の壮麗な邸宅を指すことがある。

 天皇一族のうち天皇夫婦は,東京都千代田区の真ん中にある「皇居」に,それも明治の時代になってから徳川幕府から明治政府が奪ったこの場所に住んでいる。皇太子夫婦は,東京都港区の赤坂に位置する東宮御所に住んでいる。

 いずれも庶民の感覚からすれば豪邸,否,超豪邸に暮らしている。お付きの者〔侍従〕たちもけっこうな人数おり,大衆であるわれわれの生活からは想像もできない豪勢な空間のなかで毎日を過ごしている〔もっとも彼らの立場においては,それなりに苦労はあるらしいが・・・〕。

 この天皇一族が,毎年正月になると,つぎのような文章で報道される「新年の儀式」が皇居・宮殿で執りおこなわれている。

 元日の1月1日,皇居では,天皇皇后両陛下が皇族方や首相などから新年のあいさつを受けられる「新年祝賀の儀」がおこなわれた。両陛下は1日午前11時すぎ,皇居・宮殿で,皇太子さまなど皇族方とともに,衆参両院の議長ら国会議員から新年のあいさつを受けられた。また,両陛下は午前中,皇太子ご一家や,がんの手術を受け,12月31日に退院した三笠宮寛仁さまなど皇族方や,菅首相などからもあいさつを受けられた。

 

 天皇陛下は,新年を迎えての感想を寄せ,きびしい経済情勢に触れたうえで,「家族や社会のきずなを大切にし,国民皆が支えあって,これらの困難を克服するとともに,世界の人びととも相携え,その安寧のために力を尽くすことを切に願っています」とつづられた。2日は,新年の一般参賀がおこなわれる。(〔2011/〕01/01 18:43)

 注記)http://www.fnn-news.com/news/headlines/articles/CONN00190542.html

 4) 素朴な疑念

 この種の報道に接したわれわれがその内容を読んで感じるのは,日本の元首,もちろん選挙で選ばれた選良たちが国会で指名した菅 直人が〔2011年1月当時の民主党政権の〕首相として存在しているにもかかわらず,この首相までもみずから皇居に出向き,天皇夫婦に新年のあいさつを口上している。

 日本国憲法の規定によると天皇は,あくまで〈日本国の象徴〉である。とすれば,「《象徴》である天皇」が,皇居に出向かせるかたちを採ってだが,日本国の元首および国家三権の最高責任者から新年のあいさつを受けているような間柄は,その「象徴=人間〔であって人間ではないのか?〕」という存在論的なありかたとして観るかぎり,彼我のあいだにおける政治的な根本の関係が,異常・異様にも〈逆立ち〉させられているというほかない。

 そこで,インターネット上にも出ている定義・説明などを若干探ることによって,「象徴」なることばの意味を,あらためて考えてみたい。日本の天皇天皇制に関する議論である。

 a) 「象徴」とは,抽象的な思想・観念・事物などを,具体的な事物によって理解しやすいかたちで表わすこと,もしくは,その表現に用いられたものを意味する。たとえば「ハトは平和の象徴」「現代を象徴する出来事」などとして使用されることばである。

 b) その〈平和〉や〈現代〉という用語が,特定の「意味を有するもの」として「象徴」に挙げられるとき注意したいことがある。「〈平和〉や〈現代〉→ 象徴」の関係は,一方通行的・片務的にのみ定められうるのであって,けっしてその逆の方向においてではない。

 c) すなわち,象徴とは,抽象的な概念を,より具体的な事物やかたちによって「表現すること」であり,またその表現に「用いられたもの」であるとすれば,この定義・説明の範囲・限界からその〈象徴〉性が僣越・逸脱する働き・機能・運動を,独自におこないはじめたとき,もはや象徴が象徴でありえなくなり破綻する。つまり,象徴みずからが象徴たるゆえんを,自己が矛盾させ破壊させたことになる。

 5) 天皇は象徴ではなく,憲法違反である疑似元首を演じている

 日本国憲法第1条に規定された天皇〔・天皇制〕は「日本国および日本国民統合の象徴であり,国政に関する権能を有しないとされる」。ところが「新年祝賀の儀」の光景をみていると,「ハトは平和の象徴である」といった定義的な一線を飛びこえており,「鳩=天皇」それじたいが「平和=国民なのである」という本末転倒の,意識混濁の政治的な意識状況を結果させてもいる。

