日本国憲法における天皇の地位,象徴天皇がものをいえる日本の政治,人間としての天皇が人民(国民)を民主主義として本当に代表できるのか

             (2010年4月24日,更新 2021年7月3日)

 日本国憲法における天皇条項,モノをいう象徴天皇,よじれる日本国憲法の基本問題,人間天皇が国家と人民を象徴するというムリ

 民主主義と天皇天皇制は矛盾しないのか,主権在民」か「主権在君」が,21世紀のいまに,あらためて問われる民主主義と「君主」風的な天皇の存在

 2021年7月から2016年9月を経て,2010年4月までを思いだした議論として考える天王・天皇制の問題

 

  要点・1 1年延期になった2020東京オリンピックの開催「問題」をめぐり,令和天皇徳仁が2021年6月24日,宮内庁長官の口を介して「拝察」的に発言させ,その開催に疑義を提示した

  要点・2 人間が象徴としての天皇を演じ,具体的問題に関与するほかない事態だが,2020年東京五輪パラリンピック両大会の名誉​総裁に付いている令和天皇の立場からの発言が問題になっている

  要点・3 菅 義偉首相はなにがなんでも五輪開催に突入するつもりであり,コロナ禍の最中であっても〈戦争的な〉狂気になんら変わりなし

  要点・4 戦前・戦中の1938〔昭和13〕年1月,「国民の体力向上,結核等伝染病への罹患防止,傷痍軍人や戦死者の遺族に関する行政機関」として,内務省から衛生局及び社会局が分離するかたちで,厚生省が設置されていた

 厚生省は,戦時体制下に「健民健兵策」を推進,科学的に国民体力と精神の錬成を目的として厚生省を設置したわけだが,敗戦によってその総決算が結果させられていた
 
  要点・5 21世紀の「2020東京オリンピックの開催」が,新型コロナウイルス感染拡大「問題状況」という苦境のなかであえて強行することなれば,コロナ禍戦争には敗北すると予想されている,2020年冒頭からの厚生労働省の対・コロナ禍戦線は当初から穴だらけであってその損害・被害をいたずらに増大・拡散させてきたが,いまも手抜きで・いい加減のままに今日まで来た 

 補注)「健民健兵」とはなにか。つぎの記述を紹介する。

 

  ◆ 戦争のための「国民体力の管理化」

 1945年8月以前,徴兵には若い男性が必要であった。満州事変以降,日本軍が外地出征を本格化させるにしたがい,政府や軍当局にとって戦地に出ていく若い男性,それも健康な男性を育成することは至上命題となった。

 

 そのため政府は昭和13〔1938〕年1月11日,戦時体制下の健民健兵策を推進し,科学的な国民体力と精神の錬成を目的として厚生省を設置した。昭和15〔1940〕年9月26日,厚生省は国民体力法を実施し,17歳から19歳までの男子の身体検査を義務化し体力手帳を交付した。

 

 11月3日〔この日は明治天皇の誕生日〕には,戦時下の人的資源増強のため,10人以上の子供をもつ家族を「優良子宝部隊」として表彰している。厚生省のこうした事業は,健民運動と呼ばれていた。

 

 しかし,この運動はなにも厚生省が独自に始めたわけではない。それ以前からも国民の体力向上や乳幼児の死亡率減少を意図した運動があった。厚生省の設置は,国家が国民の体力と健康も管理下に置くようになったことを意味したのである。

 

 こうした運動の一つに乳幼児愛護運動がある。これは乳幼児の死亡率減少のために実施された事業で,昭和2〔1927〕年5月5日,全国一斉に実施している。現在のこどもの日であることに注意したい。

 

 たとえば,青森県でも乳幼児愛護デーに参加するため,4月21日付で各市町村長・警察署長・女学校長・小学校長・婦人団体長宛に具体的な事業方法を通達している。そして以後,毎年この運動が実施されていた。

 註記)以上,『弘前市弘前図書館 / おくゆかしき津軽の古典籍』通史編5(近・現代2)「新編弘前市史  通史編5(近・現代2)」,第4章「戦前・戦中の弘前」第2節「銃後弘前の市政と生活」,2 健民運動の展開。

 

 敗戦前のこの「健民健兵」思想は,あくまで「戦時体制」を無条件に絶対的な前提に据えたうえで, “人間の健康を大事にする” という基本での制約があった。当時の母親たちのなかには,兵隊に息子を2人(以上)取られ,しかもこの2人(以上)とも戦争でうしなった女性もいた。彼女たちの「本当の気持」が,靖国神社という国家神道施設によって,いくらかでも鎮められるというファシズム戦争思想は,どこまでもカッコ付きであった。

 

