日本国内の古墳は誰のもの? 天皇家の私有財産ではなく,国有であるべき文化遺産ではないのか 

             (2010年9月27日,更新 2021年6月15日)

 日本全国に散在する古墳は誰のものかと問われて天皇家の所有物であり,宮内庁が管理するといった断言は,時代錯誤の歴史観にもとづく「歴史への不遜な態度」 

 牽牛子塚(けんごしづか)古墳の発掘調査をとおして,「日本の古墳は天皇家のものだ」といったごとき,歴史の観念として腐朽かつ倒錯した「天皇中心的な〈世の中〉観」を検討する

 

  要点・1 千五百年もまえからいままでも〈天皇家私有財産〉としての墓があったという盲説

  要点・2 その確認すら不可能である「天皇家偏重になる視野狭窄皇国史観」に依拠していた古墳の解釈

 

  斉明(さいめい)天皇の墓と推定される牽牛子塚(けんごしづか)古墳の発掘調査

 2010年9月10日の新聞紙上をにぎわせた,つぎの報道があった。新聞から関連する記事3件を紹介する。〔 〕内補足は本ブログ筆者である。

 1)「斉明天皇の墓,ほぼ確実   牽牛子塚古墳は八角形墳  奈良」(『朝日新聞』)

 大化改新で知られる中大兄皇子なかのおおえのおうじ天智天皇)の母,斉明(さいめい)天皇(594~661〔在位は655-661年〕)の墓との説がある奈良県明日香村の牽牛子塚(けんごしづか)古墳(国史跡)が,当時の天皇家に特有の八角形墳であることが確認された。明日香村教育委員会が9月9日,発表した。

 墳丘全面が白い切り石で飾られ,内部の石室も巨大な柱状の切り石で囲われた例のない構造だったことも判明。斉明天皇は巨石による土木工事を好んだとされ,被葬者が同天皇であることがほぼ確実になった。

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 明日香村教委は,飛鳥地方の古墳群と藤原宮跡の世界遺産登録に向け,牽牛子塚古墳を昨年9月から調査。墳丘(高さ約4.5メートル)のすそは上からみると八角形状に削られており,北西のすそから3辺分の石敷き(長さ約14メートル)がみつかった。縦40~60センチ,横 30~40センチの凝灰岩の切り石が石畳のように3列(幅約1メートル)にすき間なく並べられており,八角形になるように途中で約135度の角度で折れ曲がっていた。

 墳丘は対辺の長さが約22メートルで3段構成だったと推定され,石敷きの外側に敷かれた砂利部分を含めると約32メートルに及ぶという。三角柱状に削った白い切り石やその破片が数百個以上出土し,村教委は,これらの石約7200個をピラミッド状に積み上げて斜面を飾っていたとみている。

 また,墳丘内の石室(幅5メートル,奥行き3.5メートル,高さ2.5メートル)の側面が柱状の巨大な16の安山岩の切り石(高さ約2.8メートル,幅1.2メートル,厚さ 70センチ)で囲まれていたことも確認された。

 過去の調査では,石室が二つの空間に仕切られていたことが判明している。斉明天皇と娘の間人皇(はしひとのひめみこ)を合葬したと記された日本書紀の記述と合致するほか,漆と布を交互に塗り固めて作る最高級の棺「夾紵棺(きょうちょかん)」の破片や間人皇女と同年代の女性とみられる歯などが出土していた。

 これまでの発掘成果と合わせ,「一般の豪族を超越した,天皇家の権威を確立するという意思を感じる。斉明天皇陵と考えるほかない」(白石太一郎・大阪府立近つ飛鳥博物館長)など,専門家らの意見はほぼ一致している。

 一方,宮内庁は同古墳の西に約2.5キロ離れた円墳の車木(くるまぎ)ケンノウ古墳(奈良県高取町,直径約45メートル)を,文献や伝承などから斉明天皇陵に指定。「墓誌など明らかな証拠が出ない限り,指定は変えない」(福尾正彦・陵墓調査官)としている。

