論争したがらない日本の大学研究者,まともに論争もしないうちに安倍晋三・菅 義偉流のファシズムが到来したのか?

        (2009年6月2日,更新 2016年3月6日,再更新 2021年10月11日)

 標題に「論争したがらない日本の大学研究者,まともに論争もしないうちに安倍晋三・菅 義偉流のファシズムが到来したのか?」とかかげみたが,専門領域に関した話題として本日の記述をおこなっていく

 社会科学部門においてなされてきた「経営学方法論争」はドイツやアメリカだけのものか? 日本経営学の論争回避の基本性格は,もしかすると「和をもって尊しとなす」が,学問の世界においても,謙譲の美徳としても不可避だったのか?

 再び,安倍晋三や菅 義偉など,自由も民主もそのカケラとすら無縁な政治屋連中が,国家全体主義の亡霊を,どうやってでも呼び寄せたいがごとき時代を感じさせてきたが,社会科学者がまともにモノをいえなくなる政治体制が徐々に作りあげられてきたのではないか?

 以上は,2016年3月時点で書いたこの記述の主な要点を,さらに更新,補正した文章である。その時点から5年が経過した今日,2021年10月段階になっている。いままでコロナ過にさんざんに見舞われつづけてきた「国家的な危機状況」に対面していながらも,いまだにまともに対処できていないのが自民党政権である。10月31日に実施される衆議院総選挙が注目である。

 

 🌑 ま え が き 🌑

   安倍晋三政権(第2次政権,2012年12月~2020年9月)も相当にひどかったが,さらにその品質を劣化させ,破壊させるだけであった極悪な菅 義偉政権(2020年9月~2021年10月)のスカスカな国家運営ぶりは,この国の為政を1年ほどしか担当できなかったし,しかも安倍のあとをさらに引っかきまわす内政しかなしえなかった。

 菅 義偉はそれこそヘタレた宰相の姿を暴露するだけに終始していた。とくに,このカス政権の性悪さそのものは,政権の発足を受けてその手始めに「日本学術会議を槍玉に上げる」かたちで,これを国民たちにみせびらかすという汚い手法をもって端的に表現されていた。その顛末となると,つぎのように起承転結していた。
  
 ※- 御田寺圭・稿「菅首相が学術会議人事で大ナタをふるった本当の理由 それは『教養がないから』ではない」『PRESIDENT Online』2020/10/13 17:00,https://president.jp/articles/-/39529

 この御田寺圭という人物は文筆家・ラジオパーソナリティーであるが,菅 義偉の政治家としての出自に不可避にともなっていた劣等感を裏返しにしたかっこうで,しかも,菅が自分が手に入れた国家権力を,やぶにらみ的にだが,かつ露骨に発揚させた1件を,つぎのように表現していた。

 〔菅 義偉が2020年9月に首相に就任した直後〕日本学術会議の会員候補6人が任命されなかった〔しなかった〕ことについて,議論が過熱している。文筆家の御田寺圭氏は「菅首相は個人的な好悪でこの6人の任命を拒否したわけではない。だれもが認めるたしかな実績をもつトップ・エリートだからこそ,あえて任命を拒否したのだろう」と指摘する。

 補注)この菅 義偉による日本学術会議の会員候補「任命拒否」という1件は,首相になった菅が自分の威信を,まず世間に宣伝し,示威するために演技したという見方が,ここでは示されている。もっとも,この「6人の人選」(に対する狙い撃ち)は,杉田和博官房副長官(当時)がゲーペーウー(かつてのソ連秘密警察)的,あるいはナチス・ドイツゲシュタポ的に指定していた,という官邸内の事情がみのがせない。


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【参考図解】

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  そのように,日本学術会議の新会員任命拒否問題をめぐり,杉田和博官房副長官が学術会議を所管する内閣府に対し,任命時に除外する候補者を伝達したことは,安倍晋三政権以来の日本の政治が,官邸主導になる独裁志向の政権になりはてていた事実を意味していた。

 また菅 義偉は,前首相の安倍晋三が岸 信介の外孫として『銀の箸』を握って生まれたのとは大きく違い,とくに大学時代に注目してみても分かるように,だいぶ苦学はしていた。ただし,その苦学ぶりは菅の為政に対して「正のよりよい効能」を与える結果にはなっておらず,その真逆の作用を生んでいた。

 そして,安倍晋三のほうはとみれば,エレベーター方式で進学した成蹊大学法学部政治学科に通っていた時,赤いアルファロメオで大学に出入りし,友人とは雀荘によく通っていたという。それゆえに,お勉強のほうはからっしナッシングのままであった。しかし,世襲政治屋の息子として「地盤・看板・カバン」に恵まれていたので,つまるところは日本国の首相にまでなりあがっていた。

  菅 義偉のほうになると,法政大学法学部政治学科在学中には実家から仕送りも受けつつ,警備員や新聞社,カレー屋のアルバイトで生活費と学費を稼いでいた。一方で,大学の空手道部に4年間所属し,三段の段位を取得していた。

