原発のたそがれは再生エネルギーの成長・拡大・普及によってヨリ明白になっている,日本は原発に抱きつき心中をさせられるエネルギー政策をめざすつもりか

 原発にまだ採算性・有利性をみいだせるつもりなのか,その推進論者の救いがたい誤謬 は,いったいいつまで続くのか,原発擁護・推進論者の奇弁的駄説の問題


  要点・1 原発利用を止められない日本は,後進的なエネルギー政策体制を維持したいのか

  要点・2 原発による効率の悪い,そして非常に危険な電力生産にいつまでもこだわっているかぎり,電源構成の修正・改善は遅延する


 「〈社説余滴)原発技術『確立』は現実か  吉田博紀朝日新聞』2021年8月1日朝刊

 つぎの画像は『時事通信』2012年07月04日に報道された東京電力「福島第2原発4号機」「原子炉格納容器の底部」を借りた。『朝日新聞』本日朝刊の記事にも同じ画像が紹介されている(代表撮影とのこと)。この画像で説明すると,「頭上には原子炉圧力容器の底に通じる制御棒の装置や中性子測定機器が写っている。

 

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 註記)2012年7月4日午前,福島県富岡町[代表撮影],https://www.jiji.com/jc/d4?p=gen100-jlp12885761&d=d4_topics

 映像や写真で見慣れているはずの光景。それでも初めて目の当たりにすると,10年前の出来事とは思えない現実感に圧倒された。東京電力福島第1原発福島県)を6月,訪れた。エネルギー担当になって1年余,コロナ禍でかなわなかった視察が,緊急事態宣言の合間に実現した。

 買い物客でにぎわう富岡町のスーパーを横目に,バスで出発し,20分で原発の入り口に着く。支給された作業服に着替え,使い捨ての靴下を三重に履いた。乗りかえたバスには,車内の放射線量を測るセンサーがあった。

 発車時は毎時0.1マイクロシーベルト。富岡のスーパー近くの屋外とあまり変わらなかったが,1~4号機を望む高台に着くまでの1分間で毎時31.6マイクロシーベルトに。いまの東京と桁が3つ違う高水準だが,驚くのは早かった。

 毎時81.6マイクロシーベルト。鉄骨むき出しの原子炉建屋を100メートル先にみながら説明を聞くこと約15分,屋外の線量計が示しつづけた値だ。視察者がめいめい身につける線量計から相次ぎ,警告音が響いた。

 梅雨の晴れ間の日差しが照りつける建屋の横を,10人ほどの作業員が厳重な白いつなぎ姿でゆっくり歩いていく。日々生まれ続ける汚染水から放射性物質を取り除く困難も聞いた。事故を収束に向かわせるための懸命の努力には,素直に頭が下がる思いがした。

 補注)せっかくだが水を差す寸評をおこなってみる。その「懸命な努力」とは「3・11」の東電福島第1原発事故によって要求されつづけている,いわば「賽の河原の石積み」作業であった。残念なことだが現実の話としては,そのように形容するほかない現地での後始末作業が,いつ果てるか確たる見通しがつかないまま延々と継続してきている。

 すでに,2011年「3・11」以後の1週間以内につぎつぎと発生した東電福島第1原発の諸事故は,人類史上においてもっともひどい “核爆発” 事故(MOXを燃料に合わせて使用していた3号機がその疑いを濃厚にもたれている)をも含めた実害をもたらした。その後10年以上が経過したが,その敷地内の掃き掃除と整理整頓ぐらいはなんとかできているとはいえ,放射性物質の危害はいまだに除去できていない。

 東電福島第1原発事故で1号機・2号機・3号機において溶融したデブリは,いまだにその取り出し作業に着手できていない。いつごろから開始できるのかも明言できないままに,これまできた。最近はこの原発事故現場も,チェルノブイリ原発事故現場と同様に石棺化する手立てを講じるほかないのではないか,という意見が出はじめている。

 現地の被災者住民が猛烈に反対する石棺化方式による後始末であれば,デブリの除去作業という非常に困難な工程はなしで済ませられる。東電福島第1原発事故現場の場合,石棺化をめざすにしても技術的になお困難な条件が残っているものの,デブリの除去をする方法よりは〈はるかに次善たりうる〉「対策」である。