 注記)http://www.asahi.com/culture/update/0909/OSK201009090092.html,2010年9月9日22時43分配信,『朝日新聞』2010年9月10日朝刊。前掲した画像資料は,2021年5月13日の新聞報道から借りた。

 2)「天皇陵研究の大きな一歩斉明天皇陵ほぼ確定で」(『産経新聞』)

 天皇陵にしか許されなかったとされる「八角形墳」だったことが分かった牽牛子塚古墳。同じく八角形墳の天武・持統天皇陵などは宮内庁が陵墓に指定し,学術調査がいっさいできない。指定から外れた牽牛子塚古墳の調査は,ベールに包まれた天皇陵の実態に迫る大きな一歩となった。

 初代・神武から昭和天皇まで124代にわたる〔と神話的に説明され,また天皇家の私有物と主張されてもきた〕天皇陵は,宮内庁が厳重に管理。陵墓指定上,第37代斉明天皇陵は牽牛子塚古墳ではなく,同古墳の南西約2.5キロの古墳(奈良県高取町)とされている。

 陵墓は尊皇の機運が高まった江戸幕末,幕府が歴代天皇の墓について日本書紀の記述や伝承をもとに指定したのがいまに続いている。発掘調査はおこなわれておらず,斉明天皇陵について,研究者の間では6世紀ごろの円墳ともいわれている。

 宮内庁は「被葬者名を記した墓誌などが出ない限り,現在の斉明天皇陵の指定を見直す予定はない」としている。これに対し,奈良県橿原考古学研究所の今尾文昭・総括研究員は「現代の考古学や古代史研究を踏まえると,牽牛子塚古墳の被葬者は斉明天皇が最有力」と指摘する。

 牽牛子塚古墳は,飛鳥時代の古墳が集中し,「王家の谷」ともいわれる明日香村北西部に位置する。精美な八角形で石室を巨大な石柱で囲んだ姿は,まさに天皇の神聖さと尊厳さを具体的に明らかにした。今回の調査を機に,陵墓の調査や公開のあり方が改めて議論されることが望まれる。

 注記)http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20100909-00000595-san-soci,『産経新聞』2010年9月9日21時04分 配信。

 3)「女帝の権力ほうふつ  牽牛子塚古墳」(『産経新聞』)

 天皇のシンボルとされる八角形の墳丘をもち,巨大な石室を石柱で囲んでいたことが分かった奈良県明日香村の牽牛子塚(けんごしづか)古墳。「斉明天皇の墓に違いない」。激しい被葬者論争になりがちな古墳研究で,今回ばかりは多くの研究者が一致する。大規模な土木工事を繰り返し,人々から「狂(たぶれ)(ごころ)」と批判される一方,中国の脅威に備えて国土防衛に力を尽くした女帝・斉明の巨大な権力を彷彿させた。

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 「石に象徴される斉明天皇の墓にふさわしい」。猪熊兼勝・京都橘大名誉教授(考古学)は,石柱で囲まれた石室に注目する。謎の石造物の酒船石(国史跡)や庭園の噴水施設・須弥山(しゅみせん)石など,水と石の宮殿を築いた斉明天皇の “終の棲家” は,まさに石のモニュメントだったという指摘だ。猪熊氏は「大土木工事をおこない,数多くの石造物を築いた生前の姿を思わせる」と驚嘆する。

 一方,和田 萃(あつむ)・京都教育大名誉教授(古代史)は,斉明天皇の特異な人物像に迫る。大化の改新の発端となった古代史最大のクーデター「乙巳(いっし)の変」(645年)のさいは「皇極」として君臨。蘇我入鹿中大兄皇子(後の天智天皇)に殺されるのを目の当たりにしながら,しがみつく入鹿をふりほどいて無言で立ち去り,2日後にはあっけなく天皇を退いた。和田氏は「皇極天皇(後の斉明天皇)のころの功績は,雨ごいぐらいしかなかった」と語る。