 与謝野晶子(1878~1942年)は,姉の立場からであったが,日露戦争に出征し
っていた弟に,「君死にたまふことなかれ」​と戦争を嘆く詩を書き,当時の軍国主義の社会に大きな反響を呼んだ。だが彼女は,昭和になってからの戦争の時代には,この嘆きを撤回する立場に転向していった。このあと「健民健兵の保健・医療思想」が登場していた。

 

 健民健兵の保健・医療思想はその意味で,歴史発生的には軍事目的に由来していた。より正確にいえば「健民健兵」とは「廃民死兵」を結果させる軍事用イデオロギーでしかありえなかった。

 

 周知の事実である。太平洋戦争の戦病死者は最後の1年半でその9割にも達していた。戦時体制期における厚生省の存在意義は,まさしく「〈死に神〉としての《守り神》の立場」である意義しかもちえなかった。

 

 2020年冒頭から猛威を振るいはじめた新型コロナウイルス感染拡大「問題」に対峙した日本国・厚生労働省は,いままで記録されてきた事実経過に照らしてみるに,まったく無能・無策であった。

 

 21世紀のいま,1年遅れになってでもなお開催を強行しようとする「2020東京オリンピック」にまつわっては,とうてい回避できないはずの「コロナ禍に関係した重大な懸念」があった。敗戦前においては厚生省が戦争用の健民健兵の保健・医療思想を抱いていたものの,これが敗戦時にまで結果した「完全なる負の成果」は,「兵士240万人の死と帝国臣民70万人の死,合計310万人」となっていた。この事実を無視して,現在の厚生労働省によるコロナ禍対応を観察することはできない。

 

 2020東京オリンピックがもしも本当に開催されたら,コロナ禍がこの国際大運動会を舞台にしたかっこうで,世界中に「東京オリンピック株」(新型コロナウイルスの新種)を発生させつつ,大いにばらまく結果を生みかねない危険性が「予想・指摘」されている。

 

 おまけに,この以上の問題に対しては2021年6月24日,天皇徳仁の立場からの「拝察」発言も放たれたせいで,さらに当該の論点が輻輳化してきた。宮内庁の西村泰彦長官は定例記者会見の場を借りて,令和天皇が「オリンピックの開催が感染拡大につながらないか懸念されていると拝察している」などと発言していたのである。

 


 🌑 前  言  🌑

 1)「西村泰彦・宮内庁長官の発言  五輪への懸念『拝察』の意味とは?」『東京新聞』2021年6月29日 17時00分,https://www.tokyo-np.co.jp/article/113460

 東京五輪パラリンピック開催による新型コロナウイルス感染拡大を天皇陛下が懸念されているとした,〔2021年6月24日〕西村泰彦・宮内庁長官の「拝察」〔発言について〕。

 憲法で政治的発言ができない皇室関係者の意図を慮る表現だが,歴史を振り返ると,一方的な想像ともいい切れないケースもあるようだ。

 「天皇の政治利用」「象徴天皇制を揺るがす」との批判も多いが,そうなるのは予想されたはず。背景になにがあるのか。

 ◆-1 長官が「拝察」することじたいは当たりまえ

 「拝察」。日常会話ではほとんど使われず,多くの人にとって耳慣れない言葉だろう。広辞苑によると,「察することの謙譲語」とあるが,皇室ジャーナリストの神田秀一さん(86歳)は「長官が『拝察』することじたいは当たりまえのこと」と解説する。

 天皇の権威が軍部に利用された戦前の反省から,憲法天皇について「国政に関する権能を有しない」(4条)と規定し,皇室の政治活動をきびしく制限している。そのなかで,宮内庁では天皇の気持を推しはかり,「拝察」として発信してきた。

 ただ,なかには天皇や皇太子の意向を反映しているのでは,という印象を受ける言葉もある。たとえば2004年,当時皇太子だった天皇陛下が「雅子のキャリアや人格を否定する動きがあったことも事実」と発言して波紋が広がった。そのさい,当時の羽毛田信吾次長は「(天皇,皇后両陛下は)国民の多くは分かってくれるのではないか,とのお気持でおられるように拝察します」とコメントした。

 2018年には,当時の山本信一郎長官が,昭和から平成の代替わりの関連儀式の過酷な日程について「両陛下は大変だったとのご様子で,今回のことをお気遣いなされていると拝察している」と発言。代替わり儀式の簡素化が課題となった。

 ◆-2 首相の「内奏」直後の発言はきわめて異例

 繰り返されてきた「拝察」。それでも今回の西村長官の発言には,40年余皇室を取材してきた神田さんも驚いたという。たった2日前,菅 義偉首相が天皇陛下に国政について報告する「内奏」をしているからだ。「これまでの経験ではありえないことで,内奏直後のタイミングはきわめて政治的。きな臭さしかなかった」。

