『経営学の開拓者たち』(2021年4月発行)という本に巻かれた「帯」いわく「神戸大学経営学部の歴史は,日本の経営学の歴史である」と,ならば「一橋大学商学部の歴史は,日本の経営学の歴史である」といわねば均衡のとれた学史理解になりえない

              (2017年8月25日,更新 2021年10月4日)

 日本の経営学は21世紀にはいってから現在まで,理論に関する「方向性感覚を喪失させた状態」にある,「社会科学としての本質論・方法論」をめぐる問題意識を忘失し,放擲した学的状況に追いこまれている

 さて,いまから1年半ほど以前になるが,古本で日本経営学会編『日本経営学会史-51周年から90周年まで-』千倉書房,2017年9月を入手し,読みはじめたところ,途中で放り投げた

 あえてあからさまに感想を述べておくが,よくもここまでつまらない,工夫のない内容編成でまとめあげるかたちをとって,各執筆者が記述してものだと,それも妙に感心するくらいの程度に仕上っていた,別言するとしたら〈やっつけ仕事〉の域を出ない「陋作」であったと,感じた

 いいかえると,戦前から1世紀近く各年に発行されてきた日本経営学会の報告集「経営学論集」を,ただ単にそれぞれ要約的に紹介したかのような内容になっていたからである,既存の日本経営学会史(「学界」史も視野に入れてとするが)を究明した著作には,もっと個性があって興味深い学説史を討究した著作がないわけでない,こちらに比較するに,まるで生気を感じられない,その『日本経営学会史-51周年から90周年まで-』を手にとって読み出した時の気分は,はっきりいって不快に近いものにまでなっていた

 

  🌑 ま え が き 🌑

 それはさておき,今日(2021年10月4日)に再掲・復活させる記述の初出時の題名は,「日本経営学会に戦争責任の問題はないのか? 変革思想に囚われていた社会主義経営学会(1974年設立)」は,「なぜ,20年後に日本比較経営学会に変身したのか」という表記になっていた。

 補注)日本比較経営学会のHPは,前身が「社会主義経営学会」であった点を,いまとなっては思いださせない記述内容になっている。疑問のある「〈自己紹介〉に相当する案内」しか記載されていない。

 今日の記述としてだが,前段のその文章を更新・増訂させるに当たって,さらに追加的に新しくとりあげる材料は,上林憲雄・清水泰洋・平野恭平編著『経営学の開拓者たち-神戸医大経営学部の軌跡と挑戦-』中央経済社,2021年4月である。この本に巻かれた帯が謳っている神戸大学経営学部「自慢」は,「神戸大学経営学部の歴史」が「日本の経営学の歴史である」であった(同書,229頁)と自画自賛されている。

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 この加護野忠男がいったという文句のあとには,「本書に登場する先人たちは日本の経営学を文字どおり切り拓き,創り上げてきたパイオニアである」という説明がつづいている(同書,229頁)。しかし,ここまで神戸大学経営学部が本気で「自慢」をしていたとなれば,これを耳にした一橋大学商学部のほうは黙ってはいまい。

 一橋側はこういうに決まっている,確かに神戸大学経営学部」は,学部の名称として初めて経営学部をかかげ,また,日本における経営学の開拓をした経営学者たちを産んできた。だが,それはあくまで西日本地域に限定される評価であり,東日本〔のみならず日本全体〕において日本で一番早く経営学に相当する学問を創生させ,その後においても着実に展開させてきたのは,「わが一橋大学商学部である」と主張するに決まっている。

 補注)国立大学では経営学部を有するもうひとつの大学があり,横浜国立大学がそれである。

 なぜなら,神戸大学経営学部を誕生させ,なおかつ大いに発展させた人物平井泰太郎(1896年生まれ)は,一橋大学(昔のことなので大学の名称は別物であったが)でそもそも学んでおり,しかもこちらには,この平井の先達に当たる上田貞次郎という「日本経営学の開拓者」がいたし,さらには平井泰太郎と同年代の経営学者として増地庸治郎(1896年)がいて,一橋では多くの後進となる経営学者を育成してきた。

 なお,以上の話題はひとまず,「経営学部」だとか「商学部」だとかの区別にはこだわらない議論として説明している。またここで,それら経営学者たちに関したいちいち詳細な人物評論にまで立ち入った論及はしない。少なくとも,「日本における経営学の理論史」についてある程度学識のある関係学者たちにとっては,おそらく知悉の関連事情である。

 それでは以下に,上林憲雄・清水泰洋・平野恭平編著『経営学の開拓者たち-神戸医大経営学部の軌跡と挑戦-』中央経済社,2021年4月の目次内容を,さきに紹介しておく。神戸大学のホームページに掲載されているそれを利用するかたちで,しかもかなり詳細なものとなるが,これを紹介する。