 日本国憲法において,「天皇は日本国の象徴であり,日本国民統合の象徴である」と規定されている。この天皇という存在は制度的なものである。ところが,実際においては逆になってもいて,日本国・民そのものが「天皇の象徴」(である対象物)に入れかえられている〈関係性〉も発生している。いうなれば,そこでは〈逆立ちした相互の関係〉が現象している。

 正月のあいさつにおいて「象徴である天皇」が,国民に対して「非常に抽象度が高いもの」とはいえ,世事万端に口だしをしている。国家のありよう・世界との関係に関してまで,理想的〔=空想的〕なありかたが,彼の口をとおして抽象的にだが,確かにいわれている。この事態は「国・民の象徴である」天皇の行為として,許されない,あってはならない相互関係のありかたであり,越権の発言行為を意味する。

 日本国を象徴する代表的な花(樹木)といえば「桜」といえよう。地方自治体のそれを例示すると,たとえば埼玉県の県花は「さくら草」である。とくに埼玉では春になると,各地で品評会や展示会が開かれ,親しまれている「花」であるという。また,アメリカを象徴する動物(国鳥)といえば「ワシ:白頭鷲」である。

 なかんずく,これら国家を象徴する動植物はものをいわないし,人間に対してあれこれ指示もしない。

 ところが,日本国の象徴とされる「生きている人間」=天皇は,正月になると国民が選んだ首相や「三権の長最高裁長官,衆院議長,参院議長」(認証官)たちを皇居に来させて,新年の挨拶を受けている。はたして,こうした「天皇」と「国民の代表たち」との「関係」は,象徴ということばのもつ概念関係で説明しきれるものではない。 

 象徴ということばに「新しい説明」がくわえられるさい,誰でもが勝手な判断できるならともかくとして,このことばの意味には本来含ませられない,それも憲法上の「天皇の国事行為」とも無縁である「新年のあいさつ」が,毎年正月に「皇居=宮殿(!)」を部隊に執りおこなわれている。それほど天皇「様」は日本国ではエライ人になっている。

 以上のように記述すると,ふつうの日本国民的な感覚からすれば,「オマエはなんと無礼で,非国民的な発言・解釈をするのか」と非難されそうである。だが,まともに日本国憲法を読める人であれば,またいろいろと解釈はありうるものの,以上のように「象徴としての天皇天皇制)に関する疑問を提起するのは,ごく自然な論理のなりゆきである。

 

  平成天皇の父の時代に起きた出来事

 1) 昭和16年,敗戦を予測した「戦争経済研究班」報告書

 昭和天皇は,大東亜戦争敗戦に至るまでの長い戦争の時代に関する政治責任を果たさぬまま他界した。このことは,いまでは否応なしに事実として認めざるをえない〈史実〉である。1945年9月に正式に終結した第2次大戦に関して,本日〔2011年1月3日」の日本経済新聞は,第1面につぎの解説記事を掲載していた。

   ☆ 三度目の奇跡 第1部 私は45歳(2)
        開戦前,焼き捨てられた報告書 現実を直視,今年こそ ☆

 

 70 年前の日米開戦前夜。正確に日本の国力を予測しながら,葬り去られた幻の報告書がある。報告書を作成した「戦争経済研究班」をとり仕切ったのは,陸軍中佐の秋丸次朗。1939年9月,関東軍参謀部で満州国の建設主任から急遽帰国した。同班は「秋丸機関」の通称でしられるようになる。英米との戦争に耐えられるかどうか,分析を命じられた秋丸。東大教授の有沢広巳,後の一橋大学長になる中山伊知郎ら著名学者を集め,徹底的に調べることにした。

 

 「1対20」を黙殺

 

 東京・麹町の第百銀行2階に常時20~30人がこもる。調査対象は人口,資源,海運,産業など広い分野に及んだ。いまと違い資料収集も簡単ではない時代。日本は経済封鎖のもとで軍需産業育成にどれだけ力をそそぐことができるか。英米との力の差はどの程度か。英知を結集した分析が進んだ。

 

 調査開始から1年半を経た1941年半ば。12月8日の日米開戦まであと数カ月の時期に,陸軍首脳らに対する報告会が催された。意を決するように,秋丸がいった。「日本の経済力を1とすると英米は合わせて20。日本は2年間は蓄えを取り崩して戦えるが,それ以降は経済力は下降線をたどり,英米は上昇し始める。彼らとの戦力格差は大きく,持久戦には耐えがたい」。秋丸機関が出した結論だった。

