昭和天皇が敗戦後史において創らせた「内奏」という政治手法,平成天皇が21世紀までに作りあげた「祈る天皇家」,令和天皇が五輪開催問題で当面した「皇室的な苦難」

        (2012年2月8日,更新 2016年8月16日,再更新 2021年6月27日)

 憲法のイロハを理解もせずに無視した裕仁天皇君主天皇から象徴天皇になってからも敗戦後の国際政治関係史に直接介入した昭和天皇戦争責任・敗戦責任・戦後責任のなにも負わず生きぬいてきた人間としての「内奏」好き,沖縄も日本も全部を不幸にした「その行為の足跡」からは,息子の明仁が足繁く沖縄を訪問した理由や背景が読みとれる,2021年のこの夏には,孫の徳仁が五輪開会式「宣言」のために出向く問題で悩む

 🌑 前   論  🌑


 a) 天皇徳仁が五輪開会式出席に難を示している

 ※-1 「首相動静」『朝日新聞』2021年6月22日朝刊から。

  【午後】2時52分  皇居〔到着〕,内奏。3時47分  官邸〔に戻る〕。⇒その間,55分だが,実質は48分程度(以内)。

 ※-2 「首相動静」『朝日新聞』2021年6月朝刊から。

  【午後】3時55分  皇居〔到着〕,内奏,棚橋氏の閣僚認証式。4時47分  官邸〔に戻る〕。⇒その間,52分だが,実質は45分程度(以内)

 ※-3 天皇陛下菅総理から『内奏』 五輪報告か」『YAHOO!JAPAN ニュース』2021/6/22  (火)  20:26 配信(元記事,日本テレビ系〔NNN,Nippon News Network〕)。この記事は以下に引用。

 天皇陛下は〔6月〕22日,菅総理大臣から「内奏」を受けられました。東京オリンピックについて,説明されたものとみられます。

 

 天皇陛下は,22日午後,皇居・宮殿で,菅総理大臣から「内奏」を受けられました。

 

 「内奏」は,天皇に対し国内外の諸情勢について報告するものです。2人だけでおこなわれ,内容が明らかにされることはありませんが,21日,IOCや政府,東京都などによる5者のトップ協議がおこなわれ合意したことを受けて,菅総理が,オリンピックの新型コロナウイルス対策などについて説明したものとみられます。

 

 陛下は,東京オリンピックパラリンピックの名誉総裁に就任されています。

 このニュースの文言は「『内奏』は,天皇に対し国内外の諸情勢について報告するものです。2人だけでおこなわれ,内容が明らかにされることはありません」と表現されている。だが,この点に関して,「なにも疑問を感じず」「ただ漠然・漫然と,そういうものだと聞き流せる」のかといえば,けっしてそうとはいえない。

 本日 “再更新” となるこの記述は,その付近に存在し,回避できない論点をあれこれ議論する,その問題の焦点には,日本国憲法に書かれている第2条から第8条までが控えていた。ここではともかく,一番関連する条項である第7条を引用しておく。

 第七条 天皇は,内閣の助言と承認により,国民のために,左の国事に関する行為を行ふ。

  一 憲法改正,法律,政令及び条約を公布すること。

  二 国会を召集すること。

  三 衆議院を解散すること。

  四 国会議員の総選挙の施行を公示すること。

  五 国務大臣及び法律の定めるその他の官吏の任免並びに全権委任状及び大使及び公使の信任状を認証すること。

  六 大赦,特赦,減刑刑の執行の免除及び復権を認証すること。

  七 栄典を授与すること。

  八 批准書及び法律の定めるその他の外交文書を認証すること。

  九 外国の大使及び公使を接受すること。

  十 儀式を行ふこと。

 菅 義偉が首相として皇居を訪問したのは,以上に列記されている憲法上の仕事をこなすためであった。冒頭での「※-2」がそれに相当する。だが「※-1」に「内奏」と説明されている「首相動静」の中身は,憲法にしたがったものに相当していなかった。

 その「内奏」ということばは,憲法のなかには存在しない。ただ,その意味をしらべると,こう説明されている。

 ★-1 内奏は「内密に天皇に奏上すること」,「中世,側近の臣下や後宮から天皇に奏聞して事を取り計らうこと」。

 

 ★-2 内奏は「伝統的には内密にまたは後宮を通じて天皇に奏聞することをいうが,現在では天皇が国事行為をおこなうにさいして立会う閣僚の説明をさして用いられる」。

 この2種類の説明のうち,★-1は内奏の歴史的な本質に触れている。★-2は敗戦後史に登場し,形成されたといってよい,つまり1945年8月以降,昭和天皇が「個人」として内緒であったけれども,日本の政治にかかわる「伝声管」としての機能を,みずから要求したかたちで構築してきた〈政治的な通路〉のことを,「内奏」という同じ用語をそのまま充てて呼ばれている点を説明している。

