社会科学論としては不思議な経営学論の展示,小笠原英司『経営哲学研究序説-経営学的経営哲学の構想-』2004年への批判的な討究

              (2014年1月24日,更新 2021年10月12日)

 🌑 え が き 🌑

 以前,社会科学としては不思議なひとつの経営学論の展示がなされていた。いってみれば「経営学の存在意義」そのものに関する疑問を惹起させざるをえなかった,ある「経営学の構想」が披瀝されていた。

 だが,はたしてその経営学論に存在意義がありえたのか,「あった」とすればいかように評価されるべきか,また「なかった」とすればまた,いかように批判されるべきかなど,それこそ親身になって立ち入った議論をおこなうのが,学究たちにとって本来の立場ではないかと思われる。

  この記述をもって吟味したいのは,小笠原英司元明治大学経営学部教授)の説いた経営学「論」に〈実価〉をみいだせたか否かをめぐる論点である。

 補注)小笠原英司の「略歴」はつぎのとおりである。

 1947年岩手県盛岡市生まれ,1969年明治大学経営学部卒業,1974年明治大学大学院経営学研究科博士課程単位修得,1988年立正大学教授等を経て明治大学経営学部教授。専攻分野は経営哲学,経営管理論,経営組織論,比較経営論。

                      
  歴史(学史)をしらずして,理論(学説)を語るなかれ

 1) 経営学の存在意義よりも「経営学者の存在じたい」がそもそもの検討課題であった

 本ブログの筆者はある時,つぎの「経営学関係の論稿」をみつけた。それは,題して「経営学の存在意義-いま,あらためて,経営学とは何か-」(The Reason of Existence of the Learning of Business Administration)」関東学院大学『経済系』第254集,2013年1月  となっていた。筆者は,小笠原英司明治大学経営学部)である。この論稿の目次は,こうなっていた。

    は じ め に

      1.  経営学と企業-企業学としての経営学
      2.  何のための企業学か
      3.  企業学からの解放
      4.  経営体の一般理論-理論経営学の概念的枠組み-
      5.  社会哲学としての経営学

    お わ り に 

 この論文の現物は,PDF版で読めるので,興味のある人はそちらをのぞいてみてほしい。小笠原英司は2004年に,それまでの自身による研究の集大成を『経営哲学研究序説-経営学的経営哲学の構想-』(文真堂)に公表していた。本書の目次は,こうなっていた。

     第Ⅰ部「経営学理」  第1章 経営哲学の概念と経営哲学研究,第2章 経営哲学の枠組み 第3章 経営存在の認識-経営学理の再構成-

 

     第Ⅱ部「経営存在」  第4章 経営生活の原理,第5章 企業とは何か,第6章 組織と管理-バーナードの組織概念と管理論的視座-,第7章 現代経営における「事業」の位置

 

     第Ⅲ部」経営実践」  第8章 現代経営と〈官僚制問題〉,第9章 組織化の原理,第10章 管理と管理者-その地位と責任-,第11章 組織と公共性,第12章 経営戦略と事業-事業使命論の原理,第13章 現代経営の倫理と合理

 いまから10〔17〕年前の経過であり,出来事となる。小笠原『経営哲学研究序説』の公刊にさいしては早速,何名かの経営学者たちから批判が,書評や論文によって提示されていた(→その一覧は末尾に挙げてある)。経営哲学学会という小さな学界サークル内でその議論(論争)もなされていたが,しょせんは経営学界の片隅での対話に終っていたようである。
 
 けだし,『経営哲学研究序説』の要点は,それもどのような先学の成果を活用してまとめられていたか。この点は,ごく大筋に絞りこんでとらえるとすれば,「日本の山本安次郎,アメリカのチェスター・I・バーナード,ドイツのフリードリッヒ・v・ゴットル=オットリリエンフェルトの3人」であった。

 ただし,最後のゴットル=オットリリエンフェルト(略してゴットルと呼ぶ)に関する小笠原英司の理解はきわめて粗雑であった。ナチス・ドイツに利用されていた,この経済科学論の歴史的な素性に完全に無知であったのである。