 

 列席したのは杉山元参謀総長ら陸軍の首脳約30人。じっと耳を傾けていた杉山がようやく口を開いた。「報告書はほぼ完璧で,非難すべき点はない」と分析に敬意を表しながらも,こうつづけた。「その結論は国策に反する。報告書の謄写本はすべて燃やせ」会議から帰ってきた秋丸はメンバー1人ひとりから報告書の写しを回収し,焼却した。

 

 有沢はただちに活動から手を引くよう命じられた。報告書の一部は88年の有沢の死後に遺品から発見される。104ページ分の報告は詳細を極めていた。みたくないものは,みない--。秋丸機関はほどなく解散し,現状認識を封印した戦争の結末は悲惨だった。終戦から今年で66年,日本は変わったのか。

 

 ※ 参考文献 ※
  纐纈 厚『総力戦体制研究-日本陸軍国家総動員構想-』三一書房,1981年。
  森松俊夫『総力戦研究所』白帝社,1983年。
  猪瀬直樹昭和16年夏の敗戦-総力戦研究所 “模擬内閣” の日米戦必敗の予測-』世界文化社,昭和58〔1983〕年。

  日本・日本人の大多数は「終戦」を「敗戦」と呼ばない。この事実は,「秋丸機関」の報告書に対して旧日本帝国陸軍幹部が示した反応=虚妄の意識が,21世紀のいまもなお,この日本社会のなかに生きつづけていること,その〈連続性〉を教示している。

 さらに,「敗けると判っていた」戦争に突入した「大東亜〔太平洋〕戦争」の責任は,陸軍幹部〔東條英機を代表とするA級戦犯たち〕に押しつけ,逃れた,かつての日本帝国の最高責任者がいた。

 敗戦後,「天皇〔=大元帥〕を総領役とした皇族たちと一部の政治家たち」は,国民やアジア諸国に対する戦争責任を負うことを,大戦後の世界情勢のなかで,マッカーサーのGHQとの連係もあって,巧妙に回避できていた。

 昭和天皇が戦争「敗戦・責任」〔たとえ勝利していたとしてもその責任の本質になにも変わりはないが〕をとらなかった事実は,彼の息子が「父の戦争体験の究極的な本義」を回顧するさいの「歴史観」にも大きく影響した。

 陸軍が悪いからあの戦争には負けたと,父から聞かされていた息子がいる。21世紀のいまにあっても,「現人神」とされたその父と似た風情で,その子が「国・民の象徴である」という地位にいる。親子2代にわたり「民主主義」の大原則とは無縁の「王様きどり」の生活をしている。正月になると彼らは,日本国の「正式・実質の元首たち」などを皇居=宮殿に呼びつけては「恒例行事である:新年のあいさつ」をさせている。

 補注)昭和天皇は戦後間もない1945〔昭和20〕年9月9日に,栃木県の奥日光に疎開していた長男,皇太子の継宮明仁親王(現:上皇明仁)へ送った手紙のなかで,戦争の敗因について,つぎのように書き,弁解していた。

 「国家は多事であるが,私は丈夫で居るから安心してください 今度のやうな決心をしなければならない事情を早く話せばよかつたけれど 先生とあまりにちがつたことをいふことになるので ひかへて居つたことを ゆるしてくれ

 敗因について一言いはしてくれ 我が国人が あまりに皇国を信じ過ぎて 英米をあなどつたことである 我が軍人は 精神に重きをおきすぎて 科学を忘れたことである

 明治天皇の時には山県 大山 山本等の如き陸海軍の名将があつたが 今度の時は あたかも第一次世界大戦独国の如く 軍人がバッコして大局を考へず 進むを知つて 退くことを知らなかつた 戦争をつゞければ 三種神器を守ることも出来ず 国民をも殺さなければならなくなつたので 涙をのんで 国民の種をのこすべくつとめたのである」(一部抜粋)

 このいいぶんは,どこまでもいいわけになっていた。息子に対する手紙のなかでの発言だけに,その点が正直に語られていたと解釈できる。

 それまで「皇国」「神国」の代表になっていた昭和天皇が,しかも帝国日本の陸海軍を統帥する大元帥であったこの人が,「我が軍人は 精神に重きをおきすぎて 科学を忘れたことである」などと非難し,自分の責任をすべて軍部の側に完全に押しつけていた。

