日本国憲法に天皇制が残された敗戦後的な事情

             (2010年1月27日,更新 2021年7月17日)

 闇取引的な裏交渉がマック(アメリカ)と裕仁(個人)とのあいだでなされていた歴史の事実を論じてみる,自己保身に長けた昭和天皇の記録

 かつての臣民・赤子を踏みつけにしつつ,自分だけはうまく生き延びてきたつもりだった男の,そしてその後にバレてしまった悪あがき的な画策の記録,靖国神社へのA級戦犯合祀はそうして自分が過去に記録してきた古傷を引っかきまわし,世間にさらす事件であったゆえに,激怒したのである

 

  要点・1 昭和天皇裕仁もただの人だったが,ともかく「国破れて天皇天皇制あり」,「汝,臣民らは踏んだり蹴ったり」されても「死んだ者たちはさておき(?!)」「命あっての物種であるぞよ」,戦時体制史から敗戦後史への移動に関する議論

  要点・2 マッカーサーが日本のエンペラー・ヒロヒトをうまく利用して,日本占領をより円滑に推進できた事情などは,21世紀における日米関係を方向づけた

 

 🌑 前  論  🌑

 3カ月ほど前にネットに出ていた記事に,こういう題名のものがあった。「昭和天皇『生誕120年』新資料発見  総額4400億円…GHQが奪った天皇家の財産リスト」『YAHOO!JAPAN ニュース』2021/4/29 (木) 18:12 配信,https://news.yahoo.co.jp/articles/758b2550d6cebd95bd57df8415b89fab935d4121(元記事『文春オンライン』)。

 敗戦当時まで,天皇天皇家がいかほどに莫大な財産を保有していたかを分析した文献として,1947年4月30日に発行された戸田慎太郎『天皇制の経済的基礎分析』三一書房がある。その後,だいぶ間があってだが,黒田久太『天皇家の財産』三一書房,1966年,さらに比較的最近の関係する著作としては吉田祐二『天皇財閥-皇室による経済支配構造-』評論社,2011年が,関連する分析をさらにおこなっている。

 明治維新後の日本という国家の真相は,最近作の藤巻一保偽史の帝国- “天皇の日本” はいかにして創られた-』アルタープレス合同会社,2021年5月も語っていることであるが,天皇を最頂点に置く国家体制が「疑似古代史的な神国イデオロギー」による国民思想を形成させていくさい,一般の臣民大衆に対する支配体制を維持し,強化するための「前近代的な帝国体制の基盤整備」を狙ってなのだが,この天皇家に対しては莫大な財産を所有させる国家政策を継続してきた。

 だが,1945年8月(9月)の敗戦を契機に,その天皇天皇制の政治経済基盤は,根柢から崩壊するほかなくなっていた。ただし,この前近代的な封建遺制としての天皇天皇制は,GHQ-- General Headquarters:連合国最高司令官総司令部のことで,敗戦後の日本を占領・管理する最高司令部として東京に設置された--が,一括的に占領し,統治するさい,そのもっとも肝心な対象に位置づけられていた。

 敗戦の年の9月27日,それまで大日本帝国の現人神であった天皇裕仁は,みずからマッカーサーアメリカ大使館に訪ね,この時,2人のあいだでなにが語られたについてはいまだに真偽の解釈が分かれる〈密談〉も含む会見(対話)がなされていた。敗戦後史における日本政治の舞台では,その会談を介して,天皇自身がGHQのパペット的な人物として演技することを,暗黙裏に了解したと観ることができる。

 要は,マッカーサーはそれ以後,日本を占領統治するためにはこの天皇を人民たちの上に据えておくことが肝要であり,得用であると認識した。ともかく,Macは朝鮮戦争の最中に解任されるまでほぼ5年間,GHQ占領統治下の日本において,「天皇の代役的でかつ君主風な共演者である補完的な役目」を存分に果たしてきた。

 さて,ここでの関心事は,明治維新以来,天皇天皇家のための集積されていた財産がいかほどに莫大であったかという話題であった。この話題について21世紀のいまになってだが,あらためて関連する記事が文藝春秋系ネットでも公表されていた。