 日本の経営学者として実は,まことにうかつであったともいわねばならない。経営学からのその理解は,未消化の理論とり入れであって,いわば学問的な理解としては,好意的に表現しても,一知半解でしかなかった。

 当初から,Gottl-Ottlilienfeld に対する哲学的・科学的な認識において,あまりにも不用意な姿勢があった。

 2) 明治大学の先輩学者:印南博吉の怒りをしらなかったのか

 いまから66〔73〕年前,明治大学商学部の印南博吉は『政治経済学の基本問題』白山書房,1948年7月を公刊し,こういっていた。これは,戦時中にゴットル→ナチスファシズムに賛同・協力した「経済・経営理論」(いいかえれば,この分野の学者たち)に対して向けられた徹底的な批判である。

 印南博吉の同書は,戦争中,ゴットル経済学について批判的に言及した。その論究は,印南が戦時中において不当に受けた学問に関する〈精神的な迫害〉を想いだして,こう反論していた。

 a)全体主義的国家観」 

 問題の中心は,全体主義的経済理論に於ける民族乃至国家至上主義が,理論上果して正当であるかどうかと云う点に在る。国の存 続を最高の大事とし,祖国の生きんとする苦闘について批判を一切封ずる態度,それは正しく全体主義的な誤った要請ではあるまいか。

 

 全体主義思想に由来する過誤は二度と発生させてはならない。それがためには此思想の誤を正しく認識することが必要である。それにも拘わらず此点の反省は内外を通じて未だ殆ど徹底せず,啻に我国の前途のみならず,人類の将来に対しても暗いかげを投じている。

 

 b)天皇天皇制」

 天皇を神と崇める思想は,今や天皇自身に依って否定されている。国家を絶対視し,その安危に臨んでは国民の如何なる犠牲をも要求し得るとの見解は,マルクス主義的な階級国家説の立場からは勿論のこと,……到底承認し難いところである。

 

 果して戦争に関する我国の態度の正当性を立証する有力な理論的裏づけが有ったであろうか。寧ろ反対に,すべては「問答無用」であり,「言挙げせぬ」ことこそ国民の執るべき態度とされたのであった。

 

  c)「ゴットル経済学」

 ゴットルの存在論的判断は,その抽象性,定式性のために,具体的確定的な結論を産み出し得ないのみならず,その定式自体が確定していないのである。

 

 社会的存在が,ゴットル的思惟の抽象的理解方法のために,歴史的具体的に捉えられず,単なる図式,単なる形式的定式の樹立に止まっている所に大きな問題が横たわっている。

 註記)印南博吉『政治経済学の基本問題』白山書房,1948年,a) 5頁,176頁,10頁,b) 3頁,4頁,c) 174頁,172頁。 

 要は「大東亜」戦争のとき,経営学者たちが諸手を上げて賛成したゴットル経済学:「存在論的価値判断」を,あえて,批判する側に立った経済学者印南博吉は,それこそ「白い目」でみられ,非常に辛い思いをしたのである。

 もっとも,印南博吉に対して,戦争中批判をくわえ非難を浴びせた経済・経営学者たちは,戦後,印南からかえされた反批判・反論に対して,わけても,同僚だった佐々木吉郎明治大学「経営経済学の嚆矢)のようなマル経学者も含めて,誰1人として応えた形跡がない。

 ところが,小笠原英司が「満を持して」公表したはずの『経営哲学研究序説-経営学的経営哲学の構想-』文真堂,2004年は,ゴットル経済科学論が時代制約的に〔以上のように,確かに〕かかえこんでいた《決定的な問題性》に,まったく無頓着であった。

 というより小笠原英司は,その『ナチス御用理論になっていた学者の経済的思惟』を「自著の基本構想の有機的な一環」に組みいれる,といった決定的な誤謬についてだが,最初から社会科学・経済科学の研究者である「自身の基礎知識」から欠落させていた。

 小笠原英司は,戦時中における出来事=学界事情として回顧するならば,どのくらいにこのゴットル経済「科学論」が猛威を振るっていたかについて,まるで「戦争しらない子どもたち」であったかのような接近の仕方を,戦後期の研究者として試みていた。

