「産業遺産」登録騒ぎ,「富国強兵」の歴史だけをみて「貧国弱民の汚史」をみない歴史遺産観,2020東京オリンピックの開催問題に関連させて吟味する帝国主義思想の残滓問題

           (2021年7月24日から2014年7月8日の記述へ)

 制度疲労もきわまったオリンピック東京大会は中止が好ましく,今後,五輪は廃止にするのが最適な判断,今回コロナ禍の最中に強行開催する国際大運動会,主催者の日本側に隠匿されていた「他者への偏見・差別」は,完全に五輪憲章などク▼食らえの精神,もっとも五輪貴族用の運動会に21世紀的な歴史的意義はもとよりなし,この議論の続編となる本日の話題が『軍艦島


 ※-1 汚濁と不信にみまれた2020東京オリンピックの開会式が今夜おこなわれるという,だが,そのアホウ・タロウ的なバカらしさときたらミゾウユウ,莫大な予算をかけて選手たちに跳んだりはねたり走ったりをさせるのが,日本国東京都のこの熱暑の時期に敢行するのだから,スポーツ医学的・運動科学的に危険がいっぱいなのはあえて触れるまでもない事実も事実……

 ※-2 人間の側からは気象条件をアンダーコントロールにできない点は,アベ君に訊くまでもない自然現象の側のことがらであり,当然かつ厳然たる事実:真実である,JOCは,2013年9月に開催されたIOC総会において,「2020東京オリンピック招致」を勝ち取るために説明した日本・東京の7月下旬から8月上旬についていわく,

 「この時期の天候は晴れる日が多く,かつ温暖であるため,アスリートが最高の状態でパフォーマンスを発揮できる理想的な気候である」

 補注)アベ君は今回の五輪開会式には欠席した。ところで,「 安倍前首相『反日的な人が五輪開催に強く反対』月刊誌の対談に」『毎日新聞』2021/7/3 09:20,最終更新 7/3 22:45,https://mainichi.jp/articles/20210703/k00/00m/010/034000c が,こう報じていた。この安倍晋三前首相も「反日的」と判断したところで,わずかも無理はなさそうである。

 安倍晋三前首相は発売中の月刊誌『Hanada』で,東京オリンピックパラリンピックについて,「歴史認識などで一部から反日的ではないかと批判されている人たちが,今回の開催に強く反対している」と批判した。具体的には共産党や5月の社説で中止を求めた朝日新聞を挙げた。

 東電福島第1原発事故現場はアンダーコントロールだ,ノープロブレムだと,これ以上ない大ウソまでついて,2020東京オリンピックの開催招致に一国首相として努力した人が,いまごろになって,このように血迷った発言をする資格はない。暗愚である世襲3代目の前首相に固有であった人間・人格性の悪質性があらめて確認されると同時に,その無責任な政治屋としての姿勢には呆れるほかない。

 ※-3 この中学生が聴いてもウソだと分かるデタラメ,7月下旬から8月上旬の東京は「アスリートが最高の状態でパフォーマンスを発揮できる理想的な気候である」という大ウソを語らせたJOC側も大いに問題であったが,これを聴いたうえでなおかつ疑問を投じなかった,その総会に出席した各国IOC理事連中も,それ以上に奇怪かつ面妖な人びとであった。

 当時のJOC会長竹田恒和が招致のためにアフリカ人のIOC関係者に賄賂を贈ったという被疑が,フランス捜査当局によってかけられており,これが原因で竹田は会長職をしりぞいていた

 ともかく昨日「7月23日」夜に開会式が実行されたが,2020東京オリンピックの開催ほど,準備段階からトラブルだらけに推移してきた五輪もなかった。前日の22日にも「ユダヤ人差別(ホロコーストを茶化す言辞)」にまつわる五輪企画関係者の発言が告発されるなど(つぎの※-4のこと),しっちゃかめっちゃかの汚リンピックないしは誤倫の開催になっている

 ※-4 東京オリンピックパラリンピック組織委員会は〔7月〕22日,五輪開会式(23日)で演出担当を務めている小林賢太郎氏(48歳)が過去にユダヤ人大量虐殺(ホロコースト)をコントの題材にしていたとして解任した。橋本聖子会長は22日の記者会見で「関係者からの指摘を受けて,早朝に確認した。すぐに協議するように指示したが,それまでは申しわけないがまったく情報が取れていなかった」と述べた。

 米国のユダヤ系人権団体「サイモン・ウィーゼンタール・センター(SWC)」は21日に小林氏の過去の発言について非難する声明を発表。中山泰秀・副防衛相は22日未明,自身のツイッターに「早速サイモンウィーゼンタールセンターと連絡を取り合い,お話をしました」と投稿し,みずからSWCに連絡したことを明らかにしている。

 要点・1 オリンピックの開催様式,その基本型はナチスに多くを倣っている

 要点・2 なぜ,この期に及んで「2020東京オリンピック」に対して,あらためてケチのつく不快な話題が発掘されているのか,もっと幅広く吟味する必要があった

 要点・3 20世紀日本の矛盾・自家撞着としての汚泥を一括的に披露するはめになったこの五輪開催のみっともなさ

 要点・4 以上の議論〔昨日:2021年7月23日など〕を受けて,本日〔24日〕は長崎県軍艦島の問題を議論する 


 🌑 前  論  🌑

 戦争責任・戦後補償などの問題に鈍感でありつづけている日本の立場を指摘する報道が,昨日の『朝日新聞』朝刊に出ていた。

 その7月23日の『朝日新聞』朝刊には,「軍艦島めぐり『遺憾』決議 犠牲の説明『不十分』 世界遺産委」という見出しの記事が掲載されていたが,本日24日の同紙朝刊7面「国際」にもつづけて,つぎの関連記事が出ていた。

 その見出しは「対応先送り,3度目決議  軍艦島世界遺産委『遺憾』採択」となってはいるものの,世界遺産として長崎県軍艦島が,その後にあつかいにおいて問題を残していた事実,その経過や事情が説明されている。

 このたびの「2020東京オリンピックの開催」が1年遅れで開会式が実施される前日:22日まで,実は,日本社会のなか深くに潜伏していて,機をうかがってはたびたび浮上する「他国や異民族に対する偏見と差別の精神構造」が,いってみればモグラ叩きをしなければならないかたちで出没するという,たいそうみっともないこの国の政治社会的な特性が,その五輪組織委員会関係のなかからであったが,いまさらのように出没していた。

