靖国神社問題小考,敗戦して賊軍神社になりはて,その後も存続してきた歴史

             (2014年1月20日,更新 2021年6月20日

 

 靖国神社 の宗教的欺瞞性のおどろおどろしさ

 大東亜・太平洋戦争に完敗した旧・大日本帝国であったが,常時「官軍」として勝利を前提する帝国陸海軍であったゆえ,戦死などした将兵などを祭祀するための「国家神道式になる靖国神社」を建立していて,この宗教施設を軍人たちを督励するために活用していた。しかし,第2次大戦終結日帝の完敗を結果させていたゆえ,この靖国神社の宗教的な役目が質的に特定の変化を余儀なくされていた。

 「戦争を前提する神社」であり「勝利のための神社」であった靖国神社は,日帝の敗北によって,その存在理由を喪失させられた。遺骨(肉体)からその御霊を取り出したと観念される〈死霊〉たちを集めては,これを英霊として祭壇に祀るかたちで,九段下のこの神社の墓守をしつつ,さらには1945年8月の「敗北」という事実にもめげずに,督戦神社であった〈宗教的な意味〉を墨守しようとしてきた。

 もっとも,最近における靖国神社はその存在意義を根幹から揺すぶられる事態を,みずから提供してきた。とくに2018年になると,靖国神社内で発生した組織軋轢が,日本社会のなかで話題になっていた。この付近の論点をめぐり,しばらく記述していきたい。

 ここでとくに注目するのは,過去2~3年,靖国神社に関して発生していた騒動である。つぎに引照する2つの記事を材料に使い,関連して浮上する論点をあれこれ拾いながら,本ブログ筆者なりに批評してみたい。

 

 1)靖国神社宮司緊急搬送で『トップ不在例大祭』異常事態」『NEWSポストセブン』2020.09.21 16:00,https://www.news-postseven.com/archives/20200921_1596724.html(元記事『週刊ポスト』2020年10月2日号)

 靖国神社宮司が倒れた--,そんな情報が神社界を駆けめぐったのは〔2020年〕9月初旬のことだった。「宮司の山口建史氏(72歳)が,8月31日に自宅で転倒して頸髄を損傷したとの情報です。山口氏は緊急搬送されたが,手足にしびれが残っていると聞きました」(ある神主)。

 靖国神社社務所に尋ねると,山口氏の負傷の事実を認め,「宮司は現在,入院,加療中です。社務復帰に向けた静養をしております」と回答した。靖国神社宮司は2代続けて定年を前に退任しており,「山口氏も続いてしまわないか」と心配されているという。

 山口氏の前任・小堀邦夫氏は,天皇(現・上皇)への“不敬発言”により2018年10月に辞任。その前任の徳川康久氏も,定年前の2018年2月に退任に追いこまれた。

 「山口氏はそんな靖国神社を立て直そうと熱心に職務に打ちこみ,参拝者からは『誠実な宮司さんだ』と評判がよかった。しかし,10月におこななわれる靖国の重要行事・秋季例大祭までに,山口氏の体調が十分に回復しない可能性もある。もし不在のまま例大祭が実施されれば,山口氏の進退に関わる」(前出の神主)。

 『宗教問題』編集長の小川寛大氏が後任人事のむずかしさを指摘する。

 「靖国神社は格式を重んじるため,戦後は旧華族宮司に招き,靖国内からは就任しない例が多かったが,徳川氏の退任以降,旧華族とは距離ができている。山口氏は靖国出身だったが,内部からの就任はふさわしくないとする声も多い。そこで手っ取り早いのは神社本庁から人を送ってもらう手段ですが,靖国神社本庁に加盟しておらず,独立性を損なう可能性もあるため,反対意見も根強い」。

 3代連続の “途中離脱” となれば,創立151年目にして最大のピンチになりそうだ。(引用終わり)

 靖国神社の歴代宮司は,つぎの氏名である。在任期間に関する「月・単位の計上」については,ほぼ四捨五入的に計算した。

 第1代宮司・青山 清 1879〔明治12〕年6月16日-1891〔明治24〕年2月6日(在職中に死去),在任期間 21年8カ月
 第2代宮司・賀茂水穂 1891〔明治24〕年2月17日-1909〔明治42〕年4月28日,在任期間18年2カ月
 第3代宮司・賀茂百樹 1909〔明治42〕年3月29日-1938〔昭和13〕年4月21日,在任期間29年1カ月

 

 第4代宮司・鈴木孝雄 1938〔昭和13〕年4月21日-1946〔昭和21〕年1月17日,在任期間7年9カ月
 第5代宮司筑波藤麿 1946〔昭和21〕年1月25日-1978〔昭和53〕年3月20日(在職中に死去),在任期間33年2カ月
 第6代宮司松平永芳 1978〔昭和53〕年7月1日-1992〔平成4〕年3月31日,在任期間13年9カ月

 

 第7代宮司・大野俊康 1992〔平成4〕年4月1日-1997〔平成9〕年5月20日,在任期間5年1カ月
 第8代宮司・湯澤 貞 1997〔平成9〕年5月21日-2004〔平成16〕年9月10日,在任期間7年4カ月
 第9代宮司・南部利昭 2004〔平成16〕年9月11日-2009〔平成21〕年1月7日(在職中に死去),在任期間4年4カ月

 

 第10代宮司・京極高晴 2009〔平成21〕年6月15日-2013〔平成25〕年1月19日,在任期間3年5カ月
 第11代宮司・徳川康久 2013〔平成25〕年1月19日-2018〔平成30〕年2月28日,在任期間5年1カ月
 第12代宮司・小堀邦夫 2018〔平成30〕年3月1日-2018〔平成30〕年10月31日,在任期間8カ月

 

 第13代宮司・山口建史 2018〔平成30〕年11月1日- (在任期間は2021年6月20日までで,2年8カ月

 以上,靖国神社宮司が在任してきた期間は長いものが多い。だが,最近になっては短い期間で退任する人物がめだっていた。徳川泰久と小堀邦夫はいずれも,「問題にされた発言」が原因となって宮司の地位から去っていた。靖国宮司には華族(旧)が就くウンヌンの話題も出ていた。