 いま,引照している『朝日新聞』の記事は,以上のごとき東電福島第1原発事故現場に関する問題のあり方とは,ひとまず無縁の記事であった。この点はひとまず批判することなく,事実として指摘しておくだけとする。

〔記事に戻る→〕 5号機の原子炉格納容器には,白いつなぎを着こんで入った。たちまち汗が流れる。人ひとりがやっと,時にはかがまなければ通れない通路を,足元の凸凹を気にしながら進む。同型の2号機で,溶け落ちた燃料を取り出す遠隔操作のロボットを新たに開発し,実際に作業することのむずかしさを思いしらされた。

 帰り着いた東京では,将来のエネルギーをめぐる議論が続く。そこで聞くのは,原発の新増設や建て替えの必要性を訴える専門家の声だ。2050年の脱炭素社会実現に向け,発電時に二酸化炭素を出さない原発を「確立された脱炭素技術」として活用すべきだ,と。

 10年経っても悪戦苦闘が続く福島第1を半日体感しただけでも,私の心にはこんな思いが浮かんでいる。「原発の技術は本当に『確立』されたものといえるのだろうか」(よしだ・ひろき,経済社説担当)(引用終わり)

 a) 以上の東電福島第1原発事故「報告」をした記事についてはまず,「発電時に二酸化炭素を出さない原発を『確立された脱炭素技術』として活用すべきだ」が,「原発の技術は本当に『確立』されたものといえる」「か」という基本的な疑問に応えておく必要があった。

 最初から断定しておく。原発が『確立された脱炭素技術』であるかのように言及したのは,大間違いであった。

 原発という装置・機械およびこれをとりかこんで構成する付帯の施設は,いざという時になって原発じたいが停止した場合,この原発じたいが『電力』を生産できなくなるので,ほか(外部)から供給される『電力』の介在・補助がなければ,まともに「対応できない」工学的な仕様(仕組)になっている。

 その点をもってしても,「原発が確立されているゆえ,炭酸ガスとは無縁の技術体系であった」かのように説明するのは,完全に誤論である。この点はまともな原子力工学の専門家であれば,原発の技術経済的な基本特性として,十分に分かりきった事情・特徴である。

 そう指摘してもまだ理解しにくいという向きには,東電福島第1原発の事故現場がまだ廃炉工程にまで進展できていない事実はひとまずおいた話となるが,一般の原発廃炉工程に入っていった場合,これはCO2 を限りなく出しつづけながら諸工事をおこなっていくほかない事実が,なんといっても絶対に無視できない。その期間は何十年から半世紀・1世紀の長さになっていく。

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 原発に関して『確立された脱炭素技術』などと定義的に “形容する” のは,トンデモなく無理解の誤謬である。せいぜい未確立であるか,より正確にいうと,その「確立」にまで至ることなど絶対にありえないのが,現状における「原発の脱炭素技術」の水準である。

 なにゆえ,そのように徹底的に非科学的であり,かつどうみても合理的な説明にはなりえない〈原発に関する記事〉が書かれてきたのか? 換言すると,庶民だましにしかならない記事が,なぜこのように報道されているのか? 原発の問題になると,以上のようにまったくに科学以前の,合理性を欠いた説明が依然,平然とまかり通っている。

 原発はもちろん「発電時にCO2 」そのものを排出しない。けれども,実際に稼働を開始する以前において原発が建造されていく工事の過程においては,通常の工学的な見地からも分かるように,炭酸ガスを出さざるをえない。具体的な想像図としてはたとえば,現場で使用されるクレーンを描いてみればよい。軽油を燃料に使っている。

 そしてなによりも「電力を生産している最中の原発」は,冷却水を媒介にそばの海域に向けて膨大な熱量を排出しつづける。つまり,「炭酸ガス」を排出しないその発電をする工程においてこそ,莫大な排熱を沿岸に向けて放出している。この事実に触れない「原発は稼働中にはCO2 を出さない」と強調する主張は,完全なる虚説・偽論であった。

 原発の建設工事が竣工し,実際に稼働して「電力を生産している工程」においては,炭酸ガスを出さないと説明されている。けれども,ここでとくに断わっておかねばならない留意は,だからといって「発電時に二酸化炭素を出さない原発を『確立された脱炭素技術』として活用すべきだ」という修辞にまですり替える論法そのものからして,もともと信頼するに値しない事項であった。