 

  学会における議論など

 1) 経営哲学学会シンポジウム

 2005年7月9日,東洋大学で,経営哲学学会関東部会が開催された。同部会のプログラムは,「2名による研究報告」と「1題のシンポジウム」をもって構成されていた。後者のシンポジウムはとくに,同日16時から18時まで2時間を割き,報告者小笠原英司氏(明治大学)の「『経営哲学研究序説』について」という設題のもと,同氏の発表とこれをもとにする議論が交わされた。

 このシンポジウムにおいて発表をおこなった小笠原英司は,自著『経営哲学研究序説-経営学的経営哲学の構想-』のなかで,「以下のように〈力説〉したはずの論点」に関しては,不思議にそして奇妙にも感じたことであったけれども,なぜかいっさい口にしなかった。

    ところで,かつて「生活」という視点から経済や経営を捉える試みが,山本経営学以前においてまったく未見というわけではない。たとえば,ドイツ経営学の巨匠ニックリッシュや,独自の経済学説を展開したフォン・ゴットルオットリリエンフェルト……の中にその萌芽を見ることができるし,そのことはむしろ学界では周知のことですらあった。

 

    それらの「生活」論が貴重なものであったにも拘わらず,それが経済・経営論の中心に位置しえなかった理由については,あらためて考察を要する学説研究上の興味ではあるが,ここでは避けよう。本書にとっての関心は,われわれの生活論とそれらがいかなる異同を持つ かという点にある。

 

      ゴットルの経済学説はその特異性と難解さの故か,戦前の一時期にわが国の酒枝義旗やゴットルの高弟オットウ・シュタイン(Stein, O)らごく少数の研究者によって支持されるにとどまり,こんにちでは忘れられた学説になっている。しかし,ゴットル学説を経済哲学説として読むとき,われわれの議論にかみ合うものが多々あることに,むしろ驚きを禁じえない。

 註記)小笠原『経営哲学研究序説』99頁,102頁。 

 2) まさに驚きを禁じえないほどに「学史研究における先行研究」が欠如していた

 「驚きを禁じえない」のは小笠原英司ではなく,前記シンポジウムにおいて彼の発表を聞いていた経営哲学学会の会員たちであった。小笠原『経営哲学研究序説』は,ほかでもない,21世紀の「こんにちでは忘れられた学説になっている」「ゴットル学説を経済哲学説」をみいだし,大いに評価し,議論していた〔(!)はずである〕。

 ところが,シンポジウムでは,この著作を公刊した小笠原英司が発表する機会を与えられたのだから,きっと力説すると予想されていた「経営哲学研究において《ゴットル学説を経済哲学説として読む》」はずのその論点が,一言も触れられないで終っていた。

 補注)小笠原英司の同書における理論の3本柱は「山本安次郎とバーナードとゴットル」に求められていた。しかし,そのインポジウムにおいては,ゴットル関連はすでに切り捨てられていた。

 当然のこと,そのあとにもたれた懇親会の席上では,そっと〔本ブログ〕筆者のそばに来て,「小笠原さんは,ゴットルに触れませんでしたね!!」と,耳元でささやいていた人もいた。その人が誰であったかは,秘しておく。ともかく,どうして,彼がゴットルのことを〔その後においてはもう一言も〕口に出せなかったか,このことはすでに説明したつもりである。

 ともかく,小笠原『経営哲学研究序説』2004年11月が出版されたさい,この著作のなかで著者が高く評価していたゴットル「経営存在論」は,いったいどこへいったのか。

 前段の2005年7月9日経営哲学学会地方部会でシンポジウムが開催されとき,すでに小笠原はゴットルを捨てていた。その間10〔16〕年近くが経過してきた。小笠原英司稿「経営学の存在意義-いま,あらためて,経営学とは何か-」2013年1月が書かれていた。ここでもゴットルの姿はみあたらない。忽然と消えていた。