 補注)この点の指摘が一番注目すべき具体的な問題であった。

 五輪誘致をめぐっては政治と皇室が「なんどもぶつかった」と,宮内庁の元広報担当で皇室ジャーナリストの山下晋司さん(64歳)は振り返る。2016年五輪誘致のさいには,当時都知事石原慎太郎氏が,当時皇太子だった天皇陛下のIOC(国際オリンピック委員会)総会出席を要請したが,宮内庁が拒否。石原氏は「木っ端役人」と宮内庁をののしり,物議を醸した。

 2020年誘致でも高円宮妃久子さまにIOC総会に出席してもらうことが,皇室の政治利用に当たるかどうかで揺れた。当時の風岡典之長官は「苦渋の決断。天皇,皇后両陛下も案じていらっしゃると感じた」と語ったが,当時官房長官だった菅首相は「両陛下の思いを推測し,言及したことに非常に違和感を感じる」と批判した。

 今回,菅首相は西村長官の「拝察」を「長官個人の発言だ」と火消しに回っている。しかし,世間では「政治利用」を批判する声も上がる。政治評論家の板垣英憲さんは指摘する。

 「自民党は選挙のためになにがなんでも五輪を成功させたいはずで,その道を阻むものがあれば容赦ない。言葉には反射光があり,自民党は昔からその光をかわすことが巧みな党だ。そもそも,五輪で皇室を利用してきたのは自民党政権のほうなのに…」。

 ◆-3天皇は国政に関する権能を有しない」と憲法で規定

 今回の発言には,別の角度からの批判も出ている。

 社民党ツイッターの党公式アカウントで「宮内庁長官の立場にある人物が『拝察』というかたちで天皇の名で政治的意見を発する,ということが起きています。象徴天皇制を揺るがす大変問題のある発言です」と発信。

 共産党志位和夫委員長も〔6月〕25日の都議選の第一声終了後,「天皇憲法で政治にかかわらないことになっており,それをきちんと守ることが必要」と記者団に述べた。

 象徴天皇制を揺るがす,とはどういうことなのか。

 憲法1条は「天皇は,日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」と規定し,国政に関する権能を有しないとした4条は「この憲法の定める国事に関する行為のみ」をおこなうと定めている。これらの行為でも好き勝手に行えるわけではなく,「内閣の助言と承認」(3条)が必要とされている。

 戦前・戦中の日本は,大日本帝国憲法にもとづき,天皇は「統治権の総攬者」と定められた。これが軍国主義につながったという認識のもと,新しい日本国憲法では国民主権が柱に据えられた。

 九州大学の横田耕一名誉教授(憲法)は「天皇にはいっさい政治にかかわらせず,国民が決める仕組に変わった。こうして結実したのが,象徴としての存在と,国事行為しか行わせないというものだった」と説明する。

 天皇の国事行為は6,7条に列記されており,国会の召集や衆議院の解散,総理大臣や最高裁長官の任命がある。よく報道される植樹祭の出席や全国各地への訪問は該当しない。

 ◆-4「説明不十分な現政権の姿勢が根本原因」

 平成の時代には,これらにとどまらない活動が目立った。2011年3月の東日本大震災発生直後,当時天皇だった上皇さまは国民向けのビデオメッセージを発表。戦後70年の節目となった2015年には,安倍政権による安保法制が国論を二分する最中,太平洋戦争の激戦地となったパラオを訪問し戦没者を追悼した。2016年には「退位したい」との意思をにじませる「お気持」をビデオメッセージで発している。

  ※ 歴史的な視点からみると,「拝察」(2021年6月24日)はなにを意味するのか ※

 

 名古屋大の河西秀哉准教授(歴史学)によると,従来,天皇の懸念や心配は,宮内庁長官から政権に内々で伝えられ,対応が取られてきたふしがある。たとえば,小泉内閣では女性・女系天皇をめぐって有識者会議が発足し,野田内閣では女性宮家創設について検討がされた。「市民には唐突にも感じるが,おそらくこのメカニズムが働いた事例」とみる。

 

 そのうえで,西村長官発言の背景を「陛下のコロナに対する心配は,今回も菅首相らに伝わっていたはず。しかし,十分な感染対策が取られないまま,菅内閣が粛々と準備を進めたため,このようなかたちになったのでは。五輪が開かれれば,五輪憲章にもとづき,陛下が開会宣言でお祝いの言葉をいわなければならない。国民に対するある種のエクスキューズ(弁解)という側面もゼロではない」と分析する。

 ただ,今回の事態は象徴天皇制の観点からは望ましくないとし,こう続けた。

 「今後コロナ対策が強化されれば,天皇のイレギュラーな発言によって,政治的な物事が動くという前例を作ってしまう。つまり,天皇の政治関与をイレギュラーなかたちで認めてしまうことになる。国民の多くが懸念しているのに,説明も不十分なまま五輪開催に突き進む現政権の姿勢が,今回の問題を引き起こした根本の原因だ」。