 1973年,法政大学法学部政治学科を卒業し,建電設備株式会社(現・株式会社ケーネス)に入社した。その後政治家になり首相にまで登りつめたものの,その言動にはなんらかの劣等感を感得させるものがいくつも露呈されていた。

 こうした対象的な両名をそのまま(ありのまま)に比較したところで,たいして面白みはない。ただ,安倍政権の時期になぜ,菅が官房長官という重責を上手に采配できていたのかについては,まだ理解に苦しむ点がないとはいえない。その点はさておき,それなりに絶妙にかつ極悪にという意味で,2010年代における日本の政治史をできるかぎりに暗黒化させてきたという「歴史の事実」だけは,このたいそう迷惑であったゾンビ的政治屋コンビによって明確に刻まれてきた。

  ※-「説明不足,学術軽視… 菅首相のつまずきの元になった学術会議問題」『毎日新聞』2021/9/5 16:00,最終更新 9/5 20:18,https://mainichi.jp/articles/20210905/k00/00m/010/149000c

 日本学術会議の会員候補6人の任命を拒否し,その理由を明かさぬまま,菅 義偉首相が退陣する。1年近くこの問題に振りまわされ続ける元会員らは,任命拒否であらわになった「説明不足」や「学術軽視」といった首相の姿勢が,新型コロナウイルス感染拡大のなかで国民の不信を招き,短命政権につながったとみる。

 

「政治家は国民にきちんと説明し,納得してもらうことが大事だが,それができないトップだった。資質の欠如は学術会議の問題で露呈し,不信感を生む構図がずっと続いてしまった」。

 菅 義偉が残した官房長官としての足跡:勇姿は,いまからだと,はるか昔の話であったかのように映る。ともかく,10月になって「岸田文雄という幽霊」みたいな(この人もまた世襲政治屋であるが),自民党内では最古参の派閥である宏池会(こうちかい)を代表する人物として,自民党総裁選を経て首相に選ばれていたのだから,2021年の現段階における政治状況は,冴えないと形容するどころか,よいいっそう雲行きがあやしくなってもいる。

 今月(10月)の末日(31日)には衆議院解散総選挙が実施される。自民党がもしも政権を維持していくことになったら,このフニャフニャした新首相がコロナで疲弊の度合を深めてきたこの日本を,少しでも治療し,改善できる為政ができるのかといった肝心な点については,それを期待しないほうがいいと批評する識者のほうが多い。

 さきほど,菅 義偉が首相在任するや初めに手を着けた,日本学術会議「会員候補」6人に対する任命拒否をおこなった出来事は,官邸内ゲーペーウー(もしくはゲシュタポ)の元締め的な存在であった杉田和博官房副長官の人選によっていた。

 岸田文雄の幽霊的な新政権のもとでも,副総裁をまだ辞めない麻生太郎が以前,ドイツ・ナチスファシズムを土台にした政治体制に対して,大いなる共感を披瀝し,積極的に賛同を意も示して,「日本の政治」もそれを真似したらどうかとささやいていた。

 また,自民党とが先日,新政権の首相となるべき人物を選ぶための自民党総裁選にさいして,岸田とともに立候補した高市早苗は,21世紀のいまごろにあって,国家社会主義日本労働者党(Nationalsozialistische Japanische Arbeiterpartei)の主宰者である山田一成といっしょの写真を撮っていた事実も露呈していた。

 ※- なんといっても麻生太郎は,4年前につぎのようにナチス礼賛になる発言をしていた。この事実は,いまでは完全に極右化した「自由民主(?)党の本性」を正直に物語っていた。

      ★ なぜ麻生太郎ナチスヒトラーにこんなにこだわるのか? ★      
 = (今週の珍言・重要発言総まくり)大山くまお稿『文春オンライン』2017/09/02,https://bunshun.jp/articles/-/3989
 
 名言,珍言,問題発言で1週間を振り返る。また麻生氏から失言が飛び出した。〔2017年8月29日におこなわれたみずからが率いる自民党麻生派の研修会の講演で,所属議員に向かって「(政治は)結果が大事だ」と語った。ここまではいい。

 

 問題はここから。「何百万人殺したヒトラーは,やっぱりいくら動機が正しくても駄目だ」と続けたのだ。これではホロコーストで何百万人ものユダヤ人を虐殺したヒトラーの動機が正しかったといわんばかりである。

 

 当然ながら野党からは批判が相次いだが,イギリスの大手新聞『ガーディアン』も麻生氏について「日本の麻生太郎大臣がヒトラーを称賛,彼は “正しい動機” をもっていたと発言」と報道した(2017年8月30日)。

 

 ネットでは「揚げ足取りだ」「曲解に過ぎる」と麻生氏を擁護する声も上がったが,当の麻生氏がすぐさま発言を全面的に撤回。「私の発言が,私の真意と異なり誤解を招いたことは遺憾」としたうえで,「私がヒトラーについて,きわめて否定的にとらえていることは,発言の全体から明らかであり,ヒトラーは動機においても誤っていたことも明らかである」と語った(『朝日新聞』2017年8月30日)。

 