 注記)http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/natnews/topics/438299/,『産経新聞』2010年9月9日 20:51 更新 配信。

  新聞報道の客観性に対する皇室「宮内庁の主観的・非科学的な見解」

 以上 ① に紹介した斉明天皇の墓と治定された牽牛子塚古墳の発掘に関する新聞報道は,2) の記事にも説明されているように,「被葬者名を記した墓誌などが出ない限り,現在の斉明天皇陵の指定を見直す予定はない」と意地を張っている宮内庁の非科学的な立場に対して,「現代の考古学や古代史研究を踏まえると,牽牛子塚古墳の被葬者は斉明天皇が最有力」と指摘するのが,奈良県橿原考古学研究所の今尾文昭・総括研究員である。

 宮内庁側が前段のようにいいはる根拠は,考古学的にも歴史学的にも非常に薄弱であるどころか,きわめて恣意的・一方的な決めつけであるだけに,専門の研究者たちが学術的に発掘し,調査・研究した結果にまともに対抗できるものではない。記事にも説明されているごとく,「尊皇の機運が高まった江戸幕末,幕府が歴代天皇の墓について日本書紀の記述や伝承をもとに」「陵墓」「を指定したのがいまに続いている」に過ぎない。

 宮内庁は,天皇家に因縁があると一方的に決めてある古墳群に関して,それを天皇家私有財産とみなす立場から,陵墓の発掘調査を積極的におこなわない。まだまだ間違いや不正確さを多く残す「陵墓の治定(じじょう)」が,より正確におこなわれるためには,研究者に学術的な発掘調査させねばならない。

 祖先=「故人の霊」の静謐を護るためには,発掘などは絶対ダメだといいはる宮内庁は,自庁のデタラメな「陵墓比定の無根拠」が暴かれかねないかと非常に恐怖しており,陵墓の実地調査にはなかなか応じなかった。最近になってようやく,陵墓の周辺をごく部分的に公開するに止めている。

 他方で,天皇家が指定していない「本物の陵墓〔歴代において本当に実在した天皇の墓〕」に関して発掘調査が徐々にすすむにつれ,現在まで治定されてきたはずの〈斉明天皇の陵墓〉が「間違っていた事実」が,暴露されていた。

 宮内庁はいわば,大恥〔赤恥・青恥など〕をかかせられる事態にみまわれている。しかし,今回調査された「牽牛子塚古墳」のほうは,もともと「天皇家のものだから,絶対に〈手を付けるな〉」などとは一言もいえなかった。ということで,科学的な発掘・調査がなされていた。

 ということで,宮内庁にとってはまことに苦しくも耐えがたい事態が生起したことになる。宮内庁の理屈でいうと本来であれば,今回のような発掘は「陵墓に祀られている天皇霊の安静を乱す行為」であるから,それこそ血相をかえて現場に駆けつけ,阻止しなければならない事態であった。

 ところが,天皇家が指定する陵墓ではないからと,表面的には済ました顔で様子をながめている。とはいえ,心中穏やかならぬこと,並々ならぬはずである。というのは,日本に散在する主要な古墳は,そのすべてが「天皇家の祖先のものだ」という私有意識を強烈に抱いているからであった。

 

  天皇家と日本の古墳

 天皇陵の問題性は,一般論としてつぎのように説明できる。

 イ) 天皇陵に治定されている墓(古墳)が,本当に実在した天皇の「誰の墓なのかどうか」を調べるための学術的な発掘がまともになされず,つまり,専門研究的に調査されないのであれば,そう簡単にはどの天皇のものなのか特定できるわけがない。したがて,宮内庁の治定には多くの〈指定違い〉が含まれている。