 いうなれば,日本国憲法にしたがいすなおに考えるとしたら,天皇という存在が政治そのものに対して口だしできる余地は,いっさいなかった。しかし,内奏という天皇の政治への関与のありかたが,敗戦後史のなかで作られたことによって,憲法のその点は実質ないがしろにされていたのである。

 内奏という天皇の実質的に政治の行為は,憲法上,正式にわずかも規定されているわけでも,本来けっして認められているわけでもない。どこまでも「内密的にやりとり」されねばならない「天皇の行為」のひとつになっていた。

 b) ところが,最近になると徐々にであってもあからさまに,この「内奏」という政治的なあり方を表に出そうとする姿勢が,自民党政権側からなされていた。ここでは,『しんぶん赤旗』が提示した政権側の姿勢に対する関連の批判を介して聞いておきたい。なお,この2019年の5月1日には,平成天皇が退き,息子の令和天皇が即位していた。

    ◆ 首相の内奏映像,宮内庁公開 野党「天皇の政治利用」と批判 ◆
 =『しんぶん赤旗』2019年5月16日 (木),https://www.jcp.or.jp/akahata/aik19/2019-05-16/2019051602_06_1.html


 安倍晋三首相の天皇に対する内奏の様子が宮内庁によって公開された問題で,野党各党は「天皇の政治利用」だと一斉に批判しました。

 

 内奏は首相などが国政問題などについて天皇に説明するもの。安倍首相は〔2019年5月〕14日,皇居で即位後の新天皇に初めて内奏をおこないましたが,そのさいの映像や写真を宮内庁が公開しました。安倍首相による内奏の様子が公開されたのは,2013年に続く2回目です。

 

 日本共産党穀田恵二国対委員長は15日の記者会見で,「ああいうやり方は政治利用で,許されざることだ」と批判。国民民主党玉木雄一郎代表も同日の会見で「どういう経緯で出したのか,首相官邸の指示だったのか,説明責任を果たさないと『政治利用』の批判は免れない」と指摘しました。

 以上は,政権側が天皇に向かい「内奏する政権の姿」を,あえて映像にして公開するという行為は,内奏が内奏ではなくならせる意味をもち,内奏の既定事実を狙ったものと理解されて,なんら不思議はない。

 内奏だから内々に,天皇と政府首脳である首相〔など〕が会ってことばを交わし,なんらの政治的な話題・課題について語りあうことがなされてこそ,その意味がありうるものが,ごく一部とはいえその姿を動画として一般に公開することは,内奏の既成事実化を,いまごろになってだがあらためて,あえて「確認させておき,さらに浸透させておこうとする」行為であった。

 本ブログ内では,2日前の記述が関連する事情をとりあげ議論していた。

 c) 本日のこの記述での関心は,1年延期になっている「2020東京オリンピックの開催」の問題にかかわって,開催されるとしたらその開会式が7月23日にもたれる時,その場において開催宣言をする予定である天皇徳仁が,この五輪に出席する点をまだ認めていない,という事実に向けられる。

 『朝日新聞』2021年6月9日朝刊は,「天皇陛下の五輪開会宣言『調整中』 官房長官,明言せず」といった,この時期における天皇側の事情としてならば,非常に異様な態度を伝えていた。その点に関して,加藤勝信官房長官は〔6月〕8日の記者会見で,こう応えていた。

 今夏の東京五輪パラリンピックでの開会式をめぐり,天皇陛下が開会宣言をおこなうかどうかを問われ,「現在,関係者間で調整がおこなわれている」と述べた。

 

 なお開会宣言について,五輪憲章では開催地の国の国家元首が読み上げると規定。1964年の東京五輪,1972年の札幌冬季では昭和天皇,1998年の長野冬季では上皇がそれぞれ開会を宣言している。

 

 新型コロナ禍での五輪開催に世論の賛否があることを踏まえ,記者団が「国論を二分した状態の五輪を陛下が支持しているとの印象を与えかねないが,政府としてなにか対応する考えはあるか」と問うた。加藤氏は「開会式の具体的な内容は現在,関係者間で調整をおこなうということであり,それ以上の言及は差し控えたい」と述べるにとどめ,具体的な対応などへの説明は避けた。

 この記事が伝える点は,いまごろになってもまだ,五輪開会式への出席を決めかねている「天皇の立場」にあった。これはきわめて異常,奇怪と形容されていい事態である。本日6月27日時点になっても,この「天皇側の立場」が変わっていないとしたら,この応答ぶりには「五輪大会への出席を拒否したい」徳仁の気持が,よりいっそう明確に表現されていると受けとめてよい。
 
 d) こういうことであった。

 オリンピック憲章55条3項は,開催国の国家元首が開会宣言をおこなう旨を定めている。開会式においては,国際オリンピック委員会(IOC)会長は式辞の最後に,開会式に出席している元首に宣言を要請するが,これを受けて元首は “オリンピックの開会” を宣言する。

 なお,国家元首が出席できない場合,国家元首の代理(王配や副大統領・大統領代行,英連邦王国の総督)が,開会宣言をおこなうこともある。

 日本国憲法の「第七条 天皇は,内閣の助言と承認により,国民のために,左の国事に関する行為を行ふ」という規定に,もしも天皇がどうしても従わず拒否した場合,どうなるか。徳仁天皇はコロナ禍の五輪開催に抵抗している。その拒否に関して存分に合理的に納得のいく理由・事情があるとみなせたとしても,はたして,憲法の規定に天皇が抵触していないといえるか?