 『YAHOO!JAPAN ニュース』に転載されたこの『文春オンライン』の該当記事が語った「明治謹製」になる〈創られた天皇制〉の財政基盤は,いったいどのような実体を有していたのか,この話題をさきにしっておくことが有意義である。


   ◆「昭和天皇『生誕120年』新資料発見 総額4400億円…GHQが奪った天皇家の財産リスト」◆
 =『文春オンライン』2021年4月29日,https://bunshun.jp/articles/-/44957(元記事『文藝春秋』5月号)=

 a) マル秘とされた「予算案」

 手元に,日本銀行を筆頭に26社が並ぶ手書きのリストがある。昭和11〔1936〕年に皇室が所有していた株式のリストで,所有株数や払込額も書かれている。これが収められているのは『昭和十一年度 宮内省豫算案』という極秘文書だ。ペンで「内大臣」とあるから,当時の牧野伸顕内大臣に説明するために書かれたものだろう。

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 このリストによれば,皇室が株式に払いこんだ金額は総額約6230万円。現在の貨幣価値で約1800億円(大卒初任給などと比較して2800倍に。以下同)で,ここからえられる配当収入は約150億円になる。所有株26社のほとんどが「特殊銀行」か「国策会社」だ。

 特殊銀行とは,特別な法律を基に設立した政府系金融機関のことで,日本銀行を含めて8行あるが,このすべてを所有している。国策会社は,南満州鉄道のように,国策を推進する目的で設立された半官半民の会社である。いずれも戦前の日本の屋台骨だ。

 b) 総額4400億円の資産

 つぎの解説図は,宮内省がこれら有価証券の購入時期を表したもので,戦前の皇室財産について長年研究してきた大澤 覚氏の『戦前期皇室財政統計―内蔵頭名義の公社債・株券』をもとに作成したものだ。

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 これ以外に国債,地方債,社債の配当,それに預金利息を加えると264億円。その他に新潟県に匹敵する面積の「御料林」から上がる利益が425億円で,収益の合計839億円が昭和11〔1936〕年度にみこまれる皇室の収益だ。

 ここへ国庫から繰り入れる皇室費が年に126億円あり,これらを合わせた965億円が昭和11年度の皇室予算となる。ちなみに,この年に皇室がもっていた有価証券や御料林の立木といった「財本」は総額4400億円にもなった。

 c) 現在皇室費と比較してみると……

 当時の皇室には5000人近い職員がいた。この予算で全員の給料はもちろん恩給まで払っていたのは,いまと違って,戦前の皇室財政は自己完結していたからだ。これは,議会の動きに皇室が左右されないためである。

 潤沢な資金だから皇室費もいまとは比較にならない。現在の高円宮家の皇族費は3690万円だが,当時の皇族費秩父宮家で約3億6000万円。現在,眞子さま皇籍離脱で渡される約1億4000万円が問題になっているが,当時は臣籍降下すると貰えたお金は28億円だった。

 まるでミニ国家のような巨大組織だが,敗戦後,日本を占領したGHQによってことごとく解体された。血の系譜を狭めるために11宮家が皇籍離脱させられ,資産のほとんどが課税というかたちで国庫に入れられた。昭和20年にGHQが公表した皇室の資産は15億9061万円。いまなら4兆円になるだろう。ここから現金1500万円だけ残されて戦後の皇室が始まったのである。

 補注)ここに出ている「昭和20年にGHQが公表した皇室の資産は15億9061万円」という金額は,戸田慎太郎『天皇制の経済的基礎分析』三一書房,1947年だと,74-76頁の記述中に出てくる。

 d) なお,奥野修司氏による「GHQが奪った天皇家の財産 」は『文藝春秋』5月号および『文藝春秋 digital』に掲載されている。

 