 ◆-5「大変心配されている」 宮内庁長官の一問一答

 宮内庁の西村泰彦長官の天皇陛下の懸念をめぐる一問一答はつぎのとおり。

 ◇ 五輪の開会式や,競技ご覧で関係機関との調整など,長官の考えは。

  「開会式と競技ご覧のご臨席は調整中で,紹介できる状況ではない。天皇陛下新型コロナウイルス感染症の感染状況を大変心配されている。国民の間に不安の声がある中で,名誉総裁をお務めになるオリンピック,パラリンピックの開催が,感染につながらないか,ご心配であると拝察している。私としては,感染が拡大する事態にならないよう,組織委員会をはじめ,関係機関が連携して感染防止に万全を期していただきたい」。


 ◇ 陛下は大会が感染拡大のきっかけになることを懸念されていると。

  「というのは私の拝察。日々,私が陛下とお話ししている中で,私が肌感覚でそう感じていると受け取っていただければと思う」。

 

 ◇ 陛下のお気持といっても。

  「それは私の受け取り方ですから」。

 

 ◇ そこまでおっしゃるということは軽い気持ちでおっしゃっていない。

  「陛下はそういうふうにお考えではないかと,本当に私は思っている。ただ,陛下から直接そういうお言葉を聞いたことはない」。

 

【デスクメモ】 五輪開会まで3週間余り。〔6月〕28日も東京の新規感染者は増加傾向で,比較的少ない月曜日なのに300人を超えた。五輪準備と折り重なるように,コロナのニュースが入ってくる。誰が本番への懸念を口にしても,なにもおかしくない状況だ。本当にこのまま開催するのだろうか。

 2)「天皇とは 国民的議論を お気持ちをめぐる『ねじれ』 中島岳志」『東京新聞』2016年9月27日 02時00分,https://www.tokyo-np.co.jp/article/3349

 補注)この中島岳志の意見は2016年9月時点に披露されていたので,注意したい。まだ平成天皇の時期であった。「なかじま・たけし」は東京工業大教授。 

 天皇は〔2016年〕8月8日のビデオメッセージのなかで,「象徴」としての行為を「国民の安寧と幸せを祈ること」と「人々の傍らに立ち,その声に耳を傾け,思いに寄り添うこと」とした。そして,高齢によって職務をまっとうすることが困難になることを想定し,生前退位の意向をにじませた。これは公務の縮小や摂政を置くことでは解決にならないという。

 『文芸春秋』10月号の同誌編集部「皇后は退位に反対した」では,2010年7月の参与会議で,天皇みずから「私は譲位すべきだと思っている」と発言したことが明らかにされている。皇后は退位に反対し,摂政を置く案を支持したものの,天皇が強い口調で「摂政では駄目なんだ」と退けたという。

 天皇の「お気持」の表明をめぐっては,左派 / 右派の論客の受けとり方に,奇妙な「ねじれ」がみられる。

 従来,天皇制に対して批判的な傾向にあった左派論壇が天皇の意向を支持し,天皇への無条件の敬意を表明して来た右派論壇の多くが,きびしい見方を提示しているのだ。背景には,これまでの「お言葉」から垣間みえる天皇自身の思想信条が,左派リベラルの見解に近いという事情がある。

 左派論壇を代表する雑誌『世界』の10月号に掲載された長谷部恭男「象徴天皇と『生前退位』-憲法から考える」は,天皇の「お気持」に寄り添いながら議論が展開される。

 長谷部は,天皇が「憲法あっての天皇」という立場を明確に表明している点を評価し,生前退位の意向を表明することについても「憲法に反するとは思えません」と擁護する。また,天皇が摂政を置くことに否定的な見解を示したことに対して,「それはもっともなことだと思います」とし,国民的議論の必要性を喚起している。

 個人的には妥当な見解だと思うが,左派論壇全体が天皇個人の思想信条に引きずられる形で天皇観を変更しているのであれば,問題がある。左派はもう一度,天皇論を整理しなおすべきである。

 一方で,右派論壇を代表する雑誌『正論』『WiLL』『Voice』掲載の論考の多くは,天皇への敬意を示しつつ,「お気持」の内容への違和感と不支持を表明している。

 『Voice』10月号の渡部昇一「摂政がやはり最善」では,象徴天皇の任務を宮中での「祈り」に集約し,被災地の見舞いや慰霊の旅などは摂政に譲るべきだと主張する。渡部が危惧するのは,皇室典範改正の機運が高まることである。

 男系男子の皇位継承を最も重要な「皇室伝統」と捉える論者にとって,女系・女性天皇の検討につながる皇室典範改正の議論は退けておく必要があるのだろう。

 『WiLL』9月号の加地伸行「『生前退位』とは何事か」では,天皇皇后に対して「可能なかぎり,皇居奥深くにおられることを第一とし,国民の前にお出ましになられないこと」を提言している。