 麻生氏は2013年にも憲法改正論議に関して「ドイツのワイマール憲法もいつの間にかナチス憲法に変わっていた。誰も気が付かなかった。あの手口に学んだらどうかね」と講演で発言している。

 

 ナチス政権の手法を肯定したとも取れる発言は米国のユダヤ人権団体のサイモン・ウィーゼンタール・センターや中国外務省などが非難の声明を相次いで発表するなど国際的な批判を招き,麻生氏は発言を撤回した。


【参考記事】

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 ※- まさか麻生太郎が “ひょっとこ麻生” (ブログ『くろねこの短語』命名と呼ばれるほど顔面の造作が,彼の長い人生行路のなかで変形せざるをえなかったのは,以上のごときに,好き勝手だという次元などはるかに超えて,ナチスの「業績を評価する発言」をバカ正直にも重ねてきたせいではなかったか?

 さらには,菅 義偉政権が発足したとたん,日本学術会議の会員候補6名に対する「否定,排斥」を,菅はまるで自分に与えられた初仕事として取り組んだかのような様相を呈していた。それも彼なりに得意げに斬り捨ててはいたものの,いまだにその後始末はなにもついていない状態にある。この現状は,日本の政治の劣化・腐敗ぶりを端的に物語るひとつの材料を提供することになった。

 しかし,「今は昔」などといっていられないほど,自民党政治の堕落・腐朽はいちじるしく目立つばかりであった。というよりもまさに「昔が今」なのが,時代錯誤を地でいくこの極右政党の真相であった。

 2021年10月31日の衆議院解散総選挙政権交代が実現しないようでは,コロナ過にろくに対応すらできていなかったこの自民党政権では,21世紀における日本は今後においても「現実に進行中である後進国化の過程」をますます早めるほかあるまい。


  学術活動の歴史的・社会的責任の問題

 本日(旧ブログの記述のものなので,ここでは2016年3月6日のこと)は,日本の経営学界内にみられる「学問的な組織体質」の一端をしるうえで,参考になる問題点を指摘してみたい。

 過去,日本の経営学史〔=経営学の歴史的な展開〕は,この学問全体および理論部門を発展・成長させるうえで,大いに資するはずと思いたい「論争としての学的な相互交流」を,満足に実現しえていたかと問うのである。

 たとえば,ドイツの経営学史を回顧すると戦前および戦後にかけて,第1次方法論争→第2次方法論争→第3次方法論争→第4次方法論争というふうに,学界全体を挙げるかたちで,経営学〔ドイツでは,Betriebswirtschaftslehre : 経営経済学〕という学問の基本的観点=本質・方法・対象などの諸点をめぐって,それこそ侃々諤々の議論がゆきかった。それによって,ドイツの経営理論の新展開が打開されていく契機も,多々提供されていた。

 なかでも,その間の1933年から1945年は,ナチスがドイツを支配する時代であった。当時,いかにもえげつないファシズム的経営理論が構築・展開されていた。だが,ドイツ経営学界はその足かけ13年の歴史に関して敗戦後,真正面から回顧し,反省し,批判して克服するための努力を避けてきた。戦争責任問題に論及したドイツ経営学の文献は,ごくかぎられている。たとえば,つぎの2冊がある程度である。

 ☆-1 Peter Gmähle, Betriebswirtschaftslehre und Nationalsozialismus, 1968.   

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 ☆-2 Sönke Hundt, Zur Theoriegeschichte der Betriebswirtschaftslehre, 1977.

 ドイツ経営学界の戦責問題に対する姿勢は,ドイツという国〔西ドイツから統一ドイツへ〕がナチス「によって」残虐な行為をした歴史的事実を認め,ユダヤ民族などをはじめ,周辺諸国にも謝罪をしてきた事実に比較してみるといい。この論点に関してはむろん,さらにいろいろ議論の余地もあるが,ここでは詳しくは触れられない。

 だが,ドイツ経営学に関連する謝罪行為に関していえば,ナチ経営理論の残してきた負の業績は,ほとんどといっていいくらい放置されてきた。いうなれば〈沈黙の対象〉であった。ドイツ経営学においては〈謝罪=反省・克己〉という学問的営為は,まったくなされていない。だが,その点は日本の経営学も同じであって,その闇の部分はもっと深い。

 1) クルト・ヨーゼフ・ワァルトハイム(Kurt Josef Waldheim,1918-2007年)

 ワァルトハイムは, 1972-1981年に第4代国連事務総長を務め,1986-1992年にオーストリア大統領を務めた人物である。第2次世界大戦前,国家社会主義学生同盟を経てナチス突撃隊の将校となっていた事実や,大戦中の1943年にユーゴスラビアで残虐行為を働いた部隊において通訳を務めていた事実が,戦後もだいぶ経過してから判明している。

 2) ヘルベルト・フォン・カラヤンHerbert von Karajan, 1908-1989年)

 カラヤンオーストリア出身の有名な楽団の指揮者である。ナチス・ドイツの時代,1939年にベルリン国立歌劇場およびベルリン国立管弦楽団の指揮者の地位をえている。アドルフ・ヒトラー総統主催の第9演奏会の指揮を務めたさい,ヒトラーから「君は神の道具だ」と絶賛されたという。