    経営学の開拓者たち-神戸大学経営学部の軌跡と挑戦- ◆

 日本の経営学の出発点は神戸大学にあった。神戸大学経営学部は,全国に先駆けて作られた日本初の経営学部である。平井泰太郎が,神戸大学の前身である神戸商業大学において日本初となる「經營學」の授業を開講して約100年。

 昨今では,経営学部が創設された当時の状況や今日の隆盛に至る発展過程をしる人びとも少なくなった。この歴史をなんとしても後世に伝承し,未来へと紡いでいきたい-こうした強い思いのもと企画されたのが本書『経営学の開拓者たち』である。 

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 補注)https://kobecco.hpg.co.jp/28681/  神戸大学の象徴である六甲台本館。上の画像とは少しアングルを変えた写真で,右側が経営学部,左側が経済学部に分かれている。

 神戸大学経営学部は,これまでの歴史と伝統を踏まえつつ,経営学の各領域における根本問題を探究するとともに,つねに時代の要請を先取りし,新しい諸課題にも挑戦を続けてきた。読者各位には,本書を通じ,この神戸の地で経営学を切り拓いてきた先人たちの奮闘努力を,それぞれの時代の文脈からお読み取りいただければ幸いである。

【目  次】

 

 プロローグ 神戸大学経営学の歩み

  経営学の生みの親 / 低下する老舗の存在感 / 帝国大学の設立と人材養成 / 商業人材の養成 / 商人育成から大学教育へ / 神戸と経営学 / 経営学の学問性 / 経営学の現在 / 本書について

 

 Ⅰ 経営学の生成と発展

  第1章  平井泰太郎と経営学

   1.神戸高等商業学校の設立
   2.平井泰太郞と経営学の生成
   3.平井経営学の体系
   4.経営学における理論と実践
    学び舎の風景① 実学教育の源流 -水島銕也の教育思想-
    学び舎の風景② 街に向かい,海に開かれて-神戸高商が目指した「知」-

 

  第2章  経営学科と経営計録講習所の設置

   1.神戸商業大学への昇格
   2.経営学系科目の拡充
   3.神戸経済大学への改称と経営学科の設置
   4.経営学の実践的な展開としての経営計録講習所
    学び舎の風景③ 六甲台ラビリンスにて-書物と人の「リアル」な出会い-
    学び舎の風景④ 経営学のマーケターとしての平井泰太郎

 

  第3章  附属経営学専門部の設置と経営学部の独立

   1.附属経営学専門部の設置
   2.教育制度改革の中での経営学部の位置づけ
   3.幻の阪神大学構想
   4.新制神戸大学経営学部の誕生へ
    学び舎の風景⑤ 余白の競演-グラフィティー(落書き)の熱量-

 

  第4章  神戸大学の開学と経営学部の誕生

   1.日本初の経営学
   2.経営学部の基盤形成
   3.経営学部の発展過程
   4.経営学者の育成拠点
    学び舎の風景⑥ 六甲台に聳える旧神戸商大施設

 

  第5章  神戸大学経営学部の確立期

   1.経営学ブームの到来と神戸大学経営学部の第2世代
   2.   市原季一とドイツ経営学
   3.   占部都美と近代経営学
   4.   海道進と批判的経営学社会主義経営学
   5.   第3世代へ -実証研究をもとにした経営学への移行-
    学び舎の風景⑦ 学生運動の激化と六甲台キャンパスの封鎖
    学び舎の風景⑧ 若手会

 

  第6章  社会人大学院の設立と展開

   1.   社会人大学院設立の契機
   2.   開設準備
   3.   見切り発車の実験的プログラム
   4.   日本型経営教育システム構想委員会
   5.   その後の展開
    学び舎の風景⑨ 産学連携の手段
    学び舎の風景⑩ 阪神・淡路大震災による被災下での教育・研究

 

  第7章  大学院重点化と国立大学法人

   1.   反知性主義のもとで迷走する大学改革
   2.   大学院重点化
   3.   国立大学法人
   4. 経営学部の今後の発展へ向けて
    学び舎の風景⑪ 研究大学院への志向
    学び舎の風景⑫ 「複数の看板」の強み

 

  第8章  学部生・大学院生の入学と進路

   1.   学部生の入学者
   2.   学部生の就職
   3.   大学院生の入学者
   4.   大学への就職
   5.時代に対応した人材輩出
    学び舎の風景⑬ 凌霜会
    学び舎の風景⑭ ビジネス界からみた神戸大学経営学

 

 Ⅱ 教育研究分野の展開

  第9章  アカデミア発の実践的叡智-経営戦略-

   1.   基本設計図としての経営戦略
   2.   社会人大学院の中核となる教育研究分野
   3. 「水島精神」を受け継ぐ「種を蒔く人」
   4.   ドイツ経営学の権威
   5.   経営戦略講座の確立と実学の叡智