 そもそも,コロナ禍の,しかもその災厄を拡大しかねない状況のなかで天皇が,五輪開会式への出席を拒んだとして,これに異議や疑義を唱えられる憲法学者はいるか? どだい,五輪開催に当たっては,元首(天皇は「日本のそれ」かという疑問もありうるが)が開催宣言をするのだという取り決めを実行させている「IOCの高慢ちき性」には,呆れるほどの欺瞞を感じとるほかない。

 以上の議論に関しては,いろいろと専門学的にも議論がある現実的な問題が発生するかもしれない。菅 義偉は内心でもいまもなお,「コロナに打ち勝った証し」のためのに五輪開催を強く希望している。そうだとすれば,天皇の代わりに自分で開催宣言をすることにしたらよい(のではないか?)。しかし,そうにでもなったら,日本の元首としては明らかに『格落ちである人物』による開会宣言となってしまい,おまけにかなり手前味噌の宣言になる。

 菅 義偉は天皇に内奏するに当たってだが,自分の私物化政権を維持するために開催したい五輪であるとはいえ,天皇が出席するもしないも「この天皇が選択できるようなその余地などはない」とか,あるいは,そのあたりに関する事情をオレの立場からいうべきこととしてならば,「説明すること」と「説明できないこと」とがあるのだなどと,大きな口をたたくことはできない。

 さて,安倍晋三が先代の天皇に対してたいそう失礼・欠礼・無礼に満ち満ちたあつかいをしてきた事実は,たとえば,つぎの沖縄県の地方紙が報道していた。少し長くなるが,つぎに引用する。出てきた日付に注意しておきたい。

    ★ 皇室に県民思い複雑 4・28万歳と拳 「屈辱の日」67年 ★
 =『琉球新報』2019年4月28日 05:00,https://ryukyushimpo.jp/news/entry-910501.html

 

 サンフランシスコ講和条約が発効し,〔2019年4月〕28日で67年。条約の発効によって沖縄は日本から切り離され,1972年の日本復帰まで,長く米統治下に置かれることとなった。沖縄にとって4月28日は「屈辱の日」として深く刻まれている。

 

 この条約発効で日本は戦後の占領統治から独立の回復を果たした。2013年4月28日には,安倍政権が主催し「主権回復の日」式典が開かれた。式典には首相,衆参両議長,最高裁長官の三権の長とともに天皇皇后両陛下も臨席された。

 

 サンフランシスコ講和条約をめぐり,昭和天皇が米軍による沖縄の長期占領を望むと米側に伝えた1947年の「天皇メッセージ」が沖縄の米統治につながるきっかけになったともいわれる。

 

 昭和天皇の「戦争責任」と講和条約による「戦後責任」を感じている県民の間には,皇室に対して複雑な感情もある。一方,平成の天皇陛下は皇太子時代を含めて11回沖縄を訪問し人びとに寄り添われた。

 
 「平成」が終わり「令和」が始まる。新たな時代で沖縄の人びとの皇室に対する思いはどこへ向かうのか。4月28日をめぐる式典は平成の時代で,沖縄と皇室のあり方をあらためて問いかける出来事となった。

 

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    ◇    ◇    ◇

 「天皇陛下,バンザーイ」「バンザーイ」

 

 2013年4月28日,東京都の憲政記念館で開かれた政府主催の「主権回復の日」式典。天皇皇后両陛下が退席されるなか,会場前方から突然,かけ声が上がった。つられるように,万歳三唱は会場中にこだまし,広がった。
 
 1952年4月28日に発効したサンフランシスコ講和条約によって,日本が戦後の占領統治下から主権を回復した日を記念し,政権が初めて開いた式典。安倍晋三首相は「日本の独立を認識する節目の日だ」と意義を強調していた。

 

 だが,講和条約締結をめぐっては昭和天皇による「天皇メッセージ」が沖縄の米統治に大きな影響を与えたといわれる。沖縄戦で悲惨な戦禍を受け,その後も日本から切り離された沖縄にとって,皇室への複雑な感情はいまもくすぶっている。

 

 こうしたなかで開かれた式典に,県内の反発は激しかった。一部の与党国会議員からも異論の声が上がった。「主権回復の日」式典と同日・同時刻に政府式典に抗議する「『屈辱の日』沖縄大会」が宜野湾市内で開かれ,県民は結集し怒りの拳を上げた。「万歳」と「拳」。本土と沖縄の温度差がきわだっていた。(以下は,つぎの小見出し2項のみ引用する)
 