 さて,靖国神社宮司には旧華族が就いていたという事実を耳にすると,こういう事実も思い起こす。2017年7月の新聞には「小松揮世久氏が神宮大宮司に」という見出しの報道があった(ここでは『毎日新聞』2017/7/3 22:11,https://mainichi.jp/articles/20170704/k00/00m/040/097000c)。

 伊勢神宮三重県伊勢市)は〔2017年7月〕3日付で,神宮大宮司の鷹司尚武(たかつかさ・なおたけ)氏(72歳)が退任し,後任に小松揮世久(きよひさ)氏(67歳)が就任したと発表した。

 伊勢神宮の神官は祭主と宮司が置かれているが,前者の祭主は,皇族関係者と摂家(せっけ)の,鎌倉時代中期に成立したとされ,藤原氏嫡流で公家の家格の頂点に立った5家「近衛家鷹司家九条家二条家一条家」出身者が就いている。現在の祭主は,令和の天皇実妹黒田清子である。

 伊勢神宮に比較して靖国神社宮司は,その格が下だという解釈ができるとすれば,この点については,「伊勢神宮靖国神社の歴史的な由来」がその相違点にかかわる根拠を提示している。とはいえ,靖国神社はもともと「死霊神社」であった。ただ,途中からは「督戦・勝利用の神社」となり,現在は「敗戦神社(国際政治関係的には「賊軍神社」)にまで変転しつくす,といったごとき波瀾万丈を経てきた。

 靖国神社が1978年10月17日,当時の宮司松平永芳の采配によって「A級戦犯を合祀した」。この出来事を契機に,昭和天皇〔の代から〕は天皇たちがこの神社に参拝にいかなくなった。この天皇家側による対応は,それなりに十二分の理由・事情になっていた。

 以上,2020年におけるある記事を材料にして論じた話題であった。その2年前の2018年は,靖国神社側にとってみれば,その実在基盤の〈歴史的な源泉〉にかかわる重要問題が発生していた。その問題は,つぎの 2)の記述でのように登場していた。

 

 2)「〈伊藤博敏「その裏に迫る」〉安倍政権の巨大支持組織・神社本庁で内紛激化…靖国神社天皇批判発言で異常事態」『BUSINESS INSIDER』2018.11.07 20:00 https://biz-journal.jp/2018/11/post_25428.html(元記事,https://biz-journal.jp/2018/11/post_25428.html

 ※-1 問題の発生

 来春〔2019年4月末日のこと〕,今上〔明仁天皇が退位し,皇太子〔徳仁〕が新天皇に即位する「御代(みよ)替わり」がおこなわれる。憲政史上初めての退位だけに,政府は皇室の伝統と象徴天皇制のあり方に留意しつつ,各種儀式を執りおこなう方針だ。

 こうした諸行事を草の根からお祝いして,国民に皇室の伝統を伝え,退位と即位をつつがなく迎える役割の神社界がいま〔は,2018年秋の話題であったが〕,揺れている。神社本庁は総長が「辞任発言」をして迷走,靖国神社は「不敬発言」で宮司(ぐうじ)が交代,わずか1年の間に3人の宮司をいただく異常事態となっている。

 全国8万の神社を傘下に置く神社本庁と,本庁に属さない単立の宗教法人として国家のために戦った戦没者を慰霊顕彰する靖国神社の混乱は,明治以降150年の歴史のなか,国家神道の担い手だった戦前と,一宗教法人として出発した戦後が,ほぼ同じ年月を刻む過程で,「国家の呪縛」から抜け出す時期を迎えたことを意味する。

 安倍晋三政権が長期化し,日本社会の保守化が進むなかで,戦前への回帰を根底に秘めた日本会議が注目を集めるようになった。その中核に位置するのが神社本庁であり,傘下政治団体神道政治連盟だった。宗教団体をはじめとする保守勢力の国民運動を推進するのが日本会議だが,手足となる人員や拠点を自前でもっているわけではない。

 47都道府県に「神社庁」という組織があり,2万人の神職で8万の神社を包括する神社本庁の体制は,草の根国民運動の担い手に相応しい。8年目を迎えて支配体制を強固にする田中恆清総長は日本会議副会長であり,その右腕の打田文博神政連会長とともに安倍保守政権を支えてきた。

 補注)「神社本庁の体制は,草の根国民運動の担い手に相応しい」という形容は,二重の意味で誤謬を含む。第1は神社本庁の基本体質そのものが民主主義とは縁遠いし,第2に神道関連の宗教組織に対してじかに民主主義を添えて議論する方法じたいに違和感があった。

 その象徴が,2016年の初詣に各神社に憲法改正署名活動のためのブースを設けさせていたことだろう。「憲法改正1000万人署名活動」の一環であり,神社本庁の立ち位置を明確にした。

 だが,そもそも神道が国家と明確に結びつき,天皇を中心とした支配体制の一翼を担うのは明治維新以降のことであり,本来は祖霊信仰,「祭り」をはじめとする地域コミュニティの場であり,八百万の神を祀る融通無碍の宗教だった。

 「氏子には共産党の信奉者だっているわけだし,改憲署名を強制するような支配体制は馴染まない。なのに,田中総長と打田神政連会長のコンビは,田中総長が副総長時代の2004年ころから神社本庁に強権支配体制を築いた」(有力神社の宮司)。

 その矛盾と不満が一気に噴き出したのが,田中・打田体制と親しい特定業者への宿舎の安値処分に異議を唱えた幹部職員をクビにしたときであり,「反田中派」が結成され,役員会などで田中批判が展開されるようになった。神社本庁内部と有力理事を押さえ支配体制が揺らぐことはなかったものの,田中総長に対する不満が鬱積するようになった。