 

  第10章  組織づくりとマネジメント-経営組織・経営管理

   1.   アメリ経営学の系譜
   2.   経営管理講座前史
   3.   経営形態論から経営管理学へ
   4.   行動科学としての経営管理
   5.   これからの経営管理

 

  第11章  人間と経営-経営労務・人的資源管理-

   1.   人間と経営の関わり
   2.   日本で最初の経営労務
   3.   経営労働論の確立
   4.   理論と実践の架橋
   5.   組織・市場と人事管理
   6.   そして,これから

 

  第12章  ものづくりと経営-工業経営-

   1.   工業経営講座の誕生
   2.   工業経営論の体系化と襄山会
   3.   技術論からの工業経営の理論化
   4.   工業経営研究室のいまとこれから

 

  第13章  事業資金の調達と運用-経営財務-

   1.   経営財務論講座前史
   2.   経営財務論講座の誕生-企業資本の理論的研究の先駆者-
   3.   経営財務論へのアメリカ・ドイツ複眼思考
   4.   経営財務論の資本市場論的総合
   5.   経営財務論へのエージェンシー・モデルとシグナリング・モデルによる接近
   6.   コーポレートファイナンスのさらなる実践的有用性の探求に向かって

 

 エピローグ 神戸大学経営学部の使命

  経営学の開拓者たち / 国立大学改革 / 研究者養成のシステムとしての講座制 / 神戸大学経営学部の講座制 / 日本の経営学 / 謝辞

  参考・引用文献一覧

  付録   1.   神戸大学経営学部の略年表

       2.   講座・ユニット変遷図

 

 

  日本における経営学史に関する歴史的研究の貧困

 古林喜樂編『日本経営学史 人と学説 第1巻』千倉書房,1977年(初版,日本評論社,1971年),同編『日本経営学史 人と学説 第2巻』千倉書房,1977年は,日本の経営学に関して著名な学説をとりあげ概説として説明する著作であった。日本における経営学研究は,社会科学分野のなかでは非常に旧くから存在しており,2017年時点から回顧してみればすでに1世紀を超える歴史を有している。

 補注)日本経営学会が創設されたのは,1926年7月10日であった。ただし,学会の創設時がこの経営学という学問史の開始時に相当し一致するのでは,けっしてない。いうまでもない事実であるが,経営学の場合もその以前から「理論と応用(実践)」の領域において盛んに学問的な営為があった。

 しかし,経済学史という研究領域に比較すればすぐに判るように,経営理論に対する歴史科学的な視座を据えたうえで,日本の経営理論を本格的に解明しようとしてきた業績はわずかしか存在していない。自国の学問営為に関心が薄いという学問状況は,なにも経営学にかぎらない現象であるが,それにしても経営学界の場合は,その兆候が顕著である「経営学史としての過去・履歴」を記録してきた。

 補注)下にかかげた,日本経営学会編『日本経営学会史-51周年から90周年まで-』の画像資料は,古本市場の宣伝画面から借りたものである。この本の発売日(2017年9月8日)以前にすでに,中古本として売りに出されていた現物の画像資料であった。本ブログ筆者がこの段落を書いていたもとの日付は,2017年8月25日であった。同書の実際の発行日は9月1日と奥付に印刷されている。事前に日本経営学会員に配布された一部が,古書としてこのようにすでに,早々と出まわっていた。

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 付記)この画像は古書市場関係から。

 さて,本書,日本経営学会編『日本経営学会史-51周年から90周年まで-』は,およそ20世紀最後の四半世紀(第4のそれ)が始まるころから最近までの「日本経営学史」を概説しようとする著作であった。それ以前まで,この国における経営学の全般的な状況については,山本安次郎『日本経営学五十年-回顧と展望-』東洋経済新報社,昭和52年が初めて,本格的に描いていた。

 山本安次郎個人による努力をもって制作されたこの日本経営学史の論著であったゆえ,その個性的な主張面に関して,あれこれ批判・再考・深耕されるべき余地があった。山本のこの業績は,日本の経営学者たちが「自国の経営理論そのもの」と「実践とが交流」する問題に対して,関心がほとんどなかった事実をあらためて教えた。

 ところで山本は,日本の経営学の出立点を「昭和の時代」,つまり,日本経営学会が創立された大正15〔昭和1年:1926年〕にみいだしていたが,この認識は誤認であった。大正時代における日本の経営理論問題をめぐる研究史をよく透視しえなかった限界が,山本の同書にはあった。

 

