『経営学の開拓者たち』(2021年4月発行)という本に巻かれた「帯」いわく「神戸大学経営学部の歴史は,日本の経営学の歴史である」と,ならば「一橋大学商学部の歴史は,日本の経営学の歴史である」といわねば均衡のとれた学史理解になりえない(続の1)

 日本の経営学はとりわけ,21世紀に入ってから現在まで,理論に関する「方向性感覚を喪失させた状態」にある,「社会科学としての本質論・方法論」をめぐる問題意識を忘失し,放擲した学的状況に追いこまれている

 最近作,経営学史研究として神戸大学経営学部史を総括的に評価するために記述した本書『経営学の開拓者たち-神戸大学経営学部の軌跡と挑戦-』中央経済社,2021年4月が公刊されていた,本書に対してさらに欲を出してだが,さらなる期待を述べるとしたら,つぎのように表現できる

 本書『経営学の開拓者たち-神戸大学経営学部の軌跡と挑戦-』(以下では「本書」と略称もする)の評価や位置づけは,神戸大学史の主要な一部門である「経営学部史」として,どのようになされるべきかという問題から,さらにもう一歩進めていく余地が残されていた,日本の経営学理論史における吟味・考察としての討究・解明が必要であった,換言すると,より広い視野とより長い時間という時空の次元に載せて,その種の課題をより具体的に再考し,理論的に深耕するための努力が要求されている

 本書がとりあげている諸問題・諸論点は,単に神戸大学経営学部内の留まらない学問史としての奥行きを有していたはずである,その事実は,あえてここでとくに断わるような事項ではないとはいえ,当然も当然の理解である

 昨日(2021年10月4日)の記述を受けた本日の「この続編としての記述」は,同書の副題が,仮にでも「神戸医大経営学部の軌跡と挑戦」と題されているならば,避けて通れないはずである問題・論点を具体的に拾い上げ,社会科学である経営学という学問が同時にまた,歴史科学である立場を意識するほかない「しごく当たりまえの問題意識」に即した論究をおこないたい。


  「ドイツ系の経営学=骨」「アメリカ系の経営学=肉」とい日本の経営学に対する性格づけ:腑分けは適切なのか

 a) 本書は,「日本の経営学は」「当時の商業学から,何とか学問性を確保しようと試みたドイツ系の経営学と,企業の経営実践に根付き,問題解決のためであれば使えるものは何でも使おうとするプラグマティックな発想を根底に有するアメリカ系の経営学という2つの流れが混交し」「樹立され,現在に至っている」。この「日本の経営学の成り立ちが,『骨はドイツ,肉はアメリカ』と時に評されるゆえんである」と,それも小笠原英司編著『日本の経営学説Ⅰ』文眞堂,2013年に依拠して説明していた。

 戦時体制期をはさんで敗戦後,それまでは一時停止状態を余儀なくされていたアメリ経営管理学の全面的な受容が一気に開始されていた。この事情の関係で,日本の経営学の歴史的特性に関した要約的な全体像:「骨はドイツ,肉はアメリカ」という理解が,あたかも通説であるかのように,つまり日本の経営学の全体像を貫く基本の特徴であるかのように理解されてきた。

 しかし,その通説として理解は実際には,「日本経営学史の全貌」を歴史的な観点からまんべんなく概観したうえで提示されておらず,きわめて時事的な理解に終わっていた。この点は,本記述の「前編」にあたる昨日(2021年10月4日)の記述において,片岡信之や裴 富吉の研究成果を踏まえて述べたところである。そちらの日本経営学史研究は「ドイツに骨,アメリカに肉」という理解を,そう簡単には許しておらず,むしろ否定している。

 要は,ドイツ系の経営学の骨も肉も,そしてアメリカ系の経営学の骨も肉も,それぞれから日本の経営学は,しかも戦前期のより早い時代から継続的に摂取しつつ,自国の経営経済学的な部門教科と経営管理学的な部門教科とを同時並行的に開拓し,展開してきた。この事実としての「理論史の発展事情」にうといまま,

 日本の経営学をしごく簡素に分けたうえで,「ドイツ系(経営経済学)の骨」と「アメリカ系(経営管理学)の肉」とが合体された学問のあり方だと措定してきた「従来の見解」=「敗戦後的な理解」は,完全に失当であった。この通説は俗説であり,いってみれば一知半解の日本経営学史に対する〈歴史認識〉であった。

 b) ドイツ経営経済学に関する研究成果は,アメリ経営管理学に比較して絶対数が非常に少ない。しかし,最近になると岡本人志『19世紀のドイツにおける工場の経営に関する文献史の研究』文眞堂,2018年が明示したように,ドイツにも「骨と肉」があったという,実はよく考えてみるまでもない,当然の「歴史の事実」が実在していた。