 天皇の各地への訪問を極度に制限することで,公務の本質的軽減が可能となるとする。これは天皇の考える「象徴」のあり方そのものをきびしく批判するものだ。きびしい文体には,天皇に対するいら立ちが感じられる。

 ただ右派論壇も一枚岩ではない。『月刊Hanada』10月号の高森明勅(あきのり)「ご譲位の “玉音放送” と国民の責務」は,天皇の「お言葉」を丁寧に読み解いたうえで,その意向に従い「譲位への道を切り拓(ひら)く以外,国民としてなすべき務めはない」とする。また,譲位を実現するためには「憲法上,どうしても典範の改正が不可欠」と明言し,政府と国会は速やかに皇室典範改正を進めるべきだと提言する。

 『国体文化』9月号の金子宗徳「陛下のお言葉を拝し奉りて」は,「今回の御聖断」を「謹んで承るだけ」とし,天皇の意向の実現に全力を尽くすべきことを説く。これは,「承詔必謹」(天皇のお言葉を聞いたら,必らず敬い尊ぶべきだ)の精神にもとづいているといえよう。

 近年の『国体文化』の特徴は,右派論壇における皇太子夫妻への批判をきびしく退けている点にある。今〔2016〕年6月号には,批判の中心人物である西尾幹二加地伸行に対する「断筆勧告」を掲載した。皇室基盤強化のためには皇室典範改正が不可欠という立場も鮮明にしている。国体論の本質を追究することで,右派論壇の問題点をあぶり出す議論は,傾聴に値する。

 リベラルな天皇に寄り添う左派と「承詔必謹」の国体論者が見解を共有し,右派論壇の天皇批判と衝突する構図は,やはり奇妙だといわざるをえない。天皇のあり方についての「国民の総意」が確立されていない現状を反映しているのだろう。

 天皇はいかなる存在なのか-。総合的で国民的な議論を展開すべき時が来ている。(引用終わり)

 以上,『東京新聞』の記事から,2020東京オリンピックの開催「問題」にかかわってあらためて浮上してきた「象徴天皇」のあり方を再考するうえで,参考になりそうな〈見解・意見〉を聞いてみた。

 天皇天皇制問題になると,平常心で落ちついた気持では議論・討論できなくなる傾向が底流に控えているが,この、は左右陣営を問わず一大特徴になっている。以上の中島岳志の発言は,右翼の関連する動静について,2016年時点のものとして言及していた。

 平成天皇の在位中において一貫していた特徴は,「祈りながら巡礼する〔配偶者こみの〕自分の姿」の表現にあった。この彼の基本姿勢は,意図的に維持されていたものゆえ,本ブログ筆者は「皇室生き残り戦略」だと形容してみた。

 そもそも,天皇および天皇系の人びとは口を開くごとに,その一言一言が政治的な含意をもたないことはない。そのところを,あたかもその〈他意〉がないかのように語らねばならない宮内庁関係者の立場も,これまた珍妙かつ奇怪である。

 おおもとの問題は,日本国憲法の内容に関する実際的な解釈が,敗戦直後からまず昭和天皇によって変質させられ,つぎに平成天皇によって改変されてきた経緯のなかに伏在していた。

 さらに,このたび2020東京オリンピックの開催にかかわっては,令和天皇がコロナ禍のなかで「有観客開催を強行しようとする菅 義偉首相」に対して「異議を突きつけていた」事実が,宮内庁長官の口づてに公表されていた。

 そうした宮内庁「話法」のあり方については大昔(敗戦後のことだが)から,問題になってきた。ともかく,天皇天皇制が日本国憲法のなかで存在しているかぎり,なにか,すっきりしかねる,そこに政治的に関連するほかない論点は,消えることがない。

 ところで,本日最新の関連するニュースとして,つぎの報道があった。五輪を開催したら,このような現象がそれこそゴマンと発生すると警告されている。ともかく,その結果がどうなるか? 「東京オリンピック株」が生まれると予想されている点が軽視できない。

    松山英樹がコロナ陽性,PGAツアー大会2日目を棄権 ★
 =『読売新聞 オンライン』2021/07/03 03:45,https://www.yomiuri.co.jp/sports/golf/20210703-OYT1T50090/

 

 米男子ゴルフのPGAツアーは〔7月〕2日,米ミシガン州で開催中のモーゲージ・クラシックに出場している東京五輪代表の松山英樹新型コロナウイルス検査で陽性反応を示し,大会を棄権したと発表した。この日が大会2日目で,前日の第1ラウンドは2アンダーの暫定56位で終えていた。

 