  本質論・方法論が特異であった日本の批判経営学の滅亡-その興亡の顛末-
 
 a) 最初に「批判経営学」という学問の名称について簡明な解説を聞いておく。それはマルクス主義経営学ともいわれ,企業をひとつの個別資本と考えて研究対象とし,労働者階級の立場から経営問題をとりあつかい,社会の基本的な矛盾との関係でこれをとらえ研究する経営学の一分野である。

 補注)誤解のないように断わっておく。個別資本を研究対象に取りあげるのは,批判経営学だけではない。経営学もそして経済学も会計学もすべてこの個別資本を研究対象の出発点に置いている。あとは取りあげ方や認識の仕方(学問観・方法論)に相違があるだけのことである。

 このあたりに関した学問認識として「個別資本」という用語を,食わず嫌い的に排除したがる社会科学者(エライ経営学者たち)がいた。だが,彼らのその見地は「資本」という用語を含む「個別資本」というコトバを,いきなりに勘違いし,のっけから毛嫌いした感性的な理解に留まっていた。

 b) 世界大百科事典内における批判経営学への言及は,こう解説している。……1910年代に日本の大学でも経営学関連の講座が設置され,ドイツ経営学の移入によって始まった。また,それと並行してアメリ経営学も〈科学的管理法〉を中心として紹介され,1920年代の産業合理化運動の指導理念となっていた。

 1930年代にはマルクス経済学の興隆に刺激されて,経営学においても個別資本の運動法則を解明し,現実の企業活動を批判的に研究する個別資本説ないし批判経営学の流れが中西寅雄,馬場克三らによって始められていた。他方,ドイツ経営学の基礎のうえにアメリ経営学の問題意識を接合させた研究が馬場敬治や藻利重隆によって進められ,これらが第2次大戦後に引き継がれた。

 註記)以上,https://kotobank.jp/word/批判経営学-120642 参照。

 補注)戦前と戦中における日本経営学の展開に対する考察をくわえるさいは,慎重な吟味が前提においてなされるべきである。中西寅雄(東京大学),馬場克三(九州大学),馬場敬治(東京大学),藻利重隆(一橋)と並べられているけれども,それぞれの理論的な出自は,別々の源泉をたどることができるものだったからである。なかでも「藻利経営学」とまで偉称された「藻利重隆の経営二重構造理論」が,ドイツナチス経済「科学」論に根っこを生やしていた事情は軽視できない。
 
 なお,上記の註記)中のある記述では「マルクス主義経営学」にリンクが張られていたので,これをクリックすると「『批判経営学』のページをご覧ください」と記されていて,もとに戻ってしまう。(この指摘は2017年8月25日時点であった)

 註記)https://kotobank.jp/word/批判経営学-137540

 

  野末英俊稿「批判経営学と管理学-組織社会の出現と専門経営者-」愛知大学経営総合科学『経営総合科学』第102号,2014年10月から

 この論稿からは「5.  批判経営学の限界」を参照する。なお以下の引用では適宜補正しつつ,引照している。

 --敗戦後において,日本の経営学がひとつの大きな系統を形成したのは, マルクス主義にもとづく経営学(批判経営学)であった。 第1次と第2次の世界大戦を経てからの国際政治情勢は,影響力を増大させていった社会主義と資本主義の盟主としてのアメリカの凋落(ベトナム戦争,ドル体制の動揺)とが,その学流の旺盛ぶりを勢いづけたといえる。

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 そのなかで批判経営学もこう考えていた。

 マルクス資本論』 は資本の運動を分析対象とするし,マルクス主義は労働者の立場に立っている。 労働者がおこなう労働は価値を生み出し,社会は労働によって生み出された価値によって存立する。

 

 それにもかかわらず,資本主義においては 生産手段を保有し,労働力を買いとった資本家が労働者が,その生み出した剰余価値を合法的に収奪(搾取)する。このような経済・社会構造のあり方を廃止し,社会主義へ移行することによって,資本主義の諸矛盾が解決されるとした。

 

 資本家は,労働者の労働が生み出した剰余価値を搾取することによって, みずからは労働することなしに富を蓄積する。 貨幣の増殖と蓄積が資本の目的である。 この構造によって資本家と労働者の対立は激化し, 最終的に資本主義は崩壊し廃絶されて,より高次元の体制である社会主義へ移行する。

 要するに,このようなマルクス主義の立場に立つ経営学が批判経営学(経営経済学) であった。 批判経営学の起源は, 中西寅雄の『経営経済学』に求めることができる。

 補注)中西寅雄は,日本における批判経営学にとってみれば  “源流”  の位置を,いうなれば「その理論上の系譜」において占めている。けれども,この中西自身はマルキストではなかった。ただ,資本論の論理構成をドイツ経営学に関連づけながら「経営学方法論の思考方式」に応用したのであって,彼が基本的な立場においてマルクス主義思想を,本気で信奉したり支持したことはない。

