豊下楢彦『昭和天皇の戦後日本- “憲法・安保体制” にいたる道-』岩波書店,2015年7月の評価

             (2015年8月21日,更新 2021年6月23日)

 豊下楢彦昭和天皇の戦後日本- “憲法・安保体制” にいたる道-』岩波書店,2015年7月が語る「敗戦後史」としての天皇裕仁が残してきた「政治的な個人史の真相」

 

  要点・1 日本国憲法は誰のために公布・施行されたのか

  要点・2 昭和天皇と平成天皇天皇家「防衛戦線」=「皇室生き残り戦略」に観る敗戦後史の軌跡

 

  豊下楢彦昭和天皇の戦後日本- “憲法・安保体制” にいたる道-』(岩波書店,2015年7月)の研究書として成果

 1)本書の目次

  第1部 昭和天皇の〈第一の危機〉-天皇制の廃止と戦犯訴追-

   第1章 「憲法改正」問題
   第2章 「東京裁判」問題
   第3章 「全責任発言」の位置づけ

  第2部 昭和天皇の〈第二の危機〉-共産主義の脅威-

   第1章 転換点としての1947年
   第2章 昭和天皇の「二つのメッセージ」
   第3章 「安保国体」の成立
   第4章 立憲主義昭和天皇

  第3部 〈憲法・安保体制〉のゆくえ―戦後日本の岐路に立って-

   第1章 昭和天皇と〈憲法・安保体制〉
   第2章 岐路に立つ戦後日本
   第3章 明仁天皇の立ち位置

 2)内容(概要)説明  昭和天皇は,戦後体制の形成にいかなる役割を果たしたのか。『昭和天皇実録』を駆使して抉り出す。憲法改正東京裁判,そして安保条約-昭和天皇は数多の危機をいかに乗り越え,戦後日本をかたちづくっていったのか? 『昭和天皇実録』を読みこみ,戦後史像を塗りかえる!

 3)著者紹介;豊下楢彦[トヨシタ・ナラヒコ] 1945年兵庫県生まれ,京都大学法学部卒業,元関西学院大学教授。国際政治論・外交史専攻。

 本書が発行された日付は奥付に2015年7月28日と記されている。今日〔2015年〕8月21日〕はその後,1ヶ月も経っていない時点である。本ブログ筆者の場合,数日前に本書を読了したところである。

 筆者なりにいろいろ所感を抱いているが,例によってアマゾンに掲載(寄稿)されているブック・レビューは,文字どおり玉石混淆とはいえ,なかにはたいへん参考になる論評もあって,勉強させられる。

 本書,豊下楢彦昭和天皇の戦後日本- “憲法・安保体制” にいたる道-』に対するそのブック・レビューは,今日のまでのところ,4点投稿されている。なかには読むに堪えない書評もあって,これはネット上における不作法にも関連する事情とはいえ,毎度のことながらその「無礼・失礼・欠礼さ=厚かかましさ」には,変に感心させられることもないではない。

 補注)2021年6月23日(の「今日」)の時点では,このブック・レビューは17点まで投稿されている。

 それはともかく,本書のような純粋な学術書に対する批評を試みるのであれば,そのへんにごろごろ転がっているようなネトウヨ的に無責任な発言ではいけない。まず内容に即した客観性ある理解であり,つぎに明晰な論理にもとづく分析・批判をおこないつつ,さらにはそこに一定の思想性をも確実に感じさせる論評でなければなるまい。

 焦点の問題が「天皇制としての裕仁問題で」あるだけに,議論・批判をかわすときはそのために最低限必要な学術的なルールと作法が伴わなければ,おたがいの知的交流は成立しえない。この点は事前にしっかり踏まえておかねばならない。

 豊下楢彦の本書における叙述においては「もちろん」「敬語のたぐい」は使用されていない。ところが,本ブログ筆者が最近たまたま読了した山本七平昭和天皇の研究-その実像を探る-』祥伝社,1989〔平成1〕年は,「研究」と題名を付けていながらも〈敬語〉を使用する文章となっていた。

 山本ほどの知識人であっても,そのような筆法の運用となった理由をしりたいところである。しかし,豊下楢彦のこの本はあくまで学術研究書であるから,天皇関係に対する敬語は表出されない。当然のこととはいえ,あらためて確認しておく。次項 ② に紹介するブック・レビューは,この読者なりに内容を取捨選択しつつ紹介をしている。