 アメリ経営管理学はフレドリック・F・テイラー「工場管理」に発しているとされているけれども,アメリカにもこちらなりに「骨と肉」とがあった。もっとも,アメリカのほうは「肉」が中心にその研究の関心がもたれていた。ドイツのほうは,もちろん「骨」に重点があるものとみなされていた。だが,こうした日本の経営学に関連させられる時の「米・独経営学に対するそれぞれの評価・位置づけ」は,当初からあまりにも便宜に偏りすぎて下されていたといわざるをえない。

 本書『経営学の開拓者たち-神戸大学経営学部の軌跡と挑戦-』は別の箇所で,「いわゆる『骨はドイツ,肉はアメリカ』が長く続いた日本の経営学のアカデミズムの変化」(111頁)などと表現していた。だが,この俗説に過ぎず実証的に裏づけられていない「日本の経営学史に関した理解と主張」は,このさい払拭されてしかるべきである。

 同書はさらに「学理と実際の調和」(65頁,66頁,129頁)とか「研究に基礎をおく教育」(117頁,136頁,190頁など)とかいった表現を用いている。だが,まさか「学理」や「研究」のみがドイツ系の経営学なのであり,動揺に「実際」や「教育」のみがアメリカ系の経営学なのであるといったごとき,二項対立的に極端に走る分類をしていたとは思いたくないが,そのように解釈しがちだった口吻をはっきり読みとるほかなかった。

 本ブログのこの記述の前の記述(前日,9月4日)のなかで言及してみたところだが,片岡信之『日本経営学史序説』文眞堂,1990年を一読すればただちに納得がいく点として,「ドイツ=骨,アメリカ=肉」といったふうに単純明快だが,必ずしも実態を反映していない〈標語的な呼称〉は,もともと学問的な詮議を経ていなかった。経営学界のなかでのそれは,ただなんとはなしに便宜的な認識として,いかにも根拠があるものとして通用してきた。

 つまり「戦後の時の流れの中で自然の内に経営管理学に収斂したように思われる。経営学の研究対象,研究方法,学問的性格の如何はもはや殆ど問われなくなった」(片岡信之)という特徴は,神戸大学経営学部の現在についても,まったくそのままに妥当する指摘であった。

 いろいろな意味で,神戸大学経営学部は大学院教育も含めてだが,現在,そうした「骨なしの肉詰めだけの教科体制」になっていないとはかぎらない。もちろんアメリ経営管理学にあってもそれなりに「その肉詰めの中身」については,なんらかの方法論が練りこまれていた。ところが,現在においてはその方法論は「本質論」とは縁遠い代物になりはてていた。
 

 戦時体制期における「日本の経営学の立場」は「戦争翼賛1本槍」

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 1) 経営学の開拓者たち-神戸大学経営学部の軌跡と挑戦-』がそれこそ “絶賛的にも聞こえる調子” でもって,経営学部の理論と実践の領域にわたる開拓者となった平井泰太郎を解説していた。

 しかしながら,戦時体制期において平井泰太郎がどのように経営学者として関与したかについては,本書はいっさい言及するところがない。当初よりその必要がないと判断されるならばともかく,それではあの「戦争の時代」における平井の活躍ぶりを見逃すことになる。

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 半世紀近くも前になるが,ヨハネス・ヒルシュマイヤーと由井常彦『日本の経営発展-近代化と企業経営-』東洋経済新報社,1977年が公刊されていた。この本は戦時体制期「昭和12年7月7日から昭和20年8月15日」を取りあげない内容の編成になっていた。

 本ブログ筆者は最初からこの本の不思議な性格,その1937年から1945年までの日本の企業経営が “歴史として存在しなかったのか” (?)というべき,当然の疑問をもっていた。ところが,ヒルシュマイヤーと由井『日本の経営発展-近代化と企業経営-』は,戦時体制期における日本の企業経営史を,経営史研究の対象にはなりえないと判断したらしく,実際にそうした編成になるこの本を公刊していた。しかもこの本は1978年に日経経済図書文化賞を授賞されていた。

 前段の事実ひとつだけとってもびっくりさせらた。たとえば近現代ドイツ史の研究者が,ナチス・ドイツの時代だけは除いてその通史が書けるのかと問われたら,このような発想はありえない,なんと愚かな設定だと批難されるに決まっている。