 ※-2 「御代替わり」に影響も

 それが表面化したのが,〔2018年〕9月11日の役員会。「クビにした幹部と和解したらどうか」と勧められてキレて,「今日限りで総長を退任する」と思わず口走った。ところが前言を翻し,10月3日には長老や顧問を招いた役員会を開催,「続投宣言」をして周囲を呆れさせた。

 なかでも開き直りに反発したのが,神社本庁の象徴的存在の鷹司尚武統理で,「今日の会議で(退任の意思が)覆されたのは,私は気持ちが悪い」といい,「自分がいったことには責任をもってほしい」と,辞任勧告に等しい発言をした。これを受けて,全国から評議員が集まる10月23日の評議員会では,「退任に追いこまれるのではないか」という観測も流れた。

 だが,田中総長は居直りの覚悟を固めており,解任につながる「勧告決議」が出されたものの,「評議員会で話し合われる問題ではない」と一蹴。そのうえで,「動議は私にとって屈辱。140名を超える評議員の前で辱めを受けた」と恨みを口にした。

 おそらく来〔2019〕年6月の任期満了まで,田中総長は意地でも辞めない。それどころか4期12年という異例の長期政権を画策する可能性もある。人事権を握って神社本庁を掌握する田中氏にとって,それは可能かもしれない。各界に人脈がある打田氏のサポートもある。しかし,それでは反田中派はますます離反,統理の信頼をえないまま「御代替わり」の各種行事に,神社本庁としてのスムーズな対応ができなくなる。

 ※-3 靖国神社,舌禍発言騒動

 靖国神社の迷走も,「時の流れ」がもたらした。徳川家末裔の徳川康久氏は,2013年に第11代宮司に就任。以降,「みたままつり」から屋台を締め出すなど積極的な改革に踏み切ってきたが,行き過ぎて物議を醸したのが,明治政府に反抗して戦った会津など賊軍の合祀を口にしたことだった。徳川氏の出自もあって,「靖国の存立基盤を否定する発言」と猛反発を受け,退任を迫られた。

 ※-4 神社本庁靖国神社で起きている混乱の原因

 その後を受けたのが,伊勢神宮で大宮司少宮司を補佐する禰宜(ねぎ)に就いていた小堀邦夫氏である。が,小堀宮司も舌禍発言で退任を余儀なくされる。

 今〔2018〕年6月におこなわれた教学上の問題を検討する最初の会議で,天皇サイパンパラオ,フィリピンと続いた「慰霊の旅」について触れ,「そこに御霊はないだろう? 遺骨はあっても。違う?」と述べ,暗に靖国に参拝しない天皇を批判。

 このまま参拝がなければ,「いまの皇太子さんが新帝に就かれて参拝されるか?」と懸念,それが「今上天皇は,靖国神社を潰そうとしている」という衝撃発言につながった。

 補注)この靖国神社宮司(最高責任者)を務める人物が,この程度の靖国神社じたいに関する認識しかないこと,いいかえれば,昭和天皇が1975年11月21日を最後にして,なぜ靖国に参拝にいかなくなったかという理由・事情を理解できないことについては,驚愕させられた。

 つまり,昭和天皇がなぜ,靖国神社に参拝(親拝)しなくなったかというその真因は,靖国の死霊信仰に深くかかわる国家神道式の思考方式(信仰の特性)にあったわけだが,この論点にまつわる理解心が小堀邦夫には完全に欠落していた。例の『富田メモ』の解釈についても,小堀は関心すらなかったのかと推理したくなる。

 その『富田メモ』とは,『日本経済新聞』が2006〔平成18〕年7月20日朝刊1面冒頭を充てて報道したニュースであった。

 それは,元宮内庁長官富田朝彦がつけていたとされるメモ(手帳14冊・日記帳13冊・計27冊)のなかに,「昭和天皇靖国神社参拝に関する発言」が記述されていた部分をとりあげ,昭和天皇がとくに,第2次世界大戦のA級戦犯靖国神社への合祀に対して強い不快感を示した,とされる内容が注目された。なお,メモ全体の公刊や一般への公開はされていない。

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 要は,「勝利のための督戦神社」である「靖国神社」が,敗戦を契機に「賊軍神社」に転落していたという,それも国際政治としての世界全体の枠組のなかでみれば,A級戦犯とはひとまず無縁であったはずのこの神社のなかに,「敗戦=賊軍」という “歴史的に触れたくない意味あい” をもちこむほかなかったその「A級戦犯の合祀」は,昭和天皇の立場からすると “戦慄すべき事態” の到来になっていた。

 どういうことか? 東京裁判極東国際軍事裁判)は天皇を免罪しておいた。その代わりに断罪されたのが,東條英機A級戦犯であった。死刑判決を受けた東條らのその死刑執行は,1948〔昭和23〕年12月23日(時の皇太子・明仁が15歳の誕生日)に執行されていた。

 そのA級戦犯靖国神社に合祀されたのだから,昭和天皇がこの神社に出向き,親拝し,2百数十万人台にも膨らんでいた「無数ともいえそうな英霊」に向かい,祭祀を執りおこなう神道的な宗教行為は,昭和天皇の立場にとってはガマンならない状況をもたらす。『富田メモ』のなかには「昭和天皇のその気持」が正直に記録されていた。


〔記事に戻る→〕 2018年10月8日,この発言〔平成天皇批判の件〕を報じた『週刊ポスト』(小学館)が発売されると,1週間も経たずに〔小堀邦夫〕退任の意向が表明され,10月26日の総代会で後任が “徳川時代” にナンバー2の権宮司(ごんぐうじ)だった山口建史氏に決まった。「右翼思想の人で,そちらに幅広い人脈をもっているが,2代続けて舌禍発言でクビになっており,可もなく不可もない運営に徹するだろう」(有力神社神職)と予測する。