 軍艦島の問題,つまり,この戦時体制期に関して特殊な歴史をもつ石炭採掘用の島を,早く完全に世界遺産として認めるかたちにしてほしいという日本側の希望が,現在の段階ではなお留保を付されているというニュースであった。記事を以下に引用する。

 f:id:socialsciencereview:20210724074602j:plain

 世界文化遺産に2015年に登録された軍艦島長崎県端島)をめぐり,ユネスコ(国連教育科学文化機関)の世界遺産委員会が「強い遺憾を示す」とする決議を〔2021年7月〕22日に採択した。朝鮮半島出身者らが強いられた労働についての説明が不十分なままだと判断したためで,登録時の約束を果たすよう日本に強く迫った格好だ。

 決議採択後,展示内容が不十分と認定された「産業遺産情報センター」(東京都新宿区)の加藤康子(こうこ)センター長は声明を公表した。「情報センターの役割は正確な1次史料を提供することで,解釈は個々の研究者に委ねるべきだ」と主張。「政治が歴史に介入する悪循環をなくす」ことをめざすと訴え,「決議を真摯に受けとめ,今後も誠実に履行する」とした。

 日本政府は「約束した措置を含め,誠実に実行して履行してきた」(加藤勝信官房長官)との立場だが,22日の世界遺産委員会で日本が意見表明することはなかった。

 世界遺産委員会が「強い遺憾」という表現を用いてまで日本に対応を促したのはなぜか。同委員会が軍艦島を含む世界遺産「明治日本の産業革命」について決議したのは今回が3度目で,対応の先送りを重ねていると判断されたためだ

 最初の決議は,2015年7月の登録時。「歴史の全体像が理解できるような説明戦略」をとるよう日本に促した。この時日本は「意思に反して連れてこられ,きびしい環境の下で働かされた多くの朝鮮半島出身者らがいたことなどを理解できるような措置を講じる」と明言していた。その後,2018年の委員会でも,2015年決議を完全に履行するよう日本に要求していた。

 もうひとつの背景は,今〔2021〕年6月に行われた情報センターの現地視察にありそうだ。今〔7〕月公表された報告書には,世界遺産センターが派遣した専門家が感じた違和感がにじむ。

 専門家から「犠牲者を記憶にとどめる措置」を問われた情報センターの責任者は,「(日本人も外国人も被害者になった)炭坑での事故といった情報が展示内容に含まれている」と返答したという。さらに情報センター側は「(調査で元住民らに)インタビューした全員が,軍艦島で労働を強いられた人はおらず,(島の住民は日本人も外国人も)いい経験,悪い経験を分かち合ったと述べた」と説明したという。

 補注)「島の住民」のうち「日本人はどちらかというといい経験」,「外国人(朝鮮人)〔ただし当時は帝国臣民であったが〕)は悪い経験」をしてきた事実を,認めたくない日本側の解釈は世界遺産委員会側に通用していない。

 報告書は「朝鮮半島出身者らが意思に反して連れてこられ労働を強いられたと(日本側が)認識するのはむずかしそうだという強い印象が残った」と記した。

 22日の決議後,韓国外交省は「(日本が)約束した措置を履行していないことを国際社会が明示的に確認し,履行を強く求めたことに意義がある」と評価した。(疋田多揚=パリ,鈴木拓也)

  ※〈考論〉多面的視点,世界の常識-外村 大・東大教授(日本近現代史)※

 

 ユネスコは産業遺産情報センターの展示内容について,戦時下の労働環境の一側面を提示するのみで歴史の「暗い側面」に触れていないと指摘した。歴史を多面的にみるのは当然で,近代化による成長に力点を置いた情報センターの展示が世界的な常識からいかにずれているかを示している。

 

 日本は1939年に労働力確保のために労務動員計画を閣議決定し,終戦までに約70万人の朝鮮人を内地に送り出した。動員の手法は変遷したが,すべての時期で,日本の支配のもと威嚇や物理的な暴力を伴う動員がおこなわれたことは史料などから判明している。

 

 労務動員が始まる前の時期に日本に来た人たちが,職場や地域の日本人と関係を築いた事例があるのは確かだ。しかし,軍艦島に限ってみても,過酷な労働を物語る日韓の報道や証言も残されている。

 

 証言する側,聞き取る側の立場などによってバイアス(偏り)はある。だからこそ多くの証言や史料に接し自分たちがしらなかった事実や思いがあったのではないかと検証することが求められる。動員された朝鮮人らも軍艦島の「元住民」であり,顧みられなかった彼らの声を聴くことはとても重要だ。(聞き手・清水大輔

 さてここからが,筆者が旧ブログで2014年7月8日に記述していた『「産業遺産」登録騒ぎ,「富国強兵」の歴史だけをみて「貧国弱民の汚史」をみない歴史遺産観』を復活させる記述となる。

 こちら記述での焦点は,「公害問題も産業遺産」になりうるといったごとき,「過去の歴史」が現在に向けて照射する「今日的な意義」に向けられていた。この「負の側面史」から目をそむける経済・産業経営史「観」は問題含みに留まるほかない点,つまり不全を余儀なくされることを忘れてはいけない。 

【参考動画】-太平洋戦争中は朝鮮人・中国人を奴隷のように酷使していた軍艦島炭鉱経営-

 


 「遺産登録,「次」への課題  富岡製糸場など新たに26件」朝日新聞』2014年6月30日朝刊

 カタールのドーハで開かれたユネスコ(国連教育科学文化機関)の世界遺産委員会で,「富岡製糸場と絹産業遺産群」(群馬県)など26件が新たに世界遺産に登録された。これで世界遺産の総数は1千件を超えた。カザフスタンなどが推薦した「シルクロード」の登録には,日本も密接にかかわっていた。来年以降の国内からの登録に向けた課題も浮かび上がった。

 1)「中韓との協力が大事-シルクロード関連-」

 今回の委員会で,新たに登録されたのは,文化遺産21件,自然遺産4件,両方の性格をもつ複合遺産1件。登録総数は1007件となった。

 日本人になじみがあるものとしては,中国,カザフスタンキルギスが共同推薦し,文化遺産に登録された「シルクロード 長安-天山回廊の道路網」がある。長安(現・西安)や洛陽から中央アジアまでにある仏教寺院など33の資産で構成している。文化遺産としての登録に向けて,東京文化財研究所など日本の研究機関が,カザフスタンキルギスで,遺跡の測量などの技術を伝えて人材育成にあたるなど,支援を続けていた。