 3) マルティンハイデッガーMartin Heidegger, 1889-1976年)

 ハイデッガーは,存在論的哲学を樹立した哲学者であり,日本でも多大な学問的関心を向けられてきている人物である。1927年,伝統的な形而上学の解体を試図した主著『存在と時間』をもって「存在論的解釈学」を構築した。 

 1933年にドイツに第三帝国が成立したのち,『国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)』に入党する。フライブルク大学総長に就任したとき,『ドイツ大学の自己主張』(Die Selbstbehauptung der deutschen Universität)という演説をおこなっていた。

 ただし,ハイデッガーナチス左派:突撃隊に共感を抱いていたため,ヒトラーによって突撃隊を束ねていたエルンスト・レームなどが粛清されてからは,ナチスに幻滅したといわれている。戦後,ナチスへの協力をきびしく問われ教職を離れざるをえなかったが,その後,カール・ヤスパースなどの助力によって大学に復帰できた。

 4) ヴィルヘルム・フルトヴェングラー( Wilhelm Furtwängler, 1886-1954年)

 ヒトラーがドイツ首相となった1933年,世界でもっとも有名なオーケストラのひとつであったベルリン・フィルハーモニー管弦楽団は,経営的にきびしい状況に当面していた。当時,この楽団の指揮者フルトヴェングラーは,宣伝大臣ゲッベルスに援助を求めた。

 これを機にベルリン・フィルは「帝国オーケストラ」となり,ナチス・ドイツプロパガンダの道具と化していった。ナチ党への協力と対立,ユダヤ人団員問題,「帝国オーケストラ」としての演奏旅行。そして,音楽の理想と戦争の影の葛藤のなかでドイツは敗戦を迎える。

 ドイツ経営学史にくわしい経営学者田中照純(立命館大学名誉教授)は,ナチス期における理論史は「とくにドイツ本国においては,ドイツ経営学の全体的な発展史(ドイツ経営学史)から排除されている」と指摘している(『経営学史学会第2回大会発表資料』1994年5月,於;滋賀大学)。

 以上 ① でドイツに関連する参考文献。

 

  ☆-1 望田幸男『ナチス追及』講談社,1990年。

  ☆-2 ロバート・E・ハーズスタイン,佐藤信行・大塚寿一訳『ワルトハイム 消えたファイル』共同通信社,1989年。

  ☆-3 ロベルト・C・バッハマン,横田みどり訳『カラヤン 栄光の裏側に』音楽之友社,1985年。

  ☆-4 トム・ロックモア,奥谷浩一・小野滋男・鈴木恒夫・横田栄一訳『ハイデガー 哲学とナチズム』北海道大学図書刊行会,1999年。

  ☆-5 ピーター・チェットラー,木谷 勤・小野清美・芝 健介訳『ナチズムと歴史家たち』名古屋大学出版会,2001年。

  ☆-6 ロバート・ジェラテリー,根岸隆夫訳『ヒトラーを支持したドイツ国民』みすず書房,2008年。

  ☆-7 ミーシャ・アスター松永美穂・佐藤 英訳『第三帝国のオーケストラ-ベルリン・フィルとナチスの影-』早川書房,2009年。

  ☆-8 ヘルムート・オルトナー,須藤正美訳『ヒトラーの裁判官 フライスラー』白水社,2017年。                      

 

  対岸の火事ではない戦争責任「問題史」

 日本の経営学界も同じ経緯をたどってきた。戦争責任の問題を学会〔学界〕の次元から発するかたちで初めて明確に言及したのは,日本経営学会理事長海道 進教授であった。
 1987年9月に公刊された日本経営学会編,日本経営学会六十周年記念特集『情報化の進展と企業経営〔経営学論集第57巻〕』千倉書房,昭和62年の「編集後記」において海道理事長は,戦時期日本の経営学をこう回顧していた。

    1930年代には東西よりなしくずしに戦争の段階に入り,経営学者の中からも多くの戦争協力者を出したことは周知の事実であります。戦後もその反省もあり,弾圧されていた批判的経営学が開花・発展したことは,理由のないことではありません。

 

 いま六十年の歴史を回顧いたしますと,一つの歴史的教訓が与えられます。それは,若い世代の人々が,戦時中の多くの経営学者が犯した戦争協力への誤りを再び犯さないことであります。

 

 経営学は,六十年の歴史の間に侵略戦争と搾取への協力,狭隘な国家主義と凶暴なファシズムへの協力,経営共同体のドイツナチズムへの傾斜など,恥ずべき道程を辿りました。

 

 経営学は,再びこの過った道を繰り返すべきではありません。先人の愚行の轍を踏むべきではありません(344頁,344-345頁)。

 海道 進理事長は,2年後に公刊された日本経営学会編『産業構造の転換と企業経営〔経営学論集第59巻〕』千倉書房,昭和64年の「編集後記」でも,重ねてこのように回顧していた。

