白洲次郎がGHQに出した「ジープ・ウェー・レター」を買いかぶる意見を披露した,永山 治中外製薬名誉会長『私の履歴書』28回「道は違えど目的は一緒」の記述は,歴史の解釈として妥当性があるか疑問

 西 鋭夫・岡崎匡史『占領神話の崩壊』中央公論新社,2021年7月は,白洲次郎ジープ・ウェー・レター」に対する歴史的な評価として「最低の出来」だ とみなす意見を提示している,これは,永山 治中外製薬名誉会長がその〈ジープ・ウェー・レター〉をもちだした「意図や利用,評価」の方向性とは,うまく噛みあわない「学問的な評定」を下している

 

  要点・1 敗戦直後の日本政治史過程のなかでハデに動いていた白洲次郎に対して,従来の一般的・常識的な評価・称賛を根柢から覆す政治学者の意見

  要点・2 敗戦に打ちひしがれていた日本のなかで唯一,占領軍と渡りあった人物が白洲次郎であったとみなす「俗説にもとづく認識」に対する「異論・批判」


  「〈私の履歴書〉永山 治(28回) ジープ・ウエー  道は違えど目的は一緒  ロシュと徹底議論  心通じ合う」日本経済新聞』2021年8月29日朝刊

  まず,画像資料にして掲示しておき,つづいて文章でも引用しておく。とくに問題にする段落については,それぞれ該当する部分を分かりやすく示しておく。

 1)画像資料              

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  2)紙面の引用-該当箇所のみ-

  私の履歴書    永山  治(28回)  ジープ・ウエー  道は違えど目的は一緒 ロシュと徹底議論 心通じ合う ◆

 日本ロシュと中外製薬の合併が決まると,まだ手続き完了前の2002年初めに,スイスで開かれたロシュ・マネジャーズ・ミーティングに招かれた。毎年ロシュの経営幹部が世界中から集まり,泊まりがけで年次計画などを話しあう大切な場だ。

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  補注)「書かれている英文」そのものが判読できる程度に写っている「同じ文書の画像」もつぎに挙げておく。 

 

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 フランツ・フーマー会長兼最高経営責任者(CEO)は「将来を勝ち抜くために」として「7つの重要課題」を挙げた。そこに「Japan」があった。日本の医薬品市場は米国に次ぐ世界2位の規模だったが,ロシュの日本市場における売り上げシェアは35位で低迷していた。しかし翌年の会議で Japan は消え,合併効果への期待を感じた。

 その5年後に,バーゼルのロシュ本社で開かれる全世界の従業員向け「ランチ・トーク」に初めて招かれ,大講堂で日本ロシュとの合併と展望について説明した。創業家ロシュ一族の社外取締役を含む取締役会メンバーらが前の席に勢ぞろいした。ロシュグループ内でも中外の経営に関心が強く,私自身が講演するというので注目されたようだ。

 会場から「自主経営というがロシュ流と中外流で違いが出たらどう調整するのか」と質問が飛んできた。どう答えたものか,ちょっと間があいた。すると,驚いたことにフーマーさんが助け舟を出してくれ,以前私が彼に語った白洲次郎さんの話をしてくれた。第2次世界大戦後,GHQ(連合国軍総司令部)が示した憲法草案について,白洲次郎がGHQ側に出した「ジープ・ウエー・レター」のことだ。

 出発地と目的地,それにあなた方(米国)の道と彼ら(日本)の道が描かれている。米国は直線的に目的地に向かうが,日本は曲がりくねった凸凹道,つまりジープ・ウエーをいく。フーマーさんがこれを覚えていて,私に代わって紹介してくれた。

 私は中外の創業者,上野十蔵の思い出も話した。1950年の欧州視察旅行でロシュを訪ね,日記に「実に立派」「日本に帰ったら中外を日本一の製薬工場にして外国人にみせても恥ずかしくないものにしようという気持ちで胸がいっぱいになる」と記した。生きていたら日本ロシュとの合併をなんといっただろうか。

 皆じっと聞き入り,話し終えると大きな拍手に包まれつぎつぎに握手を求められた。ロシュの人たちと心が通じあった気がした。

 中外はロシュと提携後も自主経営で,研究は完全に独立していた。中外はロシュの製品を日本で商業化し,ロシュは中外の製品を商業化するので各部門で協議をする。ロシュの人たちは積極的に意見をいう。中外側は,内政干渉と受けとめ自主経営に反すると捉える人もいるようだった。