 「シルクロード」をめぐっては,ルート沿いとされるトルコなどの関係国で登録をめざす動きがある。今回もタジキスタンウズベキスタンが関連遺跡を推薦したが「落選」した。「シルクロード」の登録は,日本画家の故平山郁夫さんが呼びかけるなど,日本も積極的にかかわろうとしていた。

 東京文化財研究所の山内和也地域環境研究室長は,遣隋使や遣唐使が発着した港や,中国などから文物が運ばれた道など,日本からもシルクロード関連で登録が可能だと指摘する。シルクロードの接点となる中国や韓国とは関係が悪化しているが,山内室長は「だからこそ,文化面での協力が大事になる。日本だけが取り残されることのないようにしなければ」と話している。

 2) 価値を明快に示せるか産業革命遺産-
 今回,文化遺産に登録された「富岡製糸場」は,ユネスコの諮問機関イコモス(国際記念物遺跡会議)から「パーフェクトに近い評価」(文化庁)で「登録」を勧告されていた。

 世界遺産委員会でも,日本以外の20の委員国中18カ国が支持するスピーチをし,登録を後押しした。フランスの技術を日本の伝統的な養蚕技術と組みあわせて改良し,生糸の大量生産システムを築いたことが評価された。

 補注)「付随すべき考察」 インターネット上には,Wikipedia のパロディー化(もじり版)「アンサイクロペディアUncyclopedia)」があって,「ユーモア欠落症患者のために,ウィキペディアの専門家気取りたちが『世界遺産』の項目を執筆しているという」。「産業遺産」という項目は,このアンサイクロペディア版には掲載されていないようなので,世界遺産の項目の説明に聞いてみた。こう書いてある。

 

 世界遺産とは,UNESCO が「世界的に貴重な建造物・自然などを後世に残さない」ことを目的に認定したものである。世界文化遺産世界自然遺産の2種類がある。UNESCO の世界文化遺産および世界自然遺産に登録されると直後に,大量の有象無象(観光客ともいう)が押し寄せ,破壊し尽くされてしまうため,世界文化遺産および世界自然遺産に登録されたもののなかで,実際に遺産として現存しているものは少ない。

 註記)http://ja.uncyclopedia.info/wiki/世界遺産

 

 富岡製糸場に最近,観光客が押し寄せた光景は,引用した記事にかかげられていた上記の写真のとおりであって,急ににぎわいはじめた様子が手にとるように感じられる。

 

  もっとも本ブログ筆者にいわせれば,「官制・模範工場であった富岡製糸場」よりも,明治における産業化の過程のなかで,その後,急速に増えていった紡績産業(生糸・綿糸)関係の工場経営においては実際に,どのような事業管理が展開されていたのか,この事実史のほうにこそ,もっと関心がもたれていいはずである。

 

 しかし,そうした「富国強兵」のために犠牲となった紡績産業における労働者群が,いかに「貧国弱民」として塵芥(ちりあくた:人間消耗品)の ようにとりあつかわれてきたかについても,歴史的な遺産に関する記録として,われわれの記憶にきちんと残るよう意識的に頭脳のなかに登録(印刷)しておかねばなるまい。

 

 そうしておかないことには,明治以来の産業経営史を経済基盤とする日本の歴史全体が,単に美化される一側面からしか観ていないことになる。

〔記事に戻る→〕 同じ近代の工業施設で,来年の登録をめざす「明治日本の産業革命遺産 九州・山口と関連地域」(福岡など8県)にも参考になる点があるはずだ。

 「産業革命遺産」は,「軍艦島」としてしられる端島炭坑長崎市)のほか,三菱長崎造船所(同)や橋野鉄鉱山高炉跡(岩手県釜石市)など8県の石炭産業や造船,製鉄施設で構成。日本の近代化の原動力になったとアピールしている。

 産業考古学会の伊東 孝会長は「富岡は軽工業産業革命遺産は重工業で性格が違う」と指摘しつつ,「ヨーロッパなどとは違う重工業の発展過程を示して,イコモスやユネスコの理解もえられるのではないか」とみている。

f:id:socialsciencereview:20210724082100j:plain

 一方できびしい意見もある。群馬県世界遺産学術委員会委員長を務めた岡田保良国士舘大教授は,富岡の高い評価の要因を「県のリーダーシップで明確な根拠のある資産を選んで,価値を証明できたこと」と話す。

 富岡は,世界の絹産業で果たした価値を明快に示すために,当初10件あった構成資産を4件に絞りこんだ。これに対し,「産業革命遺産」の資産は23件あり,関係自治体も8県11市になる。岡田教授は「石炭や造船など複数の産業にまたがっており,『産業ごとに構成資産を切り分けるべきだ』と見直しを迫られる可能性もある」という。

 登録件数が1千件を超えたこともあり,世界遺産の新規登録は厳しさを増すとみられる。

 3) 新たに登録された主な世界遺産
 【文化遺産】--南漢山城(韓国),京杭大運河(中国),
         パレスチナ:オリーブとブドウの地―エルサレムの南部バティールの文化的景観(パレスチナ
 【自然遺産】--グレート・ヒマラヤ国立公園(インド)
 【複合遺産】--チャンアンの複合景観(ベトナム


 世界遺産登録『富岡』に続け,足尾銅山,近代化貢献伝える 地域住民らが奮闘」日本経済新聞』2014年7月5日朝刊

 「富岡製糸場と絹産業遺産群」(群馬県)の世界遺産登録を追い風に,同様の登録をめざす各地の活動に熱が入っている。「足尾銅山」(栃木県日光市)では,東洋一の産出量で近代化に貢献したことにも光を当てようと地元住民らが奮闘。来年ユネスコで審議される「明治日本の産業革命遺産」(九州など)の関係者は,富岡のケースを参考に遺産の価値を分かりやすく訴えて「登録連覇」を狙う。
 
 わたらせ渓谷鉄道の通洞駅(日光市)から徒歩約5分,全国でも珍しいNPO運営の歴史館「足尾歴史館」がある。館長の長井一雄さん(74歳)が2005年,江戸時代初期の1610年に採掘が始まった足尾銅山の歴史を伝えるため,有志と手弁当で建物を改装して開館した。
 