 ロ) 明治時代になってから,当時の学問水準で天皇陵の名前が強制的に,つまり学術研究の立場・視点とは無縁に決められていた。だから,21世紀になって今回実施された「牽牛子塚古墳の発掘調査」は,斉明天皇に関する天皇家の比定・治定が実のところ,「まったくのデタラメ」であった〈事実〉を教えた。

 宮内庁関係者の立場からすれば,その事実を報道する新聞やインターネットの記事には目をおおいたくなるし,またテレビ・ラジオなどに流れるニュースには耳を塞ぎたくなるはずである。

 ハ) 日本国政府の一組織である「宮内庁」は,天皇陵の発掘調査は,けっして直接てがけようとはしない。それでいて,陵墓への考古学者の立ち入りを基本的に拒否している。その理由は,天皇家の私物=私有財産に手を付けるな,あるいは故人の霊を騒がし・乱すような行為となる発掘調査はするな,というものである。

 しかし,この ハ)  のような理屈=主張は,もとより〈奇妙奇天烈な発想〉による「身勝手な要求」である。天皇が《日本国・国民の象徴だ》というならば,この天皇の祖先が歴史的にどのように暮らしていたのか調査する作業の必要性は,憲法上,つぎのように考えられる。

 それはまず,この天皇を総意によって選んだはずの「日本国および日本国民」の〈当然の権利〉である。つぎにまた,その発掘からえられた「〈事実〉の全体」に接し,その「詳細も知らねばならない」ことは,日本国国民にとっては〈当然の義務〉でもある。

 天皇家の人びとが京都御所に密かに暮らし,自分たちの祖先の墓守をしながら生活しているとすれば,いったいどれほど,祖先の墓=「陵墓」を把握・維持・存続できていたかを想像すればよい。

 おそらく,江戸時代より以前のままに,ほとんどなにもしらぬ状態をつづけてくるほかなかったと思われる。かといって,いま天皇家の陵墓だと認めているつもりの多くの墓は,歴代に実在した各天皇に一致していない。考古学的・歴史学的な実証(検証の作業)を,科学的な次元において適用されていない。

 いわば「まがいもの」の陵墓治定がまかりとおってきた。宮内庁は,天皇家の祖先たちの墓を,それも独自・別個にデタラメに決めていておいても「恬と恥じない」だけでなく,他所の墓があらためて科学的な発掘調査の手順を経て,いついつの,どこそこの「本当の・本物の天皇(家)の墓だ」と判ったとしてもこれを認めない。

 宮内庁は,古墳問題に関する歴史理解に関して頑迷固陋な態度,換言すれば非科学的に立場に終始する姿勢を固持(誇示?)してきた。また,その必然的な結果だが, “破廉恥とまで非難されていい歴史認識” を堂々と提示しつづけている。

 さて2009年に,朝鮮民主主義人民共和国平壌で,5世紀ごろに築造された大規模な高句麗画古墳が発見された。関連の報道を紹介しておく。〔 〕内補足は本ブログ筆者。

    平壌に大規模高句麗古墳  日朝が初の本格合同調査 ☆

 

平壌共同】 北朝鮮平壌市楽浪区域で昨〔2009〕年,5世紀ごろに築造された大規模な高句麗壁画古墳が発見された。共同通信社は〔2010年〕8月14日までに学術調査団を現地に派遣,北朝鮮の社会科学院考古学研究所と合同学術調査を実施し,崩落を免れた天井や壁のほぼ全面に壁画やその痕跡を確認した。

 

 平壌近郊などに分布する高句麗古墳群のうち,旧楽浪郡中心地域での壁画古墳発見は初。古代東アジアの歴史や文化交流,絵画史などを考察する上で第一級の史料となりそうだ。北朝鮮側は「東山洞壁画古墳」と命名。今後,国宝に指定,国連教育科学文化機関に世界遺産登録を追加申請する方針。

 