 松山はPGAを通じて「大会を棄権しなければならないのはとても残念です。周囲のすべての人の健康と安全を確保するために必要なすべての予防措置を取ります。一刻も早く回復し,競技に復帰することを楽しみにしています」と談話を出した。


  堀内 哲編著『天皇条項の削除を!』2009年10月

 本ブログ(旧々のそれ)は「2010年4月18日」の「皇室典範の改正は急務か?」「日本経済新聞「中外時評」の甘い皇室観」で,堀内 哲編著『天皇条項の削除を!』JCA出版,2009年10月という書物をとりあげた。本書の目次だけは紹介してあったが,それ以上特別になにかを議論することはなかった。

 そこで本日〔2010年4月24日……,ただしここでは,本日の2021年7月3日に映っているが〕は,同書『天皇条項の削除を!』のなかから,第2部「格差社会天皇制を問う」のうち,小野俊彦稿「9. フリーターは皇民化され損ねる」から興味ある箇所を引照しつつ〔関連する〕議論をおこないたい。

 以下における議論の中心は,「天皇天皇制における〈日本の労働問題〉」とでも称すべき論点に置かれている。本日〔2021年7月3日〕に改筆してみた段階においては,2020東京オリンピックの開催「問題」に直接関与せざるをえなくなった令和天皇徳仁)の立場が,すでに大きな話題を提供していた。この話題も,ここの記述に関係づけて読んでもらえれば,きっとなんらかの示唆がえられるものと考えている。

 

  フリーターと天皇天皇

 小野俊彦「フリーターは皇民化され損ねる」をもって,こう議論している。

 天皇制による「国民統合」じたいが「民主主義の原理」に反する。私たちは主権者としての民衆に同一化して,日本国憲法にいう「国民」から「people(民衆)」を救いだそうとする。

 しかし,少なくとも私には「民衆」や「人民」などということばを,自分の主体性の根拠にできる感覚はない。むしろ,民衆や人民という確固たる響きをもったアイデンティティが確立されるはるか手前で,国民-消費者-有権者-納税者などとして体制に統合されきっているゆえ,ここから統合され損ねる機会を探ることから始めたい。

 好機が危機とは裏腹であるとすれば,機会は,現在の資本制国家のなかで「生と労働を決定されている」存在であることじたいにおいて,その無力感や苛立ちや不安と遠いところにはないはずだる。あるいは,そのような無力や苛立ちに一番近いことばが〈労働者〉かもしれない。

 しかし,労働運動の古老たちによって勇ましく叫ばれてきたその「ことば:労働者」もまた,手垢塗れに過ぎて,私たちが向きあう現在の状況のなかでは「鍛えなおさねば使い物にならない」。「フリーター」ということばこそが,私たちの目の前で,危機と好機のなかで揺れていた。

 標題「フリーターは皇民化され損ねる」の執筆者である小野俊彦は,自身が市民運動界隈をうろつき始めたころ,大学院に長年在籍してきたけれども,結局,研究者にはなりそこねていた人物である。つまり,高等教育・職業訓練機関から労働市場への接点で宙づりになっていて,危うい境遇に耐えつづけるほかなかった存在の1人であった。

 文部科学省による大学院重点化政策は大学院生を激増させ,短期の任期制ポストの増加などが,実際は小さいパイの奪いあいに過ぎないにもかかわらず,「就職機会の増加」と受けいれられた。これはまた,まさに「一般市場の縮図」であった。

 「学校基本調査報告書」によれば,文系大学院の卒業後の就職率は30%程度であって,残りの70%程度は不安定な就労ないし失業の状態にある。この現実に批判的な大学院生であっても,過剰の自己責任論や「勝ち組 / 負け組」なるネオリベ的観念にいつのまにか染まっていく。

 大学が独立行政法人化され,研究環境が改悪され,自治会すら結成できない。授業料の対価さえ要求する納税者意識をもてないまま,当局に文句ひとついわない大学院生の1人として,小野俊彦は,こう考えたという。

 「自分たちの境遇の危うさを自覚しつつ発言し研究してゆくべきではないかということを,機会をみつけては周囲に呼びかけてきた」。

 イラク反戦運動フリーター全般労働組合やその周辺の運動や言論のありかたなどとおして小野は,「運動にかかわる自分なりの問題意識の明確化」をなしとげ,「プレカリアート」という新たな社会集団の名乗りを強く自覚する。

 それは,グローバル資本主義下の資本制国家,そしてこれを構成・媒介する諸制度である個別資本・大学などによって,決定的に規定されつつ日常的に生き働いている「私たちの現実」であった。

 そこまで認識を進展させえた小野は「みずからのありようを一方的に名づけられていることほど,私たちへの世界へのかかわりを妨害するものがあるだろうか」と問い,さらにこう批判する。