 ◆ 再び切り捨て

 ◆ 県政は苦慮

 触れるまでもないと思うが,4月28日は昭和天皇の誕生日「前日」であった。この前日という意味あいには,アメリカ側のこめたつもりである「なにか」が示唆されていた。また,東京裁判極東国際軍事裁判)で死刑を判決された東條英機ら7名に対したその執行は,1948年12月23日であった。この日付は平成天皇が1933年に誕生した日付であった。

 「主権回復の日」式典で安倍晋三や菅 義偉らが万歳をした件が,平成天皇の気持を逆なでしたことは確かである。米軍基地のための県でありつづけている事実を,気の毒に思う気持を抱いている平成天皇の心境は複雑であった。

 また,昭和「天皇メッセージ」の件も息子の明仁の立場にとってみれば,沖縄県民の立場を理解していないわけではない彼自身の考え方ゆえ,安倍晋三や菅 義偉による「主権回復の日」における万歳のかけ声は,心底憤懣にたえない音色に聞こえたはずである。(以上,2021年6月27日 追記)


  昭和天皇の戦争責任論

  「昭和天皇の戦争責任論」については従来,多種多様の議論がおこなわれてきた。裕仁自身は結局,大東亜〔太平洋〕戦争の敗戦によっても,なにも傷つくことがなく,戦後にまでうまく延命することができていた。1945年8月まで「帝国臣民」であり「熱誠なる赤子であった兵士」たちの「膨大な数に上る生命(尊い命)」は,「死してこそ有意味化させられていた」。

 つまり,天皇裕仁は,国家神道的な装置による慰霊の作業場,つまり,靖国神社の祭壇に祀られる形式をもって大事にされれば,戦没した彼らもまた「英霊化する」のだという宗教的な施設において,みずからが親裁すべき最高の立場を占めていた。明治天皇が「靖国」神社と名づけていた。

 その「〈生と死の意味〉に関する変換の作業」を担当する最高の親裁者が,敗戦したあとの日本国においても自身の生涯を,大きな障害に出会うこともなく,まっとうすることができていた。この昭和天皇に向かい,いまさらのように戦争責任の有無を問うというのも,ずいぶん不思議な問題設定である。

 明治時代にその名称が定められた靖国神社は,古来からの伝統を引きついだ日本の神社の1種ではない。それは明治神宮についても妥当する観方である。注連縄(しめなわ)をほぼ完全に閉め出している事実からも,両神社の近代的な性格を観てとれる。

 両神社は,一見したところ古来を真似ていながら,この古来からのものだといってはいても,その気に入らない神域は都合よく,それもよく分からないように排除していた。これは,近現代天皇性が本当の宗教的精神面において,「古代史からの神道精神」を継承していない基本の性格を教えている。

 ここではともかくまず,ウィキペディア昭和天皇の戦争責任論」を利用することから,この議論を始めたい。
 註記)以下は,http://ja.wikipedia.org/wiki/昭和天皇の戦争責任論 参照。

 1)「戦争責任を肯定する立場の主張」

 戦争中の日本において,国家主権は天皇に帰属した(主権在君)。日本国内でも外国でも天皇は日本の元首であり,最高権力者であった。戦争を始めとするすべての政治的な決定は,天皇の名のもとで下され,遂行された。この歴史的事実からしてまず,昭和天皇には戦争責任があった。

 また,昭和天皇自身も戦争責任を意識していた事実は,各種証言や手記によって確認されている。このことは,ポツダム宣言受諾のさいの1条件となった「国体護持」をめぐる回答や,さらに戦後に退位を望む意向を数回示した事実にも認められる。

 1945〔昭和20〕年2月14日,近衛文麿は敗戦を確信し,昭和天皇に上奏文を出し,敗北による早期終結を決断するように求めた。だが,天皇は「もう一度敵をたたき,日本に有利な条件を作ってから」がよいと判断し,これを拒否した

 このことは,天皇が能動的判断で戦争の継続を選択した事実を意味する。そのときの判断しだいでは,それ以降の敵味方の損害が大きく減らせた可能性もあった。つまり,少なくとも沖縄戦や広島・長崎の被爆はなかったはずである。

 2)「戦争責任を否定する立場の主張」

 大日本帝国憲法天皇に拒否権のみ与え,実際の意思決定や政策立案は内閣と帝国議会が担っていた。大日本帝国憲法天皇の政治的無答責を規定していたけれども,「君主無答責」の規定による戦争責任からの逃避は,国際的に全肯定されていなかった。東京裁判は「君主無答責」論を公式に利用していない。

 天皇の戦争責任論じたいが設問として成立しえないとする意見がある。当時の日本の主権者は昭和天皇であり,その最大の被害者は天皇自身であったとする意見もある。また,昭和天皇は日米開戦を論議した御前会議の最中に,開戦に反対したとする意見もある。サンフランシスコ講和条約において,天皇が自国の戦争に責任を負うべきものがあることを承認した条項もない。