 A級戦犯の合祀以来,昭和天皇は1975年を最後に参拝を見送り,今上天皇もそれに倣うなど,小堀氏の指摘のように,靖国天皇家から距離を置かれているのは事実だ。遺族会は高齢化,政治家の公式参拝も進んでおらず,「靖国を支える人」が少なくなっている。そうした歴史に埋没しそうな靖国を甦らせようとして足元をすくわれた感があるのが徳川,小堀の両宮司だった。明治も昭和も遠くなりつつある。

 神社本庁靖国神社で起きている混乱は,突出した人間たちが巻き起こす悲喜劇ではあるが,底流にあるのは神社,神道靖国とはなにかの本質的論義を深める時期にきていることへの認識が,神社本庁幹部や単立の有力神社宮司らに欠けていることだろう。

 補注)靖国神社もそうであるが,神社本庁は宗教関係の組織・団体であるよりは,宗教という上っ張りだけを羽織っただけの,いわばただの政治結社もどきの宗教的な社会集団であった。この宗教集団もどきが政治に走りすぎる時は,その宗教性をゆがめるだけでなく,その本来の使命からは離れた行動特性を発露しだすのがつねであった。

 天皇の「御代替わり」に神社界は存在感を示し,国民の信頼と親しみを取り戻し,素朴な信仰をつなぎ止めることができるのか。残された時間は短い。早急に,新しい体制で立て直しを図る時期にきている。(引用終わり)

 最後にいわれていたその「素朴な信仰」とは,いったいなにか? この指摘でもって,靖国神社「本質」の理解に資することができるか? 以上の記事を書いたジャーナリスト伊藤博敏は,その素朴な信仰「心」が靖国信仰(ただし「明治謹製」のそれ)をも包摂する事実を踏まえているのか,疑問があった。

 「素朴な信仰」=神道の信心だとはいっても,靖国信仰も含めた広角的な理解や議論にしないことには,日本の神道全体に対する包括的・有機的な概念把握を欠いた分析や検討に終始するほかなくなる。

 ここからこの記述全体の本論に入る。「靖国神社問題」を考究するには「敗戦した賊軍神社の意味」を,その裏面に張りついた論点として設定しておく必要があった。ここではまず,「靖国」論そのものの自己閉塞性に注目する点を断わってもおいたうえで,その「なにを・どのように・論じるのか」という点にこだわる論述としたい。

                                                 
 「〈歴史認識の根っこ〉対立生む『国家神道』,靖国問題 見過ごされる国内問題の側面」『朝日新聞』2014年1月20日夕刊

 1) 靖国神社は「国内」では官軍神社であるとの錯覚,
        「国内および国際」の双方では賊軍神社であるという認識
    -「敗戦の将,兵を語らず」に反するこの神社の世俗的即物性-
    -「誰がために靖国はあるのか?」-

 昨日〔2014年1月20日〕,上智大学教授の島薗 進が『朝日新聞』夕刊に,この  1)  の「『題名』の論説」を寄稿していた。インタービュー記事ではあるが,語りの記事が陥りがちな冗長さはなく,論説の体裁によく意見がまとめられている。

 以下の引照においては,アルファベットを付した文章は新聞社側の質問設定であり, の以下の文章が島薗 進の主張:議論である。それにつづいて「議論1・2・3 ~ 」という項目を立てて,本ブログ筆者の論及がなされている。なお「しまぞの・すすむ」は1948年生まれ,近代日本宗教史専攻,著書に『国家神道と日本人』岩波新書,2010年などがある。

 2) 本論「〈歴史認識の根っこ:1〉靖国問題,対立生む『国家神道

 a) 宗教学の観点から,最近の靖国問題をどうみるか。

 -1 首相らの靖国神社への参拝は,信教の自由や政教分離をめぐる国内の問題として長らく議論されてきた。それが中国や韓国からの反発という国際問題になった。このため日本にとって正当であるはずの参拝が外国の反対でできなくなっているという印象が作り出され,本来の国内問題の側面が見過ごされている。

 「議論:1」 ここで「日本にとって正当」だということに関しては「そうあるはずだ論」が問題になる。敗戦直後の日本では,将兵だけで約210万もの死者:犠牲者を出した戦争の,国家神道的な「後始末」(→合祀のこと)を,靖国神社が戦前・戦中とまったく同じ方式で,

 つまり国家神道の宗教精神でもって「英霊として合祀する」という行為を,当時,敗戦後的にあらためて問題になりはじめていた「政教分離の原則問題」の隙間をすり抜けるようにして,おこなってきた。昭和天皇は敗戦直後,駆けこみ的な靖国参拝を,そのときはGHQの顔色をうかがいながら,それこそ抜け駆け的に実行してもいた。

 しかし「戦争の敗北(大日本帝国側の完敗体験)」は,この靖国神社を完璧に〈不要の施設〉にしていた。というのは,これは筆者の持論であり分析であり主張であるが,明治になってから創建された「戦争神社=勝利神社」である〔=「勝たせなければ」ならない〕基本性格の靖国神社が,「敗戦後」も存続しているという点からして,まずもって「大矛盾を露顕」させていた。敗戦という歴史の事実は,この神社を根底から瓦解させたのである。

 大日本帝国日露戦争のとき,ロシア艦隊との〈日本海海戦〉に挑んでZ旗(写真)をかかげた。その意味は「皇国ノ興廃,コノ一戦ニ在リ,各員一層奮励努力セヨ」,つまり「この戦いに敗れれば後がないという意味」であった。

 ところが,大東亜〔太平洋〕戦争の結果,広島・長崎に原爆を投下され「戦争に負けていた」ときには,この出来事=敗北を無視したかたちで,戦争勝利のための「靖国神社」を,敗戦後もそのまま残置させていた。この敗戦後的な現実問題の出発じたいが,そもそもの大きな過ちであった。こうした歴史認識がなければ,靖国神社に関する議論はその出発点からして不全であり,土台の準備ができていないといわざるをえない。 