 「ましてや,この社会に唯1人その存在じたいが私たちの生や労働を含むありようの『象徴』だとされるような人間が存在するなどということは,直接的な『名づけ』の権力以上に強烈で老獪な妨害だ」。というのも「日本国憲法天皇直々の『署名』とハンコによって発効しているのだ」からであった(以上,192-194頁参照)。

 

  まつらわぬものどもへの向けられる,日本「国民」たちの視線-2014年時点での議論として-

 小野は,フリーターユニオン福岡(fuf)を介して「天皇制,愛国心(日の丸・君が代)の強制,死刑や戦争,管理者会を弾劾するビラを書き殴ってきた」のは,「われわれは永遠に労働者に,労働組合になり損ねていたいのだ」からだ,と断言している。

 本ブログの筆者は,この本ブログで書いている論題などの関係で,小野のつぎの記述に注目する。

 2006年9月,皇族に男性の「お世継ぎ」が生れたことをマスコミが翼賛報道していた頃,私たちはその不愉快な状況を蹴破るべく街頭でも抗議アピールをおこなった。

 

 そこで私たちの配ったビラが幸か不幸かインターネットの某匿名掲示板サイト愛用者と思われる者の手に渡ったようで,そのビラのスキャン画像が掲示板にアップされた直後から,fufの連絡先としても公開されていた私の携帯電話には怪電話が断続的にかかりはじめ,行動の告知をしていた私の個人ブログは猛烈な勢いで「炎上」しはじめた。

 

 目の前で炎上しつづけるブログのコメント欄を手間取りながらも閉鎖したのちに怪電話も2,3日で収まり,某匿名掲示板上で私が「朝鮮人」だと断定されたころ,ようやくこの小騒ぎは鎮静化した。ウェブ上の匿名のモッブによる相変わらずの差別的で下劣なレッテル貼りには私は辟易した・・・。

 補注)このネトウヨ的に常套の決めつけ話法(手法)が「オマエは朝鮮人あるいは在日だ」というレッテル貼りであった。比較する材料に触れるとしたら,日本に住むアメリカ人=「オマエはヤンキー」だとか,イギリス人=「ライミー」だとか,ドイツ人=「ゲルマンスキー」だとはいわれることはない。なにしろ「朝鮮人だ,在日だ」という一言が決定的な重みをもたされ,相手が日本人であっても誰かまわず全面的に否定し,徹底して排除するための符牒に応用されている。

 

 ネット空間に溢れているその種の口調:お決まりの文句がゴマンと存在する。なにゆえ,そこまで必死になって,他者を排斥・排除するための用語,「朝鮮人」や「在日」というコトバが,攻撃用として重宝されているのか不可解である。

 このあとに続く小野の記述も興味深い。なお,〔 〕内補足は引用する本ブログの筆者のものである。

 私は日本国籍をもち,天皇の鎮座する国で日本人としての特権を享受するものだ。そのような制度を越えたところでも,私たちはこの社会において「使える労働力」であるためには〈日本人〉であることを要求されるし,〈日本人〉であるということは「皇民化」されつづけているということである。そして,この社会の中で不断に行使されている,そのような力を意識せずとも生きていられるものたちこそ〈日本人〉なのだろう。
 
 〔しかし〕われわれフリーターは「皇民化」され損ねる。われわれフリーターは,労働力として使い捨てられてしまう手前で踏みとどまり,「使える労働力」に「なり損ねる」存在であることそのものをまったく別の主体性に転化し,新たな社会性を生みだそうとしている。

 「なり損ねども」のもつエネルギーは危ういものだ。「なり損ねる」ことに耐えられないひ弱な心性に,靖国的なるものや天皇制がつけこんで,その怨念のようなエネルギーを新たな支配の資源にしようとしている。

 だから,その「手前に踏みとどまる」ということを武器に,方法にしなければならないだろう。「なり損ね」て躓いた角度から,斜めに社会を見上げてこそみえる世界があるし,躓きかかった体勢からこそ変な技が繰り出せるかもしれない。

 躓いて思いきりこけてしまって〔いた?〕としても,むしろその時はじめて,もう一度自分の力で歩きはじめるために,何をしなければいけないのかを考えることもできるはずだ(以上,196-198頁参照)。

 

  まつらわぬ者たちの連帯意識

 小野俊彦「フリーターは皇民化され損ねる」は,日本の天皇制を頂点とする体制に向けて〈反抗的に突き差しださざる〉をえなかった「プレカリアート」的な立場を,鮮明に披露している。いいかえれば,21世紀において新たに,そして大量に登場させられてきた〈貧困層〉のなかに投げこまれた〈大学院修了者の1人〉である小野は,日本国「天皇支配体制」に面と向かい対抗する意識を,明確に形成してきた。