 3)「戦争裁判における天皇免罪」

 敗戦後,日本の戦争犯罪を裁いた東京裁判は,昭和天皇を訴追する動きを早いに撤回しており,天皇は裁かれなかった。また,昭和天皇が退位するという選択肢もとりざたされたものの,実際には戦後の民主選挙によって構成された国会によって日本国憲法が制定され,大多数の国民の支持をえたかたちで昭和天皇天皇の地位にとどまった。戦後の象徴天皇制が始まった。

 これに対して,昭和天皇の戦争責任を免罪した措置は,アメリカの占領政策にもとづく〈非民主的な措置〉であって,なお今日まで歴史的な研究課題として未解決だと批判する立場もある。敗戦後,冷戦構築に向かっていった政治過程は,日本をアメリカなどの西側連合国が西側陣営に引きこもうとする〈政治的な動機〉を色濃く反映させ,昭和天皇の戦争責任「論」とは関連なく進展していった。

 昭和天皇の戦争責任を追及しなかったアメリカの姿勢は,合理的な措置であり,戦後日本の民主化への移行を円滑に導いた要因であると評価する立場もある。アメリカのその措置は,日本国民に根づく天皇の伝統文化的な価値観と誇りを破壊したばあい生じると予想された多大な悪影響と混乱を回避し,民主化達成後の日本国民側が「象徴天皇」を受け入れるうえで,適切な試行期間を与えた評価される。仮に,昭和天皇が戦犯として処刑されたとしたら,日本国民がアメリカの占領政策にどれほど協力したか分からないともいわれている。

 補注)本ブログの筆者は,このウィキペディア昭和天皇の戦争責任」中の記述に関しては,意味不明としか受けとれない箇所は削除する体裁で参照している。最後の段落〔前段最後の説明部分〕についてはこうもいっておく。

 敗戦した旧大日本帝国から天皇天皇制が根絶・排除されていたら,いまの日本・日本人・日本民族が「民主主義の政治精神・理念」面に関して大きく飛躍するための基本的な契機が獲得できていたかもしれない。その前段に参照したウィキペディアの説明は「歴史にイフ」をもちこんだ記述である。とすれば,これを批判する歴史的な見地にも「イフ」を想定して応じる議論が不可欠になる。

 4)「タブー化」

 昭和天皇の戦争責任を追及する立場は理の必然として,戦後における未解明の問題が「天皇の戦責問題」であると指摘する。しかし,天皇問題の議論・批判においては,何者かによる強い圧力があって,不必要なまでにタブー化されている側面がある。一方で,その議論・批判は法律などによって規制されてはいない。

 けれども,日本人が昭和天皇の戦争責任の追及をあえてタブー視する風潮があるのは,天皇の戦争責任を追及する立場が〈否定的にみられている〉からである。大半の日本人は,天皇の戦争責任を追及することに関しては,大部分が否定的な見解にあると主張されてもいる。

 すなわち,タブーが天皇の権威づけに利用され,逆にはこの権威がそのタブーを強固にするトートロジー(同義反復)が,大いに幅を利かす日本社会となっている。

 --以上,「ウィキペディア編集当局の批判」は,「昭和天皇の戦争責任」に関して,なお意味不明・論拠不十分があると指摘していた。というしだいであり,以下の段落についてだけは,本ブログの筆者流に適宜に,そのウィキペディアの解説を,根本にかかわる深度にまで「改・補筆する」記述としてみた。

 問題の要点は,大日本帝国憲法において「天皇の政治的無答責」があったにもかかわらず,昭和天皇の場合,この「君主無答責」の前提条件をみずから破壊する政治行動を,実際にはいくつも記録してきたというところにある。「2・26事件」(1931年)および「ポツダム宣言受諾」(1945年8月14日)は,立憲君主の政治的な立場を大きく逸脱した「昭和天皇の実際の行為」としてめだっていた。

 しかし,大日本帝国憲法時代の昭和天皇が「天皇の政治的無答責」の立場を否定する政治行為を記録した歴史的事実よりも,はるかに「重大かつ深刻な」「彼の政治問題」があった。それは「敗戦後における『内奏』問題」において端的に現象していた。



  戦後史における昭和天皇「『日本国憲法』違反の経歴(犯歴)」

 1) 髙橋 紘『人間昭和天皇』下巻講談社,2011年12月)における「昭和天皇の内奏」問題の議論-内奏の定義-

 この髙橋 紘『人間天皇 上・下』については,本(旧)ブログの「2012.2.4」「昭和天皇はなぜ靖国神社参拝(親拝)を中止したか」「天皇ヒロヒト靖国参拝にいけなくなった本当の事情」「微温的な天皇批判論で歴史の真相に迫れるのか?」で既述である。

 付記)この記述は未公開であり,近いうちに再公表することにしたい。

 本日〔2016年8月16日〕は,昭和天皇の内奏問題に限定するが,髙橋『人間天皇』下巻に提示された “奇妙な見解”(267-268頁参照)をめぐっても批判的に議論する。

