戦争中,一億《火の玉》の本体-軍隊の本質と性格-

        (2009年3月25日,更新 2015年3月1日,再録 2021年11月11日)

 東郷和彦『歴史と外交-靖国・アジア・東京裁判』2008年を読みながら,「大東亜・太平洋戦争は,自存自衛の戦争だったか(?)」と,あらためて分析してみる。

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  付記)東郷和彦画像。


  東郷和彦『歴史と外交-靖国・アジア・東京裁判-』2008年のもつ歴史的な含意

 東郷和彦『歴史と外交-靖国・アジア・東京裁判講談社,2008年12月は,日本政府外交官(外務省欧亜局長など歴任)であった著者が,副題に書かれた「靖国・アジア・東京裁判」の問題を,官僚の立場を離れたのち,個人の立場から真剣に語った書物〔新書〕である。

 『朝日新聞』2009年3月8日朝刊に掲載された本書への論評はきわめて好評であり,「祖父の歴史を背負う重み,外交官として国を背負う重みが伝わってくる。そのうえで今日,日本人として歴史問題の合意づくりが求められていると切に訴えみずから懸命な知的営為を試みている。読みごたえがある」と締めくくっている。

 この評者は天児 慧早稲田大学教授であった。しかし,この天児の論評は好意的に過ぎており,肝心の論点をみのがしていた。

 東郷和彦は,日本の外交官として名門エリートの出自を誇る人物である。祖父東郷茂徳は日本敗戦時の外務大臣,父東郷文彦は外務次官,駐米大使を務めてきた。祖父茂徳の「妻=和彦の祖母:エディ」は,ユダヤの血統を受けつぐドイツ人である。

 歴史をいまからさらに4百年ほど巻きもどそう。豊臣秀吉が朝鮮に侵略出兵する戦争を起こした「文禄の役,1592-1593年」と「慶長の役,1597-1598年」があった。

 韓国・朝鮮では文禄の役を「壬辰倭乱」(임진왜란:イムジンウェラン〔2回の戦役総称としても使う〕,慶長の役を「丁酉倭乱」(정유왜란:チョンユウェラン)または「丁酉再乱」(정유재란:チョンユヂェラン)と呼び,中国では「万暦朝鮮戦争」「朝鮮壬辰衛国戦争」などと呼ぶ。

 東郷和彦の祖父からさらにさかのぼる血筋は,この秀吉による2回の朝鮮侵略の時,豊臣軍勢を編制・出兵した島津義弘が朝鮮から捕虜として連れかえった朝鮮人陶工の子孫にまでつながる。

 祖父茂徳が5歳のとき,陶工・陶芸品を売る実業家として裕福になった父が士族株を買った結果,朝鮮人の姓名「朴 茂徳」を捨て,日本人「東郷茂徳」となった。なお,薩摩藩士であった元帥海軍大将東郷平八郎との血縁関係はない。

 東郷和彦の祖父茂徳は,太平洋〔大東亜〕戦争を日本が開戦したとき外務大臣であったため,東京裁判極東国際軍事裁判)でA級戦犯として戦争責任を問われ,禁錮20年の判決を受け,巣鴨拘置所に服役中に病没した。

 東郷和彦が外務省局長を務めていた1999年ころ,外務省のいわゆるロシアン・スクールのキャリア官僚の立場をもって,北方領土問題に関する解決の方途を,当時の衆議院議員鈴木宗男と同じに「歯舞・色丹の2島先行返還論者」に求めていた。

 ところが,東郷和彦はオランダ大使に転じていた2002年,鈴木宗男派一掃を狙った外務省の人事異動に反発し,帰国拒否した結果,大使を解任される。その後は,オランダ・アメリカ・台湾・韓国などの大学・研究所で客員教授・研究員となって教鞭もとった。

 

 東郷『歴史と外交-靖国・アジア・東京裁判-』2008年の,著作としての性格

 本書を一読して感じた基本的な論調は,外交官だった人物がのちに,大学・研究所などで語り議論した体験を活かした論述内容であるにもかかわらず,なにか奥歯にモノが挟まったかのような口調であった。