 大日本帝国将兵が生前に靖国神社に参拝にいかされたとき,まさか「自分が動員された戦争に敗けるために」,この神社に参拝しにいったと思っていた者はいなかったはずである〔と考えて間違いはあるまい〕。

 「御国の戦争勝利のために〈鴻毛よりも軽い自分の生命〉を,天皇陛下のために捧げる覚悟で死を迎える」ことを意識していたとしても,まさか自分の死が敗戦にしかつながっていなかったとすれば,これは靖国神社に英霊としてお前たちを合祀してあげるといわれていたところで,結局「国家の側は約束違反」を犯していたことになる。

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 負けた戦争で英霊として合祀されて「尊い生命を国に捧げた」といわれるよりも,つまり「生きて虜囚の辱めを受くるなかれ」という破目になるよりも,戦後までうまく生きのびていったほうが,よほどましなその後の人生になっていたというほかない(多分……)。

 妻や両親やその他の家族も,兵士となって戦場に駆り出された夫や子などが生きて還ってくれたほうが,「天皇陛下のために死ぬこと」よりも,どのくらいうれしいか。この手の話は五万〔という以上〕に山ほどある。敗戦後の日本がどのような「国敗れて山河あり」の状態になっていたとしても,そういえた〈はず〉である。とりわけ将兵の母親たちの圧倒的な大部分は,本心ではそのように堅く思っていた〈はず〉である。

 自分の腹を痛めて生んで育てた子どもが死んで悲しまない母親などいない。昭和天皇の兄弟(実弟)は3名いて,皆,大日本帝国陸海軍の高級将校であった。貞明皇后(母親)は当時,日本の〈軍国の母〉の代表格といってよかったが,戦争で死んだ息子は1人もいない。戦時期の日本社会において,徴兵される〔軍隊にいくべき義務のあった〕年齢の息子が4人いて,戦争で1人も生命をとられなかったという家庭(世帯)は,稀有であるかもしくは絶無であるかであったはずである。

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 大日本帝国の歴史を回顧すればよい。どうみたところで「勝ってナンボの戦争」であることは,戦争をやる国はどこでもそう思いこんで,戦争を「オッパジメテいる」。このことは,間違いのない「戦争と平和」に関する理解である。「自国の平和のために他国に戦争をしかける」こともよくある。

 日本の場合,日清戦争で日本は大勝し,清から莫大な賠償金をとりたて,国中が沸き立った。日露戦争も勝ったはずであったけれども,ロシアから分捕ることができたものは,樺太の南半分と満洲における利権ぐらいで,軍人の生命をたくさんこの戦争で殺された庶民の立場からは「不満がいっぱい」の戦争あった。そのためにこの戦争後,東京市内では〈日比谷焼き討ち事件〉をともなう暴動事件が起きたのであった。

 日露戦争がはたして,本当に勝った戦争だったのか判らないくらい,ぱっとしない結果(戦果)であった。英米の仲裁が入って,この戦争は決着をつけられていた。ロシア側は負けたとは思っていなかった。そのあとにもつづく第1次大戦はほんの少しだけ参戦し,中国の青島や太平洋地域にそれまでドイツが保有していた領土を手に入れた。

 さて第2次大戦時,日本の場合は国民が『醜の御楯』となるために(もちろん天皇のための楯であるから,国家のため・家族のためとはいっておらず,ひたすら「陛下のため」をいっていたことば),将兵たちは戦争の現場に送られ,自分の生命をこの天皇陛下大東亜戦争であれば昭和天皇)に捧げたのである。

 ところがである,この天皇陛下天皇裕仁〕さん,1945年8月に戦争の負けが決まったあと,どう行動していたか。ポツダム宣言を受け入れたのは,日本という「国体は護持され」「天皇家も根絶やしにされることもなく生き延びることが」ができることが,事前になんとか保障される見通しがついていたからである。

 彼だけは東京裁判に出廷しないで済まされ,その身代わりのかっこうでA級戦犯となった東條英機らは死刑台に送られ,絞首刑に処されていた。「敗戦後の日本国」おける昭和天皇の足跡は,昭和20年代の中期まではかなり苦しい国内外の政治・経済環境のなかに置かれていたことを教えている。そうであったとはいえ彼は,当時においても大筋では,なんとか天皇家の存続を維持できるなかで,一般庶民の日常生活に比べればはるかに幸せに暮らしていくことができていた。

 「敗戦後の昭和天皇による全国巡幸」は,そのなかでももっとも大きな「対国民慰撫対策」であり,「明治天皇の六大巡幸」に匹敵するようなビック・イベントであった。ただし,両天皇による全国巡幸のあいだには似た要素もあったとはいえ,基本においては決定的な意味の違いがあった。明治天皇は戦争に負けたことのない天皇であったのに対して,昭和天皇は戦争に負けた天皇になっていた。

 その歴史的な関係でいえばみごとに裏切られていたのが,1945年8月までは,とくに「大東亜戦争」に駆り出される若者たち(むろんもっぱら男だけだが)であった。自分たちの生命というものは20歳ころまでしか生きられないことを,覚悟させられていた。子どもころから学校教育のなかでは,天皇のために死ぬことを当然のように〈洗脳教育〉されてきた。戦前・戦中における日本の軍国主義・兵営社会の枠組のなかでは,そのように戦争用の教育を受けてきた。

 それゆえ,自分と同じ世代の仲間・友人・同級の者たちのなかには,戦争に往って還ってこなかった者が大勢いて,彼らは「醜の御盾」になっていたというか,ともかくそう「されていた」のである。『誰の楯』になったか? いうまでもない,天皇裕仁昭和天皇という〈現人神〉のためであった。

 ところが,大日本帝国は戦争に完敗した。はてそこで,総大将:大元帥の彼が責任をとるかと思いきや,トンデモない,日本国憲法においてもそのまま,天皇の地位に就いていた。昭和21〔1946〕年の正月元旦には,もともと人間でしかないこの人が『人間宣言』とするという茶番劇をおこない,占領軍の庇護のもと,以後も天皇でいられるお墨付きをもらっていた。