 ところが,同じ日本国籍人であっても,小野が「天皇天皇制」に対する疑念を具体化させ,これを否定する思想的な姿勢を明確に提示しだすや,これに対してただちに「匿名である言論を悪用」する大衆=乱衆から送られてきたのが,中傷・非難の暴風であった。しかも,その決着は「小野俊彦は朝鮮人だ」と断定されることによって,つまり奇妙な〈暗黙一致の操作〉をとおしてえられていた。

 その現象に発露しているのは,まっとうな理屈や筋のとおった論理とは無縁の,それも「この国:日本」大衆に固有の〈痼疾的なポピュリズム〉であった。過去,日本帝国が異民族・他国家を支配していた時代における「歴史観の残影」を払拭できないまま,この特質を基調とする「差別の感情」が,いまも懐旧的に再生産されている。21世紀の現段階においてその差別の対象にされる国は,いうまでもなくもっぱら「朝鮮民主主義人民共和国」でしかない。

 「朝鮮のせい」もしくは「朝鮮人のいうこと」だから,「やはりあいつ〔今回では小野俊彦というれっきとした日本人であるが〕は,始めからおかしなことをいっているはずだ」というごとき,その根拠などひとかけらもない断定,それも朝鮮・朝鮮人という〈想定〉を唯一の基準にして,他者を無差別的に断罪する「昨今日本の大衆意識」は,天皇天皇制の歴史,とくに明治以来におけるその自国の姿容に関する最低限の知識=素養を完全に欠いている。それでもなお,ひとまず正当性があるかのような〈断罪の方法〉がまかり通っている。

 小野も触れていたように(190頁),平成天皇自身の立場にあっては,「社会格差の問題については,格差が少ない方が望ましいことですが,自由競争によりある程度の格差が出ることは避けられないとしても,その場合,健康の面などで弱い立場にある人々が取り残されてしまうことなく社会に参加していく環境をつくることが大切です。また,心の中に人に対する差別感をもつことがないような教育がおこなわれることが必要と思います」註記)などといえる資格は,もともとありえないものであった。

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 およそ日本における「社会格差」の実態を観察していえば,この格差の最上層に鎮座まします天皇がわれわれに対していえる文句:おことばは,本来なにもないはずである。というよりも,憲法における天皇の地位にあって,それらは「ありえない」発言である。前段に引用した彼のことば(などもろもろの発言)をめぐってわれわれは,つぎのように平成天皇に問わねばならない。

 ※-1 あなたは「日本において自由競争ともっとも無縁な人間である」のだから,「自由競争によりある程度の格差が出ることは避けられない」などと,口幅ったく述べる資格はないことを,このさいあらためて明確に確認しておくべきである。

 ※-2 あなたが「心の中に人に対する差別感をもつことがないような教育がおこなわれることが必要と思います」といいたいのであれば,まず最初に自分の座するその〈天皇の地位〉を放棄し,1人の人間として生きる立場をとり戻してからでなければならない。しかし,仮りにそうなれたとするとき,いまと同じようにものをいえるかどうか保証のかぎりではない。

 ※-3 自身の誕生日におけることば=発言ではあるにせよ,そもそも憲法に規定された「天皇の地位」に間違いなく抵触するのであるから,そのような「日本社会に対する天皇としての発言」をすることは許されない。このことをよく自覚しておかねばならない。

 ※-4 日本社会に生起する諸現象に関して,いちいち天皇がどうのこうのいったところで,日本の社会のこれからの動向を基本において左右できることは,なにもない。

 補注)今回における令和天皇の2020東京オリンピックの開催「問題」に対する発言(2021年6月24日,宮内庁長官の口を借りたもの)は,どういうふうに反映されるのか? いまのところ,菅 義偉は完全に無視していくつもりである。

 天皇『五輪懸念』vs. 菅『皇室は観光資源』 宮内庁長官『異例の拝察』全真相」『文春オンライン』2021年6月30日,https://bunshun.jp/denshiban/articles/b1310 という記事があった。菅 義偉が皇室を敵視するかのような姿勢を構えている姿勢は,天皇を頭から無視する行動に正直に反映されている。

 

 徳仁が父の明仁に倣い,「天皇の立場」からなにかを発言することによって,この社会の進路に影響を与えうるというのであれば,たとえば早速,「1990年以前に繁栄していたこの国の姿」に立ち返られるように「呪い(まじない)」をしてほしいものである。

 

 多分「この種の呪い:マジナイ」は,「宮中行事」のなかで天皇家の代表たる立場において彼がおこなっているものと信じたいが,そうしているという確たる証拠があるわけではない。敗戦を迎えたさいに彼の祖父や父が,一体全体「なにを最優先したかたちで」祈ったか,昭和史における事実を想起してみれば,その点に関する疑念は一気に解消する。

 付記)以上は「2010年4月24日,更新 2021年7月3日」としての記述であり,あしかけ12年を前後する内容になっていた。

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