 この点の理解に関しては,いまはほとんど完全に崩壊状態であるマルクス主義経営学陣営の先生たちは,もともとよく調べもしないで,中西寅雄は「ワレワレの仲間」(マルクス主義の同志であり,偉大な先駆者である)と勘違いしてきた。

 おまけに,彼については「マルクス主義の立場・思想からその後,転向した」などとまでいい,その理論志向に関して恣意的な,つまり事実にもとづかない〈自由自在な解釈〉を,思う存分にくわえていた。中西に関する誤解は「その人なり学説なり」をよく観察していなかったからこそ,大手を振って斯学界を徘徊してきた。

 そこの点をまともに吟味・反省して,その間違いをみずから認めた事実を「学術的な立場」から書いたマル経経営学者はいない。ソ連邦の崩壊にともない,彼ら特定の「学的であったはずの集団」は雲散霧消し,蜘蛛の子を散らすがごときにわれわれの目前からその姿がみえなくなっていた。

 前段で「変革思想に囚われていた社会主義経営学会(1974年設立)」が,「なぜ,20年後に日本比較経営学会に変身したのか」と問うてみたのは,そのあたりにまつわる不可思議な「学会の変遷についての現象」が,いまだに払拭できていない疑念として残されていたゆえである。

〔本文記事引用に戻る→〕 個別資本説は,経済学が社会総資本を分析対象とするのに対して,経営学として企業(個別資本〔の運動〕)を対象とする。 この結果, 批判経営学はおのずから経営学を経済学の一領域として位置づけることになる。 ここで,企業の目的は利潤の極大化であり, 労働者の生み出した価値(剰余価値)の収奪 (搾取) によって実現すると規定されている。

  「批判経営学と管理学」 ……企業組織が大規模化すると社会構造に変化が生じた。 ここでは,複雑化した組織を調整・維持する機能を担う経営者が生み出されると同時に,従来の資本家の個人的資質に依存する 「コツ・カン」 による管理の限界と合理的(科学的)な管理方式が要求されるにともない,管理学(アメリ経営学)を生み出した。 こうして,寡占企業が資本主義経済の中心的位置を占めるようになって,いわゆる「資本(所有)と経営の分離」 が進展した。

 すなわち,資本主義発展のもとでは資本家階級の役割が後退していき,これに代わって経営者が社会の支配者として台頭した。この寡占企業の支配者は,資本家とは異なる専門経営者であって,その権力の源泉はもはや財産(貨幣)ではなく, 知識・能力・経営技術にその重心が移ってきた。

 社会主義社会では生産手段の社会的所有が実現されたものの, 計画経済の非効率性がしだいに明らかになったり, 特権的な官僚制が不平等を生み出したりして, 労働者の生活が向上することは困難となった。結局,社会主義は内部から崩壊した。 こうした現実は, マルクスの理論を大きな限界に直面させた。

 また,資本主義社会における資本家の後退は,多様な非営利組織(政府・学校・病院・労働組合など)を形成させていき,こうした非営利組織がそれぞれの組織目的をかかげつつ,必らずしも営利性に拘束されずに経営者が維持・運営している。管理(英語でいえば,management )問題の重要性が高まる反面,批判経営学はとりわけ「経済学からの独立性」をいかに明確化するかという課題に,いまだに直面している。

 註記)http://leo.aichi-u.ac.jp/~keisoken/research/journal/no102/a/04_NOZUE.pdf

 以上の説明は最後で,批判経営学は「『経済学からの独立性」をいかに明確化するかという課題に,いまだに直面している」と結論づけていた。だが,2014年10月に公表しされた論稿の見解としてみるにまだ,斯学界における研究状況にうとかった解釈だといわざるをえない。その課題にはすでに以前より,真正面から解明され,それなりに特定の成果も挙げられきた。

 つまり,その「明確化」が必要だと指摘された点はすでに,これまででも相当程度に理論的に進展させられてきた。にもかかわらず,半世紀前の時点に戻してならば妥当しえた過ぎない「論断での説明」は,これじたいが好ましくなく,いまでは不適合になっていた。さらにいえば,当該論点の理論状況・水準をきちんと渉猟したうえでの判断ではない点で,問題があり過ぎた。

 

 マルクス・批判経営学者であったらしい人物の「奇妙な発言」

 ブログ『セレンディピティ日記 読んでいる本,見たドラマなどからちょっと脱線して思いついたことを記録します。』に,いまから10年以上も前であったが,「偶然に見つけた論文」(2006-07-22 23:25:55 思想)という題名のつけられた,つぎのように言及する一文が残されていた。

 このブログの文章は執筆者の入りくんだ感情のひだを表出させており,その意味では明瞭ならざる部分を含んでいる。以下に引用するので,これを読んでもらえれば判明する(感得してもらえる)と思うが,いまはすっかり離れたらしい,かつては「マルクス・批判経営学〔者〕」であったの苦しい心境が,紆余曲折した筆致で表現されている。