 事柄によっては会議後に中外側の人たちだけで不満を述べるといった事態になる。私は会議中に納得いかないことがあれば,その場で反論するよう仕むけた。現在に至るまで,ロシュのやり方が優れていると思えばすぐに取りこむよう心がけてきた。

 〔20〕04年ごろフーマーさんの家で,医薬情報担当者(MR)についてだいぶやりあった。日本は施設ごとにMRがおり,すべての薬をあつかう。ところが欧米では,がんなど専門ごとに豊富な知識をもつMRがいた。「中外も専門MRを考えたら」ともちかけられたが,私は「効率が悪いし日本には向かない」と譲らなかった。しかし,よくよく考えると理にかなう部分もある。思い直して社内で検討させ,がん専門MRを置くことにした。(中外製薬名誉会長)(引用終わり)

 

 ジープ・ウェー・レター」そのものを,「他のための説明」に利用するさい,軽率にあつかっていた点

 つぎに引照する文章は,かなり無条件に信じられている「日本・国粋主義の立場」からモノを語っていて,いささかならず鼻白む印象が避けえない口調があるが,ともかく前後する記述を活かすための材料として利用する。

 記述されたその文書の題名は, ブログ名『かつて日本は美しかった  かつて日本人は清らかで美しかった。かつて日本人は親切で心豊かだった。』2012年5月10日の「白洲次郎ジープウエイ・レター  従順ならざる唯一の日本人,白洲次郎。」である。

 註記)http://jjtaro.cocolog-nifty.com/nippon/2012/05/post-cc6b.html

 戦後占領下,終戦連絡中央事務局・次長の白洲次郎はGHQに「従順ならざる唯一の日本人」といわしめました。GHQ憲法に抵抗した白洲次郎の話はNHKで紹介され,テレビドラマでやっていたのでだいぶ有名になってきたでしょう。

 そのなかで「ジープウエイ・レター」の話は有名です。国立国会図書館に「ジープウエイ・レター」をみることができますが,私の手もちの書籍のジープウエイの絵とはちょっと違います。書き写しなどのためでしょうか。

  昭和21年(1946年)2月3日に憲法改正案(松本案)がGHQへ提出されましたが,それから10日後に民政局ホイットニー准将より “マッカーサー草案” を提出してきました。このとき幣原首相と松本国務相はこの草案はひとつの案だととらえていました。

 しかし,白洲次郎はホイットニー准将に面会し, “マッカーサー草案” は指令であることを感じます。それを松本国務相に話をしたところ,松本国務相は手元の紙片に絵を描いて白洲次郎に示しました。その絵がこの「ジープウエイ」です。そして白洲次郎はホイットニー准将にこの絵を添えて手紙を書きます。

 「彼をはじめ閣僚は貴下のものと彼らのものとは,同じ目的をめざしているが,選ぶ道につぎのような大きな差異があると考えています。

 

 貴下の道は,直線的,直接的なもので,非常にアメリカ的です。彼ら(日本政府閣僚のこと)の道は回り道で曲がりくねり,狭いもので,日本的にであるに違いありません。

 

 貴下の道はエアウエイ(航空路)といえましょうし,彼らの道はでこぼこ道をいくジープウエイといえましょう・・・松本博士は,その感想をつぎのよう(な絵)に描きました・・・」。

 これはホイットニーには時間稼ぎと思われ,きわめて強い返書が返されました。

 「あなたのお手紙では,〔1946年2月〕13日に私がお渡しした文書(マッカーサー草案)を『あまりに急進的な』という言葉で形容されているが,そのような言葉でも表現できないほどにきびしいものになり,最高司令官がお渡しした文書で保持できるよう計らっておられる(日本の)伝統と体制さえも,洗い流してしまうようなものとなるでしょう」(マッカーサー草案が受け入れられない場合のことをいっている)。

 もはやこれは恫喝でしょう。これにも白洲次郎と松本国務相ひるまず,返書を書いたところ,48時間の期限付き最終通告を出しました。幣原内閣は揺れに揺れて2月21日に幣原首相がマッカーサーと会見し,受け入れを決定します。

 3月4日,再度松本案をGHQに提示しましたが,GHQのホイットニーやケーディスが不快感を示し,マッカーサー案を日本語化し,討議がおこなわれ,ファイナルドラフトが作成されました。そして3月6日に閣議で新憲法の最終草案が了承され,発表されると間髪いれずにマッカーサーは声明を出します。