  昭和天皇は本当に日本国民を考えて敗戦後を生きてきたか-そのような妄想を完全否定する歴史上の証拠-

 本ブログの筆者は昨日〔ここでは,2010年1月26日(現在は未公表状態の記述だが)〕の記述において,こう論及した。

 「敗戦後もなまじ天皇家が残存させられたために,しかも占領軍による日本統治の都合という最大の理由もあったために,憲法第9条との作為的な〈矛盾の均衡〉のなかで存続させられてきた天皇天皇制=皇室のありかたは,日本国憲法において一番説明しにくい暗点を提示しつづけてきた」。

 『昭和天皇の「沖縄メッセージ」』(1947年9月20・22日)という文書の存在が,いまでは明らかにされている。敗戦後,日本国憲法が制定(1946年11月3日),施行(1947年5月3日)される過程において,日本国の象徴天皇になっていたはず裕仁は,改正されて新しくなった憲法において規定された「〈象徴〉としての自身の立場」など平然と無視し蹂躙する闇交渉:裏取引を,アメリカ国家と直接におこなってきた。この明白に憲法に違反していた彼の行動に関する歴史の記録が,20世紀も最後の10年になったころには白日のもとに晒されていた。

 1) オキナワを犠牲にしてアメリカに自分を護ってもらおうとした天皇裕仁

 以下に紹介する2つの文書をみれば,昭和天皇が日本国民をないがしろにしただけでなく,日米政府間の正式な交渉経路も完全に排除したかたちで,自分の地位の保全のためにだけ汲々とする働きかけをしていた事実,分りやすくいえば,敗戦に打ちひしがれていた人びとを横目にしながら,彼のためだけの「非常にセコイ,我利私欲のための政治交渉」を記録していた事実=気持が読みとれる。

 なお,原資料としての「もとの英文・文書」は,沖縄県公文書館が公開している。ここにはその日本語訳を引用する。

 総司令部政治顧問シーボルトから国務長官宛の書簡

『主題:琉球諸島の将来に関する日本の天皇の見解』

 国務長官殿 在ワシントン

 

 拝 啓

  天皇のアドバイザーの寺崎英成氏が同氏自身の要請で当事務所を訪れたさいの同氏との会話の要旨を内容とする1947年9月20日付けのマッカーサー元帥あての自明の覚え書きのコピーを同封する光栄を有します。

  米国が沖縄その他の琉球諸島の軍事占領を続けるよう日本の天皇が希望していること,疑いもなく私利に大きくもとづいている希望が注目されましょう。また天皇は,長期租借による,これら諸島の米国軍事占領の継続をめざしています。その見解によれば,日本国民はそれによって米国に下心がないことを納得し,軍事目的のための米国による占領を歓迎するだろうということです。

 敬 具

   合衆国対日政治顧問 代表部顧問
    W.J.シーボルト
    東京 1947年9月22日

 

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 『琉球諸島の将来に関する日本の天皇の見解』を主題とする在東京・合衆国対日政治顧問から1947年9月22日付け通信第1293号への同封文書

   連合国最高司令官総司令部外交部  1947年9月20日

 マッカーサー元帥のための覚え書

 

 天皇の顧問,寺崎英成氏が,沖縄の将来に関する天皇の考えを私に伝える目的で,時日を約束して訪問した。

 寺崎氏は,米国が沖縄その他の琉球諸島の軍事占領を継続するよう天皇が希望していると,言明した。天皇の見解では,そのような占領は,米国に役立ち,また,日本に保護をあたえることになる。

 天皇は,そのような措置は,ロシアの脅威ばかりでなく,占領終結後に,右翼及び左翼勢力が増大して,ロシアが日本に内政干渉する根拠に利用できるような “事件” をひきおこすことをもおそれている日本国民の間で広く賛同を得るだろうと思っている。

 

 さらに天皇は,沖縄(および必要とされる他の島嶼)に対する米国の軍事占領は,日本の主権を残したままでの長期租借――25年ないし50年あるいはそれ以上――の擬制にもとづくべきであると考えている。

 天皇によると,このような占領方法は,米国が琉球諸島に対して永続的野心を持たないことを日本国民に納得させ,また,これによる他の諸国,とくにソ連と中国が同様の権利を要求するのを阻止するだろう。

 