  い間書きこんでなかった。土日もいろいろ用事があって時間がとれなかったこともあるが,おもな理由はいろいろ本を買ってはいるが,つぎつぎ目移りしてまともに読み終えたものがないからだ。その場その場で思いつくことはあるのだが・・・。

 

 今日はインターネットのウエッブサイトで偶然みつけたある学者の論文を,両面印刷と割り付け印刷で1枚の紙に4ページ分を印刷して50ページぐらい読んだ。ある程度読み終えるとつぎを印刷すると,かたちで短いあいだに50ページぐらいになった。歳にもかかわらず老眼の兆候がなくかえって割り付け印刷の細かい文字の方が読みやすい(速読の訓練のせいか?)。

 

  で,その論文についてだが,このブログに書くにはためらいがあった。というのは,その論文で俎上にのせられ批判されているのは恩師 補注1)でもあり,そしていまの僕の考えは批判者側に近いからだ。いまの僕の立場(ポパリアン)補注2)からすれば,異なった考えをしることは喜びであり,批判することも批判を聞くことも普通な行為なのだが,恩師というより恩師の拠って立つ思想はこれと大分異なっている(その事情はこの論文のなかから理解できる)。したがって,僕がこの論文について肯定的な評価を表わすことはフリクションが懸念される。

 

     補注1)ここでいう恩師とは角谷登志雄か? 角谷についてはごく簡素にウィキペディアが解説している。

 

     補注2)「ポパリアン」とは,カール・ライムント・ポパー(Sir Karl Raimund Popper,1902~1994年)を信奉・追随する科学者の立場。ポパーは,純粋な科学的言説の必要条件としての反証可能性を提唱した。精神分析マルクス主義を批判し,ウィーン学団には参加しなかったものの,その周辺で反証主義的観点から論理実証主義を批判した。また「開かれた社会」において全体主義を積極的に批判した。

 〔原文引用に戻る→〕 しかし,相手と目的で言説をその場その場で変えて,つねに「(他の目的の)ためにする」言説をおこなうのはあの思想の人たちであり,わが道ではない。唄の文句ではないが,「どんなときも,どんなときも」である。で,その論文というのは…… 裴 富吉氏の「批判的経営学の興亡」という論文だ。

 補注)この段落の叙述は,高度に〈韜晦的な雰囲気の筆致〉があって,かなりその真意が判りにくい。「あの思想の人たち」とは誰のことか? ここでは多分,そのブログ『セレンディピティ日記』の筆者自身のことだと受けとめておく。

 また,裴 富吉の著作に『経営学理論の歴史的展開-日本学説の特質とその解明-』三恵社,2008年があり,この第5章に転載・収録されているのが,その「批判的経営学の興亡」である。

 〔原文引用に戻る→〕 ほぼ消滅したものに「なにをいまさら」ともいえるが,いまだからこそ「興亡」史が書かれる時期かもしれない。読んでみて,ああなるほどとあらためて気がつく点がある。

  註記)以上,http://blog.goo.ne.jp/kyujiu/e/f318689ad22e91be78ff799070463d7e

 

  片岡信之稿「日本における経営学の歴史と現在」明治大学『経営論集』第64巻第4号,2017年3月

 片岡信之のこの論稿は,日本経営学会編『日本経営学会史-51周年から90周年まで-』千倉書房,2017年刊行予定〔とされていた時点で)の編集責任者に任命された片岡信之が,公表していた。この論稿から適宜,本ブログ筆者なりに関心のもてる段落を引照しつつ,関連する議論をしてみたい。

 a) 日本経営学史の出発点はいつだったのか

 「日本経営学会……〔は〕,明治期までの商業諸学が大正前期に,米独経営学の翻訳や紹介を媒介としながら,一応日本としての諸知識を体系化し始め,方法論的問題意識を持ち始めたという事をもって,経営学史の始まりと見なしてよいのではないかと考えられる。その意味では日本経営学会創立以前に経営学の実質的中身は一応あったと私は見ている。なお,ほぼ同様な見解は,すでに裴 富吉,前掲書(※)でも提示されている」。

 註記)片岡信之「日本における経営学の歴史と現在」50頁・註10。なお,裴 富吉の前掲書(※)とは『経営学発達史-理論と思想-』学文社,1990年。

 b) 時代への迎合性がめだっていた経営学

 「統一論題テーマが,常にその時代的現実と要請に密着して設定されていたということである。この点は第1回大会以来一貫していた特徴であり,敗戦後も今日まで基本的に引き継がれてきている特徴でもある」。