 かいつまんでいう。『経営哲学研究序説』(2004年11月)に限った話題であるが,あえて見定めて批評しておく。

 同書のなかで《質的という意味》で,ゴットル「経営存在論」が占めたと思われる〈理論的な重み〉は〈3分の1〉を占めていて,また全体の構成においては当然,有機的に関連するという意味あいで『理論面において重要な意味をもっていた』のでは「なかった」か。

 ところが,この小笠原『経営哲学研究序説』の発刊を構想した段階においてもっていたし,実際に本書のなかでは重要な位置づけをされていたはずの,ゴットル経済科学流になる「哲学的基礎論」の実体が,突如,雲散霧消した。いまとなっては,その影・かたちすらみせていない。

 繰りかえしていわせてもらう。うかつであったのである。ゴットルの経済学がどのような学説・理論の特性を歴史的(=学史的!)に有しており,どのような哲学・思想を背負っていたか,まったく不知であったのである。

 以下は,大胆に推測で語る部分にもなるが,小笠原がゴットルの原本(もちろんドイツ語文献の方面)に十全に目を通したようには思えない。小笠原がドイツ語を駆使しているのかどうかまではしらない。

 それゆえ,これ以上のことはいえないが,ゴットルを読みこなしているようには,とうてい感じられない。『経営哲学研究序説』末尾には引用・参考文献が一覧されている。これをみても判然とする関連の事情であった。

 3) ゴットル研究の困難さ

 ただ,日本側のゴットル好き(主に戦時中における話であるが)の経済学者たちが公刊した「ゴットルの研究書」関係のうちの何冊か,それも,ゴットルの日本語訳(これらは戦時中に刊行されていた)には,小笠原は目を通している。

 だが,「ナチス・ドイツ国家社会主義」に利用されたゴットル経済学の立場を,小笠原はしらなかったと受けとるほかない。つまり,本ブログの筆者に指摘され,批判も受けてからであったが,ようやくゴットル経済〔科〕学のかかえている,深刻かつ重大な「歴史的な理論としての難儀」に気づかされた様子である。

 しかし,ゴットルに依存していた部分は放置したままで,小笠原はまたもや,本日に紹介した論稿,「経営学の存在意義-いま,あらためて,経営学とは何か-」(The Reason of Existence of the Learning of Business Administration)関東学院大学『経済系』第254集,2013年1月を書いていた。

 注記)同稿の住所・リンク先はこちら  ⇒  https://core.ac.uk/download/84924267.pdf

 補注)その後,小笠原英司は定年退職する年次末(2017年3月)に,自学の研究紀要につぎの論稿を執筆していた。もちろんこちらにも,ゴットルの「ゴ」さえ出さない内容であった。

   ◆ 小笠原英司経営学とは何か-領域学か,ディシプリンか-」◆

      明治大学『経営論集』第64巻第4号,2017年3月 -

 

  はじめに

  Ⅰ 企業学から協働学へ
     企業経営学と経済学
     協働の経営学

  Ⅱ 経営学というディシプリン
     経営学は領域学にすぎないか
     経営学とインター・ディシプリナリー・アプローチ

  Ⅲ 経営学の方法的特色
     経営学の認識対象
     実学性と科学性

  Ⅳ 経営学と経営哲学
     経営科学と経営哲学
     経営実践と経営哲学

  Ⅴ 経営学の「制度化」
     佐和隆光の問題提起
     経営学の「制度化」

 お わ り

 筆者はだから,以上のごときに説明した事情については,学問の基本姿勢に関した「一貫性の問題」として観る時,不思議だと評したみたわけである。ゴットルの関連問題は,小笠原自身も論断していたように,現時点になったところでも「あらためて」「いま」,その「存在意義」を吟味しておく必要はなかったのか? 

 要は,自説の立論にとってまずかった論点部分を指摘・批判されたあと,この部分をそっと削除(もしくは放置)してきただけのことであった。しかし,こういった学問の作法,対話の仕方をしているようでは,学問の発展につながるような足場はいつまで経っても,まともには築けないのではないか?