 日本と北朝鮮による本格的な合同学術調査は初めて。日本から東大の早乙女雅博大学院〔准〕教授,サイバー大青木繁夫教授の研究者2人が参加。同古墳は,石室を覆う墳丘も残っていて直径約35メートル,高さ約8メートル。石灰,炭,赤色粘土が交互に積まれた構造が初めて確認された。約16メートルの墓道の先に南南東に開いた古墳の入り口と羨道があり,長方形の前室と遺体を安置する後室が狭い通路でつながっていた。 

 注記)http://www.47news.jp/CN/201008/CN2010081401000450.html

 7世紀の「牽牛子塚古墳」(日本)と5世紀のこの「東山洞壁画古墳」(朝鮮)とあいだには,歴史的な関係があるのか・ないのか,本ブログの筆者がよくなしうる論及ではないので,つぎのような論点に話を移そう。

 今回発掘された「牽牛子塚古墳」だけでなく,日本国内では多くの古墳の存在が新しく確認され,調査も進展している。日本の天皇陵は本来,国家の文化遺産・国民の共有財産である。

 だから,宮内庁のいいぶんのように「天皇家の祖先を霊を祀る神聖な場所」は「調査研究の対象とすべきでない」とふうに,いくらかは筋が通るかのようで,実はまったく意味の通らない屁理屈を申したてるのは,妄説ないしは暴論のたぐいだとしか受けとれない。

 先述のように「天皇は日本国および国民の象徴である」と規定されているなかで,この天皇天皇制にかかわる「国家の歴史的な文化遺産である〈墓〉」を,宮内庁はデタラメに治定している。それでいながらも,国民に対して〈平気の平左〉でいる。これは許しがたい傲岸不遜の対応であり,頑迷固陋の姿勢である。

 

  天皇家あるいは宮内庁がひどく恐れる事態

 1) 触らぬ神に祟りなし

 考えてもみよ。古墳の築造は,歴史の記録にその名も残すこともない〈数多くの民衆〉が,多くの労苦を強いられて造りあげたものである。宮内庁は「天皇陵」を「立入禁止」し,「学術的調査を実質,いっさい拒否」している法的根拠は,いったいどこにありうるのか? すべての天皇陵はすべて調査の対象にされ,その歴史的記録を学術的に制作しておく必要性がある。

 宮内庁側の認識は,単に「一般常識」的に〈天皇家の墓〉という認識で留めておきたい。だが,天皇天皇一族はあくまで,日本国の法律・政治的な制度のひとつである存在であるから,そのようなこじつけに類する理屈をもちだしては,あたかも「うちのお墓を勝手に荒らす」のは絶対にやめてほしいなどと強調する態度は,本末転倒である。

 そもそも,天皇およびこの係累たち自身が,こうした天皇陵の問題について明確に発言せず,そして皇室会議も具体的に言及しないのは疑問である。明治に入ってからの天皇たち(孝明天皇以後)は,古代史に登場した巨大な古墳に似た墓(陵墓)を建造してもらい,死んだあとはそこに埋葬されてきた。

 ※-1 まず「大正天皇夫婦・武蔵野陵」(中央)と「昭和天皇夫婦・多摩陵」(右側)が写っているが,その大きさの違いに注意したい。これらの左側(西方)に木々を伐採して整地されている敷地が写っている。ここが「平成天皇夫婦の陵墓が建造される予定地」である。

 

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 ※-2 つぎに※-1を中心部分に縮小してみた東京都八王子市の部分的な画像,下部にJR高尾駅がみえ,中央自動車道が右上から左下に通っている。

 

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  ※-3 平成天皇夫婦のために予定されている「陵」の設計図はすでに準備されている。説明のために参考となるその予想図を紹介しておく。

 

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      出所)『日本経済新聞』2019年3月9日朝刊38面「社会」

〔本文に戻る→〕 宮内庁はもしかすると,天皇陵の学術的調査が「天皇家朝鮮半島との歴史的に密接な関係」を,より鮮明にする事態が世間において話題になることを恐れているのか?