 補注)参考文献として,後藤致人『内奏-天皇と政治の近現代-』中央公論新社,2010年3月があった。

 「内奏」とは,所管大臣が天皇に国政上の報告をすることである。「内奏は天皇とサシである」からこの2人だけの密室の会話となる。「戦前の奏上に似ており,戦後になって天皇に「内々に伝えておくこと」を内奏というようにした。もちろんその内容は外部に漏らさないのが大原則である。

 1948年3月,内閣総理大臣になった芦田 均は,新しい憲法天皇は政治に参画しなくなったので,内外情勢の説明にはいかないことにしたところ,天皇に「またときど来てくれ」といわれ内奏すると,天皇は米ソ関係などについてくわしい質問をした。そう簡単に芦田均画像は『総覧者意識』は抜けなかった。こうして内奏が始まった。

 芦田は,内奏はすべきに非ずという考えであったが,吉田 茂は違った。吉田は内奏の回数が多いばかりでなく,他の閣僚に対しても積極的に “政情奏上” を するように命じた。1953年8月だけでも,本人を含め保利 茂農相以下8人が内奏に上がった。

 a)「御進講」 各省庁の事務次官日銀総裁などが自分の所管事項について,天皇に対して説明する。都知事警察庁長官が出ることもある。天皇がが説明者と向きあって坐り,右手の机に侍従長が侍る。侍従長が入るところが内奏とは異なる。

 

 b)「ご説明」 天皇が出席する式典や大会の主催者,災害があると知事が,天皇に対して報告する。

 

 c)「お話」 複数の人が天皇に対してひとつの話題に沿って話をする。

 2) 内奏を暴露した閣僚たち

 髙橋いわく「そのうち困った手合いも出てきた」。佐藤栄作内閣の法相田中伊三次は,内奏のあと「お上のお食事のことなどいろいろうかがった由」を述べ,天皇と本務以外の雑談をしたことを披露した。さすがに天皇も「田中には困るとの仰せ」〔1973年1月9日〕があった(268-269頁)。

 髙橋は,昭和天皇に内奏をした閣僚の「お漏らし発言」を「困った手合い」と形容している。けれども,後述でも批判するように天皇への内奏」の問題は,そもそも「裕仁自身が憲法違反を堂々と犯して開始されていた」事実に発していた。それゆえ,こちらがさきに真正面よりとりあげられるべきである。ところが,この次元での問題意識が最初より不在であって,あたかも「内奏」を既成事実であるかのように扱っている。

 さて,政治問題化したのが『増原発言』であった。田中発言の4カ月後,田中角栄内閣の防衛庁長官である増原恵吉が「内奏に上がったところ」(註記:この表現は天皇絶対視である。「社長に書類を上げる」というたぐいの表現と同じだと受けとれないことは,誰も否定しないはずである)

 「近隣諸国に比べ(日本のもつ)自衛力がそんなに大きいとは思えない。なぜ国会で問題になるのか」「防衛問題はむずかしいだろうが,国の守りは大事なので,旧軍の悪いところは真似せず,良いところをとり入れてしっかりやってほしい」などと,天皇にいわれたと記者団に対して増原は紹介したのである。

 そしてそのあと「防衛2法の審議をまえに勇気づけられた」とも話したため,『天皇の政治利用』として糾弾され,5月29日には辞任に追いこまれた。同日の『入江日記』は,天皇は事件をしって「もう張りぼてにでもならなければ」と嘆いたという。

 髙橋は,やはり『入江日記』での記述に依拠するが,1970年3月5日「11時から正午過ぎまで鈴木 孝氏の進講」したさい,「繊維の日米交渉のことを心配しお上からも総理に一言おっしゃっていただけまいかと」,この鈴木が「天皇から佐藤栄作首相に一言あるように,侍従長に頼んだ」ということをとりあげて,「こんな不逞の官僚」「当時の外務省国際資料部長」「も出てくる」事例を指摘している。政治家の天皇利用だけでなく,このような官僚による利用もあったというのである。

 髙橋は結局,こう論断している。「内奏バラしは,ずっとまえからあったのだ」。「みな憲法のイロハから勉強しなおしてはどうか」と。しかし,こういう天皇「内奏」問題に関する『人間昭和天皇』の論及を読んだ本ブログの筆者は,はて待てよ,「憲法のイロハ」を勉強しなおしてもらわねばならないのは,そうした閣僚や官僚ではなく,それ以前の最初に『昭和天皇自身』ではなかったのかという具合に,そもそものとても大きい疑問を抱いた。

 3) 天皇をまっこうから批判できない「日本国籍人」識者たち

 天皇に対する自分の立場を時代錯誤に「臣 茂」と表現した吉田 茂よりも,はるかに決定的に悪いのは「〈日本国憲法〉の基本を勝手に蹂躙する〈内奏〉を要求し,これを実際におこなってきた」昭和天皇自身である。