 しかも,その種の問いかけに直接応える議論はいっさい披露されることもないまま,小笠原英司の書いた諸稿から「ゴットル・像」が完全に立ち消えになっていた。すなわち,彼の経営学研究からゴットルは追放,抹消されていた。それもなんの断わりもなしに,そうなっていた。

 小笠原『経営哲学研究序説』2004年11月については,直後に,以下 4) のような論評が書かれていた。しかし,こうした中身が小笠原側において,どのように活かされたのか,いまだによく感知できないでいる。小笠原がゴットルに魅せられたのは,この経済学が「経済生活に於ける永遠なるものの学としての本領を発揮することが出来る」註記)とみこんだからではなかったか。

 註記)酒枝義旗『ゴットルの経済学』弘文堂,昭和17年,129頁。
 
 しかし,いずれにせよ,ゴットルを引っこめたその「あとの始末」は,どのようになされていたのか。小笠原自身は,そもそもこういっていたのではなかったか?

 「ゴットル学説を経済哲学説として読むとき,われわれの議論にかみ合うものが多々あること」が表明されていた。にもかかわらず,その後においては,みずから「無視し,除去してきた」のが,この〈ゴットル「理論」による構成部分〉であった

 不思議なことであった。自説・持論の構築にとって,ゴットル経済科学「論」は,いまや,あってもなくてもどちらでもよい「モノ」であったということになるわけか? げに,不思議なことである。
 
 4) 関連する文献資料-小笠原英司『経営哲学研究序説』発行後に寄せられた書評や論評-

    ◆-1 村田晴夫「小笠原英司著『経営哲学研究序説-経営学的経営哲学の構想-』」『桃山学院大学経済経営論集』第46巻第3号,2004年12月。

    ◆-2 佐々木恒男「小笠原英司著『経営哲学研究序説-経営学的経営哲学の構想-』」『青森公立大学経営経済学研究』第10巻第2号,2005年3月。

    ◆-3 高澤十四久「小笠原英司著『経営哲学研究序説-経営学的経営哲学の構想-』を読み,つくづく思うこと」『専修経営学論集』第81号,2005年11月。

    ◆-4 藤井一弘「書評 小笠原英司『経営哲学研究序説-経営学的経営哲学の構想-』」経営哲学学会『経営哲学』第3巻,2006年8月。 

 補注)本記述を再公開した翌日,2021年10月13日になって偶然だったが,意図的に検索していたわけではなかった大平浩二の論稿,それも「経営学説史の研究方法・思想」に関して書かれた長文の論稿の存在に気づいた。つぎの2編である。

 

 ※-1経営学説史の研究-科学史としての経営学説史研究の方法・エクスターナルアプローチ導入の試み-」明治学院大学『経済研究』第159巻,2020年1月。

 

 ※-2経営学説史の研究(2)-科学史としての経営学説史研究の方法・エクスターナルアプローチ導入の試み-」明治学院大学『経済研究』第161巻,2021年1月。

 

 大平浩二によるこの経営学(説)史に関した考察は,「世界史的な視野」をもって俯瞰的に議論している。しかし,日本国内でいままで蓄積されてきた「経営学史研究」の成果を,まったくといっていいほど圏外に置いたままであった。

 

 「経営学」史の立場を議論するさい,大平浩二が採ったその基本姿勢については,なんら異論はない。けれども,たとえば海道ノブチカ『西独ドイツ経営学の展開』千倉書房,1988年の「補論  経営経済学史の方法」(⇒論稿段階での初出は1983年)などが,日本の経済学史をめぐって長年蓄積されてきた「研究の方法」を踏まえる「経営学史」に関する議論をしていた。

 

 平浩二の議論は用語(語彙)はカタカナ語を用い,世界的な視野を意識する議論を試みているものの,足元の日本国内ですでに40年ほど以前から存在していた「関連する研究成果」に対する評価は否定的である。

 

 要は,大平浩二の基本的な視座は「経験科学」の立場にあって,個別資本説にかかわる経営学的な理解において,みずから乖離を宣言して済まそうとする姿勢を提示している。大平自身があまり得意としない経営学研究の関連分野が,まだ残されての議論となれば,「日本国内の研究者同士」次元において期待したいはずの相乗効果的な研究成果」など望めなくなる。