 補注1)もちろん,原発以外の再生エネルギーの電力生産方法でもそれぞれに建設工事やその後に迎える解体工事があり,この点は原発と同じである。しかし,原発のほうではとくに〈廃炉工程という難問〉が決定的に異なって,非常に長期間の工事を要求する。

 しかも,「〈歴史的な長さ〉になっている」と形容してよいほどの長さにまで,その工事期間は要求されている。日本の場合,「トイレのないマンション」という問題もまったく解決不能のままである。その展望もなにもない状況のなかで,原発廃炉問題にも当面させられつづけてきた。

 補注2)この記述を書いた状態で翌日(⇒本日 2021年8月2日)になって,配達された『日本経済新聞』朝刊の「経済教室」に寄稿された文章,竹内純子(国際環境経済研究所理事・主席研究員)「温暖化対策,日本の針路 (中)   政策の持続性に配慮  必須」のなかには,つぎのごとき〈問題含み〉とならざるをえない〈修辞・用法〉がみられた。該当する段落のみ引用する。

 二酸化炭素(CO2  )排出を大幅に削減するには,需要の電化と電源の低炭素化を同時かつ徹底的に進める必要がある。その鍵を握る低炭素電源は,再生可能エネルギー原子力,CCS(CO2  の回収・貯留)やアンモニア混焼による火力発電だ。今後拡大が期待される再エネの太陽光と風力発電は,ともに気象条件や国土などの自然条件により導入コストや導入可能量が大きく左右される。

 この見解は「低炭素電源」のなかに,再生エネルギーだけでなく原子力も仲間入りさせている点がミソ(いわゆる糞・味噌そのもの)であった。原発の「発電時にはCO2 を出さない」という迷説と類似した珍奇な提唱は,なにがなんでも「原発」と「再生エネ」の各電力生産方式とを,ともかく同じ仲間にくくって(仲良くさせて)おきたいのである。

 発電時はともかく(つまり “話にもならない” という意味だが),原発は耐用年数(稼働終了)後にあっては,再生エネルギーやそのほかのたとえば火力発電の事後処理,つまり,その解体などの後始末工事に比較して,はるかに桁違いの経費を予定しておく必要があった。原発廃炉の実態は先行する実例がすでにたくさん示されているが,その年数・手間・コストが要求される度合はすでに,ほかの発電方式とは「質的に異なっていた」と表現するほかないことは,周知の事実でもあった。

 おまけにたいそうまずいことには,放射性物質というきわめてやっかいな問題が山積状態となって残されつづけていく。そもそも,再生エネルギーと原発原子力)とを電力生産方式として「同じ仲間同士」にかこみ入れる発想そのものが,なにかの「ためにする操作」を〈謀っていた〉とみなすほかない。

 竹内純子の所属機関である国際環境経済研究所は,親・原発的な発想にこだわる機関であり,竹内もこの組織の特性(基本方針「原発擁護」)に逆らう論旨を披瀝するわけがなかった。

 『日本経済新聞』「経済教室」に竹内順子が寄稿した文章は,要点(ポイント)をつぎの3つとして挙げている。どうみても, “原発をともかく残せ” という論旨しか出てこない主張をする識者だとみうける。

 ※ ポイント ※

   ▲-1 原子力技術の位置づけを明確に示す必要
   ▲-2  火力発電の拙速な縮小は安定供給に支障
   ▲-3  炭素税制は既存制度の根本的見直しから

 われわれは「原発の意味づけ(反・人類性,非・人間性)」を明確にする緊急性を強く意識しておくべきである。竹内純子が強調するように「原子力技術の位置づけを明確に示す必要」があると,徹底してこだわるならば,まず最初に原発と原爆の関連」をめぐる議論から始めるべきである。だが,竹内順子の記述「も」,その付近の論点に触れることは〔ありえ〕ない。

 さて,原発事故に関連する技術的事項は「電源喪失」という問題があった。つまり,原発は電気を生産する装置・機械であるにもかかわらず,肝心なところでは電気をみずからは生産できず,外部から提供されていなければならない。この点からして,原発が確立された技術だとは,とうていいうわけにはいかない事由が明示されていた。