 「天皇,政府によって作られた新しく開明的な憲法が,日本国民に予の全面的承認の下に提示されたことに深く満足する」。

 このGHQ憲法には日本を管理するための政策機関として設けられた極東委員会からも「国民は憲法を理解していない。時期尚早である」と反発があがります。しかし,マッカーサーは拒否。強引に押し通しました。

 4月10日の総選挙で日本自由党が第一党になり,鳩山総裁が首相の指名を待つばかりとなりましたが,GHQは鳩山一郎公職追放にし,吉田内閣ができました。そして8月24日,GHQ憲法衆議院で圧倒的多数により可決してしまいました。議場では多くの議員が無念のあまり嗚咽を漏らしました。

【参考文献】-なお,以下の「原文の〈関連する表記〉」は簡素すぎて不備・不詳な点があったので,追求して補足しておいた-


    北 康利『白洲次郎講談社,2005年(上・下分割版,2008年)。

    河出書房新社編集部『白洲次郎 増補版新版-日本で一番カッコイイ男-』河出書房新社,2016年。

     白洲次郎「『占領秘話』を知り過ぎた男の回想」『週刊新潮』20(33)(1011),新潮社,1975年8月21日号,118-123頁。

      児島 襄「白洲次郎の抵抗」『史録日本国憲法 13』文藝春秋,1985年,306~317頁。
   徳本栄一郎『英国機密ファイルの昭和天皇』新潮社,2009年。

 

【参考サイト】

  Wikipedia日本国憲法」「鳩山一郎」。

  Letter from General Whitney to Mr. Shirasu, dated 16 February 1946, answering “jeep way letter”

  http://www.ndl.go.jp/constitution/e/shiryo/03/081/081tx.html

 

【引用者補足】 ウィキペディアの「白洲次郎」の記述には,以上以外の註記文献が列記されている。

 

 白洲次郎が敗戦後にどう活躍したにせよ,戦後における米日関係の基本路線は決まっていた

 ところで,② の最後の段落で言及されている「議場では多くの議員が無念のあまり嗚咽を漏らしました」という点については,その逆に受けとっていた日本人たちが大勢いた事実を,突きつけるかたちで付記しておかないことには,いちじるしく均衡を欠く「歴史理解」になる。

 敗戦後,戦地から引き揚げてきた旧日本軍兵士たちのなかには,白洲次郎たちが敗戦後史において必死を抵抗していたところで結局,GHQから押しつけられた「日本国憲法」(を印刷した文書をもらって)を,引き揚げ船の中で配布されて読み,大いに感激し涙を流したという話は,本ブログ筆者が読んだ関連する本のなかでも何回か出会っている。

 敗戦まで,そしてその後も日本という国の頂点付近にいた者たちと,一兵卒として戦場に追いやられ,それこそ九死に一生をえるかっこうで祖国に帰還できた人びととのあいだにあっては,旧明治憲法(旧大日本帝国憲法)から新憲法日本国憲法)に移り変わった憲法じたいの内容に接したさい,相当に大きく異なる印象を与えた。

 もちろん,GHQ(General Headquarters,連合国最高司令官総司令部の総司令官)であったダグラス・マッカーサーの命令のもとで急遽,作文し,制作された日本国憲法であっても,旧憲法よりはよほどマシな民主的な憲法であったからこそ,「彼らはその条文ひとつひとつに感激した」わけである。

 ただし,憲法第9条と引き換え条件であったかのように天皇天皇制は残置された。この点は,GHQを出先機関(「日本総督府」)とする米国政府の意向によって,憲法の第1条から第8条までにその「天皇条項」を残しておいたところに表現されていた。被占領国となった日本に対するGHQの統治・支配は,なるべく要らぬ摩擦をおこさないで,より円滑に維持・発展するための工夫・措置が確保できるように,「天皇天皇制の善用」(!)が企画されたのである。。

 21世紀のいまになっても,米日間における政治的・軍事的な服属関係が少しも揺るぎないかたちで継続されてきた事実は,実は,その日本国憲法にしこまれていた「当初からの狙い」がほぼ成功裏に実現してきた点を物語っている。                   