 手続については,寺崎氏は,(沖縄および他の琉球諸島の)「軍事基地権」の取得は,連合国の対日平和条約の一部をなすよりも,むしろ,米国と日本の二国間条約によるべきだと,考えていた。

 寺崎氏によれば,前者の方法は,押しつけられた講和という感じがあまり強すぎて,将来,日本国民の同情的な理解を危うくする可能性がある。

   W. J. シーボルト

 これら文書(短くは「天皇メッセージ」と称されている)については,豊下楢彦の研究がくわしい分析・解釈を与えてきた。その詳細については,豊下楢彦『安保条約の成立-吉田外交と天皇外交-』岩波書店,1996年,同『昭和天皇マッカーサー会見』岩波書店,2008年などの参照を薦めておきたい。

 補注)その後(2010年以降)に豊下楢彦は,『昭和天皇の戦後日本-〈憲法・安保体制〉にいたる道-』岩波書店,2015年を刊行した。豊下はまた,本書以外にも関連する著作を,共著などで何冊か公表してきた。

 以上の書簡をとおしても理解できるのは,敗戦した日本国をアメリカに全面的に委ねる〔=売り渡す〕代わりに,すでに確保されていたはずの「自分の天皇としての地位(象徴)」を,より確固としたものにしたかった昭和天皇の意向=〈個我の心情〉である。

 2) 第2次大戦後における東西対立構造を恐怖した昭和天皇-なにを恐れ・怖がっていたのか? 日本国民に対する売国奴的な裏切り行為-

 前掲の文書(「天皇メッセージ」)はとくに,第2次大戦後に発生した東西対立のなかで社会主義国家のロシア〔ソ連邦〕などをひどく恐怖した裕仁天皇の姿を彷彿させるものである。アメリカの軍隊に日本を占領してもらっているが,いずれ日本国が占領統治を解かれたあとも,どうぞ「オキナワ」などを「半世紀以上の長期間になってもいいです」「貴国の基地にしておき存分にお使いください」と,昭和天皇がいっていたことを説明する〔=証拠づける〕文書である。

 敗戦後の昭和天皇はそもそも,戦後における政治過程からしてこのように「旧日本帝国時代の君主」の気分を,密かにではあってもまだ剥きだしにしており,アメリカとの直接交渉を,それも日本国政府の主体的な立場をもってする正式な交渉経路を無視したかたちで,個人で勝手に敢行していた。その姿をみれば,かつては「現人神の天皇であった彼」が,いかにちまたの人間と同じく「単に利に聡い」行為を,それも必死になっておこなっていたかが理解できる。

 前掲の文書において決定的に重要な特徴は,昭和天皇は当時すでに憲法上の「象徴」となることが決まっていた〔1947年9月の時点となればすでに,新憲法が公布(1946年11月3日)・施行(1947年5月3日)のあとであった〕けれども,こちらの経緯・事情などどこ吹く風といった態度で,戦前体制期における君主感覚(「主権在君」)の延長線上において,あるいはそれをはるかに超越したかのように,しかもあくまでも「自己保身=私利私欲」のために懸命に画策していたことに,みいだせる。これほどエゴを丸出しにしていた天皇裕仁の姿は,どうみてもたいそうみぐるしい,しかも「怜悧な〈乱心〉」ぶりであった。

 3) 新憲法の基本精神を破壊していた天皇の行為

 昭和天皇はまた,そうした闇交渉をとおしてはあたかも,自分が日本国民の代表であるかのような立場でも言動してもきた。もちろん,これを利用したアメリカ側の狡猾で実利的な態度にも,けっしてみのがすわけにいかない重大な問題があった。いうなれば「天皇個人」と「アメリカ政府」とのあいだで,おたがいに《身勝手な共作共演》が実現していた。

 しかし,そうした関係の構図のなかに表現されたごとき,「アメリカ政府の国務省」に対する「天皇という個人」といった『双方の立場』は,政治的交渉関係のありかたとして観察するとき,かなり解しがたい対照的な特性を呈示していた。