 勉強会やシンポ。--長井さんは足尾の出身で高校卒業後に上京,生命保険の営業マンとして定年まで勤めた。静かな老後を過ごそうと地元に戻ったが,「足尾といえば鉱毒事件,と負の側面ばかりが強調されることに耐えられなかった。公害を克服した部分にも光を当てたい」と一念発起。登録へ向けた旗振り役として勉強会やシンポジウムなどを精力的に開いている。
 
 足尾銅山は明治時代,実業家の古河市兵衛が鉱脈を探り当て銅を量産。日本の近代化を支え「東洋一の鉱都」と呼ばれるまで栄えた。一方,廃液を川に垂れ流し農作物が立ち枯れる鉱毒事件も起こした。同事件を告発した政治家,田中正造と共に「公害の原点」としてしられる。
 
 地元は銅山を開発した古河鉱業(現古河機械金属)の関係者が多い。長井さんは「1973年の閉山以降も公害を起こした引け目から歴史的価値に目を向けられなかった。富岡の影響で近代産業遺産への関心は高い。公害という負の遺産とともに,鉱山近代化の価値を訴えたい」と意気ごむ。
 
 ただ,課題は山積みだ。製錬所や発電所跡など点在する遺産の多くは朽ち果て,荒れ放題。駅周辺に飲食店や土産物店は少なく,観光客を受け入れる体制は整っていない。日光市世界遺産登録推進室の担当者は「暫定リスト入りをめざすなかでこうした課題にも対応したい」と話す。
 
 九州でも期待。--来年ユネスコの審査を控える新日鉄住金八幡製鉄所北九州市)や端島炭坑長崎市,通称軍艦島)などで構成する「明治日本の産業革命遺産」(福岡,長崎など8県)。事務局を務める鹿児島県の田中 完世界文化遺産課長は「遺産価値を分かりやすく説明した富岡のプレゼンを参考に,重工業の発展に寄与した意義を丁寧に伝えたい」と語る。
 
 「三井三池炭鉱」がある福岡県大牟田市熊本県荒尾市の住民らでつくるNPO大牟田・荒尾 炭鉱のまちファンクラブ」の中野浩志理事長(43歳)は「見学会を開催するなどして草の根で機運を盛り上げ,悲願を果たしたい」と話している。

 --ところで,足尾銅山の問題史は,公害・環境破壊の大々的な歴史でもあった事実を直視したくないかのように映る,NPOの運営になる歴史館「足尾歴史館」と,館長長井一雄の気持も理解できないわけではない。
 
 しかし,日本の公害史において原点になったといわれるほどに深甚な環境破壊をもたらしてきた「足尾鉱毒問題史」から,大きく視線をそらしたいかのように受けとれる「足尾歴史〈観〉」には,当然のこと疑問が突きつけられるほかない。
 
 地元の人間として,地域の風土(地理)なり歴史(記憶)なりをたいせつにしたいという感情は,誰も否定しない。しかし,そうした感情であってもこれが歴史全体のなかに進入していった段階にまで至っていても,なお,個人的な印象論・感傷論を前面に押し出したかのような〈歴史観〉に膠着している姿勢はいただけない。
 
 「足尾歴史館」の観点からは,③ に表現できるような「足尾銅山鉱毒史」の事実史を,真正面から見据えられるのかどうか疑問である。
 
  足尾銅山問題と田中正造

 明治時代における話題として,② まで言及した論点を説明するために,以下のように論じてみる。

 1) 天皇への直訴をしないと,なにも動かない国だったのか
 田中正造(1841年12月15日〔天保12年11月3日〕生まれ,栃木県出身)は,1901〔明治34〕年10月23日に議員を辞職したあと,同年12月10日,東京市日比谷において,帝国議会開院式から帰る途中の明治天皇足尾鉱毒事件について直訴し,東京市中を大騒ぎにさせる事件起こした。この田中は死を覚悟しての直訴であったが,なぜか「狂人扱い」註記)にされたうえ,即日解放されていた。
 註記)この理解には異説もあるが,ここではひとまず,この説にしたがっておく。http://beekeeper.3838.com/activity/for_children/old_message/tanaka.html この註記中に記述された田中正造関係の文章を,以下に引照する。
 目方は20巻(75キロ),身の丈は5尺1寸(155センチ)。総髪を振り乱し,左まぶたを三角につり上げ,鬼気迫る勢いで議場を圧倒。そしてその男は,大臣席を睨みつけていった。

 「足尾銅山より流出する鉱毒は,各郡村に年々巨万の損害を被らしむる。将来如何なる惨状を呈するに至るやも計り知るべからず」。

 その男の名は,田中正造天保12年(1841),下野国(栃木県)生まれ。明治12年栃木新聞を創刊,自由民権運動に参加。県会議員,県会議長を経て,明治23年第1回総選挙にて衆議院議員に当選。

 以後その半生をかけて足尾鉱毒問題と闘いつづけた人物である。渡良瀬川流域の農民漁民の生活を脅かした,足尾銅山からの鉱毒流出。田畑は荒れ,森林は荒れ,川には白い腹をさらした魚が浮かんだ。

 正造はこの惨状に猛然と立ち上がり,政府をきびしく追及。鉱業停止と被害民救済を要求する。各所で演説会を実施し,新聞等へも働きかける。あらゆる機会をとらえて,くり返し執拗に訴えつづけた。

 しかし政府はのらりくらりとかわすばかり。議会も政府もだめなら,最後は陛下への直訴しかない。ついに正造は腹を決める。議員を辞し,妻には離縁状を送ったとされる。

 時は明治34年(1901),正造すでに60歳。よく晴れた寒い日であった。12月10日午前11時20分頃,貴族院での開院式を終え,皇居への帰途にあった明治天皇。正造は右手に高々と直訴状(『謹奏』と題した書状)を掲げ,何と陛下の馬車をめがけて突進したのであった。しかし沿道を警備していた巡査に取り押さえられ,直訴は未遂に終わる。