 昭和天皇の正体:昭和天皇裕仁の築いた戦後対米隷従体制」(投稿者中西良太 / Ryota Nakanishi)

 “Amazon Top #500 Reviewer 2015, 2014, 2013 です。憲法,消費税,TPP,基地問題原発,労働問題,マスゴミ前近代的司法が日本の最重要問題です!” ベスト1000レビュアー,2015年7月29日)〔⇒なお,以下の引用では引用者が便宜上,連番と見出しを,また必要に応じて「補注」も挿入してある〕


 1)昭和天皇の戦責問題-戦争責任と戦後責任-

 戦後70集年である今〔2015〕年も,いまだ日本は真に独立していません。誰がこのような歪な体制を構築したのでしょうか? その答えが本書にあります。

 いまだに歴史認識問題を日本が引きずるのは,昭和天皇が戦争責任をとらずに,正式に世界に謝罪や反省をすることがなく,退位により戦後と一線を画すことなく,米軍に継続占領を依頼し,マッカーサーとダレスが了承し,国体と安保,9条と米軍が,米軍の恩恵という論理で併存してしまう事態となったためです。

 日中戦争の推進派の吉田 茂は,後年捏造された彼のイメージのように自主独立などではなく,さんざん安保交渉から逃避したあげく,最後は昭和天皇の対米従属路線に追随しました。

 補注)ここで,大日本帝国時代に外務省の外交官であった吉田 茂については,つぎのような論点に留意しておく余地があった。

 大東亜戦争中に「ヨハンセン・グループ」と呼称された「吉田 茂」を囲む特定の「反戦集団」が存在したと語られてきたが,この「事実のある側面:反戦性」そのものに幻惑されて,敗戦時までにおける,吉田 茂の「日本帝国:侵略者側における立ち位置」をみうしなってはいけない。

 a)「 “マッカーサーのペット” だった吉田 茂をなぜ,いま,あらためて英雄あつかいいするのか。その背後には米国政府をも動かす “奥の院” の存在があることを私たちはしるべきなのだ」。「そもそも,吉田 茂は戦前から米国のある筋(奥の院)と密通していたといわれている」。

 「太平洋戦争の前夜に日本の対米英戦争を決定した1941年9月6日の『帝国国策遂行要領』に関するいわゆる「御前会議」の内容を細大漏らさず,敵米国の駐日大使(Joseph Clark Grew:ジョセフ・マックと裕仁吉田茂クラーク・グルー)に通報していた,日本最大の売国スパイ=暗号名「ヨハンセン」とは吉田 茂だった。

 註記)『植草一秀の「知られざる真実」』2012年9月8日「NHKドラマ『対米隷属の戦後を創った男・吉田 茂』」,http://uekusak.cocolog-nifty.com/blog/2012/09/nhk-ab9d.html

【参考画像】 この画像はマッド・アマノの作品。

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    b) 満州事変の勃発を考えれば,関東軍によるものであった侵攻とはいえ,吉田 茂の対満州政策がそのまま,日本の中国侵略の思想の裏づけの一部になったことは否定できない。のちに,軍部と外務省との二元化と対立が目立ち,戦後も,軍部の責任が問われたことがある。

 吉田 茂はあくまでも,軍部の独走に反対し,外交への一元化を望み,外交交渉によって,中国との問題を解決することを望んでいたとして,吉田を戦争反対論者とみなす見解もある。

 しかし,軍部にせよ外務省にせよ,中国における侵略の手法が違うものの,目的は同じであったことは,一目瞭然である。つまり,吉田 茂は,日本の対中国侵略に加担していたといっても過言でないだろう。

 註記)姜 弘「戦前期における吉田 茂の中国認識と対中国政策:『東方会議』『対満政策私見』からみた吉田 茂の時代錯誤」,神戸大学大学院国際文化学研究科紀要『国際文化学研究』第39号,2013年1月,6頁。

 吉田 茂が考えていたのは,中国本土と満州とを切り離したうえで,いかに,列国の中国殖民,侵略に出遅れることなく,正々堂々と,中国の資源を手に入れるかである。また,そのさいには,きれいごとをいう必要さえなくなり,いわゆる,必要な場合には,兵力で,中国の治平を実現し,日本の最大の国益を実現するとさえ語っている。