 敗戦直後,日本が連合国軍の占領下にあった1945年9月27日,天皇連合国軍最高司令官総司令部(GHQ / SCAP)総司令官のダグラス・マッカーサーが居住する駐日アメリカ合衆国大使館を訪問し,初めて会見することになった。

 マッカーサー(『マッカーサー回想記』)は,こう記していた。

 「天皇のタバコの火を付けたとき,天皇の手が震えているのに気がついた。できるだけ天皇の気分を楽にすることに努めたが,天皇の感じている屈辱の苦しみがいかに深いものであるかが,私には,よく分かっていた」。

 また,会見のさいにマッカーサーと並んで撮影された全身写真が,2日後の9月異29日に新聞に掲載された。天皇が正装のモーニングを着用し,直立不動でいるのに対し,一国の長ですらないマッカーサーが略装軍服で腰に手を当てたリラックスした態度であることに,国民は衝撃を受けた。

 天皇と初めて会見したマッカーサーは,天皇が命乞いをするためにやってきたと思った。ところが,天皇の口から語られた言葉は,「私は,国民が戦争遂行にあたっておこなったすべての決定と行動に対する全責任を負う者として,私自身をあなたの代表する諸国の裁決に委ねるためお訪ねした」。

 つまり,極東国際軍事裁判東京裁判)に被告人として臨む覚悟がある,というものだった。さらに,マッカーサーは「私は大きい感動に揺すぶられた。(中略) この勇気に満ちた態度は,私の骨のズイまでもゆり動かした」という。

 以上は,ダグラス・マッカーサー著,津島一夫訳『マッカーサー大戦回顧録  上・下』中央公論新社 , 2003年の内容であった。だが,マッカーサーがこの本のなかで昭和天皇について語ったという前段のごとき内容については,歴史研究の立場からは「歴史の事実」として認容されていない。要は,マッカーサーの作り話であると判定されている。

 2) 昭和17年,開戦後半年で戦争の敗北が予測・確認できた

 本日〔2011年1月3日〕の日本経済新聞は,「文化」欄の「〈私の履歴書生田正治(2)開戦   下校中 B25が素通り 初空襲時の不思議な静けさ」が,以下のように戦争中の歴史を回想していた。その一部分を抜き出しながら引用する。

 戦雲が迫るなかで1941年4月1日に小学校は国民学校となり1年生の国語教科書の第1ページは「さいた  さいた  さくらがさいた」から「こまいぬさん “あ” 。こまいぬさん “うん” 」に一新された。

 

 広い校庭と校舎には陸軍の対空防衛部隊が駐屯し,夜間に飛来する敵機を照らす探照灯,高射砲がそれぞれ数基とトーチカや塹壕が配置されていた。連日兵隊さんが訓練に励んでいるのを教室の窓越しに見物していただけで,勉強した記憶はほとんどない。

 

 放課後は校庭に出て訓練を終えた兵隊さんたちと遊んだ。東北出身の兵隊さんが多く,村上上等兵が「君たちはお国の将来のために一生懸命勉強しろよ」といって弟のようにかわいがってくれた。その上筒井国民学校跡は市立王子動物園となっている。

 

 入学した年の7月には米国が在米日本資産を凍結。10月には東条内閣が成立。太平洋戦争開戦の道をひた走り,12月8日の真珠湾攻撃となる。当日は早朝からラジオが「敵は幾万ありとても」と勇壮な軍歌をバックに,対米英開戦,真珠湾奇襲攻撃大成功の大本営発表を繰り返し,街では号外が乱舞した。

 

 校庭に整列した私たちに校長先生は「大和魂をもって戦えば,神国日本は必ず勝つ」と力強く訓示し,私たちはなんの疑念もなく勝利を信じて熱狂した。翌 1942年4月18日のお昼ごろだったろう。初めて警戒警報のサイレンが鳴りわたり,ただちに全員下校の指示が出た。空襲など予想したこともなかったので事態がよくのみこめず,友だちとふざけあいながら家路についた。

 