 東電福島第1原発事故はその問題(技術的な難点:弱点)が防止できなかった。「3・11」東日本大震災が発生した時,結局は大津波によって海水に埋没したがために,電源喪失という非常事態が起きてしまった。それ以前の段階で,地震の大きな揺れによってすでに電力を送電する鉄塔は倒壊していた。この状況は,一般のビルや家屋のなかで,発火時に備えて散水装置(スプリンクラー)が設置されている問題などとは,まったく異次元的な,つまり高度に異なった技術的な難所が,原発技術の内部にはもともと組みこまれてある。

 要するに,原発に固有である技術面の根源的な弱点が指摘されねばならず,『原発が確立された脱酸素技術』だという以前に,しかと意識されておくべき原発の欠陥問題から目をそらすわけにはいかない。この欠陥問題に触れずして『原発が確立されたウンヌン』を口にするのは,遠慮なくいって笑止千万。

 b) つぎに東電福島第1原発事故現場付近の放射線量「問題」を考えてみたい。人間が1日に浴びていいと許容されていた1マイクロシーベルトが,2011年「3・11」以後はその20倍=20マイクロシーベルトに変更されていた。

【本ブログ内の関連記事】

 本ブログ内では,上の記述が「発電時の原発炭酸ガスを排出しない(?)」といった,とても珍妙な奇説を開陳してきた原発推進派のエセ論理を批判した。

 そのなかでは,すでに原発コストは安価ではありえない現実を承知していながら,2030年に「電源比率20~22%」まで回復したいという奇怪な目標設定を,その記述 ③ の「『20ミリシーベルト』に根拠なんかないいい加減な,あまりにいい加減なこの国の安全基準 小佐古内閣参与はなぜ辞表を叩きつけたのか」において,さらに批判しておいた。

 そのなかでとりあげられていたのは,『週刊現代』2011年5月17日,https://gendai.ismedia.jp/articles/-/4852  が触れたのは,つぎの問題であった。

 小佐古敏荘(当時,東京大学大学院教授)が 「この数値(校庭利用基準の年間20ミリシーベルト)を,乳児・幼児・小学生にまで求めることは,学問上の見地からのみならず・・・私は受け入れることができません」と涙ながらに抗議し,反対する意見を述べていた。

 

 その根拠を具体的に説明する。年間追加被曝線量1ミリシーベルト(mSv/年)〔※1〕は,これを空間線量率に換算すると,空間線量率で毎時0.23マイクロシーベルト(μSv/h)〔※2〕に相当する。

 

 ※1が20ミリシーベルトとなれば,※2は「0.23×20」= 4.6 マイクロシーベルトとなる。本日〔2021年8月2日〕の ① として引用した,記事のなかに出ていたこの空間線量率を,比較するための材料として,再度書きだしておく。

 

   イ) 発車時は毎時0.1マイクロシーベルト

   ロ) 1~4号機を望む高台に着くまでの1分間で毎時31.6マイクロシーベルト。これは「いまの東京と桁が3つ違う高水準」。

   ハ) 鉄骨むき出しの原子炉建屋を100メートル先にみながら説明を聞くこと約15分,屋外の線量計が示しつづけた値が,毎時81.6マイクロシーベルト。この時は,視察者がめいめい身につける線量計から相次ぎ,警告音が響いた。

 なお,① として言及した記事はこの現場に入っていくレポになっていた。

 小佐古敏荘が子どもたちには危険だといって訴えた線量が,毎時4.6 マイクロシーベルトであった。そして,つぎの図表(上の)が『朝日新聞』2021年7月31日朝刊「社会」面に毎週掲載されている「東電福島第1原発事故現場」を中心地にした「福島県各地の放射線量」である。あえて断わっておくが,これは「3・11」後に10年と数ヶ月が経過しての測定値である。

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 補注)ひとまず福島市の線量のみ指摘しておくと,これは,現在の時点2021年7月時点であっても,まだ「3・11」以前よりも一桁多い測定値である。当時の風向きが各地域に残した線量の多寡を決めていた。2011年の原発事故後,つぎの汚染地図を作成・公開していた早川由紀夫群馬大学)は,当時,次段のごとき記述を残していた。

 

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 ◆-1「2011年4月25日」-このままだと福島県がつぶれる,命か生活か-