 要するに,吉田 茂はこの時期,日本の中国殖民侵略の指南役として明確な対中国政策を策定し,さらにそれを実際に為政者のために具体的な提案として示している。その後の日本の対中国侵略の一連の動きをみれば,吉田 茂が果たした役割は看過できない。むしろ,重要な役割を果たしたといえる。

 註記)姜,同稿,9頁。

 吉田 茂の中国人に対する認識は,戦後になっても依然として戦前の意識にとどまり,本質をみきわめたところもあるかもしれないが,時代とともに進化するという感覚が乏しく,まさに,時代錯誤という限界があることを否定できない。この時代錯誤的な,偏った中国認識は,さらに,戦後の日本の対中国政策に大きな影響を与えた。

 註記)姜,同稿,13頁。

 c) つまり,以上に言及されている吉田 茂に関する政治史的な分析内容については,戦時期(の外交官として役目)と戦後期(の首相として役割)とにまたがって,長期的な視野を踏まえ,透視しなければいけないところの「吉田 茂⇔天皇裕仁」の親近的な関係性が,同時並行的にみてとれるのである。

 吉田 茂の「戦時史から戦後史」は,大枠での話題としてみれば「天皇裕仁の問題史」に密着した関連をもっていた。

 昭和天皇は,「支那事変と三国同盟」についてこう感想を述べていた。こちらの自白はまだ自己弁護的な内容であるから,これなりに受けとめて含意を吸収しておく余地がある。

 

 日支関係は正に一触即発の状況であつたから私は何とかして,蒋 介石と妥協しようと思ひ,杉山〔元〕陸軍大臣と閉院官参謀総長とを呼んだ。(中略)

 

 若し陸軍の意見が私と同じであるならば,近衛(文麿)に話して,蒋介石と妥協させる考であつた。これは満洲は田舎であるから事件が起つても大した事はないが,天津北京で起ると必らず英米の干渉が非道くなり彼我衝突の恐れがあると思つたからである。

 

 当時参謀本部は事実石原〔莞〕爾が採〔采〕配を振るってゐた。参謀総長陸軍大臣の将来の見透しは,天津で一撃を加へれば事件は1ケ月内に終るといふのであつた。これで暗に私の意見とは違つてゐる事が判つたので,遺憾乍ら妥協の事は云ひ出さなかつた。

 

 かかる危機に際して盧溝橋事件が起つたのである。之は支那の方から,仕掛けたとは思はぬ、つまらぬ争から起つたものと思ふ。

 註記)寺崎英成,マリコ・テラサキ・ミラー『昭和天皇独白録 寺崎英成御用掛日記』文藝春秋,1991年,35-36頁。

 〔レビューに戻る→〕 皇統の危機の事態の深刻さにおいて,立憲君主専制君主として戦前と戦後に振るまった「最高権力者の昭和天皇」が,軍部クーデターをつねに恐れ戦争反対しなかったために,第2次大戦で310万人の日本人が犠牲になりました。しかし,いまも昔も戦後日本は政治的責任をとるべき政治的中枢が欠落している在日米軍に守られた官僚主義体制です。

 2) 昭和天皇の戦後外交は違憲といえます。以下は,タブーとなっている諸事実です。

 昭和天皇の自発的な意向でおこなわれたのが,イ)  沖縄処分(本土と沖縄の構造的差別)であった。

 重光 葵に在日米軍撤退反対の指示を出し,構築したのが,ロ)  従米安保体制(米占領軍による巧妙な日本統治の占領体制の継続)であった。

 ハ)  米軍の日本占領に協力することで,東京裁判を免れ,忠臣東条に全責任を負わせた(米側が東条に証言を指示)。

 ニ) 日本国憲法天皇が保証する民主主義体制)では天皇制(国体)を温存させた。

 そして,ホ)  裕仁は広島や長崎原爆に就いては「やむをえない」と発言していた。

 さらに,ヘ)  朝鮮戦争では米軍のリッジウェイに原爆使用を催促し,ト)  対中ソ包囲網や価値観外交を米側に提案した。

 すなわち,裕仁においては,違憲か否か,戦争か平和かよりも主権や沖縄よりも皇統の護持がすべてでした。これが,彼の戦前,戦中,戦後を貫く一貫した論理です。これらはすべて,敗戦国の元首としては類をみない歴史的事例であり,豊下さんにより,新旧資料をもとにした実証的作業により論証されています。

 3) 以下は詳論です。

 1 昭和天皇及び皇族は,日本国憲法の支持者か?