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 この風景の激変を目の当たりにさせられた若者たち(それもとくに主に兵隊にとられていた男性たちであったことはいうまでもない)は,どのような心境にさせられていたか? 彼らは大人を信じることができなくなった。当然「天皇も尊崇できなくなっていた」はずである。

 さて,天皇のための《醜の御盾》となり死んでいった約210万の旧日本軍将兵は,いまさらのように「いったい,自分たちはなんのために生命を落としたのか,まったく判らなくなってしまった」。大日本帝国が大勝利でもして,シベリアを領土に分捕るは,アメリカのカリフォルニア州も手に入れるなどといったような〈戦利品の獲得〉などはなかった。

 それどころか,戦争に負けたから当然とはいえ,日本はアメリカ軍を主体とする占領軍に支配・統治された。日本が戦争に負けたら,男どもは「キ ○ ○ マ」を抜かれ,女はみなアメリカ兵のメカケにされると恐れおののいた。

 けれども「自分たちの大元帥」みずからが,敵の元帥のところへいっては,ゴマスリしていただけでなく(1946年9月27日に初めて Mac に初めてあいさつにいっていたし,その後も足しげく,みずから出向くかたちで,通っていた),自国の将兵たちがいかにだらしなく,ダメな者たちであったか,自分は戦争をしたくなかったが軍人のためにこうなってしまったといいわけしていた。

 しかし,この人,戦争中はたしか大日本帝国を統べる大元帥であったのだから,そのようないいわけをすることじたい,ずいぶん卑怯な理屈を申したてていたことになる。

 ともかく,大日本帝国の総大将:大元帥が敵国のマッカーサー元帥にひれ伏しては,なにやかや申しわけがましいことを開陳していた。結局,天皇家だけは「敗戦後の日本政治社会」を要領よく・上手に生き抜けていくことになっていた。

 なんといってもそういうしだいであったから,「戦争神社である靖国神社」に合祀された将兵は,大日本帝国がすっかり勝っていたものと,死んでしまったあとに思いこんでいたはずである。ところが,あにはからんや,敗戦までに戦場に送られ死んでから,敗戦直後にこの神社に合祀された将兵たちにとっては,それこそ「あとの祀り」であって,まったく無意味な合祀になっていた。

 「人間の世界」では,どこまでも「生きていてナンボ」「生命あってのモノダネ」である。それが「霊界の世界」に送られる,それも死んだからといっていきなり,靖国神社に葬送されて,都合よく魂だけ吸いとられて国家的に利用される〈英霊〉になる,それもあたかも「成り金」のようにあつかわれるという。とはいっても「死者には口なし」であり,しかもこの死人にとっては「なにもえるもの」はないのだから,すべては空しいあとの〈祀り〉である。

 敗戦後における日本の政治過程においては,象徴天皇になっていたはずだった天皇裕仁が,どのくらい現実の政治・行政に直接口出しをしてきたか。いまでは,その歴史的な事実に対してはすでに,政治学者たちが学問的に解明してくれている。

 「沖縄に米軍基地をどうぞ置いてお使いください。25年から50年くらい,いやもっと長期にでも自由にお使いくださってけっこうです」と,個人的にアメリカ側に伝えたのは,ほかならぬ昭和天皇その人であった(いわゆる『沖縄メッセージ』1947年9月20日)。

 すでに象徴になっていた天皇裕仁が,そのように違法な行為を堂々と,国家の基幹問題に関して犯していた。ここまで歴史の事実をしれば,靖国神社に「国家や天皇のために祀られている英霊たち」の存在や,これを祭っているのだという「国家神道的な宗教行為の意味」は,俄然色あせてしまう。

 靖国神社はそもそもの由来からして「賊軍を祀らない神社」であった。だが,第2次大戦が終わると「負けてしまった戦争神社」になっていた。これでは,靖国神社本来の歴史的使命はもはや果たしえない施設:『賊軍神社』になった。「勝てば官軍,負ければ賊軍」とは,よくいったものである。

 b)靖国神社〕本来の問題とは

 -2 国家神道と呼ばれた,特定の宗教的な信仰や思想が背後に強く作用していることだ。もともと靖国神社は,尊皇,つまり天皇のために忠誠を尽くして戦った人をまつるために建てられた。兵士として死ぬことが崇高な価値を持ち,神としてまつるにふさわしいとなる。そうした思想に基づく宗教施設が,現在においても国家的な追悼・慰霊の場としてふさわしいのかということだ。

 「議論:2」 この論点については「補註:1」がすでに,だいぶ先走って話をしていた。ここでは「神」ということばに注意したい。天皇のことは「現人神」といわれていたが,天皇家皇室神道では,歴代の天皇はすでに神々に昇格しており(「皇祖皇宗」のこと:歴代の天皇だちの〈霊〉は,神として皇居の皇霊殿に祀られている),この「自家製の神道で祭る」対象(=祭神)になっている。

 日本の神道における《神》の概念は,西欧のキリスト教的な「神の概念:ゴッド」とは異なるとよく主張されるが,遠くに離れた地域の人びとのあいだにおける「このような違い」を強調したところで,「それぞれが神と思っている対象」に即してみれば,それぞれの「神としての重みじたい」に大きな相違はない。

 日本の国家神道は「治教(政治と道徳・倫理)」のための宗教だから「宗教ではない」といいはり,理屈にもなりえない遁辞「神道非宗教論」を強弁してきた。明治憲法で「天皇は神聖にして犯すべからず」と宣言したのは,《神として天皇をあつかえ》といったことを否定するためにではなく,まさに『神のように崇めろ(尊崇しろ)と強制する』ためであった。この天皇を中心:頂点に戴いて,国民を精神的に統制する国家機構:「神聖=神国の日本帝国」を構築しようとしたのが,明治大帝下の国家体制であった。

 c) 統治の中心である天皇を国民全体で崇敬するのが,戦前の国家神道。そこに靖国神社が果たした役割とは。

 -3 国家神道は,国家・社会の秩序についての教えではあるが,キリスト教や仏教のように,1人1人の人生の意味を深く問うような内容はない。

 ところが,兵士の死に崇高な意味を与える靖国信仰は,国民1人1人の心の奥深いところにかかわるものだった。日露戦争そして第2次世界大戦と,たくさんの戦死者が出た時代において,戦死した兵士を天皇や国家による尊崇に値するものとした慰霊施設はとても重い意味をもったであろう。