 ところが,日本経営史の専門書が戦時体制期の足かけ19年分--明治初年は1868年であったから,1977年までだと約110年になるが,そのうちこの19年を引いたら残りは約70年になる--を書かない通史としての研究書を公刊していた。ビックリしないほうがおかしい。

 ところが,このヒルシュマイヤーと由井『日本の経営発展-近代化と企業経営-』を『朝日新聞』1978年3月23日朝刊の書評でとりあげた,当時大阪大学経済学部教授・作道洋太郎は「ビジネス・ヒストリーの労作としてきわめて意欲的であり,また体系的なものということができよう」と,信じられない好評,つまりこの本の「内容の事実に反する評価」を与えていた。

 補注)アマゾンのレビューにも似た書評が書かれていた。これは2018年1月22日に投稿されていた文章であった。題名は「再版して!!! 江戸期から1970年代までの日本の産業発展の歴史をしりたいなこれ」とかかげられていたが,なにか誤解が生じていたわけではあるまいやと断わり,注意を喚起しておきたい。

 ドイツ人神父と日本人研究者が,江戸期から1970年代までの日本の産業経済の発展と推移をきちんと整理提示分析している。江戸期の豪商たちが,いかに明治になって財閥として立ち上がっていったのか。幕藩体制の大名たちが華族となり,いかに投資家として資本を蓄積し,産業界と結びついていったのか,その他の有力企業家たちの群像。ほんとうに優れた学術書は,小説よりもはるかにワクワクさせてくれる。

 2) なお,ヨハネス・ヒルシュマイヤーはドイツ人の学究である。ネット上にはつぎのように人物紹介がなされている。

 ヨハネス・ヒルシュマイヤーの論文集『工業化と企業家精神』2014年の解説によれば,彼は1921年中央ヨーロッパ〔ドイツのこと〕で生れた。終戦後,ボンの聖アウグスティン大神学校で哲学士の学位をとり,1951年まで神学科に在学していた。

 

 英語を1年間学んでから1952年,彼は宣教師として日本に到着した。彼は日本語を学んだあと,南山大学において初代学長から経済学研究を命じられ,留学先としてアメリカを指定された。その理由は,アメリカの研究者たちが日本近代政治経済史に熱い視線を注いでいたからであった。

 

 彼は1954年からアメリカ・カトリック大学大学院で経済学の基礎を学び,1955年にハーバード大学大学院で経済学を専攻し,A.ガーシェンクロンの指導のもと,日本の経済発展を促した人的要因の解明に取り組んだ。博士論文執筆過程では,駐日大使を務めたE.ライシャワーの指導も受け,彼は1964年に博士論文を『日本における企業者精神の生成』と題して出版した。

 注記)「ヒルシュマイヤーの渋沢栄一研究」『e-論断  議論百出』 2020-01-06 09:19,http://www.gfj.jp/cgi/m-bbs/index.php?no=4139

 一般論として,独日間の戦争責任問題の取り組み方には「顕著な差異」があるとされている。けれども,ヒルシュマイヤーと由井のこの共著書をみるかぎり,その種の差異は全然みいだせなかった。

 補注)野口悠紀雄1940年体制-さらば「戦時経済」』東洋経済社,1995年は,経済学者の著作であった。こちらの内容は,ヒルシュマイヤーと由井常彦の本に比べてみるに,なんとも形容しがたい問題意識の落差(絶対的な格差)を感じさせる。「1940年体制」問題はその後に多様な議論を惹起させてきた。ヒルシュマイヤーと由井常彦の場合だと,自分たちの著作のなかから追放した時期に関したのが,その「1940年体制」という戦時体制期に関する分析視点であった。

 

 ファシズムドラッカー(ここから以下は,本・旧ブログ 2014年3月21日 初出の再掲・復活だが,② と深く関連する)

 a)第三帝国と知識人の理性」の対立-ピーター・F・ドラッカーの事例-

 ピーター・F・ドラッカー(Peter Ferdinand Drucker.1909年~2005年)は,オーストリア生まれの有名な経営学者・社会学者である。このドラッカーはまた,「大学教授であると同時に,経営コンサルタントでもあり,文筆家でもある。大学では経営学だけでなく,政治学まで教えた」(伊藤邦雄)とも形容されるほど,幅広い学識と哲学を有する人物であった。

 ドラッカーは自分を,「少なくとも経済学者ではない。基本は文筆家だと思っている」だと説明していた(『日本経済新聞』2005年2月1日「〈私の履歴書ピーター・ドラッカー①」)。