 「論点は常にホットな時流と繋がっていた。経営学という極めて現実的な実務の場を捉える学問としては,一面では当然のことではあるが,しかしながら他面では,現実との間合いの取り方において,あまりにも無批判な即自的受容・認識・主張を重ねてきたという批判を免れられないであろう」。

 「研究対象に即して研究する事は,対象のあり方をそのまま即自的肯定的に認識し論じることと同じではない。この点からすれば,経営学研究が,全体として,当時の時代潮流・時代精神に迎合しすぎて,議論の客観性・普遍性において問題があったことを認め,教訓としなければならないであろう」。

 註記)片岡,同稿,55-56頁。

 c)「戦後日本経営学における主要論点」から

 「敗戦直後の1946年に開かれた戦後初の日本経営学会大会(第19回大会,統一論題:日本経済の再建と経営経済学の課題)における諸報告であった。とくに第一部の報告は,『社会主義経営学の提唱』『経営者革命と会社革命』『企業民主化の方向』等,戦前の大会ではあり得なかった内容のものであった」。

 「そこでは戦時統制経済下の経営学の論点とはまったく対照的とも言うべき,戦後の全面的な大変動の雰囲気を反映した新しい論点が示されていた。また,戦時及び敗戦で崩壊した経済・経営をどう再建するかという問題意識が強く出た報告がなされている。論者も論点も大きく入れ替わったのであった」。

 「しかし,新しい論点を提出するにせよ,当面の企業再建を論じるにせよ,従前の戦前経営学についての全面的な批判的総括,それに基づく理論的超克の視点は見られない。戦前の大会で報告した論者も何人か報告しているが,自らの戦前報告の内容との関連についての総括も自己批判も抜けている。経済・経営の戦後復興・再建が喫緊の課題であったとしても,理論的総括の作業は,理論家としては,やはり必要であったと思われる」。

 註記)片岡,同稿,57頁。

 「その後の戦後大会の統一論題を継時的に見れば」「まさに理論的総括の場としてふさわしい回が何度もあったと思われるのであるが,結局それはなされないままで過ぎた。新しい状況下で経営学はどんな課題と向き合わねばならないのかという事についての問題意識は強く感じられるものの,戦前経営学と関連づけて何がどう変わるのか(変わるべきなのか),あるいは変わらないのかという理論的総括の視点はないのである。何度か出てくる『再検討』『根本問題』『根本問題』などの意味は,当面する新しい戦後の事態にどう対処するかという目前の課題に絞られている」。

 註記)片岡,同稿,57頁,58頁。

 d) マルクス・批判経営学の雲散霧消

 「戦後に解放された労働組合運動を背景にして,企業に対する批判的研究を掲げる批判的経営学のアプローチが盛んになった。これは日本に固有の企業研究と言われ,その中は方法論的相違から個別資本説学派,上部構造説学派,企業経済学派などに分かれていたが,その殆どは当時のソ連共産党流の『マルクスレーニンスターリン主義』を下敷きにしていて,後にこの『社会主義体制』が政治的・経済的に崩壊するとともに雲散霧消することになる。戦後提唱された社会主義経営学も同様な運命を辿った」。

 註記)片岡,同稿,60頁。

 e) 本質論・方法論が消えてしまった経営学界(以下は,片岡信之稿の最後部「総括」から任意に取捨選択して引用)

  ⅰ)「経営研究の totality をどのように確保できるのかが今後問われねばならないのではないか」。

  ⅱ)「第2次大戦後の日本の経営学は,アメリ経営学経営管理学)の流入によって,基調はそれ一色となり,戦前昭和期経営学の論調はまったく消えたと言って良いが,それとともに,経営学の研究対象が企業,経営経済から組織一般・管理一般にまで拡大され,それに伴って経営の価値,価値の流れ,価値の転換過程などの経済過程の解明(ドイツ経営学の特徴)が経営学の内容からなくなった(ないしは薄くなった)」。

  ⅲ)「こうして経営学とは経営管理学なのか,経営経済学なのか,それとも両者を統合したものなのかという初期経営学者たち(日本経営学会の初期から参加し,戦前から昭和30年代頃まで活躍した人たち)の永年問うてきた方法論上の論争・論点はほぼ消えて,戦後の時の流れの中で自然の内に経営管理学に収斂したように思われる。経営学の研究対象,研究方法,学問的性格の如何はもはや殆ど問われなくなった。しかし,それは本当に解決されたとされるべきものであるのだろうか」。

 補注)ここで片岡信之が指摘した点,つまり「戦後の時の流れの中で自然の内に経営管理学に収斂したように思われる。経営学の研究対象,研究方法,学問的性格の如何はもはや殆ど問われなくなった」という特徴は,神戸大学経営学部の現在についてもまったくそのままに妥当する指摘である。この指摘については一定の反論が想定されうるが,日本経営学史を通史的に展望する観点がする「批判」であるゆえ,ここではひとまず無視してもかまわない。