  : 裕仁は占領軍の日本占領に協力する代償に,天皇制を日本国憲法に維持できたので,それだけでも連合軍に心から感謝した。安倍とは正反対である。

 天皇マッカーサーに対し,……この度成立する憲法により民主的新日本建設の基礎が確立された旨の御認識を示され,憲法改正にさいしての最高司令官の指導に感謝の意を示される(豊下楢彦昭和天皇の戦後日本』vii頁)。

 2 昭和天皇は,東京裁判の支持者か?

  : 裕仁は,東条非難をイギリス国王や米国紙などにおいておこない,全責任を東条に押しつけ,東京裁判免訴された。そして,連合軍に東京裁判について熱く謝意を表明した。安倍とは正反対である。

 裕仁(はマ元帥に対し),戦争裁判(東京裁判)に対して貴司令官が執られた態度に付此機会に謝意を表明したいと思います(viii頁)。

  昭和天皇は,靖国神社参拝の支持者か?

  : 裕仁は,1978年に元宮内大臣松平慶民の息子永芳が,靖国神社宮司として戦犯を,日本精神復興のために東京裁判を否定するという主旨で合祀したさいに,これを厳しく非難し,以降天皇家は正しくも参拝を拒否しつづけている。裕仁いわく「親の心子知らず」。

 また1987年に裕仁はこう語って〔詠って〕いた。

  裕仁: この年のこの日にもまた靖国のみやしろのことにうれひはふかし(ix頁)。

 4 昭和天皇は,米軍占領体制の継続となる安保体制(戦後対米隷属体制)の構築者か?

  : 裕仁は,日本側から米軍の継続占領をオファーし,最終的にマ元帥もダレスもこの案に乗り,沖縄処分がなされ,当初の五分五分の論理での対等な協定の交渉は,裕仁が占領継続を熱望したために早々に頓挫し,米軍の占領がこともあろうに米軍の恩恵というかたちで交渉に入り,結果,全負担が日本に強いられることになり,いまに至る裕仁にとって,米軍継続占領は天皇制護持の手段だった。

 ダレス特使は(日米)二国間協定について,日本の要請にもとづき米国軍隊は日本とその周辺に駐留するであろうと述べた。この説明に応えて,皇帝(昭和天皇)は全面的な同意を表明した(x頁)。

 5 昭和天皇は,軍国主義者か? それとも9条擁護か?

  : 裕仁は,1975年においても軍国主義の復活を否定し,憲法でそれが禁じられているからだと安心している。皇族は,この点で正しい。

 外国人特派員の質問:「日本が再び軍国主義の道を歩む可能性があるとお考えですか?」

  裕仁: いいえ。私はその可能性については,まったく懸念していません。それは憲法で禁じられているからです(243頁)。

 結論として,天皇家の保守の立場とは,軍国主義,9条および日本国憲法擁護,ポツダム宣言にもとづく東京裁判承認,靖国合祀問題反対なのであり,右派を自称する安倍一派の立場とは対極にある

 最後に,著者〔豊下楢彦〕は日本の対米独立の方途を示している。それは,自主憲法集団的自衛権国防軍を設けても,政権交代でまず日米地位協定を破棄し,国体安保体制を支える統治行為論という判例法理,そしてそれに守られた密約体系の廃棄である。これらに,着手せずに対米独立は達成されず,米軍の日本占領は継続したままである。

 本書は,すべての日本国民必読の書です!
 註記)以上,http://www.amazon.co.jp/product-reviews/4000610554/ref=acr_offerlistingpage_text?ie=UTF8&showViewpoints=1

  豊下楢彦の結論について

 アマゾンの書評者が「最後に」といって抽出した,豊下楢彦の本書が提示した結論:「日本の対米独立の方途」は,本ブログの筆者も妥当な今後に関する識見だと受けとめている。