 ドラッカーが数多く公表した著作のひとつに,『傍観者の時代-わが20世紀の光と影-』ダイヤモンド社,昭和54年。原題:Adventure of Bystander, 1979  がある。彼が2005年2月いっぱい,27回をかけて日本経済新聞私の履歴書」欄に寄稿した文章は,ピーター・F・ドラッカー『20世紀を生きて-私の履歴書-』日本経済新聞社,2005年という題名の単行本にまとめ,発行されている。

 なお,日本において売れたドラッカーの著書は,ダイヤモンド社刊行分だけで累計400万部あまりにもなるというから,日本の実業界を中心に驚異的な人気を博してきた点が分かる。

 b) ヒトラーに直接取材したことのあるドラッカー

 1909年生まれのドラッカーは,21歳で国際法の博士号を取得し,ドイツの大学で助手を務めていたとき,講師になることを打診されたが,これを断わっていた。大学当局の任命職である講師になると,自動的にドイツの市民権を与えられる規定があり,ドイツ市民になってヒトラーの臣下になるのは真っ平ごめんだと感じていた,というのである。

 当時「私はファシズムの嵐が吹き荒れると踏んでいた」。「再就職の当てがないのは分かっていても,英国がどこかへ一刻も早く脱出しなければならない。こんな決意を固めたばかりの1933年1月,ナチスが政権を掌握した」ときだったという(『日本経済新聞』2005年2月1日「〈私の履歴書ピーター・ドラッカー⑨」)。

 c) ナチス政権下のドイツの大学でなにが起こったか

 ドラッカーの『傍観者の時代-わが20世紀の光と影-』1979年は,フランクフルト大学からのユダヤ人教員追放が1933年3月15日に始まった事実を,この大学の関係者の1人として回顧している(ドラッカー『傍観者の時代』248-249頁)。

 ドラッカーはその光景をこう描いていた。「なかにはユダヤ人の同僚と肩を並べて退出するだけの勇気の持主も2,3いないではなかった。が,大部分の教員はわが身に災難がふりかからぬ程度の距離をユダヤ人教員との間に保って退出した--ほんの数秒前まで,親友同士だったというのに! 私は死ぬほど胸がむかついた,そして固く決心した--48時間以内に絶対にドイツを出よう,と」(同書,249頁)。

 d) ドラッカー著『経済人の終わり-全体主義はなぜ生まれたか-』1939年

 この『経済人の終わり-全体主義はなぜ生まれたか-』をドラッカーが書きはじめたのは,1933年ヒトラーが政権をとった日の数週間後だったという。ナチズムの悪魔学における反ユダヤ主義の位置づけについて書いた部分は,1935年から36年であり,オーストリアカトリック系出版社から小冊子として発行されていた。そして,残りのほとんどを書きあげたのは,ドラッカーがイギリスからアメリカへわたった1937年4月から年末にかけてだった。

 本書は,書名にあるように,全体主義の起源を明らかにした世界で最初のものだった。初版以来,今日にいたるも広く読まれている。すでになんどか再版され,そのもっとも新しいものが1969年版である。そして近ごろ,本書は再び関心を集めるにいたった(上田惇生訳『「経済人」の終わり-全体主義はなぜ生まれたか-』ダイヤモンド社,1997年,新版への序文ⅰ-ⅱ頁。本書の日本語初訳は,岩根 忠訳『経済人の終り』東洋経済新報社,1963年である)。

              

  平井泰太郎という日本の経営学者と,ユダヤ経営学者の存在・消滅

 平井泰太郎は,戦前において神戸大学経営学部(現在)の基礎を築きあげた有名な日本の経営学者である。ドイツ留学中の1925年に “Quellenbuch der Betriebswirtschatslehre”(『経営経済学泉書』:その中身は文献案内の本)という著作を,Alfred  Isaac との共著で制作・公表していた。

 ところが,本書が1938年に再刊されるさい共著者だったアルフレート・イザークの氏名はなくなり,その代わりに Paul  Deutsch という氏名が出ていた。さて,学究同士としての平井泰太郎とアルフレート・イザークの友人関係は,もともとこう記述されていた。

 平井教授は,1924年すでに,ドイツの経営学イザーク氏との共同研究において,真の協力がいかに重要であるかということを体験した。このことについて『泉書』の1人の編集者は,その序において,つぎのように語っている。

 

 「2人は異なった国の出身である。しかし,まだ幼い経営学の研究に対する同じ目標と,真の学問愛とを通じて,知らず知らずのうちに結びつき,友情を見いだしたのである」と。この協力と相互交換の精神が,平井教授の一生涯を通じての学問的心構えの特徴を示していた(平井泰太郎先生追悼記念事業会『種を蒔く人』昭和49年,333頁)。