 オキナワにはいまだに,アメリカの日本占領地であるかのように軍事基地が配置されている。アメリカの属国地であるかのような風景が,オキナワのあちこちにみられる。この沖縄県にある米軍基地の移転問題が,最近では新聞紙上をにぎわす大きな問題である。昭和天皇にとって「オキナワ」とは人身御供に差しだせる程度の価値しかもたない「日本の島々」のひとつにしか過ぎなかった。琉球人はいまも基地問題で苦しめられている。

 天皇裕仁は敗戦直後,アメリカと交渉する地位にはなく,もちろんその権限がないにもかかわらず,アメリカに対して「オキナワ」などを「25年ないし50年あるいはそれ以上」お使いくださいと申しでた。そういわねばならなかった理由は,彼が「自分のモノ」だとまだ思いこんでいた日本の全体を,こんどはアメリカ軍に護ってもらうためであった。

 この21世紀にもなってもなお,日米間の戦後史〔日本にとっては敗戦・アメリカにとっては勝利〕関係が,正常かつ対等な間柄をもってするところまで転換できていない。こうした歴史的な推移に至らしめる起因の重大なひとつをわざわざ提供していたのが,ほかならぬ「昭和天皇」=「個人」であった。

 敗戦に淵源する昭和天皇の戦争責任は限りなく大きい。日本の歴史においてこの事実は特筆大書されておかねばならない。われわれは,琉球人が「君が代」を歌いたがらず「日の丸」を揚げたくなかった〈歴史の背景〉を,よくよく理解しておくべきである。だが,けっして他人事ではない。沖縄県以外にも在日米軍基地が配置され存在する都県では,騒音問題などで生活環境を大きく毀損されている住民たちが大勢いる。

 

  日本国憲法の成立事情〔その1:天皇を日本統治の道具に使うために彼の戦争責任を免訴した〕

 古関彰一『憲法九条はなぜ制定されたか』岩波書店,2006年は,こう論じている。

 GHQが敗戦後の日本において憲法制定を急いだのは,1946年2月末の極東委員会発足を控えていたからだといわれている。だが,同年3月6日の日本政府案〔憲法改正草案要綱〕発表以後,GHQは急がなくなる。極東委員会発足と同じ2月26日「昭和天皇の退位について皇族方はこぞって賛成」という新聞記事が出ていた。

 マッカーサーはそれまでには,天皇の戦争責任を問う国際世論に抗して「天皇の戦争責任免罪」「天皇制の存続」を決めていた。天皇制存続のみこみが出てきたところに,天皇の退位問題がもちあがり,マッカーサーの努力を無にする恐れが出てきた。

 アメリカ政府に対するGHQの報告は,この憲法草案が《昭和天皇の意思》で積極的に作られた点を強調している。それは,第1条で天皇制を存続させ,1946年5月3日から始まる東京裁判天皇の戦争責任を問わず,第9条の戦争放棄は一体のものとするという基本線であった。

 註記)「No.8 憲法九条はなぜ制定されたか 岩波ブックレット(2006/4/5発行,55ページ,480円+税)」『憲法と平和を考える100冊』2009年11月15日,http://ttakitttt.seesaa.net/article/133012424.html  参照。

 古関彰一は,オキナワをアメリカに担保して自分の地位を保守できた昭和天皇が,日本国憲法の制作過程においても裏舞台で取引していた事実,しかもそれによって「憲法の第1条から第8条と第9条との組合せ」が制作された事実に言及している。

 

  日本国憲法の成立事情〔その2:その問答形式による理解〕

 ここで,以下に紹介するのは「日本国憲法誕生の真実」の題名をもって交わされた「問答の内容」である(→2007年4月25日公表「この人に聞きたい  古関彰一に聞いた(その1)」より。最後部分の〈断わり〉も参照)。

 敗戦後,日本国憲法はどのような経緯をたどって生まれたのか,当時,人々はそれをどう受け止めたのか。日本国憲法成立の過程について,この「憲法学者古関彰一との問答形式」を借りる形式で考えてみたい。