 平成天皇は,桓武天皇が韓国・朝鮮人の子孫であることを,いまさらにように表明したことがある(2001年)。

【参考記事】

Newsweek 「天皇家と朝鮮」

 本ブログの筆者にいわせれば,日本のマスコミがほとんどとりあげなかったその天皇発言は,21世紀に向う「平成天皇の皇室生き残り戦略」としての戦術的な口上の一言であったゆえ,これには注意してその意味を受けとる余地があった,ということになる。

 平成天皇のこのラブコール的な「韓国・朝鮮には遠い昔,親類がいました」という発言は,日本のマスコミにほとんど無視された。だが,日本以外の各国マスコミは大きく報道し,話題にもなった。

 f:id:socialsciencereview:20210612080330g:plain  付記)『ニューズウィーク』日本語版,2002年3月20日号。

 とくに,韓国の一部マスコミは「皇室は韓国人の血筋を引いている」とか「皇室百済起源論」などとか報道し,当時の大統領金 大中は,年頭記者会見でこの発言に対して歓迎の意を表した。こうした韓国側の好意的な反応は,平成天皇の発言が「皇室戦略的に成功した」一部の成果といってよい。

 なお,桓武天皇は諱(いみな)を「山部(やまのべ)」といい,母が百済帰化人の家系出身高野新笠(たかののにいかさ)であった。明仁天皇が「皇族にも韓国の血が入っていて,親しみを感じる」と述べて話題を呼んだ。

 だが,その発言には,日本の皇室を東アジア圏域にまで拡延的に位置づけ,そして意義づけて,天皇一家の日本における地位・威厳をより高め,確固たるものたらしめんとする彼の〈隠微な意図〉を,われわれは読みとらねばならない。

 また,山部皇子は帰化人の血のせいか体格がよく,「天姿嶷然(ぎょくぜん:堂々として背が高いこと)」と形容されている,けれども,いまの天皇そしてこの父は,その血統・遺伝子からはすっかり縁が薄れた体躯になっていた。

 昭和天皇を核心においてみればよく判るように,天皇一族関係の生殖力(Y染色体?)が顕著に劣化・低下してきた歴史的な現象は,皇室内的な生物史の事実そのものである。明仁の息子夫婦2組からは男子が1名しか生まれていない。この現実は,そうした遺伝学的な資質が歴然と尾を引いていることを如実に物語っているのかもしれない。

 ところで明治天皇は,いったい何人の側室をかかえていて,いったい何人の子どもを儲けていたか? 大正天皇:嘉仁をなんとか世継ぎ(男系天皇)として残すことができていたが,成人まで育った男子はこの1人だけであった。

 2) 天皇の発言は「日本の民主化」に寄与するか?

 京都大学名誉教授の上田正昭は,『日本神話』岩波書店新書,1965年,『新版 日本の神話』角川学芸出版,2010年として再刊のなかで,天皇家に朝鮮の血が入っていると述べたところ,それ以来,右翼団体に「売国奴」などと脅迫されつづけたという。

 ところが,この平成天皇の「おことば」以降は,脅迫がさっぱりなくなったと語っているそうである。この話には「ひとまず,笑って済ませられる要素」と「再度,今後に向けて考えておく要素」との二面性が含意されている。

 それは,日本の民主主義にとって「天皇天皇制という前近代的な政治制度」が「日本国民たち」に対して有する,その逆説的な「反民主主義的な政治精神」を意味してきた。天皇に一言いわれたら,あの右翼連も黙って引き下がるという「天皇と〈臣民(?)〉の関係」が存在する。日本国内では「皇室と国民の間柄」における〈異常・異様なる政治的意識〉という実体が,いまだに健在である。