 

 補説:その1-さらに考えてもらうための「追加の議論」-

 安井琢磨『経済学とその周辺』木鐸社,1979年は,日本の経済学におけるこういう歴史的事実を指摘している。② までの議論を補足する論及である。昨日の記述のなかには,この一部分がすでに引用されていたが,ここではもっとくわしく参照する。

 註記)同書,170-174頁参照。 

  昭和12〔1937〕年7月7日「支那事変」が起きた。昭和6〔1931〕年9月18日「満洲事変」以来の日本は,一方には国粋主義が思想界を風靡 し,他方には経済機構が戦時的に改編されるにつれて,英米を中心として発達しつつある近代経済学への理解と関心とは,しだいに失われていった。

 

 敗戦まで, 学界の主流に登場してきたもの,少なくとも学界の流行となったものは,さまざまな変種をもつ政治経済学,ゴットル経済学,日本経済学のたぐいであった。これらの経済学の果たした功罪は,なんであったのか。

 

 ⅰ) 経済学が現実の表面的激動にとまどい,哲学まがいの観念論におちいり,多くのばあい経済学の頽廃を示した。この観念論は現実の働きに対して「光」をも「果実」をももたらすことができず,ひたすら現実のあとを旗を振りながら追随してゆくに止まった。それは経済学の死相を表わしていた。戦時中の日本の経済学がその主流よりいえば,かかる頽廃より死相への途を歩んだことは否定できない。

 

 ⅱ) 同じことはほぼドイツの学界にも当てはまる。1933年『社会科学社会政策紀要』が廃刊された。その後,ゴットルの経済学が優勢になり,ドイツの経済学から内発的な活力を奪い,学問的公共圏におけるドイツの発言権を削減した。

 ゴットルの経済がそのものが全然無価値ではなく,この種の経済学が優勢となったところにドイツの頽廃をみるのである。それは傍流として存在するときはいくばくかの価値をもつが,主役となれば学問を無力化する体の経済学である

 

 ⅲ)戦時期に日本では,ゴットルの吐いた嘔吐をついばむ鵜どもが続出して「虚仮(コケ)のひとつ覚え」のように〈構成体〉ということばを繰りかえし,かつてマルクスの1ページを読んだはずの者ですら「欲求と調達との持続的調和」などということを,もったいらしく念仏のように唱えていた。いま,思いだしてもあまり感心できない歴史上の事実であった。

 

 ⅳ)経済学に対してもっとも有害な影響を及ぼしたものは,一部の日本経済学とその亜流にみられるように,天皇ないし国体を経済現象の基本的な説明原理たらしめようとする試みであった。この棍棒をもって,ほかのいっさいの経済学を撲殺しかねまじき風潮が認められたのである。この風潮は単に経済学にかぎられず,極端には「弁証法は国体に反する」という論法となって,思想的暴力と化した。

 

 ⅴ)だから「天皇ないし国体」をもって万能の魔杖とする立場からは,経済現象の合理的説明などははじめから問題ではなく,ひとはただ「美しき日本経済」を賛美していればよかった。とく に,大東亜戦争中においては無識者によるこの種の経済評論(?)が雑誌上に横行したことは,日本の文化活動がいかに深刻に荒廃していたかを物語っていた 。

 

 ⅵ)国体論はまだ問題を残している。ある経済学者は〔筆者註記:当時東京帝国大学経済学部の「難波田春夫」のこと。戦時期に公刊した『国家と経済  第1巻~第5巻』日本評論社昭和13年~18年が有名〕日本の経済の根底に「家・郷土・国体」という三重の民族構造を認め,この民族構造を基底として,西洋資本主義への対抗を目標とする経済が日本の明治維新以来の「経済の本質」であると規定した。

 

 そしてこの論者は,西洋資本主義への対抗は支那事変勃発を機として消極的防衛から積極的撃攘に進展し,「八紘一宇という肇国(ちょうこく)の精神にもとづいて西洋資本主義を東亜から駆逐する」ことが日本の使命である,と主張した。

 