 すなわち,大日本帝国憲法時代の「奏上」がどうあったかという論点よりも,1945年8月という画期があっても,この前後を分かつ時代精神の大変革は,天皇裕仁の頭中においてはわずかも反映すらされていなかった。

 後藤致人『内奏-天皇と政治の近現代-』(中央公論新社,2010年3月)は,そもそも佐藤内閣期(1964年11月-1972年7月)では「天皇と内閣の関係を事実上『君臣関係』と位置づける立憲君主制路線が定着していく」と解説していた。

 増原恵吉防衛庁長官の「内奏バラし」が問題とされ批判が巻き起こり,国会でも問題とされて「天皇不執政」があらためて表明された。しかし,その過程で政府は「政体は立憲君主制,元首は天皇であることを事実上表明している」。佐藤長期政権を経て自民党政権で定着した天皇と内閣の「君臣関係」は,白紙に戻されることもなく,昭和天皇の死ぬ直前の竹下 登内閣までつづけられてきた(188頁)。

 ところで,「内奏」ができなくなったら「自分は張りぼて」にでもなるのかと嘆いた昭和天皇に,はたして日本国憲法の基本精神が理解できていたのかといえば,まったく無理・無縁であった。というより彼は,「新憲法を理解すること」よりも「自分の立場」=「天皇家の安寧と幸福」を最優先し,最重要視する皇室的価値観だけが問題であった

 もちろん,昭和天皇にそうしむけた「臣 茂」の封建思想にも問題があり過ぎるものの,なんといっても,裕仁自身の時代錯誤性が最大・最難の問題であった。息子の代になってからも『天皇と内閣の「君臣関係」』に,基本での変化はありえない。これは,宮内庁に聞くまでもない〈旧時代的な基本認識〉である。

 日本国は「そうした天皇」を象徴に戴いている。『君臣の関係を前提する天皇天皇制』と『民主主義の根本理念』とは,いったいどのように折りあえるのか? 日本の政治学者はきちんと答えねばならない。

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 「沖縄メッセージ」(1947年9月,前掲資料参照)を発し,自分の身の「安全保障」と交換条件にして「琉球アメリカ軍基地」に提供した:売りとばした「象徴天皇裕仁」を,文句なしに許してもいいという日本国籍人は,よほどのお人好しでなければ,盲目的な天皇崇拝主義者である。ここの話が分かりにくいのであれば,戦前・戦中から沖縄県民である人びとからも関連する事情や意見を聴取してみればよい。

 4) 戦後政治を動かしてきた天皇裕仁憲法違反の諸行為

 林 博史『米軍基地の歴史-世界ネットワークの形成と展開-』(吉川弘文館,2012年1月)が指摘する昭和天皇の政治発言を列記しておく(108頁)。

 イ) 19「55年ごろに重光 葵外相のように駐留米軍全体の撤退の構想もあったが,それに対して昭和天皇が重光に対して『陛下より日米協力反共の必要,駐屯軍の撤退は不可なり」とそれに反対の意思を伝えていた」(1955年8月20日,『続 重光葵手記』732頁)。

 ロ) 「占領終了後の安保条約による米軍駐留継続についても昭和天皇が積極的な役割を果たしていたことが明らかにされている」。朝鮮戦争の休戦が目前に迫っていた1953年4月,離日するマーフィ駐日大使に対して昭和天皇は「米軍撤退を求める日本国内の圧力が高まるだろうが,私は米軍の駐留が引きつづき必要だと核心しているので,それを遺憾に思う」と伝えていた(豊下楢彦『安保条約の成立-吉田外交と天皇外交-』1996年参照)。

 ハ) キューバ危機が起きた直後の1962年10月,皇居で開かれた園遊会において昭和天皇は,スマート駐日米軍司令官のもとに近づき,「米軍の力と,その力を平和のために使ったことを個人的に称賛と尊敬の念をもつ。世界平和のために米国がその力を使いつづけることを希望する」と語り,アメリカの軍事力に期待する意思を伝えている(『朝日新聞』2005年6月1日「中北浩爾氏と吉次公介氏の発見資料」)。

 ここまで昭和天皇による米軍依存の発言だけを聞いてみても,日本が日米軍事同盟を結んでいる〈政治的な意味〉は,基本的に理解できる。昭和天皇が米軍に守ってほしかったのは,敗戦後における「日本国憲法内の彼の地位」であって,これを保障してくれたアメリカとこの国の軍事力は,彼にとってはいわば「大日本帝国時代の旧日本陸海軍よりもたのもしい」ものであった。



  結 語

 豊下楢彦『安保条約の成立-吉田外交と天皇外交-』(岩波書店,1996年)は,「あとがき」をこうまとめていた。

 日本の国土において考古学による科学のメスをくわえることのできない遺跡と地域が,天皇陵と米軍基地であることを再認識させられることとなった。今日の日本において,「神聖不可侵」と「治外法権」が厳然と生きつづけている(241頁)。

 天皇陵の問題も米軍基地の問題も,本ブログがよくとりあげ議論し,批判もしている対象であった。日本は「天皇を戴く民主主義国」といっていいのか? この表現は形容矛盾ではないのか?