 たとえば,吉田敏浩のつぎの2著だけでもいい,一読してみると,「日本はいまだに実質アメリカの属国だ」という認識は否定できない。

  『検証・法治国家崩壊:砂川裁判と日米密約交渉』創元社,2014年。

  『日米戦争同盟-従米構造の真実と「日米合同委員会」』河出書房新社,2019年。

 この種の書籍(とくに「対米従属」というコトバを書名に付けたもの)は,他著としてもたくさん公刊されている。要するに,日本はアメリカの完全にかつ実質的な「属国に相当する状況」に置かれている。自衛隊3軍は米軍の褌かつぎ部隊に位置にあるといってもいい。そこまで形容したらいいすぎだという向きには,三下部隊だとでも申し添えておく。

 なにせ,たとえば,日本国の神奈川県横須賀市にある在日アメリカ海軍の基地となると,「原子力航空母艦が所属する」海軍基地なのであり,つまりその母港である。日本政府の公的資料でいうところの「横須賀海軍施設」(U.S. Fleet Activities Yokosuka FAC3099)として存在する。

 日本では一般に,米軍横須賀基地横須賀基地と呼ばれることが多く,地元では「ベース」,アメリカ軍関係者などからは「横須賀ベース」と呼ばれている。この米軍の海軍基地・施設はもちろん治外法権地域である。(クリックで拡大・可)

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 上のグーグル・マップから切り出した衛星写真をみておきたい。米軍基地内は完全に(?)英語表記になっている。これは「ナントカ番外地」?

 補注)「横須賀へ配備された空母『ロナルド・レーガン』,その強大な能力」
乗りものニュース』2015.10.31,https://trafficnews.jp/post/45201  は,つぎのように報じていた。

   東日本大震災で洋上拠点になった空母 ◆

    =「一番近い空母はどこを航行中か?」=

 

 世界のどこかで大事件が発生したさい,アメリカ大統領は必ず最寄りの空母の所在を尋ねるという逸話があります。われわれ,日本人が忘れえぬ日となった2011年3月11日の東日本大震災当日にも,オバマ大統領はそう発言したに違いありません。事実,震災発生から2日後の3月13日には,太平洋を航行中だった空母「ロナルド・レーガン」が日本近海に到着し,救難活動を開始しました。

 

 「オペレーション・トモダチ」と命名された米軍の救難活動において,「ロナルド・レーガン」および,その他の米艦を発進したヘリコプターは3月13日だけで3万食の非常食を空輸,自衛隊へ引き渡すなど大きな貢献を残しました。そして「ロナルド・レーガン」は4月5日に撤退するまで,捜索・救出・空輸活動の貴重な洋上拠点として活躍します。

 

  そして今年2015年,「ロナルド・レーガン」は神奈川県の横須賀米海軍施設へ配備されることとなり,9月3日にサンディエゴを出航。10月1日,新たな母港となる横須賀へ入港しました。そして到着早々,10月12日には初めての一般公開をおこなったほか,10月18日には海上自衛隊の「観艦式」において祝賀航行をおこなうなど,すでに活動を開始しています。

 なお,本日2021年9月5日の時点に近い関連でみつかるニュースとしては,,「アメリカ空母『カール・ヴィンソン』 横須賀へ入港  最新ステルス戦闘機F-35Cも」『YAHOO!JAPAN ニュース』2021/8/29  (日) 12:50 配信,https://news.yahoo.co.jp/articles/7b0c6d717c2d3c7de77d9d18b3d7918c8c3d78b7  というものがみつかり,

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 さらには,「遂に来た!  英空母『クイーン・エリザベス』 横須賀へ F-35B戦闘機は載せたまま」『YAHOO!JAPAN ニュース』2021/9/4 (土) 14:31 配信,https://news.yahoo.co.jp/articles/459cfba58ae1401885b94a795d37df4e7568e09b  というニュースも出ていた。

 横須賀の在日米海軍基地には,まるでアメリカ本土の基地であるかのようにして,イギリスの空母も寄港している。この様子は単に,軍事オタクが喜ぶような現象だと “受けとめておくこと” だけにしておける出来事ではない。

 

  西 鋭夫・岡﨑匡史『占領神話の崩壊』中央公論新社,2021年7月が白洲次郎関係で「ジープウェイーレター」に関して語っていること

  さきに断わっておくが,本書『占領神話の崩壊』は,つぎのように説明されている著作であった。

 日本の敗戦前後,あまたの公文書が焼却されたといわれている。しかし,決裁文書などを除く多くが「私文書」として個人の手許に残されていた。これらの資料を,占領期に積極的に収集したのが,フーヴァー研究所東京オフィスであった。