 15年戦争中,日本が敗北することを公にすれば,非国民として差別され国賊の悪名をうけることは必定でした。ところが国賊の方が真理を洞察し,逆に戦争協力者の方が愛国者の顔をして実際には国を誤らせた非国民でありました。経営学者の99%がこの誤った道を歩いたという苦い歴史的経験があります。

 

 弾圧された学者の方が真理を把握しており,時流に迎合した学者の方が誤りを犯し,現象の本質を把握しえず,似而非学者あったわけでした。現在の経営学者に対して,この過去の経験は貴重な教訓を与えています(317-318頁)。 

 戦時体制期〔昭和12年7月~20年8月〕において,全体主義的兵営国家に成長した大日本帝国が強引にすすめてきた「東亜新秩序→東亜共栄圏」への侵略戦争を,日本の経営学者たちも社会科学の立場からすすんで支持する国家思想を昂揚させ,そのための経営理論を銘々が具体的に開陳していた。

 敗戦後,日本におけるマルクス主義経営学陣営の泰斗の1人と尊敬され,また所属する大学・学部において多くのマルキスト経営学者を育成したある経営学者がいる。しかし彼は,戦時体制期においてたしかに,国家の侵略路線に対して水先案内人の役目を果たす研究経歴を記録していた。戦争の時代にあっては彼もまた,戦争協力者の「その99%」のほうに収まる学究であった。その氏名は明治大学佐々木吉郎

 1980年ころより,日本の経営学者たちのそうした「戦争中の論説=事実」を追及・解明・批判してきたある〔前段の佐々木吉郎の世代からみると〕「次世代の経営学者」がいる。彼は2000年に,前段に指摘した「このマルクス主義経営学者」の「戦争協力の事実」に論及のある著作を公表していた。ところが,この著作は初版が売り切れると,当人に対してなんの断わりもなく勝手に絶版にされていた。

 出版界の常識では,たとえば品切れになった本が出たときは,売行きなどを勘案してこれを重刷するかそれとも絶版にするかは,著者への連絡・了承が必要である。にもかかわらず,これが無視されていた。そこには,第3者からなにか「お節介=圧力のようなもの」が介在していたと推測することが,あながち想像のしすぎではあるまい。

 

  論争とは縁のうすい日本の経営学

 日本の経営学界でも論争そのものがなかったわけではない。高名な教授たちのあいだで,それぞれ自説理論に立脚しながら白熱した議論を,批判的な交流の形式をとって起こしたことも,ないわけではない。しかし,その論争の経過をよく観察していると,当事者が事後において自説理論をより発展させえたとか,いわゆる弁証法的に相互の理解が高まったとかという成果が生まれることは,あまりみかけなかった。

 日本の経営学者間における論争の場合,どちらかといえば双方が「ケンカ別れ」してしまい,「たがいに悪感情を残す」だけの結末に終わりやすい。かつて,ヨーロッパの男どもが血気盛んなあまりおこなった「決闘」は,下手をするとどちらかが生命を落とすときもあったけれども,これに比べれば,日本の経営学者における「学問論争」など,きわめて温和に映る仕事であるはずである。

 ところが,日本の学者先生・研究者にあってはだいたい,論争するとすぐにその相手とは仲違いする末路が待ちうけている。もっとも,奥村 宏「法人資本主義論」と西山忠範「企業支配構造論」とが交わしてきた〈相互の論争〉をみると,さんざんにおこなわれてきた両者間の徹底的な批判的対話をとおして,そのたびごと両者は研究者としていっそう仲良くなっていく関係を構築できたというから,例外的な事例といえ,大いに参考になる。

 本ブログの筆者は,西山教授にしか面識がなかったが,やはり必要とあらば論争を回避しないこの筆者を気にかけてくれた。いまから何十年もまえのことであった。早稲田大学で開催された日本経営学会の懇親会席上で,当時武蔵大学経済学部で西山教授の同僚だった岩田龍子教授(この人は男性)から,「西山先生があなたを呼んでいるから話をしてきなさい」といわれたことを,いまでもよく憶えている。

 西山教授が筆者にいった〔褒めてくれたことだけ記憶だけは残っている(!)のだが〕ことは,「あなたは日本の経営理論・経営問題をとりあげている点がよろしい」(日本の研究に従事していた経営学者が当時はまだ少なかった)ということであった。その後,西山教授からは著作を何冊か献本を受けてきた。

 筆者に関する話はともかく,「奥村 ⇔ 西山との論客的な親しい関係」は,日本経営学における事例としてごくまれな部類であって,ふつうは論争などしかけると,このしかけたほうがけっこう悪者扱いされるのが相場である。

 前段に氏名の出た岩田龍子教授〔名を〈りゅうし〉と読む「男性」〕は,かつて神戸大学経営学部の占部都美教授を領袖とする研究者集団としばらく「日本的経営」の問題で論争をしていた間柄であった。だが,あるとき突然「先方」から,岩田龍子を相手としない,今後はいっさい議論=論争に応じないと宣言されたそうである。