     田中正造『謹奏』(直訴状の一部分)☆
 
 「天に訴え地に訴え人に訴え社会に訴え政府に訴え法廷に訴え,請願となり陳情となり演説となり奔走となり運動となり大挙となり,拘引となり被告となり,絶叫となり慟哭となり泣血となり,千訴万頼慟天哭地してもなお,その目的を達成することができない鉱毒被害民の惨状を救うため,財産を棄て名誉を棄て妻子を棄て朋友を棄て政党を棄て議員を棄て,遂には己を棄てて一身を鉱毒事件の犠牲に供したる田中正造は,昨日ついに恐れ多くも議院より遷幸の御通路に拝跪して輦下に直訴するの非常手段をとるに至れり」

 つまり,明治以降の近代天皇天皇制国家「大日本帝国」は,臣民にとって絶対に「侵すべからざる神聖なる天子様」の存在を前提していた。これを批判し,反抗する人間・組織などはありえないという観念で武装された国家体制であったから,これを必死に護持しなければならない脆弱さも同居させていた。

 仮にでも,足尾銅山鉱毒問題に生涯をかけて闘ってきた田中正造のように,その想定から外れる行動をとった者は,誰であっても「精神異常」をきたしたと決めつけ,社会から疎外しておき,なにごともなかったかのように穏便に処分しておけばよい。そう対応しておけばこそ,明治体制の有するべき絶対的な政治基盤の万全・安泰を装うことができた。

 「神性国家の内部に向けられる疑問・批判・反抗・叛逆」を,天皇への直訴という非常手段に訴える行動で表明した人間は,おしなべて「狂人」の範疇に押しこんできた。天皇制という牙城の無誤謬性・絶対的な神聖性は,無条件に守護され,絶えず堅持されるべきであった。

 帝国日本においてはともかく,天皇への直訴「行動」は,「精神異常」者がたまたま発作的に惹き起こした〈狂気の沙汰〉とみなしておき,天皇制そのものは,どこまでも無理のない,自然の姿容にみせかけてきた。そして,時計の針が進むように,なにごともなく自然に時を刻ませてきたつもりにもなって,時代から時代へとうまく移りわたり,そしてとりつくろえた,と思いこんでいたわけである。

 さらには,1910〔明治43〕年1月に「絞首刑12名,無期懲役12名の判決」が下された「大逆事件」が,明治国家体制に対する「大逆罪」に名を借りた社会主義者無政府主義者への弾圧として,記録されている。この大逆事件は,国家による捏造事件(フレームアップ)であった。

 第2次大戦後も長いあいだ,この大逆事件の再審は厚い壁に阻まれてきた。だが,この事件の真相が明らかになるにつれ,各地で犠牲者の名誉回復や顕彰をする活動が生まれている。大逆事件とは,なんであったのか? 国家と司法,国家と人権,国家と私たちが,100年以上が経った現在もなお重く問われている。

 この「大逆事件裁判」が司法の独立のもとでなされず,政治権力の支配のもとでおこなわれた様子がみえてくる。3人の特赦のところは,無実の人間がいたことを認めており,特赦それじたいがきわめて政治的な産物であることをうかがわせる。実際の特赦は12人であった。

 註記)田中伸尚『大逆事件-死と生の群像-』岩波書店,2010年, 228頁。

 この大逆事件については,「多数の人びとを強引に『大逆罪』に追い込み,12人を〔死刑判決〕で殺し,生き残った14人〔うち2人は有期刑〕の人生を奪った暴力的明治国家の直接の責任者だった平沼騏一郎」が,1942〔昭和17〕年4月21日の談話中で,この裁判の判決は,天皇「陛下に一番に申上げた」と回顧していた。

 註記)田中,前掲書,226頁,228頁。

 以上に大逆事件に言及したのは,以下のような事実を対照させるためであった。

 1910〔明治43〕年6月,大逆事件によって逮捕された幸徳秋水は,翌年,有罪・死刑判決を受け,他の死刑囚とともに1月24日処刑された。

 田中正造足尾銅山鉱毒事件について明治天皇に直訴したときの直訴状は,まず幸徳が書き,田中が手をくわえてい。田中が直訴状の執筆を依頼した者たちが「後難を恐れて尻ごみした」なかで,幸徳だけが断わらずに書いたといわれる。

 こうした明治史にかかわる記述に照らしていえば,「足尾歴史館」の観点は,足尾銅山鉱毒問題史に関して,その「名誉回復や顕彰をする活動」,しかもNPOの善意になる立場を明示している。

 しかし,足尾銅山の現実史には,以上に関説した明治期に固有の歴史的な限界や,当時は大日本帝国であったというこの国の軍国主義的な基本性格から,はるか遠くに離れていってしまうその観点であれば,これは問題があり過ぎたという結末になる。

 足尾銅山鉱毒問題史の事実は,「公権力によって公害の防止→環境保全を強制しないかぎり,価値法則(市場原理)は貫徹して,環境の破壊はつづくといってよい」註記)を,みごとなまで端的に実証していた。しかも,国家支配体制側の権力は,足尾銅山を保護したとも同然の政策を採りつづけてきた。その結果が,谷中村を遊水池に作りかえて,鉱毒をこの地に埋めこみ,歴史の事実を封印するといったかたちでの,後始末しかできないハメになっていた。

 註記)庄司 光・宮本憲一『日本の公害』岩波書店,1975年,13頁。

 2) 女工哀史を無視して歴史が語れるのか

 富岡製糸場の存在は,以上の議論と同様に語ることができる産業部門の問題を示唆していた。明治政府が推進しなければならなかった「富国強兵」のための「殖産興業」は,この一部門である軽工業製糸部門のなかでも,とりわけて〈生糸〉が第1の地位を誇っていた。

 製糸業輸出品目の内訳では,絹関係製品である生糸29.1%に絹織物8.1%を足せば,37.2%の割合に達していた。1899〔明治32〕年の国家予算は,決算として歳入が2億5425万5千円円,歳出が2億5416万6千円であった 註記)。まさに明治帝政を支えていたのは製糸業であった。工女らが紡いだ生糸や織った絹織物の収入によって,当時の国家財政は成立しえたといっても過言ではなかった。