 

 フーヴァー研究所は,スタンフォード大学の第1期卒業生であった第31代米国大統領ハーバート・フーヴァーが1919年に設立した研究機関。戦後,フーヴァー自身,占領下の日本,ドイツに赴き,占領政策にコミットした。その一環として,資料収集計画があった。

 

 駿河台の東京オフィスを拠点に,1945年11月から1951年3月まで,書籍・専門書・新聞などを含む1468箱が海路米国にもち出された。これらの資料には,「GHQ直筆・日本国憲法の原文」「東京裁判の宣誓供述書」「関東軍特務機関の阿片政策」「日本共産党員の獄中手記」「特高警察の極秘史料」などの一次史料が多数含まれ,「フーヴァー・トレジャーズ」(Hoover Treasures)と呼ばれることになった。

 

 本書は,こうして形成された「フーヴァー・トレジャーズ」から占領秘史を炙り出したものである。そこで浮かび上がるのは,日本国憲法制定をめぐるGHQと吉田 茂の取り引き,東京裁判における天皇免訴をめぐる暗闘,満洲国の財政を支えた阿片取り引きとそれを担った三菱・三井,日本国内での阿片栽培……などの新事実である。

 

  戦後に改竄された「歴史の欺瞞」を炙り出す試みであり,『國破れてマッカーサー』の続編,発展版ともいえる著作である。

   1)   西 鋭夫・岡﨑匡史『占領神話の崩壊』109頁

 「白洲がホイットニー准将へ手紙を送った時,日本全土は米空軍の無差別攻撃で破壊状態の焦土。飢えた国民には明日への希望もなかった。わずか6カ月前,米軍は日本の非戦闘市民の頭上の原子爆弾2発を落とし,日本から無条件降伏を勝ち取った」。

 「戦闘にかかわったこともない白洲は『無条件降伏』の現状を理解しておらず,勇者マッカーサーの側近中の側近と交渉するかのごとく無礼な手紙を書いた。「白洲に勇気があった」の次元ではない。現状を把握できていない無知な男の無謀な行動であった。それを許すホイットニーではない。吉田〔茂〕がみずから危ない手紙を書かず,白洲に欠かせたのは,吉田の老獪さか。

 2)   西 鋭夫・岡﨑匡史『占領神話の崩壊』115-116頁

 白洲次郎はGHQから蛇蝎のように嫌われていた。白洲は事実と違いことをいいふらし,GHQの内部を対立させようとしていたことをホイットニーは感づいていたからである。敗戦国の外務大臣の腰巾着のような動き回る白洲の態度に虫唾が走っていたのだ。彼が馴れ馴れしく背中を叩いてくることに我慢がならなかった。

 白洲が嫌いのは,GHQだけではない。日本人からも嫌悪されていた。白洲の「自分がその気になれば,いつでも大臣になってみせると自慢する」のが鼻もちならない。

 なぜ,白洲次郎は吉田 茂に重用されていたのか。白洲が吉田 茂の三女・和子(1915~1996年・第92代内閣総理大臣を務めた麻生太郎の母親)の仲人役を務めていたからである(佐藤朝彦『閨閥立風書房,1981年)。

 さらに,白洲事情の妻・正子(1910~1998年)の祖父は,薩摩藩出身で海軍大臣を務めた明治の元勲・樺山資紀(1837~1922年)。吉田 茂の妻雪子の父は,薩摩藩出身の牧野伸顕(1861~1949年・大久保利通の次男として誕生)。維新の立役者というDNAが連なっている。吉田にとって,白洲次郎は身内の感覚だったのだろう。

 米占領が終わりに近づくころ,吉田 茂は白洲次郎を駐米大使に推薦。しかし,この目論見は強い反対に遭い,頓挫。1951(昭和26)年に白洲が東北電力会長となり,政治部隊から引き下がったとき,GHQにも日本の世辞かたちにも,彼を惜しむものはいなかった(ハリー・E・ワイルズ『東京宣布』時事通信社,1954年)。