 この話は,岩田龍子教授〔1934年愛知県生まれ,2浪して東京大学経済学部に入学,1959年卒業,武蔵大学国際大学九州大学を経て,日本福祉大学教授など歴任〕から直接聞けた話である。いまからずいぶん昔の出来事であるが,議論・批判のやりとりをどこまでも継続するつもりであった岩田教授に対して,論争に嫌気を差した神戸側の研究集団〔のセコンド?〕がまさかタオルを投げたわけでもあるまいに,徹底すべき学問の相互交流を打ち切ったのである。

 というしだいで,日本の経営学界に限定した話になあるけれども,論争を契機に相互の経営理論の立場を高め,それによる現実認識も深めるための可能性を,わざわざ狭めたり矯めたりしている向きがある。

 なお,占部都美『日本的経営の進化』中央経済社,昭和59年は,論争相手である岩田龍子の論調を「主観的観念論」と切り捨てていた(15頁以下参照)。

 

  筆者の体験

 最近における筆者の体験を話そう。経営財務論を専攻する高齢のある経営学者が,西田幾多郎流の行為的主体存在論的哲学「論」を武器に使い,これを自説の基礎理論に導入する方法を唱えて専門書を書いた。

 筆者はその著作に対して「西田哲学の不勉強」,いいかえれば,彼自身が学部時代および大学院時代に師事した2人の恩師の経営学説を媒介に,「西田哲学もどき」の経営行為的主体存在論を,自著に創造的にとりこんだとする「企画の不全ぶり」を詳細に分析し,さらに徹底的に批判もくわえた。

 それからもうだいぶ時が経過しているが,彼からなにも返事をもらえぬままである。論文の「抜刷」=批判をもらったと,これだけでもいいからハガキでも書いてやり,返事くらい出すのが最低限の礼儀だと思いたい。だが,その後,ウントモ・スントモなく,なんら応答はないままであった。もっとも,返事を出す出さないは,まったく当人の自由であり,こちらが要求する性質のものではなかった。

 要は,西田哲学じたいに関する彼の研究は,その「イロハ」に相当する〈とっかかりの序論的な勉強〉さえ,ろくになされていなかった。それでいて,行為的主体存在論にもとづく「経営財務本質論」が仰々しく展示されていた。

 西田哲学に関する研究そのものは非常に盛んになされており,そして,その研究成果も数多く公表されている。ただし,日本哲学史・思想史・精神史における研究の展開としてのそれである。それにしても,こちらの事実をまさかよくしらないで,経営財務論の基礎理論に西田哲学を導入する企図を抱いたわけではあるまい。それとも,これから西田哲学を勉強しますとでもいうのか?

 さらにいわせてもらうと,あの偉大なるマックス・ウェーバーの社会科学論に匹敵する経営学論を構想・展開した日本の経営学者がいると〔実はそれは,その人の〈恩師〉に当たる人が構想した学説理論のことであったが〕,高唱した経営学者も登場している。

 本ブログの筆者は,正直いってそうした学問的な作法についてはホトホト呆れはてたが,ひとまず批判論文を執筆して,当人に送ってある。その後,半年以上(ここでは「旧々ブログ」における時間の関係でそのまま書いておく)が経ったが,こちらもなんの音沙汰なしである。

 全面的に的外れの批判だというなら無視は当然である。しかし,自説の主唱が真っ向から否定されてもこれを黙視するのであれば,これは黙認に等しい応答である。いわば,無応答の応答とでもいえる。

 

  ナチス御用達のゴットル経済学を21世紀にもちだす迂闊

 明治大学で経営哲学を講じていたある教授は,2004年に公表した主著のなかで,ナチス時代のドイツ経済学界を風靡したゴットル理論にすっかり魅入られたのか,ゴットル流「生活経済学」の学問の理想と生活関連の目標が,今日における経済社会を考察するための経営哲学「論」として,大いに有用・有益であると〔勘違いであればいいのだが〕真剣に提唱した。

 本ブログの筆者は,ゴットル理論を「今日的に読みこんだ」とはとうてい思えないその教授の提唱に,本当にビックリ仰天させられた。いくらなんでもそれはひどく浅薄な,ゴットル経済学の「借用的な解釈ないしは未消化の流用」であった。この先生に対しても批判論文を書いて差しあげ,謹呈した。さらに前後しては,筆者以外にも何名かの同学から,その教授の著書に対する批評が寄せられてもいた。

 この先生,筆者が繰りだした数度の批判に対しては,これに反論する論稿をある学会の研究雑誌に寄稿した。ありがたいことであるが,ただし,残念ながら〈論争の体〉をなすまでには至らなかった。筆者からの再批判「論文」も間を置かず,つづけて,同誌次号に掲載してもらっている。

 最初の段階でその先生に対して謹呈した論文の場合,その分量は優に新書判1冊に相当するくらいに,すなわち詳細に批判をくわえるかたちで,徹底的に議論を展開してみたつもりであった。

 いずれにしても結局,両者の議論は噛み合うことにならなかった。なぜか,それは「論争次元において議論する」ことを可能にする基礎研究を,いずれかが「怠ってきた」からである。恐らく彼は,つぎに記述するごとき「ゴットル理解」をしらない。