 ⅶ)この興味ある国家主義的な歴史観のうち,東亜から西洋資本主義を駆逐することが「八紘一宇という肇国の精神にもとづく日本の使命」であるか否かについては,すでに明白な歴史の裁断が下された。いまだ学問的裁断が下されていないのは,民族の三重構造という主張がどの程度,歴史的な検証に耐えるかということである。ひいてはそれが今日の事態と相容れるかということである。

 安井琢磨(1909年-1995年)は結局,こう述べる。--国体論がタブーたることを止めた現在,国体を経済現象説明の不可欠原理とする戦時中の「幸福な少数者」の言説に対して,経済史家が公正なる吟味をくわえることを要望したい。

 

  補説:その2-さらに考えてもらうための「追加の材料」-

 インターネット上につぎのような意見が記述されていた。本日の議論に参考になる。

    以下は,『んみそせなか』というブログの記事,「早稲田大学社会科学部の『田村正勝先生は今年で退職らしい』」(2013年07月28日 01:47)のコメント欄に記入されていた意見2件である。当方のブログ記述に関連するコメントとして引用する。

 註記)http://hosoyaaaaaan.doorblog.jp/archives/30944889.html  参照。

 43.  老人からのお願い(2013年11月17日 19:12)

    年配のまともな社会科学関係の学者の皆さんや,心あるジャーナリストは明確にご存知のことですが,難波田〔春夫〕は戦時中に『國家と経済』や『戦力増強の理論』などという著書で,およそ学問の名に値しないナチス張りの交戦〔好戦?〕理論を展開し,当時の多くの若い学生を戦地に導き,尊い命を犠牲にさせたという事実です。

 

 戦後,当然ながら難波田は東大を追放され一介の市井の研究者となりましたが,戦時の自らの言動と理論に対する渾身からの謝罪反省もないままに早稲田に復職しました。外部の多くの方々の非難を無視してです。

 

 田村が,難波田の弟子であることは皆さんご存知のとおりですが,この恩師の東大での経緯について,弟子としてしっかりと批判することもなしに,いわば頬かむりし,逆に賛美を重ねることで,否定しようのない歴史的事実(大罪)を隠すことに手を染めています。

 

 48.   あの日から(2013年11月23日 21:51)

 老先生が紹介して下さったブログ(『社会科学者の時評』-これは本ブログの旧名-)のマスターの方は,田村正勝がわざと戦時体制期を除外して難波田を賞賛している旨批判していますが,たしかに公の著書や論文では,田村は戦時期の難波田の言論にはまるで触れようとしておりません。

 

 ここが明らかに田村の卑怯な点で,およそ学者に値しない態度であると非難されるゆえんですが,よく調べると,自分のHPでは隠れるように言及しています。  

 さて,田村正勝という早稲田大学の先生のほうに寄せてみながら,小笠原英司経営学論を再度観察しなおすと,こういうことになる。

 小笠原は実は,ゴットル経済科学論が「ナチス御用達の社会科学」になっていた事実すら,事前に気づいていなかった。したがって彼の場合,田村〔たち〕のように,難波田春夫〔=ゴットル〕の戦時体制的な問題性を承知していながら,経営学(自分〔たち〕の学問)のなかにその経済科学論の導入を試みたという事情にはなっていなかった。

 小笠原は,本ブログの筆者に,ゴットルに不可避である「ナチス的な戦時性格」を指摘されてから,あわてて「自分自身の理論的な見誤り(見落とし)」に気づかされたらしい。だが,その点の反省を明確に表明することはないまま,そして,その理論部分のかかわりについて具体的に撤回することもないまま,いたずらにいままで時が流れてきた。

 小笠原英司『経営哲学研究序説』から《ゴットル的思惟》を抜きとったら,この本が始めに企画していた「経営哲学論」としての狙いは,大幅に減損したはずである。しかし,彼はこの事実について語ること(むろん学問的,理論的にという意味でのそれである)をまったくなしえないまま,明治大学に勤務する時代を終えていた。