 「張りぼて」を意識していた当時(以前)の昭和天皇は,かといってもそれこそやりたい放題に,敗戦後の日本政治を大きく左右する身分不相応な政治干渉・介入を,平然とおこないつづけてきた。「内奏」は日本国内だけでなく「国外に向けて」も送受信されていた問題である。

 高橋 紘『昭和天皇 1945-1948』(岩波書店,2008年)は,天皇裕仁関係の「『側近日誌』『昭和天皇独白録』などを読むと,立憲君主として行動してきた自分には,戦争責任はないことを強調する狙いだった」(〔あとがき〕353頁)という解釈をほどこしていた。

 そうだとすると,② の 4)  の a) b) c)  で指摘した「歴史的な記録」を刻んできた昭和天皇の,新憲法「象徴天皇」の立場からは大きく逸脱した「憲法違反・蹂躙」の行為は,いったいどのように批判されればよいのか。戦後における彼の政治責任を,「佐藤長期政権を経て自民党政権で定着した天皇と内閣の『君臣関係』」として,まさかそのまま認容しておいてよいわけではあるまい。

  2016年8月16日の追記

 さて,その後に公刊された豊下楢彦昭和天皇の戦後日本-〈憲法・安保体制〉にいたる道-』(岩波書店,2015年)は,ここまで論及してきた「敗戦後における昭和天皇の政治行為」を,躊躇することなく明確に,こう断罪している。〈内奏〉の問題は,この天皇による内密な行為をたぐり寄せ,解明するための素材であった。

 そもそも,統治権の総覧者と規定された明治憲法のもとでも,昭和天皇は「立憲君主」に徹して例外を除き政治に介入しなかったと主張してきた。とすれば,新憲法のもとで「象徴天皇」となった以上,政治不介入は,より徹底されねばならないはずである。

 なぜなら,天皇はいっさいの責任を負うこともできないし,負える立場にないからである。にもかかわらず,高度な政治問題で,政権レベルでもいかなる議論も深めていない問題でみずからの見解を占領の最高責任者に披瀝するという行為は,無責任の誹りを免れえないであろう(101-102頁)。

 ところで,2016年8月8日午後3時からであったが,2016年7月13日に先刻表明されていた「天皇明仁の『生前退位』の意向」が,事前に慎重に推敲を重ねて準備したらしい〈ビデオ・メッセージ〉としてNHKが放送するかたちで,日本の国民などに向けて伝達されていた。

 現行の「皇室典範」には規定のない生前退位をいまの天皇が希望したとなれば,「国家と国民の統合」のための象徴である人物が,「象徴としての務め」に関して,自身の生き方をみずから決められるかのごとき発言をしたのである。

 明治天皇大正天皇ともにそれほど熱心でなかった宮中三殿における祭祀は,昭和天皇の時期から頻繁かつ熱心に執りおこなわれるようになった。昭和天皇は敗戦後,国民側の関心を察知したのち,これを惹くためにさらに実行されていったのが,昭和20年代を通して展開された「〈巡幸〉の全行程」であった。

 平成天皇の時期になると,みずからが「憲法遵守」を唱えつつも彼なりに,国事行為からはさらに逸脱した公的行為・その他の私的行為を,それも宮内庁の支援・助力もえて,よりいっそう拡延していく軌跡を描いてきた。そしていま〔2016年夏〕となって,高齢ゆえ象徴天皇の任務・仕事をこなすことがたいそうしんどいために,生前退位を願う旨の〈意見表明〉を,8月8日におこなっていたのである。

 憲法学者歴史学者にはいろいろな意見・解釈があるものの,そうした「天皇の行為」は,日本国憲法の本来主旨に照らせば逸脱(脱線)でしかない。日本国憲法は,敗戦時にGHQに押しつけられたものだと非難・批判されてもきた。

 だが,天皇天皇制も「象徴にされた天皇」も,みずからが「もの申すこと」に関していえば,もとは完全に封印されていた憲法の制度・内容であったはずである。ところが,それがいつの間にか,というよりも敗戦後も間もない時期から早くも,その決まり(規定)を平然と破ってきたのが,ほかならぬ昭和天皇自身であった。

 日本国憲法においてはあくまでも,在日米軍基地と抱きあわせでの「天皇制度」の目的・任務・役割しか「期待されていなかった」のである。しかし,現状はどうであるか? この点が理解しがたい,納得がいかないという人には,前掲した豊下楢彦の論著一読を勧めておきたい。「歴史の事実」に即した吟味・考察・判断が要求されている。

 要は,21世紀のいまにあっても堅固に貫かれている「安保の論理≧憲法の理念と利害関係」のあり方,いいかえれば,この「米日間服属関係史の原型」を回顧するさい,敗戦後史として日本側で構築された両国の政治過程において,まことに協力的に生きのびた特定の人物がいた。その人こそがほかならぬ昭和天皇自身であった。
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