 安井琢磨『経済学とその周辺』木鐸社,1979年は,戦争中にゴットル経済学にすり寄り,心酔したかのようにこの学説理論をとり入れ,打ち上げ,議論していた社会科学者たちの様子を,こう描写している。

 ゴットルの吐いた嘔吐をついばむ鴉〔からす〕どもが続出して虚痴〔こけ〕の一つ覚えのように構成体という言葉をくり返し,かつてマルクスの1ページも読んだはずのものですら「欲求と調達の持続的調和」などということを勿体らしく空念仏のように唱えた1時期がわが国にあったということは,思い出してもあまり感心できない事実であった(172頁。〔 〕内補足は筆者)。

 明治大学で経営哲学の講義を担当していたその先生,この程度の経済学に関する予備知識すらもちあわせていなかった。ゴットル経済学について本ブログ筆者は,すでになんども記述してきた。その先生は,ゴットルを自説の基盤=核心に摂取するに当たり,先行する関連研究業績の精査・摂取をおこなったとは思えない。

 それだけでない。ドイツ語の原書講読はドイツ語が読めなければ無理であり,またゴットルの浩瀚な著作を一読するのは,ドイツ語を読める経営学者でも一苦労であるので,せめて日本語訳のあるゴットルの著作および日本人学者によるゴットルの研究書だけでも,できうるかぎり当たって,すべて通読しておくべきだった。ところが,これさえもなされていなかった。この点は,彼の主著巻末の参考文献に挙げた著作一覧を観ての事実指摘である。

 となれば,大学の教授の肩書をぶら下げながら,いったいなにを勉強していたのかと,文句の一言くらい口に出してみたくもなる。この小言がさらに,学問的な次元において拡声・発信されるとなれば,当然のこと,彼の主著の理論構成に起因するほかない〈基本的な脆弱姓〉にまで届くものとなる。

 もっとも,ドイツの経済学界でも勉強不足の社会科学者がいる。筆者が以前,神戸大学から借りて読んだ Ulrich Chiwitt,Wirtschaft und Leben : eine philosophische Analyse der Wirtschaftslehre Friedrich von Gottl-Ottlilienfelds,Essen : Blaue Eule, 2000〔題名『経済と生活-フリードリッヒ・フォン・ゴットル‐オットリリエンフェルト経済学の哲学的分析-』〕には,ウンザリさせられた。

 この著作の内容は,ゴットル(Gottl-Ottlilienfeld という姓を  “ゴットル”  と略称)の,単なる「現代・今日的な祖述」である。ナチスとの深い思想史的連関を有するゴットル理論の基本問題など,どこかに棄ててきたか,あるいは初めから目を背けた(それとも盲目的に是認した)本である。

 

  歴史は繰りかえされるのか? -賢明なのか,愚昧なのか-

 1)あの暗黒の時代,戦時体制期〔1937年7月~1945年8月〕が復活するのか?

 誰でもみな,戦争責任みたいにドロドロした嫌な論点には近づきたくない。それだけのこと・・・。しかし,それではたして,学問・理論のこれからの発展・成長が望めるのか? 過去の失敗に学ばないで,なにに学ぶのか?

 過去にきちんと学べば,ナチスの賛頌を意味する理論を使い,経営学「論」として発想することはありえない。たとえ使うにしても,徹底的に研究しつくし,完全に別物になるまで換骨奪胎したとみなせる状態まで,独自に処理・加工・精練したうえで,21世紀における経営学の実質的な材料(反面教師)としてとりあげうる断片があれば,それなりに活かして利用すべきである。

 最近の日本が露悪しつつある政治情勢を直視すればよい。「〈戦後レジーム〉を否定し,脱却する」のだという「脱・反民主主義的な政治信条の持主」である首相が,いま〔彼は2020年9月16日になってようやく退場していたが〕得意になって,日本の政界のなかで大活躍中であった。

 前段の論及において,海道 進が1980年代後半に指摘した「戦争と学問の間柄」の問題が,いまではまたもや,現在の時代のほうへ向けて逆噴流しだしている。これでは,経営学という学問も先祖還りしないという保証がない。

 海道の指摘によれば,戦争中は「99%の経営学者」が戦争協力の立場を採った,そうでなかった経営学者は1%であった。といわれたからには,いまの経営学者はあらかじめ,その「1%の率」を少しでも引き上げるための「心の準備」だけは,最低限しておくべきである。

 自分が99%の経営学者になりそうかどうかについては,戦前における日本経営学史の諸様相・諸局面をひととおり観察すれば,その判断をするために手がかりがみつかるかもしれない。なにせ「99%対1%という話題」である。いざとなって,この多数の99%に〈転ぶ〉人間たちは,昔はやった標語でいえば,まさに「赤信号みんなで渡れば怖くない」の部類に属する。                  