 敗戦から70年も経過したいまの時点にもなって,この国の首相が〔安倍晋三のこと,2015年4月29日に〕アメリカ議会上下両院合同会議で演説させてもらい,子供のように喜び,中身の感心できない・ゴマすりのために準備された原稿(英文)を,ひどく緊張しながら一生懸命に,抑揚を付けたつもりで棒読みしていた。このような「日本・国・首相」であっては,いつまで経っても「属国日本」の性根,「アメリカに隷属する国」である関係は変えられない。

 敗戦後史における昭和天皇は,大日本帝国憲法時代のときよりも露骨に,「君主天皇であったはずの〈以前の立場〉」以下の,法的な位置づけしかない「象徴天皇の立場」を,みずから進んで否定,無視,逸脱,破壊する諸行為(あたかも専制君主・独裁者であるかのようなその振るまいがあった)を,たび重ねて敢行してきた。

 それらがいったいなんのための彼の振るまいであったかといえば,第1に御身大事があり,第2に皇室(皇統)の維持を,なにがなんでも最優先していた点をもって,説明できる。仮にアキツミカミであっても,本当にアラヒトガミであっても,それよりも本来「人間天皇」である〔ほかない〕,しかも日本憲法上は未公認でありつづけるほかないはずの元首的な本分が,最大限に発揮されていた。

 なかんずく,昭和天皇がひどく心配していたことはなんであったか? 帝国臣民たちが昭和20年8月以降も戦争をつづけていき,本土決戦にまで突きすすんでいったら,自分が「天皇である地位の証し」となる「三種の神器」が戦火に巻きこまれて焼失するかもしれない。ましてや,わが国の臣民たちが本土で玉砕し,皆殺し状態になったら,自分が寄って〈立脚するための民草〉が根絶やしになり,その足場がなくなると,この点についてだけはひどく懸念していた。

 また昭和天皇は敗戦後になると,世界が東西がきびしく対立した冷戦構造のなかで,ソ連など社会主義共産主義国家体制を非常に怖れていた。旧ロシアのロマノフ王朝が断絶させられた事件は,裕仁の立場にとってみればとくに,身近に感じるほかなかった〈恐怖〉であった。

 その意味でいえば,昭和天皇にとって敗戦後史における「沖縄」は,どうみても戦争中と同じであり,「単なる捨て石・踏み台」でしかありえなかった。70〔76〕年前からいまに至るまでもなお,沖縄が米軍基地に覆われた島となって苦しめられている現状は,天皇裕仁のおかげだといってなんら過言ではない。

 沖縄県では,安室奈美恵(1977年9月20日;37歳〔2021年なら44歳〕)の世代が,君が代をなぜ,歌わないできた理由を,われわれはよく理解しておく必要がある。かつて,森 喜朗がその事実を非難していたことがあったが,あまりにも沖縄県人の敗戦後史にうとい政治屋の無理解をめだたたせていた。

 この ③ のお終いに断わりを入れておく。豊下楢彦の「現在〔平成の時期〕の天皇明仁」に対する分析視点=論じ方には違和感を抱くが,本日の時点は触れないでおく。事後,本格的に論及する機会を別途に設けるつもりである。

 補注:2021年6月23日)いまでは前代の天皇となった「平成の天皇明仁」は,父の裕仁の気持をよく認識し,継承してきた。裕仁は生存中に韓国を訪問できなかった。息子の明仁も,その気持がなかったわけではないものの,結局同じになっていた。

 日韓政治関係史にあってはきわめて困難かつ繊細な意味あいを有する「外交問題」のひとつが,この「天皇の韓国訪問問題」である。かつて旧大日本帝国は隠密にだが,は国策的には暗黙裏に認められたかっこうで,朝鮮の王妃を弑逆していた(惨殺したあげく,遺体に陵辱まがいの行為もくわえた)。

 その事実は両国が国力的に均衡している時期であれば,ただちに戦争状態に突入する契機を意味していたはずである。この種の韓日関係の歴史的な背景に関した論点を理解するためには,渡辺延志『歴史認識  日韓の溝-分かり合えないのはなぜか-』筑摩書房,2021年4月が有益な見解を披瀝している。


  「〈この人をたどって 戦後70年:10〉昭和天皇 あの時代に何を学ぶ」(『朝日新聞』2015年8月21日夕刊2面)