  家を捨てて逃げるか,それとも留まるか。災害時おきまりの議論では,ある。ただし今回は規模が大きい。100万人規模だ。さらに拡大して5000万人規模になる恐れもある。総理〔菅 直人〕がいったとされる「東日本がつぶれる」が現実問題化している。

 

 ◆-2「2011年6月4日」-飯舘村福島市の悲劇-

  飯舘村福島市は2011年3月15日夕刻,福島第1原発からやってきた放射能雲による深刻な汚染を受けた。しかしそのリスク認知は遅れた。そのあとのリスク管理も遅れた。汚染からまもなく3ヵ月がたとうとしているが,驚くべきことに,飯舘村に1400人,福島市に30万人がまだ居住している。福島県の責任は免れない。

 

 ◆-3「2011年7月27日」-私は福島県産の農産物を一生口にしない-

  5月9日にいったことを,2ヵ月半経ったいま,あらためていってみた。

 こうした社会要因的に自然の害悪を発生させていた東電福島第1原発事故現場については,本日の『日本経済新聞』朝刊がつぎの社説を書いていた。

 

 「〈社説〉東電再建は信頼回復に全力を」日本経済新聞』2021年8月1日朝刊

 東京電力ホールディングスが再建計画となる「総合特別事業計画」を作りなおし,国に申請した。2011年の福島第1原子力発電所の事故処理と,必要となる資金確保の基本方針を定める。

 福島第1原発廃炉と福島復興の完遂は東電の責務である。新たな計画を実効性あるものにするためには,収益力の向上が欠かせない。そのためには信頼の回復に最優先で取り組む必要がある。

 補注)冒頭から指摘しておくのは,「原発廃炉」と「福島復興の完遂」のために東電にとって不可欠とされある「収益力の向上」および「信頼の回復」は,現実的には非常に困難な課題になっていた。

 廃炉は100年単位で展望すべき課題になっている。「福島復興の完遂」に,はたして東電が本気にかわってきたとは,とうていいえない。過酷な原発事故の後遺症は,あらゆる意味で,東電にとって「も」致命傷的であった。

 どう表現したところで,いつまでもどこまでもダラダラと継続して背負わされつづけるほかない「原発事故が残した目前の現実」は,救いようがないほどに,われわれ「日本に暮らす人びとの心」にまで悪影響を与えた。

 その事実は,原発推進派の識者であっても,誰1人として否定できまい。100年単位で抱えこむ廃炉工程の問題,原発事故原発を処理していくそれは,ただに重荷でありつづけるほかない。2011年「3・11」からすでに10年と数カ月が経った。その期間は100年のまだ10分の1であるが,いまのこの時点だからといってまだそれほど懸念しなくていいといえるか?

〔記事(社説)に戻る→〕 東電は約3年ごとに総合特別事業計画を作りなおしてきた。第4次となる新計画は2020年度中の策定を予定していたが,収益改善のかぎとなる柏崎刈羽原発新潟県)の再稼働が進まず,その間に不祥事も相次ぎ,申請が遅れていた。

 補注)前段で紹介した「福島県各地の放射線量」は『朝日新聞』2021年7月31日朝刊に毎週土曜の定例記事として掲載されているが,この記事の上にはつぎの記事も出ていた。

   柏崎刈羽の配管,サビなど30カ所 東電,再稼働さらに遅れも ★
        =『朝日新聞』2021年7月31日朝刊32面「社会」=


 東京電力は〔7月〕30日,柏崎刈羽原発6,7号機(新潟県)で,安全対策工事の不備があるとの匿名の申告があった問題で,6号機の30カ所で配管のさびなどを確認したと発表した。調査は続いており,完了は見通せないという。東電は7号機の再稼働を早ければ2022年秋,6号機は2024年とする新たな計画を示したばかりだが,追加調査や再工事が避けられず,さらに遅れる可能性がある。

 

 東電によると,今〔2021〕異年3月以降,特定の下請け業者の名を挙げて,6,7号機の消火設備の配管で「ずさんな溶接をおこなっている」との匿名の申告が複数あった。

 

 東電はこの業者が施工した6号機の約1200カ所のうち,約400カ所を対象に調査に着手。溶接時の酸化を防ぐ処置をおこなっておらず,配管内がさびている溶接部などが30カ所(7月25日時点)みつかった。業者にやりなおしを求めるという。