 3)  西 鋭夫・岡﨑匡史『占領神話の崩壊』302-303頁

 奥村勝造は「イギリス英語」を学んでいたので「アメリカ英語」には自信がない。にもかかわらず,吉田 茂外相は,奥村に大役を任せることで,外務省の職務対面を隠そうとして。奥村を任命した吉田は,天皇マッカーサーの会談内容をしりうる立場になる。最高機密情報をしりえたのが吉田 茂だ。

 ところが,奥村勝造は4回目の「昭和天皇マッカーサー会談」の内容を,迂闊にも報道陣にオフレコで喋ったとして,マッカーサーの激怒を買い,即刻,懲戒免職。

 奥村 宏は悶え苦しみ,亡くなる直前,「天皇の誤解されていては自分は死にきれない」と陛下に思し召しを伺う。

 昭和天皇は「奥村 宏には全然罪はない」と慰めの言葉をお伝えになる。陛下のお言葉を伝え聞いた16日後の1975(昭和50)年9月26日(金曜日)に奥村 宏は死去。
 
 歴史は複雑怪奇。記者に会談内容を漏らして真犯人がいたからだ。犯人は白洲次郎。奥村 宏が終戦連絡部中央事務局に報告した内容を,「英国紳士」の白洲がべらべら喋っていた。白洲は,終戦連絡部中央事務局次長で,奥村の上役にあたる。

 白洲が犯人だと物申すのは,昭和天皇に52年間も側近として仕えた徳川義寛(1906~1996年・侍従次長・侍従長を歴任)。徳川は「奥村勝造さんは気の毒でした」と同情を禁じえない(徳川義寛・岩井克己解説『侍従長の遺言』朝日新聞社,1997年)。

 さらに,陛下の側近を50年間務めた入江資政(1905~1985年・侍従次長・侍従長を歴任)の日記にも,「白洲がすべて悪い」という昭和天皇の御言葉が残されている(入江爲年監修「1975年9月10日」『入江相政日記 第5巻』朝日新聞社,1991年)。

 吉田 茂の側近として毎夜権力の甘い香りを嗅いでいた白洲次郎は,名誉に飢えていた。崇められたいと熱望するが,自分でなしとげた業績がないため,おのれのなかに誇れるものが育っていない。人格の大黒柱になる確固な自信もプライドもない。

 奥村が報告した極秘の「天皇マッカーサー-会談」の内幕をマスコミに自慢げに喋っている時に「大物」になれたと錯覚する。国家機密を暴露してまで,犯罪行為を犯してまで,目立ちたかった品性のない人だった。

 貧しい日本で富豪として育ったハンサムな白洲は,金銀と品格の間には渡り廊下がないことをわれわれに教えてくれた。白洲は1985(昭和60)年に死去するが,40年間も奥村を「犯罪者」にしたまま,おのれは占領期の「主役」として伝説を紡ぎつづけたが,昭和天皇が白洲の作り話を破られた。(引用終わり)

 西 鋭夫・岡﨑匡史『占領神話の崩壊』が語る〈白洲次郎への糾弾〉はまだつづくが,ここで引用を終わらせる。

 要は,キングス・イングリッシュの上手な使い手だった白洲次郎という人物は,敗戦後史のなかで,目立つ動きを残していた。しかし彼が,その政治過程のなかで実際に記録した軌跡は,けっして褒められるものではなかった。この指摘が,西と岡崎の同書によって,きびしい批判として放たれた。

 本日におけるこの記述の最初に触れた,永山 治中外製薬名誉会長『私の歴史賞』28回「道は違えど目的は一緒」の記述は,「白洲次郎が〔自身で用意したものではなかったが〕GHQに出した「ジープ・ウェー・レター」の図解までも,不必要に買いかぶることになる「利用(引用)の仕方」をしていた。この点は,歴史の解釈として問題含みになるほかない食い違いを生じさせる。

 「私の履歴書」のなかでだが,それも自分の人生=履歴の一端を説明するためにもちだしたに過ぎないけれども,その「ジープ・ウェー・レター」にまつわる話題は,読む人によっては「敗戦後史の嫌な思い出」までを,しかも昭和天皇マッカーサーまでも絡んだ話題として,引きずり出させる題材になっていた。その点は,「私の履歴書」を書いた当人の意図からずいぶん離れていたとしても,この種の記述をするさいには重々に留意すべき要素があったと指摘せざるをえない。

 簡潔にいえば,白洲次郎に対する「敗戦後史における過大評価」が,いまだに大手を振ってまかり通っている。

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