 しかし,そのように「平井教授は,1924年すでに,ドイツの経営学イザーク氏との共同研究において,真の協力がいかに重要であるかということを体験した」(同書,同所)といわれていたものの実は,1933年を区切りに前掲『経営経済学泉書』の共著者となる相手を,ユダヤ人からドイツ人(それも Deutsch! という姓の)に替えていたのである。

【参考画像】

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 戦時中における平井泰太郎の発言

 以下に紹介するのは『大阪毎日新聞』1941〔昭和16〕2月5日~2月14日に,平井泰太郎(当時の肩書きは,神戸商業大学教授)が寄稿した「国防体制と商工業者の転廃 (1~5)」からの抜粋である。改行を適宜に入れた。

 戦争は人の好むと否とに拘らず,しかして希望すると否とに拘らず,またしかして予期すると否とに拘らず,一の革新をもたらす,況んやこれは企画せざる可からざる改組である,日本国民の希望すると否とに拘らず,国際情勢と第三国の理不尽なる敵性に基づく挑戦に備うる再編である,

 

 知って黙するは義に反す,義を見てせざるは怯に類す,職を学府に奉じ生産者の休戚を援護すべき任務を指示せられたる筆者として,諸氏の憂いに先立って憂うることすでに久し,時局緊迫の秋,これが正しき対策は速かなるを要するを信ずるがゆえに,

 

 しかもこれが成否は一千万商工業者の将来に重大なる影響をおよぼすべきとともに,国家百年の興廃に関するところ大なるを思うがゆえに,あえて諸彦の清鑑を仰がざるべからざるの要請に迫らるる心地がするのである(「(1) 挑戦に備う再編成 正しき対策を急げ」)。

 

 今日,中小生業者の悩みは,寧ろ正しい見透しをいわないところにある,気休めを説くところにある,滅私奉公,国防協力の必要は皆知っているのである,これを思い切っていい,思い切って実行すればよいのである,過渡期において,自ら道は開かれる,求めよ,然らば与えられん,国家は今超非常時近しである,行懸りや,躊躇,逡巡を止めて,素直に一元的計画的国防経済を確立すべき時期であると堅く信じるのである。

 

 過渡期において,取るべき方策等もまた自らここに発見出来るであろう,意余って直言に過ぎたかも知れない,然し,これは単なる私事の放言ではない,国家を憂うるがゆえの微意を披瀝したるに留まる,読者諸君の寛容と,叱正とを希う次第である(「(5) 転業の方向は明白 公的機関に優先吸収」)。

 註記)引用は,http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=10043081&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1 より。

 なお,この種の発言を,敗戦後になってから平井泰太郎が見直したという話は聞かない。平井は戦時体制期中に,

  「時局緊迫の秋,これが正しき対策は速かなるを要するを信ずる」といっていた。

  「滅私奉公,国防協力の必要」を唱えていた。

  「素直に一元的計画的国防経済を確立すべき時期であると堅く信じる」と,自分の所信を披露していた。

 だが,これら彼の見解は,1945年8月を区切りに,まったく無用となったか,あるいは「完全なる誤謬であった」ことになっていた(はずである)。同様な発言を盛りだくさん論述していた平井泰太郎の著作も,別にあった。

  『国防経済講話』千倉書房,1941年。

  『統制経済と経営経済』日本評論社,1942年。

 もちろん,戦時期から戦後期にかけて多くの経営学者たちが残した発言録も,この平井泰太郎とたいして変わらず,基本的に同類同質であった。平井だけがこのような「戦争用の発言」をおこなったのではない。しかしまた,敗戦後になってから「なんら反省すること」などなかった点でも,この平井泰太郎だけがそうであったのではない。

 以上にとりあげた平井泰太郎の発言は,大日本帝国が大東亜〔太平洋〕戦争に突きすすんでいく段階におけるものであった。なによりも戦争中における平井の言動は,敗戦の時に向かい,ますます意気軒昂さを増していったことも確かであった。

 以上はけっして,神戸大学経営学部に関係する経営学者たちにのみ限定されるべき戦時体制期の話題ではなかった。日本の経営学界全体が戦時体制期に向かいどのように対峙してきたかについては,この大学経営学部の教員であった海道 進がのちに,きびしく批判していた。海道の発言は「本稿  続の2」において言及することにしたい。

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「本稿」の続きは,以下である】

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