 註記) 楫西光速・大島 清・加藤俊彦・大内 力共編『日本における資本主義の発達 年表』東京大学出版会,1953年,44頁。

 a) たとえば,嶋津千利世『女子労働者-戦後の綿紡績工場-』1953年が,こう説明していた。

 明治年代を通して日本の繊維産業は,だいたい14時間労働が普通であったが,大工場などでは,すでに明治17年1884年)ごろから12時間労働の2交替制がはじめられていた。資本家は2交替制をとることによって,1日24時間機械を少しも休ませずに操業を行い,1日の全部を価値の生産のために利用してきたのである。そしてそれが,昭和4年(1929年)深夜業の禁止されるまでつづいた。

 日本で女工の深夜業が問題になりはじめたのは,すでに明治30年代からであった。当時はげしく世論をまき起し,社会的関心を女子労働者にそそがせた『職工事情』等を参考として,明治35年(1902年)はじめて立案された工場法案は,深夜業の禁止をとりあげている。

 工場法案は,〔明治〕35年以後〔明治〕43年(1910年)にも一度議会に提案されたが,紡績資本家の反対にあって審議にさえかけられなかった。しかし,紡績連合会と農商務省との話し合いにより,猶予期間を15年ということにして,明治44年(1911年)議会を通過した。そして工場法が実施されたのは大正5〔1916〕年であった。

 註記)嶋津千利世『女子労働者-戦後の綿紡績工場-』岩波書店,昭和28年,20-21頁。
 
 b) 大河内一男『黎明期の日本労働運動』1952年」は,つぎのように当時の関連する事情を説明していた。

 清国に対する戦勝は,日本の輸出産業のための大陸市場を急速に膨張せしめる結果になった。綿絲布および雑品のための市場は無限に拡大され,繊維産業は熱狂的な景気に見舞われ,昼夜兼行の操業をおこなっても需要に応ずることができなかった。輸出産業の利潤は厖大であったが,日清戦後における物価騰貴と生活難とは,産業界の天井しらずの景気と急速度な資本蓄積とに対して奇妙な対照をなしていた。

 基礎産業の分野への男子労働者が結集せられたのはいうまでもなかったが,それよりもはげしい程度と速度で,繊維産業部門へ向って女子労働者が動員された。しかもそこでは,徹夜業と「低賃銀」と誘拐的な募集と拘禁的な寄宿舎制度とにとりかこまれた苛烈な労働条件が支配していた。

 「結核工女」は無知な彼女たちの運命であり,「女工哀史」は,やがて彼女ら全体を待ち受けるものであった。かくして,日清戦争は,一面で富の異常な蓄積,多面で貧困の増大を大規模につくり出し,資本と労働との対立,所有者と無産者との罅隙(かげき)をいよいよ深くし,階級的な自覚を促した。

 註記)大河内一男『黎明期の日本労働運動』岩波書店,昭和27年,39頁。

 ☆-1  農商務省商工局『職工事情』1903〔明治36〕年。本書は,1901〔明治34〕年度を中心に調査した報告書である。以下にはとくに「生糸紡績工場の労働時間(夜業なし)」に関する事情を抜きだし,聴いておきたい。

  此種ノ工場ニ於テハ労働時間ノ長キコト殆ント長野県ニ異ナルコトナシト云フ然レトモ此地方ノ工場ニシテ一カ年ヲ通シテ営業セル工業ニ在ツテハ夜業ヲナセル處ト然ラサル處トアリ其執業時間ハ之ヲ概言スレハ十三四時間ヲ以テ普通トナスモノノ如シ玆ニ三井名古屋製糸處ノ執業時間ハ左ノ如シ

   午前四時半          始 業
   午前六時半乃至7時      朝食休憩
   午前十二時乃至午後1時    昼食休憩
   午後四時乃至四時二十分    休 憩
   午後七時           終 業
       (此規定ハ〔明治〕三十三年度冬季ニ実行サルルモノナリ)

    休憩時間及ヒ食事時間ニ就イテハ各地方其慣習ヲ異ニシ之ヲ概言スルコト甚タ難シ然レ共正午ニ若干ノ食事時間ヲ与フルヲ通例トス地方ニ依リテハ春季彼岸乃至秋季彼岸ノ間ハ日ニ四回ノ食事ヲナスノ慣習ナリ是等ノ地方ニ於イテハ二回ノ食事時間アリ夜業ヲナス時ハ三回ノ食事時間ヲ与フルヲ常トス

    諏訪地方ノ工場ニ在ツテハ午前午後ノ休憩時間ヲ与ヘサルノミナラス食事時間モ成ルヘク之ヲ短縮センコトヲ務ムル工場少ナカラス其工場ニ於テ其ノ掲示シタル工場規則中ニ食事時間ハ五分ヲ過ク可ラスト一条アリ工女ヲ食堂ニ会食セシムルトキハ時間ヲ徒費スルノ恐アリトテニギリ飯ヲ製シ之ヲ各工女ノ受持テル繰金ノ側ニ配布シ各工女ハニギリ飯ヲ頬張リツツ業ヲ執ル處モアリ
 註記)  農商務省商工局『職工事情』1903〔明治36〕年,「生糸職工事情」。引用は,土屋喬雄校閲『職工事情 第1巻』新紀元社,昭和51,175-176頁。〔 〕内補足は筆者。   

  ☆-2 横山源之助『日本の下層社会』(『日本之下層社会』)教文館,1899〔明治32〕年。本書は『職工事情』に相呼応する調査であり,工場労働者だけでなく,職人層や極貧者,小作人の生活事情もよく調べており,内容の綜合性に特長がある 註記)。以下にはとくに「綿糸紡績工場の労働時間(昼夜業2交替制)」の説明に聴いておきたい。

    註記)横山源之助『日本の下層社会』教文館,1899〔明治32〕年。引用は,岩波書店,昭和24年,〔風早八十二「解題」〕345-346頁,347頁。

 労働時間は12時間,即ち昼間業を操るは朝6時より晩の6時迄,夜業に出づるは午後6時より午前6時迄は通例なるが如し,内休憩時間午前9時に15分,正午30分,午後3時に15分,都合1時間の休憩時間あり,深更2時3時の頃睡魔の襲ひ来るもっとも激しく,電燈白ろく工女の姿をうつして淋し,各工業主によりて言ふ所を異にすと雖も,其の言ふ所に依れば,ヤカンに生産高は,昼間に比して1割半乃至2割を減ずと。夜勤の交替は1週間なるは各会社殆ど同一なり,職工を甲乙2部に分かち,甲乙交り1週間毎に交替し,交替の際は機械掃除の為め夜業者に4時間居残仕事の義務を付す。