 

 再稼働前の点検を終えたとしていた7号機でも,同じ業者が請け負った配管の溶接部が約1200カ所ある。東電は調査を進めているが,現時点で新たな不備はみつかっていないとしている。

 ここでは,つぎの関連する説明を聞いておくのが便宜である。最後に「内部告発」に触れている。

 原発の限界」『いのちの水』http://pistis.jp/textbox/hodos/txts/toki/2011-5-5.html   が,「原発の配管の長さの総計はどれほどになるのか,そんなことはほとんどの人は考えたこともないであろう」と批判する文書を書いていた。

 

 a) これは総延長では80キロほどにもおよび,その溶接箇所は2万5000箇所にも及ぶ。そのような長大な配管はそこを通る高圧の熱水の高い放射能によって徐々に変質しもろくなっていく。 原発には,そのような構造上の欠陥がある。

 

  さらにそれと関連しているが,そのための定期点検は強い放射能を帯びているその配管のひび割れや消耗を調べるのであるから,作業員たちはわずかの時間,ナットを締めるにも,何人もが交代で走るように現場にいって,少しずつ作業を進めるというほどに危険な作業なのである。

 

 b) そのような作業ゆえに,当然その担当者が手抜きをすることが十分にありうるし,破損の点検なども手抜きすることがありうるのは,誰れが考えても分かることだ。人間とは弱いものであって,疲れていたり,すぐつぎの作業員に作業を引きつぐなら,自分の担当の作業を急いだり,簡単にすませたりすることがあるだろう。

 

 ほかの自動車とかの機械と根本的に異なるのは,数分とか10分とかいったわずかの時間しか持続して使えないような危険な場所がいろいろとあるという点である。いかに設計上は優れた技術者が作成して安全だと,少なくとも理論的にはなされても,実際に原発を支えているのは,現場の作業員である。

 

 疲れ,弱さもあり,またその報酬のためだけにその危険な作業にくわわっているのであるから,当然間違いもミスも手抜きもある。それを監督する人も,そのような膨大な長さの配管や溶接作業を一つひとつ確認できるはずもない。

 

 c) ビルや橋の建築においても,手抜きということがよくあり,以前にも耐震設計を偽っていたことが大問題となったことがある。どんなことにもそれは起こりうる。

 

 いかに津波対策をしようと,またどんなに耐震設計をしようとも,なおそこにかかわる人間の弱さというものは,いかにしても克服ができない。また,機械化していくといっても機械にも必然的にミスが生じうる。長く使っているうちに故障,誤作動のない機械などはありえない。

 

 機械そのものも壊れることがあるし,人間も絶えず疲労し,また精神的に疲れたりしていると,これぐらいのことは… と小さな破損なども放置しておくという可能性がある。人間そのものがいわばつねに一種の「壊れる」という状況をもっているのである。

 

 そのうえに,検査,点検を人間がするのであるから,当然一部の箇所しかみない,ということも起こりうるし,意図的に簡略化したり,生じた事故を起こっていないとする人間も生まれる可能性がある。

 

 d) このように,さまざまの点で大きな限界をもっている人間が最終的にかかわるゆえに,必らずミスや情報隠し,また金や地位への欲望などによって不正をする等々があちこちで生じることが予想される。実際いままでにもそのようなことは数多く生じてきた。

 

 たとえば,報告を義務づけられた事故だけでも,2007年に23件,翌年2008年にも23件,2008年に15件もの事故が報告されている。

 

 また,1995年以降だけをとっても,レベル1からレベル4の事故は,11件,さらに内部告発によって発覚した事故も過去35年ほどで,15件ほど生じている。内部告発ということは,よほどのことがないとなされないのであって,まだまだ隠された事故が相当あったと考えられる。

 ここで,東電刈羽柏崎刈羽原発については,つぎの関連事情も添えておく。

 柏崎刈羽原発における営業運転開始の時期は,6号機が1996年11月,7号機が1997年7月であった。2011「3・11」以後の経過をみるに,全7基は2012年3月26日に6号機が定期検査のために停止してから,9年以上も動いていない。 

 7基もの原発が配置されている東電の刈羽柏崎刈羽原発がそれほど長期間,稼働できていなかったという経営事情は,会社の採算問題としては大打撃である。しかし,東電福島第1原発事故といた歴史的な大事故のために,国家側からの安全規制を受ける電力企業保有原発はそのような経過に置かれてきた。