 「議論:3」 戦争のためだからといって死ぬことを,心底から本当に喜ぶ人間などいないし,もとよりいるわけもない。ところが,この絶対に矛盾する関係である「人間の生と死の問題」を,表向きに解決させておくために,靖国神社が「死」を迎え歓迎するための国家装置として提供されていた。

 靖国神社は,戦争のために死んだとしても「オマエたちの(ただし〈霊〉だけ)は」とりだしてやる,しかも大事にしておくための措置もしているのだ,という体裁をとっていた。つまり,戦死者を国家が手厚く遇し,いつまでも大事に思いつづけているよという具合に応えつづけているかのような『宗教的な〈虚構〉を立てていた国立の宗教施設』が,靖国神社であった。

 しかし,大日本帝国があの大戦争に敗北した瞬間から,この靖国神社のこの約束事は,否応なしに不成立となってしまい,完全に「無効化」させられた。この神社のご利益は完全に消滅し,無効となった。それはそうである。

 大日本帝国が戦争に勝っているかぎり,以上に説明した「靖国の戦勝神社」としての「理屈」は成立しうる。だが,1945年8月の敗戦(完敗)は,戦争で生命をなくした帝国臣民が発揮していたはずの「靖国神社における《霊的な存在価値》」を,完膚なきにまで雲散霧消させた。

 それでも敗戦後もつづけて,戦死者の霊を収容する宗教施設として靖国神社は運営されていった。しかし,戦前・戦中に陸海軍の管轄下にあったこの国家神道神社は,GHQによってその国営の運営形態を廃止させられ,戦後は民間の一宗教法人に組織替えした。

 ここで断わっておくが,靖国神社には「戦死者(戦没者)の遺体・遺骸・遺骨など」はいっさい収納されていない。ありていにいってしまえば,どこまでも〈霊〉を神社信仰の宗教的な価値観から,選択して「再生し,利用」する,それも「戦争を鼓舞し,勝利にみちびく」ために「戦死者のその霊」を,国家が利用するための宗教施設,これが靖国神社である。この本質は現在になってもなにも変わっていない。この肝心な特質の把握を忘れたら,この神社に対するまともな議論は成立しえない。

 d) 戦後は,政教分離憲法に定めたはずだが

 -4 政教分離とは,戦前の反省に立ち,思想・信条の自由,信教の自由を守るための制度だ。靖国神社が国家的な施設となれば国家神道の復興につながり,そうした自由を妨げるという認識は,参拝をめぐる憲法訴訟の判決などを通じて積み上げられてきた。

 一方で,靖国参拝を宗教行為でなく,死者を尊崇する習俗としたい人たちもいる。自民党改憲草案では,政教分離規定の条項に,習俗の範囲内での例外規定を盛りこむ。靖国参拝を許容しようとする意図も推測できる。薄れゆく国民の結束を強めようとし,攻撃的な宗教やナショナリズムに向かう潮流が世界的にみられるが,日本では国家神道復興の動きとなっている。

 「議論:4」 ここで紹介されている意見については,ポツダム宣言を受諾した大日本帝国の立場に沿って考えてみなければならない。すなわち,昭和天皇の見地でもあるその立場なのであるが,敗戦神社になってしまったこの靖国神社は,もともと日本固有・本来の神社信仰とは完全に「異質の国家神道」に立脚した信仰体系を包していた。敗戦はこの神社に特有の信仰内容を完全に否定した。日本側の立場からしても,またとりわけ戦勝国側の連合軍に対する日本側の関係からしても,靖国神社は間違いなく「賊軍用の敗戦神社」になった。

 この靖国神社が21世紀に居残る資格など,1945年8月からもとより,ありえなかったのである。昭和天皇ポツダム宣言を受諾して自分の天皇の地位を護ることができていた。靖国神社のことはもちろん非常に気になっていた。敗戦後においても彼はそれまでの経緯があって,あの大戦争で大勢殺してしまった「臣民将兵(赤子?)の〈霊〉」を,〈敗戦処理〉的に英霊として靖国神社に合祀するための「仕事」をこなしてきた。

 ところが,靖国神社が1978〔昭和〕年10月17日,A級戦犯の14名の〈霊〉を秘密裡に合祀した。この出来事は,昭和天皇が敗戦後に生きていくための約束事であった「必要最低限の基本条件」を,この「戦争:敗戦神社」が破ったことを意味した。A級戦犯昭和天皇の身代わりであった。この点は,戦犯を裁いた連合国軍側があらかじめしくんで承知していたことがらであっただけでなく,昭和天皇もこの含みを十分に了解させられたうえの「敗戦後史の展開」になっていたはずだったのである。

 A級戦犯の合祀という出来事は,昭和天皇にいわせれば「これ以上超えてはならない」臨界点から飛び出ていた。敗戦後史的になんとか形成されてきた「天皇家側の宗教的秩序」に関する前提条件をぶちこわした。A級戦犯を合祀した靖国神社側の理屈にいわせれば,日本は戦争に負けたけれども,東京裁判とその結果はけっして認めないぞ,だからA級戦犯を合祀して,みかえしてやるのだと気張って,そうしていたのである。 

 しかしながら,非常に困らされてしまい,そして怒り心頭に発したのが,ほかならぬ昭和天皇自身であった。自分の戦争責任を代わりに背負って絞首刑台に昇ってくれた東條英機らは,お人好しにも死ぬまで「天皇に忠義を尽くして」くれた。それなのに,靖国神社側ときたら,わざわざ「寝た子を起こすような愚かなこと:A級戦犯合祀」をやってくれた。