 此処に1問題あり,夜業廃止問題即ち是れなり,廃止を可とせるは事業不審の為に生産高減少の必要より之を説く者あれども,是れ必竟商略より生ぜる臨機論者のみ,乃ち熱心に其の不可を主張するは,工業の発達を期せんと欲せば労働者の身体生命を虞らざるべからずとせる新派経済学者と,世人の安眠せる夜間労働に服せしむるは人情忍ぶべからざる所為なりと唱ふる宗教家となす,更に廃止不可論者あり,熱心に唱道しつゝあり,……。
 註記)横山,前掲書,162頁。

 ☆-3 細井和喜蔵『女工哀史改造社,1925〔大正14〕年。本書は 『職工事情』がまれに観る卓抜な報告書であっても,「官」の報告文書たる性格をのがれないのと異なり,あくまで,女子労働者の立場,意識の低い彼女たちの気になって,事実を記録し,描いている 註記)。以下にはとくに「紡績工場の労働条件(夜業・賃銀)」について聴くことにしたい。

 註記)細井和喜蔵『女工哀史岩波書店,昭和29年,〔大河内一男「あとがき」〕360頁。

 「大体に於ては12時間制が原則となって居るが先づこれを2期に分けて考へねばならぬ」。「第1期は工場法発布以前であって此の頃は全国の工場殆ど,紡績12時間,織布14時間であった。而して第2期に当る工場法後から今日にかけては紡績11時間,織布12時間といふのが最も多数を占める」。

 「ところが玆に『夜業』があるため,紡績工場の労働時間割は仲々面倒になって来る。11時間制だから11時間働けばいゝといふ如く,簡単に片づかないのである」。「此の『夜業』がまた問題だ,これは二様に解釈される。つまり昼間一定の働きをしたうへ更らに夜分若干の労働を加へること,これを昔から『よなび亜日と言ったのだが,多くの人はこいつを『夜業』と書いて『よなび』と読み」,「昼間働く代りに夜通しはたらく,即ち深夜業のことを意味するのである」。

 「因に組織だった大仕掛けな夜業の始まりは,明治16年大阪紡績に於て為されたものであった」。「労働者の無智を利用する残業策略」がある。それも「強制的残業政策」であり,「一夜に僅か金5銭くらひな『夜業手当』で以て,無知な彼女達を釣らう魂胆に外ならない。

 要するに『自由服夜業』たるもの,労働者は不利な労働条件の許に忍従してまで雇傭契約の要を認めぬ。働く働かぬは彼の自由だといふ程度な一方に『餓死』のついた自由である。こんな自由なら欲しくない」。

 「休憩時間の割り当ては殆んど何処の工場へ行っても9時,12時,3時であり,前後各15分なか20分合計1時間だ。そして30分ののあいだに昼夜とも食事を摂る。併し乍ら実際休憩するのは男工並に直接台を持たぬ見回工くらひなもので,一般女工には殆んど休憩が無いも同様である」「従来は休憩に停転しなかった」。

 「休憩中,寄宿女工に我が家である寄宿舎へは入らせない。仮令運転を停める工場でも,食事の時間は2回以上に〔各工場ごとにずらして〕切る場合が多い。「紡績工場の日給制度は,その日給額が『本日給』と『製額賞』に分かれ居る」。

 ここで「『製額賞与』とは」「これは詰り日給であり乍らかつ集団受負の一部の関与せしめて,自ら其の業を勢出さねばならぬやうに仕向けたもの」であり,この「製額をあげぬと賞与が貰へなく,その製額賞与と日給を合わせて,やっとどうにか賃銀らしく盛り立てゝある。
 註記)細井,前掲書,102-103頁,104-106頁,106-107頁,108-109頁。〔 〕内補足は筆者。

 ☆-4 篭山 京編集・解説,生活古典叢書第5巻『女工結核』光生館,1970年という文献も挙げておく。この書物の内容編成は,以下の内容からなる。

   イ)  農商務省工務局『工場衛生調査資料』生産調査会,1910〔明治43〕年。

   ロ)  石原 修『衛生学上ヨリ見タル女工之現況(附録 女工結核)』国家医学会,1913〔大正2〕年12月。本稿は,「女工ノ衛生学的観察」の題名でさきに『国家医学会雑誌』第322号,1913〔大正2〕年11月に掲載。

   ハ)  石原 修「某紡績会社某工場工女健康成績調査」『日本衛生学会雑誌』第7巻第1・2号,1911〔明治44〕年10月。

   ニ)  石原 修「男工一部ノ衛生状態ニ関スル粗雑ナル調査」同上,第9巻第3号,1913〔大正2〕年12月。

 石原 修『労働衛生』杉山書店,1923〔大正12〕年は,上記の ロ)  がすでに「絶版になって居るので特に国家医学会の許可を得て其の一部たる女工結核に関する部分を此所に転載する」と断わっていた 註記)。これは上記の論稿のうち「講演の部分の(附録 女工結核)」を再録したものである。

 註記) 石原 修『労働衛生』杉山書店大正12年,246頁。

 3) 炭鉱問題

 前項 ② の記述には,九州地方の新日鉄住金八幡製鉄所北九州市)や端島炭坑長崎市,通称軍艦島)などをまとめて,「明治日本の産業革命遺産」として登録できるように努力しているという話題もあった。

 しかし,ここでもそれでは,「軍艦島」がどのような産業背景史をかかえていたのか,少しでもしっておく余地もある。つぎに参照する記述は,問題点がどこにあるか言及している。

 なによりも高島炭鉱は,日本資本主義の「原始的蓄積」ももっとも苛烈な舞台となったところである。

 〈巧みに無智の貧民を誘導し,僅々三円五円の金を以て,一男子を雇い入れ,明新丸の汽笛一声烟を残して孤島に連れ来り,遂に生涯その郷里を見ること能はざらしむ〉

 〈明治十七年の夏該島に虎列刺病の侵入するや,三千の坑夫中其の大半則ち千五百余名は該病の為め死せりと。然り而して炭礦舎は其の死する者と未だ死せざる者とを問はず,発病より一日を経れば之を海辺の焼場に送り,大鉄板上に於て五人若くは十人宛焚焼せり〉