  ⅳ)「日本経営学会初期から『資本論』やリーガーに依拠して批判的経営学に繋がる流派が生まれたが,それは今や活動停止状態ないし瓦解状況にある。それに関連して生まれた社会主義経営学の議論も消滅したと言って良い」。

 「それはかつて存在した(あるいは現在存在している)社会主義を名乗る国家の自滅・崩壊と直接に関係しているが,さらに,そもそも最初から理論的に内包していた誤謬によって,これ以上理論的に積極的な展開が不可能な所まで追い詰められたことが根底にあった。資本主義企業も(残存する)「社会主義」企業も,ともに大きな諸問題点を抱えているいまこそ,新たに先入観なき柔軟な理論構築の試みがなされてもよいのではないか」。

 補注)前段ですでに一度指摘した疑問点,「変革思想に囚われていた社会主義経営学会(1974年設立)」は,「なぜ,20年後に日本比較経営学会に変身したのか」という問題が,このように片岡信之によっても〈批判されるべき論点〉として指摘されていた。だが,この論点に真正面から答えた「過去,その陣営に属していた経営学者」は,現在までも誰1人として登場していない。

  ⅴ)日本経営学会は,これまで見てきたように,昭和金融恐慌→産業合理化→戦時統制経済→戦後復興→高度成長→構造転換と国際化→内需拡大バブル経済・海外直接投資→バブル崩壊・長期低迷と,めまぐるしく移り変わる経済変動の中での企業経営の現実を見ながらそれをその時々の課題として取りあげて論じてきた」。

 「そしていま,企業を取り巻く国際環境はまたも大きな激変と転換の流れの中にある。地球規模での環境問題,民族紛争,国際的・国内的な貧困問題・格差問題,ポピュリズムの台頭,ナショナリズム国家の台頭,EU崩壊の危機,グローバリズム逆転の兆し,既存の国際政治経済枠組み崩壊の危機,……など,これまでの枠組みとは異なった世界秩序への大きな再編の可能性が生じつつあるかに見える転換期にあって,経営学の果たしうる貢献は何なのか」。

 「このような時代的問題意識と無関係に日常的に些末な経営現象の実証研究だけに自己完結的に閉じこもっていることの限界性が問われてきているように思われる」。

 註記)以上,片岡,同稿,78-79頁。(片岡信之からの引用終わり)

 最後の指摘,「時代的問題意識と無関係に日常的に些末な経営現象の実証研究だけに自己完結的に閉じこもっていることの限界性が問われてきている」という点は,これが具体的に顕現されていた実例を挙げておくと,「日本の大学院教育としての経営専門職大学院」がその本来めざしているはずの目的・機能・成果を十全に挙げえていない実態・実績をもってしても,十分に推し量ることができている。

 本日のこの記述は,マルクスの変革思想にベッタリズム的に追随してきた日本に特有だった理論志向の「批判経営学」が,ソ連邦(1922年12月から1991年12月)の興亡に合わせるかのようにして,それも敗戦後から急速に勃興・発展してきた--すでに出ていた題名を使い表現するならば--「日本の批判経営学の興亡」として,いったいどのような歴史的な存在意義と理論的な問題性を背負いながら歩んできたのかに関して,あらためてその批判的な詮議が要求されている点を吟味していた。

 それは「日本経営学界(学会ではなく)」全体の「理論展開のあり方」にとって,非常に重要な責務のひとつであった。このままだと多分,過去に属した問題として忘却されていくことは,目にみえている。

 ところで,日本比較経営学会編『会社と社会-比較経営学のすすめ-』文理閣,2006年が,関連する事情をこう説明(弁明)していた。前段では,d)  と e)  の ⅳ)に直接関連する論点である。

 なによりも〔19〕89年11月にベルリンの壁の崩壊とともに旧ソ連・東欧諸国の社会主義経済体制そのものが崩壊してしまいました。「社会主義企業経営に関する研究」をおこなうことを目的として発足した学会にとって,それは衝撃的な出来事であり,学会の存在根拠を問われかねないほどのものでした。

 註記)同書,まえがき,1頁。

 とはいわれていたものの,その事実経過については,前段で片岡信之が追究しているとおりであって,結局のところ,その「衝撃的な出来事」を,経営「学界の存在根拠」(理論的な基盤:妥当性)にかかわる重大な論点として,とことんまで詰める思考が展開されたような実績は,まだみつかっていない。

 要は,1945年8月の敗戦を契機として発生していた『日本経営学会の戦争責任』の問題の上に,1989年11月のソ連邦崩壊を境に『批判経営学の理論責任問題』も重ねられた「この国の経営『学界』」のなかにあっては,いまだに「まともに詮議されていなかった研究課題」が残置している。              
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「本稿」の続きは,以下である】

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