 途中,爆音がするので空を見上げると,見慣れない大型機が悠然と神戸上空を西に向かうのが見える。日本軍の新鋭機とばかり思っていたら,帰宅後それがドーリットル米軍中佐の率いるB25爆撃機編隊による日本初空襲の一環であったことをしった。私たちがみているあいだ,敵機は爆弾を投下せず,上筒井国民学校校庭の高射砲部隊も砲門を開かず,迎撃機の姿もない不思議に静かな風景だった。海上大決戦と位置付けたミッドウェー海戦の大敗は秘せられ,私たちは依然として戦勝気分のなかにあった。(商船三井最高顧問)

 本ブログ筆者は最近,藤井治枝『もう一度風を変えよう』ドメス出版,2010年12月の献本を受けた(2010年12月30日着)。著者の藤井は1929年生まれであるから,戦争の記憶がたしかに刻まれてきた世代である。彼女はこういう。

 いったい,この戦争で何が得られたのだろう。中国,東南アジアなど直接戦いの場に召集され,戦死,戦病死で命を失った兵士の数は300万人とされているが,おそらく実態はこの何倍がいるだろう。幸い内地に居住していても広島,長崎を始め,数々の都市で,多くの人々が命や大切な資産,住宅を失った。そのうえ,侵略を受けた広大な地域で数えきれない人々の命が奪われた。

 

 当時,日本の植民地とされていた韓国〔朝鮮〕も日本のファシズムに抑圧され,日本人並みに天皇絶対化教育,日本名への改姓,そしてやがて徴兵制の導入にまで進んだ。強制動員された労働者は72万人,兵士は24万人といわれている。おそらく,多くの犠牲者が出たと思われる。その償いは終わっていない。

 

 だが,講和条約と引き換えにわずか5億円〔ドル〕で解決済みとされてきた。こうして,日本は「戦争」を通して,自国民を苦しめただけでなく,数えきれない近隣の国々の人を不幸にした(45-46頁。〔 〕内補足・補正は本ブログ筆者)。

 日本の現天皇(ここでは明仁)は,この正月にも演技したように「国と民の統合の象徴」である自身の「憲法上の立場・地位」を,はるかに凌駕した役割を果たしている。彼は,朝鮮の古代王族と日本の古代皇室のあいだには,たとえば「桓武天皇からの血縁がある」といい,かつて侵略し植民地にした国家とその国民に対して「親愛の情」を示した。

 しかし,それよりも,ごく最近の時代に父:裕仁の起こした戦争が,アジア諸国に与えた苦痛と惨害を,むしろ皇室の人間として謝罪するほうが先決の問題である。こちらの「皇室的な歴史の課題」にとりくむ必要性について明仁は,十分客観的に自覚しており,冷静に把握できていた。

【参考記事】明仁が語った韓国・朝鮮と日本の歴史的な関係-

 

 『天皇陛下お誕生日に際し(平成13〔2001〕年) 天皇陛下の記者会見』において,明仁天皇がこう語る場面があった。

 

 問3 世界的なイベントであるサッカーのワールドカップが来〔2002〕年,日本と韓国の共同開催でおこなわれます。開催が近づくにつれ,両国の市民レベルの交流も活発化していますが,歴史的,地理的にも近い国である韓国に対し,陛下がもっておられる関心,思いなどをお聞かせください。

 

 --日本と韓国との人々のあいだは,古くから深い交流があったことは,日本書紀などに詳しく記されています。韓国から移住した人々や,招聘された人びとによって,さまざまな文化や技術が伝えられました。宮内庁楽部の楽師のなかには,当時の移住者の子孫で,代々楽師を務め,いまも折々に雅楽を演奏している人があります。

 

 こうした文化や技術が,日本の人びとの熱意と韓国の人びとの友好的態度によって日本にもたらされたことは,幸いなことだったと思います。日本のその後の発展に,大きく寄与したことと思っています。

 

 私自身としては,桓武天皇の生母が百済武寧王の子孫であると,続日本紀に記されていることに,韓国とのゆかりを感じています。武寧王は日本との関係が深く,この時以来,日本に五経博士が代々招聘されるようになりました。また,武寧王の子,聖明王は,日本に仏教を伝えたことでしられております。

 

 しかし,残念なことに,韓国との交流は,このような交流ばかりではありませんでした。このことを,私どもは忘れてはならないと思います。

 

 ワールドカップを控え,両国民の交流が盛んになってきていますが,それが良い方向に向かうためには,両国の人びとが,それぞれの国が歩んできた道を,個々の出来事において正確にしることに努め,個人個人として,違いの立場を理解していくことが大切と考えます。ワールドカップが両国民の協力により滞りなくおこなわれ,このことを通して,両国民の間に理解と信頼感が深まることを願っております。