 もっとも,論者によっては,水野俊平〔韓国の元全南大学日本語学科客員教授,現在は北海商科大学教授〕のごとき,つぎのような意見もある。

 水野は,朝鮮半島からの渡来人による古代日本における影響の大きさを認めつつも,彼らの日本社会への同化の程度も大きく(生母の高野新笠百済系渡来人の武寧王から10代目であり,しかも6代前に日本名(和氏)にして帰化もしている),はたして,彼らをして「韓国人」とみてもよいかどうかという疑問を投じている。 

 注記)以上は,http://ja.wikipedia.org/wiki/桓武天皇・水野俊平なども参照しつつ記述。

 ここでもわれわれは,平成天皇の「隠微なる意図」を読みとるべき事由がみいだせる。だが,水野のいう内容では,古代史において「渡来人による古代日本における影響の大きさ」と「日本社会への同化の程度の大きさ」とが,いったいどのように関連づけられて解釈されればよいのかという「この論点」については,一方的な断定しかうかがえない。

 平成天皇の「桓武天皇は祖先である」という発言のなかにしこまれた「天皇天皇家の版図拡大」への〈陰謀的な意図〉を,われわれは注意深く観察しなければならない。平成天皇の発言ひとつで,カタツムリではないが「簡単に角を引っこめる」ような軟弱な日本の右翼も,右翼である。結局,右翼の彼らにおいては〈特筆すべき思想も理論もない〉ことだけが,あらためて明確になった。

 

  伊藤博文明治天皇以下

 1) 伊藤博文の歴史的な役割

 新人物往来社編『伊藤博文直話-暗殺直前まで語り下ろした幕末明治回顧録-』(新人物往来社,2010年4月)を読んだが,この本のなかで伊藤博文はこういっていた。

 日本の古来の歴史を読んで,日本の国体に・・・いずれが適するかといったら,適するではない,すなわち日本は本来,主権君主にありという国なのである。一天万乗の天子は主権を固有しておられるからこそ,一天万乗の天子である。

 

 京都に屈んでいて,虚名を擁し,日本全国の政治が鎌倉でおこなわるるとか,江戸でおこなわるるならば,君主の名あって実(じつ)なきものである。これ,王政復古のなさざるべからざる所以である。王政復古のはすなわち主権の復古である(253頁)。
 
 政治は,人権を全うせしむる所以の方便である。この政治をおこなうには,君主政治の国においては,君主1人の意に任じ,立憲政体の国においては国民をして政治に参与せしむる,これを参政の権利という。すなわち人の政権である(270頁)。

 

 日本国は金甌無欠の皇室を中心として,政治を施すにあらざれば,とうてい国民の一致を保ち,国運の伸長は図られない。したがって,忠義の二字を心に体する者にあらざれば,真に国家に貢献することは不可能である(271頁)。

 伊藤博文は,民主主義と君主主義の違いをいちおうはよくしったうえで,このように明治の体制を発進させることにした。しかも「神格化した天皇」を頂点に置いておき,帝国運営の道具・手段=《玉》に使う基盤を創った。しかし,「金甌無欠」であったはずの日本帝国は1945年に壊滅したはずであるから,天皇天皇制を残す理由もなくなっていたはずでもあった。

 その論点はいったんさておくとしても,そもそも「伊藤の国体論とは」19世紀後半における「国際社会のなかでの主体的かつ協調的なアクターたりえる独立国家を弁証するための方便だったのではないかとすら考えられる」と指摘したのは,瀧井一博『伊藤博文-知の政治家-』(中央公論新社,2010年4月,95頁)である。

 当時,日本が囲まれていた国際政治情勢のなかで,伊藤博文が最善・最良・最適と判断して採用した日本帝国の政治体制は,帝国の臣民に明治天皇を神と崇めさせ,民主制的な政治意識,すなわち「〈人民:people〉としての意識」をもたせずに,そらせておかねばならなかった。