※人物紹介※ 古関彰一〔こせき・しょういち,1943 年東京生まれ〕は早稲田大学法学部卒業後,和光大学教授などを経て 1991年から獨協大学法学部教授。専門は憲法史。著書に吉野作造賞を受賞した『新憲法の誕生』(中公文庫),『「平和国家」日本の再検討』(岩波書店),『憲法九条はなぜ制定されたか』(岩波ブックレット)がある。

 1) 日本国憲法「GHQの押しつけ」だったか

 【編集部】 「日本国憲法の成立過程」は一般的にこう語られている。敗戦後,GHQは日本政府が作成した憲法改正要綱の「松本案」〔国務大臣松本烝治が中心に作成した憲法改正要綱。日本政府案としてGHQに提出されたが,保守的に過ぎると却下された〕を拒否したうえで,GHQ作成の案を日本政府に「押しつけた」。

 また,戦後に民間の「憲法研究会」〔高野岩三郎の呼びかけにより結成した研究集団。1946年12月に独自の「憲法草案要綱」を日本政府とGHQに提出〕が作成した,その憲法草案の内容がGHQの憲法草案に影響を与えた可能性が示唆されてきた。

 【古 関】 GHQは憲法研究会の憲法草案を非常に民主的だとして高く評価していたから,おそらくはGHQが作成した草案にもその内容が摂取されていた。ところが,GHQ内部による「憲法研究会の案は素晴らしい」とした肯定的な評価は,当時日本国民に向かっては公表していない。

 GHQによる日本の占領は直接統治をせず,天皇と日本政府を通じておこなう間接統治にしてあった。新憲法を作るときも同じであり,あくまで主体は日本政府とされた。GHQが日本国民に対して直接「憲法研究会案は素晴らしい」とはいわなかったのは,憲法作成の中心が「天皇や日本政府」ではなく「民間団体の憲法研究会」に移ってしまってはまずかったからである。

 GHQは日本を占領統治するために「天皇の権威」を絶対に維持したかった。だから,憲法を制定させるときも,明治憲法の改正手続にしたがい帝国議会で審議させ,天皇による勅語を出させる工夫をした。GHQとくにマッカーサーが大事にしたのは,天皇および日本政府の権威をかえないことであった。

 【編集部】 GHQとマッカーサーは,天皇と日本政府の権威を守るために,そうした「面倒」な形式・手順をとった。

 【古 関】 GHQは憲法案を日本政府に手渡すときに,これを受けいれないならば日本国民に直接公表するといった。GHQのこの決意は,その内容を必らず日本国民に受けいれられるという自信に裏づけられていた。すでに憲法研究会案を読んで参考にしてもいた。

 天皇制を非常に支持する人たちに限って,憲法はGHQが日本国民に押しつけたと批判する。けれども,象徴天皇制を残した憲法を「受けいれないと天皇制をなくかもしれない」と,やや強引に推しすすめたからこそ天皇制は残った。この史実を理解しないで押しつけだといいはるばかりでは,天皇制を残してくれたGHQに感謝もしないのは〈不敬罪〉? という冗談さえ成立する。

 【編集部】 日本政府の草案が否定された理由はなにか。「憲法押しつけ論」はいつごろ,どこから生まれたものか。

 【古 関】 「押しつけ」ということばは,1955年に自由民主党が結党したのちに出てきた。この翌年,内閣のなかに憲法調査会が組織されるが,ここでGHQに拒否された日本政府案を作成した松本烝治が証言をして,自分がGHQと渡りあった屈辱的な体験を話して「この憲法は押しつけだ」といった。

 もっとも,松本は近代憲法の基本精神を理解しておらず,天皇を絶対とする国家観,ヨーロッパであれば19世紀流の絶対君主制国家の保守的憲法観しか念頭になかった。要は,時代にみあった憲法をつくる能力がなかった。

 2) 近代憲法の根本理念に無縁だった日本の憲法学者

 【編集部】 松本案は近代憲法ではなかった。

 【古 関】 日本国憲法21条には「表現の自由はこれを保障する」とある。しかし,明治憲法ではそれを「法律の範囲内で」だけ認める。松本案もそれを踏襲していた。これは近代憲法では許されない考えであって,GHQも居丈高に「直せ直せ」と要求したはずである。