 戦前風のものであっても,できるかぎり「民主主義の立場を尊重し,大切に護ろうとする経営学者の立場」が,時代の流れになかで生起している状況の変化に抗えず,いつの間にかおかしな方途にずれていく事例は,戦前から戦中の経営学「発達」史を回顧すれば分かるように,いくらでも存在した。

 2)ヒトラーには比較すべくもないが,安倍晋三流に幼稚なファシズム志向に偽りはなし

 当時(かつて戦争の時代)には実際にいくらでも存在していた「翼賛のための学問」を鋭意していた経営学者は,21世紀の現在においても妥当してしまう「学問・研究の過ち」を示唆していた。

 国家全体主義に脳細胞が凝りかたまった安倍晋三のような政治家の立場は,2015年5月ころすでに,文部科学省が告白していたごとき「文系の学部・学科不要論」にも明白に反映されている。

 この不要論は,その後大学側から強い反発・批判を受けたため,ひとまず撤回を余儀なくされていた。社会科学や人文科学は要らない,理系の学問だけあればいいという単純・明快であるが,これは,きわめて愚劣・蒙昧な発想である。

 ファシズム信奉者は,体制・支配者側に刃向かうような批判者・反対者を輩出させる可能性の高い学問諸領域は,初めからいっさい要らないものと考えている。この思考方式こそがまさしくファシスト的な思考方式に固有なものである。

 ナチスヒトラーが政権をとってから,ドイツの大学ではユダヤ人教授の追放が本格的にはじめられていた。いまの日本では,文系不要論を唱えられる以前から,大学の学問研究に対する軽視の姿勢(尊敬の欠如)が顕著になっていた。現政権の反知性主義・非学問主義に対しては,経営学を専攻する社会科学者たちも警戒心を怠ってはいけない。

 戦時体制期〔昭和12年7月~20年8月〕に大日本帝国にあっては,たとえば,村本福松『経営経済の道理-翼賛経営体制の確立-』文雅堂書店, 昭和17年7月 と題した経営学研究書も公表されていた。読んで字のごとくであるが,いかにもの題名である。

 補注)本(旧)ブログ内における関連の記述がある。→2014年3月30日「経営学者村本福松の戦前・戦中・戦後史-その一貫性と断続性-」,副題「戦後における皇国史観の残滓」は,本ブログではつぎ記述として復活,再出してあった。

 戦時体制期においては,つぎのような著作も公表されていた。日本学術振興会編『公益性と営利性』日本評論社, 昭和16年9月という題名の本が,その実例であった。安倍晋三がめざす改憲は,この「公益性」(公共性といいかえていい用語)をてこに使い,国家全体主義に方向づけられている。これは,民主主義・自由主義個人主義の否定・破壊を意味し,独裁主義・強権主義・全体主義にしたがう暴力的な政治を基本とする。同書は,経済活動・企業行動に関して,こう記述していた。

    基本的には個人が国家の1分子であると云ふ関係は変りない。それと同時に私益は公益に奉仕する限りに於て許されるべきものであることも基本的には変るべきではない。併しどの程度に私益が公認されるかは,その客観的情勢の変化によって変って差し支へないのである(29頁)。

 もしも,安倍晋三の野望が実現したとき,これに呼応する「お調子者の」経営学者が出現しないとは限らない。多分きっと雲霞のごとく,その範疇の経営学者が特定の場所に蝟集するものと予想しておく。過去の体験に照らせばそう判断することにならざるをえない。

 いったいなんのために「社会科学としての経営学」の研究に従事していたのかと,後世において「根源から問われる」かしれないような,とても恥ずかしい学問の営為を,性懲りもなく再びひけらかす連中が,しかも大手を振って斯学界の表通りを闊歩する状況が再現されるかもしれない。

 ここで,最近になって自民党が示した改憲草案から,つぎの2条に注意しておきたい。公益が実質的に金科玉条になっている。国家全体主義の立場における基本思想,つまり「公益優先の全体精神」が「私益=個人の自由・権利」を徹底的に制限し,生き埋めにしている。

  第12条(国民の責務) この憲法が国民に保障する自由及び権利は,国民の不断の努力によって,保持しなければならない。国民は,これを濫用してはならないのであって,自由及び権利には責任及び義務が伴うことを自覚しつつ,常に公益及び公の秩序に反しないように自由を享受し,権利を行使する責務を負う。

 

 第13条(個人の尊重等) すべて国民は,個人として尊重される。生命,自由及び幸福追求に対する国民の権利については,公益及び公の秩序に反しない限り,立法その他の国政の上で,最大の尊重を必要とする。

    以上2条は,「国家=全体=独裁」が「国民=個人=自由」を頭から抑えつけたいという願望を,きわめて正直かつ明解に表現している。

 ナチス・ドイツにおける有名だったある標語が「公益は私益に優先する」(Gemeinnutz vor Eigennutz)という文句であった。この文句からも,麻生太郎ナチスを郷愁している事由が理解できる。

 この政治屋の太郎は,今風にいえば,日本社会においては「最上層に盤踞する上級市民の1人」であり,われわれ庶民の生活感覚,そしてなによりも民主主義の基本理念とは無縁の,政治精神の持主であった。

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