 この連載記事のなかに,こういう段落があった。

 敗戦を経て日本国憲法が誕生し,大元帥だった昭和天皇は軍服から一転,背広姿の象徴天皇に変わった。戦勝国側に強かった訴追要求を退けたのはアメリカである。アメリカにとっては正しい判断だったに違いない。だが戦争責任の問題は残され,昭和天皇はあの戦争を離れては考えることのできない存在でありつづけた。アジアの視線の厳しさはいうまでもない。

 昭和天皇は,その実像に不明な点がなお多くある。「昭和天皇実録」が刊行され〔2015年3月-2018年3月〕,研究者による解明が進んで興味は尽きないが,軍部の暴走はあったにせよ,あの戦争が天皇の名のもとにおこなわれたことは疑問の余地がない。

 二度と戦争はしない,平和憲法を守る。いまそう強く念じていると思わせるのは,海外での武力行使に道を開こうと躍起の政権ではなく,現在の〔平成〕天皇皇后だろう。歯止めを託すかのように,メディアがその発言をとりあげることも目立って増えた。再び正直にいえば,私も警鐘の含みで発言を引いたことがある。

 きわどく,危ういことだとわれながら思う。これでは往時と裏表ではないか。戦後日本は--私は,昭和天皇とその時代からなにを学び,どれほど考えてきたのだろう。あの時代の渦中を生き,誰よりも葛藤し,現状の危うさをもっともよくしるのもまた,平成の天皇かもしれないのである。

 この記事は,「天皇天皇制の問題」対する言及としてならば,寸止め状態で収めている。すなわち「いつものように」である。「あの戦争が天皇の名のもとにおこなわれたことは疑問の余地がない」ことは,確かであった。

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 補注)左側画像は,巨大戦艦の舳先に〔も〕かかげられていた菊の紋章である。この直径は1メートルである。右側画像は,陸軍兵士たちの装備であった小銃に刻印されていた菊の紋章である。参考にまでつぎの文章を引用しておく。

 

 「原爆はこうしてつくられ落とされた-悲運の長崎と被爆した学友たち-『戦争と第七高等学校造士館 長崎原爆被爆の記録』https://www.sci.kagoshima-u.ac.jp/dosokai/dosokai/enkaku/7kou/sensou/nagasaki_genbaku/ueyama1999/04-yuuga_na_3nen/04-01-gunjikyouren.htm から

 

 四. 優雅な3年生
 (一) 軍事教練の強化

 中学では,3年生になって配属将校による軍事教練が強化される。精神的には,尽忠(じんちゅう)報国,滅私奉公一点張りの訓示を受ける。
                       
 校庭の一角に銃器庫があり,なかには三八(さんぱち)式歩兵銃がぎっしり収納されている。銃には菊のご紋章が刻まれていて,兵士の命より銃が大事といわれている時代である。
                                     
 銃の分解,掃除,組み立てから始まり,銃を担いだ駆け足,匍匐(ほふく)前進,射撃,突撃を繰り返す。陸軍連隊まで行進し,練兵場で演習のうえ,実弾射撃の訓練も受ける。
            
 歩兵銃は重いし,匍匐(ほふく)訓練は地面にはいつくばるので,洋服の肘や膝が擦り切れる。継母に「また擦り切れて」と嘆かせた。
                     
 歩兵銃の重さとは,その後七高(しちこう)でも付き合わされたが,戦後アメリカの軽くて連射できる自動小銃を手にした時は,心底ガツカリさせられた。歩兵銃すら新式に変えられなかった日本の貧しさを思う。                         

 けれども,敗戦直後から「大元帥だった昭和天皇は軍服から一転,背広姿の象徴天皇に変わった」。この人に対する,イギリス,オーストラリア,ソビエト連邦中華民国などの戦勝国側に強かった訴追要求を退けたのはアメリカである」ことの残響効果は,戦後から70〔76〕年が経ったいまでも,なお強い状態のまま持続している。

 天皇裕仁が残した無限大に近い債務(戦責問題)は,息子の天皇明仁たちにとっては,以前から現在までたいそうな重荷でありつづけている。この事実は,平成天皇としての最近までにおける「ご公務」の中身(行動記録)を観れば,一目瞭然である。昭和天皇の孫がいまでは天皇になっているが,今後においてどのような対・アジア向けの行為をしていくのか関心がもたれていい。
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