 その点を思いだして「屈辱的な体験だった」という。しかしGHQは,自分たちの案をそのまま採用しろといったわけではない。たとえば,ヨーロッパの発想になる25条「生存権」は,「ドイツのワイマール憲法にはある」と主張した社会党国会議員の意見を受けいれている。

 【編集部】 受けいれられなかった部分と,受けいれられた部分がある。

 【古 関】 冷静に回顧しなければならない。日本側の案が受けいれられなかったのは,近代憲法の理念に反した部分であって,松本案が日本政府の案だから駄目という事情ではなかった。GHQから,いったいなにを押しつけられたといえば,近代憲法を押しつけられたのである

 日本国民にとっては押しつけではなく,人権が広く認められる憲法・平和に生きられる憲法であった。しかし,国民にはいいと思われるその憲法が権力者は困る〈近代憲法〉だから,この憲法を「押しつけられた」と非難してきた

 【編集部】 「押しつけられた」という言葉だけが1人歩きしてきた。

 【古 関】 権力者のことばがマス・メディアを通じていつの間にか広げられ,多くの国民が「押しつけられた」と思わせられてきた。誰がなにを押しつけられたのか,あらためて再考しなければならない。

 3) 憲法の改正と制定の相違点

 【編集部】 「憲法改正」か「新憲法の制定」か。敗戦後の日本国憲法成立過程は「新憲法の制定」ではなくて「明治憲法の改正」であった。ところが,自民党小泉純一郎を本部長として作ったのは「新憲法制定推進本部」であって,2005年に発表されたのは「新憲法草案」である。改憲改憲といいながらなぜか「新憲法制定」をかかげている。

 【古 関】 「憲法の改正」と「制定」は違い,もともとある憲法の改正手続を踏むか否かにある。現在の日本国憲法は,明治憲法憲法改正手続に則って昭和天皇詔書を出して発議し,帝国憲法改正案として帝国議会に出されたゆえ「改正」である。自民党はいままで,日本国憲法の改正手続を経て新しい憲法を作ると主張していて,国民投票法案を制定しようとした。これも「改正」である

 【編集部】 自民党の「新憲法制定」という表現は矛盾する。

 【古 関】 そこに最大の問題がある。憲法を改正する手続にあっては,現行の日本国憲法との関連性を説明しなければならない。自民党による憲法「改正」の方向は「現在の憲法の平和主義」の引き継ぎを本当は嫌がっている。だから,憲法改正推進本部ではなくて新憲法制定推進本部を置き,憲法改正案ではなくて新憲法草案を作る。これは事実上「制定」である。

 【編集部】 憲法の制定であれば基本的に,革命やクーデターで新政権が誕生したときにしかありえない。

 【古 関】 自民党は戦後の60年を全部無視したい日本国憲法の効能を誇りとはできず,その60年を心の底では「日本という国にあるまじきもの」と思いこみ,全部なかったことにしたい。その執念には驚かされる。

 補注)2012年12月26日に発足した安倍第2次政権が「戦後レジームからの脱却」を叫んだのは,この世襲政治屋まったく旧態依然であるポンコツな政治精神にその事由があった。もっとも,この安倍晋三にしても在任中,対米服属でしかない米日関係のなにひとつ動かせていなかった。

 それどころか彼はむしろ,そうしたアメリカに対する日本の従属関係を固着化させるためであったかのように,7年と8カ月ものあいだ日本国首相の座に就いていた。こうなるとこの安倍は「非国民」どころか「売国奴」と指弾されて,なんら不思議はなく当然であるというほかない。

 4) 日本における民主主義思想の伝統

 【編集部】 私たちがすべきこと,なにができるのか。

 【古 関】 憲法研究会の中心成員であった憲法学者鈴木安蔵(1904~1983年)は,治安維持法違反事件第1号であったが,政府からの弾圧を受けながらも明治時代の自由民権派が作った憲法の研究をしてきた。自由民権運動は長い間弾圧されて社会からは認められなかった。しかし,何十年かして戦後になって認められた。