 註記)https://www.kunaicho.go.jp/okotoba/01/kaiken/kaiken-h13e.html

 さてともかく,正月に国民に向かって天皇明仁が「あいさつ」したことばのように,「新しい年を共に祝うことをうれしく思います。今年が皆さん1人1人にとり,少しでもよい年となるよう願っています」「年頭にあたり世界の平安と人々の幸せを祈ります」と述べたところで,藤井治枝の表現を借りれば,「言葉をもって解決することはできない」(藤井,前掲書,47頁2行)「歴史的に重大な責任」を,いまの天皇も「父からの負の遺産」として背負いつづけていることに変わりはない。

 ところで,それでは日本の国民たちは,前段で紹介した明仁天皇の「対・韓国朝鮮」発言をどうとらえていたか? つぎの関連する意見を紹介しておけば,そのあたりの事情が理解できる。

     ★「忘れずに,覚えておこう。『天皇家と朝鮮』Newsweek 2002.03.20」★
 =『YELLOW PEOPLE』2001年12月23日,http://home.att.ne.jp/apple/tamaco/2002/020509Newsweek320.html

 

  明仁天皇,68歳の誕生日。その日,かれはなんと,びっくりするような発言をした。「桓武天皇の生母が百済武寧王の子孫であると続日本紀に記されていることに,韓国とのゆかりを感じています」。

 

 これって,すごいことなのだ。皇室が韓国とのゆかりを公に認めたことは明治以降なかった」というのだから。そう,長年,古墳の発掘さえ私有財産だからという理由で認められてこなかった。

 

 でもホントの理由は,もしも発掘してしまうと日本人の祖先が朝鮮半島に由来があるということがバレてしまうからで,それで手がつけられないのだと。これはむかしからよく聞く話で,ホントかどうかはよく分からない。

 

 ともあれ,そんな話がまことしやかに語られつづけるほどに,天皇家朝鮮人の血をひくということは,タブーだったはず。

 

 では,なぜタブーだったのか。それは日本の明治以降の国家作りにとって,日本が朝鮮に対して圧倒的な優位性を保持していなければならなかったからではないだろうか。

 

 そこへもって,日韓ワールドカップ開催を目前に控えての,天皇みずからのこの発言。歴史的な発言だったにもかかわらず,日本のマスコミはなにごともなかったかのように素通りした。そして,待てど暮らせどこの話題が大きく取り上げられることはなかった。

 

 そんな日本のマスコミのあつかいに業を煮やしたかのように,3ヶ月たって,Newsweek 誌があらためて,この話題を取り上げた。それが,この〔2002年〕3月20日号だった。

 

 あれから1ヶ月。やはり,世間はこの話題を取り上げない。

 

 ワールドカップ共催を機会に歴史観までひっくりかえして友好をつくろうとしているのが,マスコミよりも天皇だというのは,いったいどういうことだろう?

 どの天皇であれ,天皇自身がこの種の発言をすることじたい,憲法上問題がないとはいえない。このあたりの問題は,「国事行為」とこの行為との関連において幅広く,皇族たち全員が日常的に執りおこなっている「公務」の問題として,議論がなされている。

 その点はいったん置いたとしても,以上のように天皇明仁)が発言した点は,国際関係にまで,大なり小なり,そして一定・特定の影響・効果をもたらしうることは否定できない。

 しかし,前段に引用した『YELLOW PEOPLE』2001年12月23日の書き手は,この明仁の発言が日韓間の友好関係に対して格別に発揮しうるはずと思われた効果が,実際のところ,日本社会の側からは99%ほどは無視されたとみなしていた。

 毎年,正月に皇居で開催される「新年恒例の一般参賀」に対して日本国民たちが抱いている平均的な感情とは,まったく別物である対韓感情が潜在している事実に『ニューズウィーク』2002年3月20日号の記事は言及していたのである。

 ニューズウィーク-2002年3月20日号の表紙画像-

 

                 f:id:socialsciencereview:20210612080330g:plain

  補注)図書館にでもいって,この雑誌の現物をみることができれば,もっと細密な画像資料として紹介できるのだが,ネット上で入手できるこの表紙の画像サイズは,19.0キロバイトしかなく,キメの粗いものとしてしか紹介できない。

 ------------------------------