 もっとも,それは当然のなりゆきでもあって,一定の理解もできる対応の仕方であった。だからといって,その事後における無対応ぶりは,けっして「本当の大人の学者」の態度だったとはいえなかった。かといって本ブログ筆者は,学問の面はさておき人間としての面で,彼を強く非難するつもりはなく,むしろいさかかならず同情してきた。

 しかしながら,『〈戦争と平和〉の意味』(→ I.  カント『永遠平和のために』を想起したい)が判ってもらえない経営学者に対して,社会科学性の見地から再度問いかけたところで,それほど効果は挙がらない。経営哲学学会が発行する研究雑誌『経営哲学』で,いちおう論争がなされたものの,結果としては空しかった。理解の志向性が異次元にあったかもしれない。

  小笠原の場合,当初から過誤であった軽率な「ゴットルの導入」は,これはこれで勉強不足のせいだったといっておけば,まだ救いようがある。けれども,そのあとがいけない。そのゴットル的部分に「ほっかむり」した状態がいままで続いてきた。21世紀の現段階,戦争の時代とは研究環境が異なるとはいえ,問題の根源には「似たようななにか」がある。

 補注)2020年9月に発足した前・菅 義偉政権が,日本学術会議の会員候補「任命」についてであったが,気に入らない6名の学究を拒否し,排斥した事件は,いまもなお尾を引いている。

 安倍晋三の「戦後ジレームからの脱却」をスガなりに継承しているつもりなのか,「戦時中のゴットル問題的な話題・論点」とも関係がありそうな事件が,スガ前政権によって起こされていた。

 しかも,2021年10月,スガのあとを襲い新首相となった「岸田文雄という幽霊みたいな世襲政治屋」も,アベからスガへのその「学問抑圧」を意味する自民党イデオロギーを,けっして否定しようとはしない。

〔記事本文に戻る→〕 本日の記述は,2013年1月に公表されていた小笠原の論稿「経営学の存在意義-いま,あらためて,経営学とは何か-」に注目していた。というのは,この論稿においては以前,小笠原英司『経営哲学研究序説』のなかにはしっかり含まれていたゴットル性が,剔抉されてしまい,追放されていたからである。

 すなわち,その後に好評された小笠原英司「論稿」で観るかぎり,ゴットル経済科学的な発想の “そのかけら” すらみうけられなくなっていた。だがこれでは,研究者のなす仕事が経過していく前後関係において,つまり研究者としての理論の一貫性に関して問題が発生するというほかない。

 この種の指摘は特別な観方にもとづいておらず,学問研究であれば当然であり,不可避の関心事である。関連してさらにいえば,けっして放置できない問題が残されたのであるから,これには批判的な検討がくわえられて当然である。

 ところが,以上の記述で話題にしてきた論点は,そういう具合にあつかわれる手順とは無縁であった。小笠原英司の『経営哲学研究序説』2004年11月は,1年も経たないうちに同書の内部にあって非常に重要な位置づけになっていた「ゴットル的問題要因」を放擲した。

 小笠原がゴットル関係の文献を注記に付して,つぎのように述べていたが,これは同書の核心部分であった。

 経営学は「生活」の学なのであって,われわれの「生活」論からすれば,むしろそれは実践的社会諸学の中心に位置するものでこそあれ,決してその周辺に置かれるものではない。その意味において,これまで経営学がその根本原理を適正に自覚してこなかったとすれば,本書はまずもって経営学批判としての意義を内包している

 注記)小笠原英司『経営哲学研究序説』121頁。

 その後,この記述のなかで言及してみた,小笠原英司の「2013年の論稿」や「2017年の論稿」は,この「生活」の観点,ゴットル的な含意での本質「観」に一言も触れていない。とはいえ,そうした事実経過は当然ななりゆきであった。彼はゴットルを捨てたのである。

 だが,主著である『経営哲学研究序説』2004年のなかに脊柱として構想されたいた「ゴットル的思惟」は,いまだに除去できていない。本書を絶版にしたところで,残るモノは残る。

 結局は最初から,「ゴットル理論」性そのものが,小笠原英司の論著のなかにおいて根を降ろせてはいなかったことを意味する。それでは,いったいなんのためのゴットルの思惟方式の導入であったのか?

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