 日本帝国はその出立の時点からして,早くは1874〔明治〕7年に始まった自由民権運動など〈民主主義の要求〉を徹底的に弾圧し,圧殺する方向でしか国家運営を定めるほかなかった。伊藤之雄伊藤之雄-近代日本を創った男-』ミネルヴァ書房,2009年は,「明治天皇の厚い信頼を受け」ていた「伊藤」博文(542頁)を,こう説明していた。ここでは,吉田松陰から伊藤博文が学んだ2点が挙げられている。

 a) それはまず「既存の体制を否定し,変革するために,藩主や天皇という絶対的なものを設定する論理である」(30頁)。「伊藤は」「天皇を『忠誠』の対象として,明治初年から廃藩置県を主張し」「立憲国家の作る考え」を示しえた(31頁)。

 

 b) それはつぎに「天皇のいうことに単に服従して従うのではなく,天皇が『世界の大勢』を踏まえた,あるべき君主になるように天皇を教育し,明君としての資質を引き出した上で,天皇との信頼関係を基に,政治をおこなっていこうとする態度であった」(31頁)。

 この2つ「論理」(政治思想)が端的に語っているのは,天皇の役割に関して〈玉:タマ〉と〈玉:ギョク〉との使い分けを,基本で期待していた事実である。「伊藤は明治天皇の厚い信頼を受け」ていたという事実は,今日的な視点から観察するとき,どのように解釈されるべきか?

 ちまたに流布してもいる「睦仁:明治のすり替え説」などに言及する以前の段階において,伊藤博文が睦仁天皇に対しては〈政治的上位〉に陣取れていた歴史的事実がある。この点に十分注目しておく余地がある。

 2) 歴史の捏造を糺す

 明治維新にともない,〈明治の政治家たち〉が必要とした帝国主義体制的な「天皇天皇制的な君主政治」の手法は,敗戦後も宮内庁の陵墓政策に色濃く投影されている。これほどの時代錯誤もない。語るに落ちてしまった,それも実に時代錯誤で,幼稚で低劣な政治姿勢が,いまなお宮内庁のなかに浸潤している。それは,宮内庁における抜きがたい,封建的な残存の実体を意味する。

 平成天皇は,このような宮内庁の歴史的な体質をしらないわけがない。とはいえ,この体質をどのような方途にせよ是正・修正させることは,平成天皇にとって,はたして可能なのであろうか。

 伊藤博文的に,きわめて政治的な〈旧套の歴史観〉を少しも払拭できていない,いいかえると,けっしてそうしようとはしない宮内庁,そして平成天皇および皇室一族に対しては,ここで,家永三郎津田左右吉の思想史的研究』岩波書店,昭和47年の論述を利用し,こう語りかけておきたい。

 「天皇皇室は全国民の大宗家で,天皇は全国民の大氏であらせられる」というような「記紀の説話の筋に従って」「歴史教育を受けた日本国民の上代史についての知識は」,津田左右吉による詳細をきわめた研究が「根底から覆そうとするものであった」(297-298頁)。

 津田左右吉記紀に関して批判した「日本・天皇(大王)・昔話」の本性を,われわれは忘れてはいけない。戦争の時代,日本の帝国主義的侵略路線が狂躁をきわめる時期になるや,津田左右吉の諸著作が発禁処分を受けた事実は,なにを意味していたか?

 明治以来の官許的な歴史研究は,韓国だとか朝鮮だとかの「歴史的に深い関係」を完全に排除したところに成立させられていた。だから,平成の天皇が「朝鮮と日本の皇室との歴史的な血統・親戚関係」を口にしたことは,同時にまた,「明治謹製」になる天皇史観に向かい彼みずからが諸刃を振りまわす行為を意味した。

 確かに,その片刃が「日本の右翼」を切り,黙らせる効果を挙げた。けれども,その反対側の片刃は,日本の皇室自身に向けられるほかない必然:宿命にある。

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