 先人が苦難をかいくぐって守り,育ててきた民主主義の思想を受け継ぐことは,つぎの時代へと受け継がれていく条件にもなる。権力者は,平和や民主主義を唱える人をいくらでも弾圧はできる。しかし,思想を殺すことはできない。思想は死なず,必らず地下水脈となって受け継がれていく。

 鈴木安蔵は,大正デモクラシーの代表的論客・政治学吉野作造(1878~1933年)に出会って非常に力づけられた。その死後は法学者尾佐竹 猛(1879~1946年)が鈴木を支えて明治憲法の研究をやった。

 さらに尾佐竹の死後は,前述にもあった憲法研究会の設立者・社会統計学高野岩三郎(1871~1949年)が鈴木を誘って憲法研究会を立ち上げた。このように1人ひとりの力はどんなに小さくても,思想はつながっていく。

 補・注記)以上の問答は,http://www.magazine9.jp/interv/koseki/koseki.php より。なお,このインタービュー記事は〈話しことば〉での問答:やりとりなので,冗長な表現にはあえて相当手をくわえ,文章の形式にかえて抄約的に参照した。そのさい文意を壊さぬよう細心の留意も払った。

 

  騙しつづける天皇天皇家と,そして,騙されている臣民あるいは国民との関係

 以上の記述をおこなってきて痛感することがある。それは,敗戦後の政治過程において昭和天皇が,いかに手前勝手に自分の利害だけで妄動していたか,しかもその結果がその後における日本の政治に大きく影響しており,日米軍事同盟関係を方向づけていたという事実である。

 敗戦後によくも悪くも変身していたはずの天皇裕仁が,日本帝国から日本国に立場が変化したことなどおかまいなしに,個人的なかけひきでもって日米関係が構築されていく政治過程に関与・介入していた歴史は,今後あらためて厳正な裁き(審判)を受けるべき問題である。その意味でも,戦争責任を逃れえた天皇裕仁が戦後において描いてきた彼自身の生きざまとしての軌跡は,未来永劫に消し去ることのできない〈負の歴史の記録〉を残した。

 敗戦後,皇室御用の新聞記者として忠実に活躍した新聞記者藤樫準二は, 『陛下の “人間” 宣言-旋風裡の天皇を描く-』同和書房,昭和21年9月や『千代田城-宮廷記者四十年の記録-』光文社,昭和33年を公表して,昭和天皇のイメージ変換に熱心に協力していた。とくに前著は,宮内省高官から情報を提供されたり,出版の費用まで出してもらっていた。

 宮内庁が当時,それほどまでして変身させたかった大元帥裕仁天皇の旧来の姿容(イメージ)ではあったけれども,第2次大戦後の日米軍事同盟関係を基礎とする両国主従の地位関係を決定的にした闇取引を,彼はアメリ国務省と裏舞台を介してじかにおこなっていた。

 その意味でも藤樫準二のように,敗戦後「天皇を戦争から引き離そうとする宮中キャンペーンの一翼を担」った,すなわち,まったくに「批判的姿勢を欠く」どころか,事実さえも隠蔽して糊塗する役目を果してきた〈ジャーナリスト〉は,ともに並べて同罪というほかない。

 なかんずく,藤樫準二は敗戦直後,「役人や国民に示された貴重な民主化の第一歩」を記録したのが昭和天皇であると 100%間違いなしの大嘘をついたうえで,手放しで無条件に天皇を称讃する書物『陛下の “人間” 宣言-旋風裡の天皇を描く-』などを執筆した。藤樫は1974年,「国家〔=皇室?〕への貢献」により勲章を授けられた。この世においては,いつでもその手の皇室御用しか頭にない似非マスコミ人などがいる。

 現在でも,テレビ放送においては「皇室ヨイショ番組」を,いくらでも堪能することができる。われわれ庶民は,この種の皇室番組を耳目をこらしてよく観察して鑑賞するのがよい。天皇とその一家はけっして「聖家族」ではない。ただの人間らしい家族たちである。皇室の物語だからといって美辞麗句に粉飾するマスコミの報道姿勢は,ある意味での罪作りな習性になるものともいえる。

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