 註記)松岡好一「高島炭礦の惨状」1886年大河内一男『黎明期の日本労働運動』岩波新書,1952年より。

 つまり,高島炭鉱では,なにもしらない人を安い金で売り飛ばして船で絶海の孤島へ送り,死ぬまでこきつかったとか,高島炭鉱コレラが出たので,発病したら生死にかかわらず,でかい鉄板の上で焼き殺したというのである。三菱が高島炭鉱を入手したのは1881年であるから,この記述のときはすでに三菱の経営であった。

 マルクスが『資本論』のなかで,資本主義の黎明期(「原始的蓄積」の時期)には,農民が生産手段を奪われ,そしてプロレタリアとなった彼らに対して非常に苛酷な支配が敷かれることを,つぎのように書いていた。

 〈この新たに解放された人々は,彼らからすべての生産手段が奪いとられ,古い封建的な諸制度によって与えられていた彼らの生存の保証がことごとく奪いとられてしまってから,はじめて自分自身の売り手になる。そして,このような彼らの収奪の歴史は,血に染まり火と燃える文字で人類の年代記に書きこまれているのである〉 

 註記)マルクス資本論』1巻,pp.934~935。

 つぎに参照する画像は,山本作兵衛『画文集 炭鉱に生きる-地の底の人生記録-』講談社,1967年,新装版2011年に収録されている,いくつかを集めて合成したものである。女性が男性と組んで重労働に働く姿が描かれている。子どもを背負っている女性までいる。

 山本が描いたのは筑豊のヤマにおける光景:現実である。山本の描いたこの「絵と文章」は,2011年5月,世界記憶遺産に日本国内では初めて登録された。労働者側が希有の記録として描いた現物であるが,「こちら:働く立場」の側からの記録は,なかなか残されにくいものである。

 f:id:socialsciencereview:20210724091624j:plain

 残念ながら,こうしたこと(労働者側の実情・悲惨)については,後藤惠之輔・坂本道徳『軍艦島の遺産-風化する近代日本の象徴-』 新書判,長崎新聞社,2005年の記述は少ない。高島炭鉱前近代的な「納屋制度」を廃止して,三菱がいかに近代化に努めたか,ということについては書かれている。

 国をあげて現在近代の産業遺跡・遺構を残そうという運動が盛んであるが,それは極端にいえば「プロジェクトX補注)的な,「幸福の記憶」とだけ結びついていることがしばしばである。

 補注)『プロジェクトX-挑戦者たち-』(通称「プロジェクトX」)と題したNHK総合テレビのドキュメンタリー番組が,2000年3月28日から2005年12月28日まで放映された。全放送作品は191本(正式な放送回数としてカウントされた作品187本+特別編4本)。開始時のキャッチコピーは「思いはかなう。」であったが,いまとなってみれば,昔日における非凡な努力とその栄光の物語。

 別にすべてを苛烈な支配の色で塗りつぶせ,というつもりはないが,歴史は「光と影」の両域を叙述することが,どうしても欠かせない。後藤・坂本の前掲書のオビには〈近代の光も闇も,廃墟の沈黙の中にある〉というキャッチコピーが載っている。だが,本書においてはなぜか,やはり「闇」の記述が弱い。

 新書のなかでどれだけ書くた中身であるゆえ,それでもある意味で精一杯の努力をもって言及していたといえなくはない。が,それでも,不満は残る。

 註記)http://www1.odn.ne.jp/kamiya-ta/gunkanjima.html  参照。

 

  ま と め

 以上の論及をこうまとめてみたい。産業遺産の登録への努力という国民・市民側の気持・感情はむげに否定することはできない。しかし,日本の場合,明治以来の産業経済史のなかで蓄積されてきた「負の歴史」,いいかえれば『汚史の面』を完全に無視したような,その種の努力に終始しているのであれば,これには大きな疑問符が突きつけられて当然である。

 2021年7月23日から基本として無観客試合で2020東京オリンピックが開催された。現在のところ,この開催のために3兆円もの国費・都税の血税が投入されつつある。事後,その後始末のためにさらにどのくらい補填が必要になるか,この点の覚悟も必要である。

 本日2021年7月24日,『朝日新聞』朝刊の別刷り「be面」には,こういう話題が取りあげられていた。五輪などやっていていい国ではすでになくなっていた日本である。国際大運動会,それも2週間ほどのひたすら資源浪費的なスポーツ大会にうつつを抜かす余裕などなくなっていたのが,この国ではなかったか。

   ◆〈フロントランナー〉一般社団法人「つくろい東京ファンド」代表理事・稲葉 剛さん ◆
      =『朝日新聞』2021年7月24日朝刊「be1面」=

 

 東京・新宿駅西口の地下道。ここで多くの路上生活者の死に出会ったことが活動の原点だ。そして,「つくろい」設立のきっかけは東京五輪の開催決定。過去,五輪の開催都市では路上生活者が排除されてきたが,それを許さない決意だった。

 

 ■ 社会のほころび繕う貧困支援 ■

 バブル崩壊後の27年間,生活困窮者支援の現場に立ちつづけ,コロナ禍のいまも最前線にいる。ネットカフェの休業などで行き場を失った人たちからのSOSがつぎつぎ届き,サポートに追われる。路上生活者を訪ね歩く夜回りも続けている。

 

 「もう1年4カ月,野戦病院のような状態が続いています」。最近の炊き出しの列に並ぶ人の多さも気になる。若者,女性,外国人……。これほど多様な人びとが困窮している状況はみたことがない。「社会の底が抜けてしまっている」。 

 こうした社会状況が20世紀からつづくなかで,昨年からはコロナ禍がそこに加重してきた。それでも,1年遅れで膨大なムダ遣いでしかない「汚リンピックが誤倫的に開催されている」。

 この国の為政者はいったいなにを,どこをみて,この惨憺たる状況に追いこまれている自国を運営しているつもりか? 安倍晋三……,菅 義偉……,ともにろくでもない政治屋。みるべきモノがみえず,ありもしないモノがみえたかのような幻覚症状に囚われている彼らであった。

 その者たちにあっては初めから,この国をまともに操舵できる技倆など備わっていなかった。いま,われわれが置かれている現実が,その事実をあますところなく教えている。

 誤倫に脱線しつくした汚リンピックに,いったいなんの価値をみいだせというのか? 「説明できることと説明できないことがある」などと,したり顔で▲ざくなかれ……。

【参考記事】

------------------------------