〔記事に戻る→〕 事故処理の費用を総額約22兆円とし,約16兆円を東電が負担する大枠は変えない。東電は2030年度以降,廃炉や賠償費用として年5000億円を負担したうえで年4500億円の経常利益を確保する。

 補注)この事故処理費用の総額約22兆円とは通年の金額であるが,たいそうな巨額である。参考にまで挙げていえば,トヨタ自動車の2021年3月期決算(国際会計基準)は,売上高が前年比8.9%減の27兆2145億円,最終的なもうけを示す純利益は10.3%増の2兆2452億円であった。

〔記事に戻る→〕 変わったのは収益計画の中身だ。柏崎刈羽原発の再稼働は早ければ2022年度とみこむ。各電源のコストを計算し直し,原発1基が稼働した場合の収益改善効果をこれまでの約1000億円から約500億円に引き下げた。

 原発の収益改善効果を修正した分,利益目標の実現には他の分野の稼ぐ力を高める必要がある。新計画は2030年度までに再生可能エネルギーなど脱炭素の取り組みに最大3兆円を投資し,電気自動車(EV)向けの充電設備の整備など新規事業の強化を盛りこむ。

 カーボンゼロの潮流に沿った事業構造の転換をためらってはならない。ただし,収益の拡大は発電所の立地地域に信頼され,消費者から選ばれることが大前提だ。事故から10年を経てなお,原発や小売事業などで相次ぐ不祥事からは,東電にまかせて大丈夫なのかとの疑念を拭えない。

 国は引きつづき東電株の過半をもちつづける。廃炉と福島復興の資金を途切れさせないためにも,国と東電はまず,ガバナンスの立てなおしに全力を集中すべきである。(引用終わり)

 いまの東電(東京電力ホールディングス)は,国民の血税を充てて維持されている電力会社である。そもそも,企業統治の問題が弛緩しているようでは,後始末事業である原発解体問題や電力小売りの問題など,いまだにまともに解決できそうな見通しがついていない。東電管轄の地域ではこのさい,東電の経営体制を抜本から改革する必要があるが,その見通しは膠着している。

 ところで,『日本経済新聞』2021年7月29日朝刊11面「特集」,20「30年度 電源構成に死角 〈カーボンゼロ〉-点検・エネルギー基本計画原案」のなかで「原子力は20~22%」にすると決めていた点については,この項目の末尾がこう解説していた。

  米国は安全性を高め,工期も短縮できる小型モジュール炉(SMR)の商用化を目前にこぎ着けるなど,欧米は新型原発の開発に注力する。日本も信頼を回復しながら再稼働を進め,再生エネと原子力の両立を図ることが重要だ。 

 

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 もとより「再生エネと原子力の両立(仲間化)を図る」という狙いは,初めから矛盾ならば富んだ発想であった。この事実は既述中で批判した。また,小型原発の問題は「日本もこの開発に注力する」と触れるだけであった。

 日本の国民・市民・庶民たちの3分2以上は「原発は要らない派」であるにもかかわらず,この事実など存在しないかのように議論する識者は,試験に出題された問題に対して,わざと課題はずしの要領で答案を書こうとする生徒・学生の答え方に似ている。

 要は,全体的になにを訴えたいのか不詳なのであるが,原子力原発)は問答無用に残しておけといっているだけである。原発廃炉が意味する「トイレのないマンション」問題については,竹内純子流儀の議論は,けっしてまともに言及しない(というよりも「できていなかった」というか,回避しておくほかない)。この付近からは間違いなく,欺瞞に足を引っぱられた所見があれこれと露呈・流出してこざるをえない。

 なかんずく,「再生エネと原子力の両立を図ること」の主張・議論は,いつも水と油(《悪魔の火》と〈自然の火〉)を混ぜこませたそれにそっくりである。その主張・議論が定まり落ちつく地点は,どこにも与えられておらず,中空をさまようほかなかった。

 だから,原発に関する発言はどの道,再生エネルギーのなかに原子力エネルギーを「もぐりこませて」「騙る論法」になりはてるほか,「欺瞞のリクツ」としては採る手立てがなかった。

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