 だが,靖国神社側はこの関係者というか当事者の気持あるいは敗戦後的な特殊な事情などおかまいなしに,A級戦犯を合祀してしまい,自分たち側の溜飲を下げていたつもりであった。この事態の発生に「頭をかかえこんだ」のが昭和天皇であった。以後,昭和天皇靖国神社に参拝できなくなったまま,1989年に死んだ。平成天皇もこの父の遺志を継承し,靖国神社には参拝していない。

 ちなみに,昭和天皇の墓(陵)は,八王子市に造営された武蔵野陵にある。しかし,明治神宮に相当するような〈昭和神宮〉と名づけられるかもしれない神道神社は「まだ存在しない」。そしてまた,これからも造られるみこみはないと思われる。

 要するに『戦敗した天皇の名』をつけた神社を造るわけにはいかないというわけである。この天皇のために戦場で死んでいった兵士たちの「怨霊」を静めるための神社であるならば,ぜひとも必要になるかもしれない。だが,それではふつうに街中にある一般神社となにも変わるところはない。

 「国家性や皇室性」がなければ,靖国神社のような国営的神社においては,その本来狙っている存在価値がみいだせない。

 e) ただ,戦争で亡くなった兵士を悼むことは必要では

 -5 戦没者への敬意を忘れてはならないし,悼む気持は多くの人が共有している。その点から安倍首相の靖国参拝を支持する人びとの気持は理解できる。ただ,国家神道という歴史的な背景がある靖国神社には,深い価値をみいだす人と,逆にそれによって非常に傷つけられる人がいて,強い対立を招く構造を含んでいる。「誰もがわだかまりなく追悼できる施設」ということで,近年は千鳥ケ淵戦没者墓苑を公的な追悼の場だと考える内外要人も目立ってきた。

 「議論:5」 この段落の説明に関しては,すでに十分関説したつもりである。要するに,靖国神社は昭和20年8月15日をもって「御用済み」の烙印が押されていた。日本の国民などがみな,問題なく共通した気持で,どの宗教の立場であれ,ともに戦没者を慰霊できる場所として観るとき,靖国神社は血で汚れ過ぎていたとでも形容したらよい〈霊域〉になっている。それもこれも「戦争神社の御利益」(ただし,負の・・・)。

 そもそもが「戦争向きの〈特定の霊〉」しか合祀に受けつけず,遺体・遺骸・遺骨など相手にもしないで,霊のいいとこどりだけする宗教施設が靖国神社であった。けれども,敗戦した時点からは本当のところでは,完全に「用なしの敗戦・賊軍神社」になっていた。

 この事実を認めたくない人びとはA級戦犯を合祀した人物のなかには,賀屋興宣(かや・おきのり)のような元A級戦犯自身も「靖国神社側の総代」の1人としてくわわっていたが〕靖国神社はせいぜい,敗戦後に始めた「みたままつり」に精を出していたほうが,よほど英霊のためになるかもしれない,というようなことさえ認めたくないらしい。

 2014年1月15日と1月12日の『朝日新聞』朝刊「声」欄に,それぞれこのような意見が投書されていた。1月12日の意見は,A級戦犯のかかわりのみを理由・根拠とする「偏った」議論の問題性を的確に指摘している。

 2014年1月15日(古谷 博 無職,東京都 77歳)

 〔安倍晋三〕首相は「戦争で倒れた英霊の魂を安んじる場」としての靖国神社にこだわ るが,そもそも戦死者は本当に靖国に祀られることを願ったのだろうか。ニューギニア戦線に送られた私の叔父は,九死に一生をえて帰還した戦友によると,弾 丸一発撃つこともなく,密林をさまよい蛇やトカゲを捕食する日々の後,結局は餓死したという。「靖国で会おう」などの甘言のもとで理不尽な死を強いられたのだ。叔父の遺族は靖国神社には一度も参拝していない。


 2014年1月12日(守谷通文 無職,埼玉県 62歳)

 ポツダム宣言に「日本国国民を欺瞞し之をして世界征服の挙に出づるの過誤を犯さしめたる者の権力及勢力は永久に除去せられざるべからず」と記されているこ と,日本国が「極東国際軍事裁判所並びに日本国内及び国外の他の連合国戦争犯罪法廷の裁判を受諾」という条項も含むサンフランシスコ講和条約を締結したこ となどを知る者は少数派であろう。

 靖国神社はこれらの事実や原則に反して他民族に仕掛けた戦争を肯定し,戦争指導者も祀る宗教法人だ。 信教の自由は当然でも政府要人が平和を祈る対象にはなりえない。国際社会で生き抜くには自国にかかわる正しい歴史認識は不可欠だ。調査結果はその重要性を 日本社会に教えている。 

 さらにつぎの引用は,フランク・ギブニイ『日本の五人の紳士』石川欣一訳,毎日新聞社,1953〔昭和28年〕からである。この靖国神社「理解」は間違いではない。現在的においてもまっとうな歴史認識である。平和という言葉を,いまさらのようにこの靖国神社に対して,無理やりにあるいはご都合主義的に差 し向ける弁護論は,歴史のあやしい解釈,まやかし的な宗教の説明である。

 靖国は……宗教的な記念堂であり,字義どおりの「戦死者の殿堂」であったのだ。これは軍国主義神道の地上の天国であった。……天皇の戦いは聖戦であり, 勝利のために身をささげたもの--神道の定義によれば日本の戦いは敗戦に終ることはあり得ないのだが--は殺された聖人となるわけである。

 註記)フランク・ギブニイ,石川欣一訳『日本の五人の紳士』毎日新聞社,昭和28年,115頁。

 そのありえないことが起きていた。1945年8月15日の敗戦。ただし,その後においてもありえないことがつぎつぎと起きていく,そういった「敗戦後史」の展開となっていった。

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