 東郷和彦の血統的系譜には朝鮮人ユダヤ系ドイツ人も流れているが,この日本において日本国籍人として生まれ,育った〈根っこ〉には,しっかりと日本民族化した彼の出自が控えている。日本人としての矜持にも堅固たる内実がある。

 さて東郷『歴史と外交』を最後部から読みなおしてみたい。日本の敗戦という出来事について,東郷はこういう。

 無条件降伏を拒否して降伏した日本が,東京裁判という過程をつうじて,昭和天皇を守りえたこと,それは,25名の被告団の総意であると同時に,米国占領行政の結果でもあったことも,忘れてはいけないと思う。一日本人として,そこには,日本民族とはなにか,皇室とはどういう意味をもつかという,今日的な,重い問いかけが発生する(299頁)。

 しかし,この「重い問いかけ」に対する解答は,残念なことに本書『歴史と外交』にはなにもみいだせない。東郷は,「昭和天皇を守りえたこと」は,祖父の茂徳も含むA級戦犯たち〈被告の総意〉だったと論断する。

 だが,天皇天皇制を残した日本の敗戦処理は,その後64〔70〕年も経過したこの日本政治社会を,いまでも中途半端な民主主義しか実行しえない・情けない国家に止めおく因果をもたらした。

 補注)2012年12月下旬に第2次内閣を組んだのちの安倍晋三は,盛んに「戦後レジーム」否定を口にしている。だが,敗戦後における日本の政治社会のあり方に対する認識としては,その根幹の特質に目をつむったまま,ひたすら感性的に否定「論」を剥きだしにしている。

 朝鮮人・ドイツ人〔それもユダヤ系〕の血を受けつぐ和彦だからか,かえって,日本国家・日本民族に対する忠誠心を明確に表示しなければならなかったのか,などと勘ぐるわけではない。けれども,いささかならず「複雑な心境」を感得させる彼の発言である。

 外交官の体質が染みこんだ口調なのかもしれないが,敗戦後「米国側の考慮がなんであれ,天皇を訴追の対象からはずしたことが,どんなに,適切な措置であったかわからない」(293頁)とまで確言できる彼は,間違いなく〈天皇崇拝主義者〉であり,民主主義の根本理念からほど遠い意識を抱く人間だと判断させる。

 もっとも,アメリカの占領政策の深慮遠謀・権謀術数を視野の外に置いたまま,昭和天皇が延命できた歴史をすなおに喜ぶ旧外交官の歴史理解,つまり「東京裁判には,少なくとも,ひとつは,よいことがあった」「それは,昭和天皇を訴追しなかったことだ!」(288頁)と,文末に「!」を付してまで叫ぶ立場は,不可解である。議論以前,単なる私的な感情の吐露にしか聞こえない。

【参考記事】-『日刊ゲンダイ』2021年11月10日の記事,保阪正康「寄稿」-

 昭和天皇の時代に起こされた「異国の地」における幾多もの戦争事態は,靖国思想を宗教的な道具に使い,日本帝国の誇大妄想と夜郎自大によって想像・実行され,しかも大失敗した。秀吉の亡霊精神が甦ったのかのようでもあった。

 『大東亜共栄圏』〔=侵略され植民地にされた国々の人びとからみれば〈大東亜狂栄圏〉〕に対する,東郷の歴史認識そのものがまったく甘い。

 敗戦後の日本国に対して,アメリカ合衆国占領政策的に展開した統治支配に関する東郷の認識は〈脇の甘さ〉を露顕している。敗戦後,大日本帝国から日本国にかわった自国に対する認識も,ことさら弛緩している。

 敗戦を契機に天皇が日本政治社会から除去されたと仮定すれば,日本国はその後において本格的な民主制国家の構築に必死の努力をしていかざるをえなかったはずである。ところが,天皇制は護持されたせいで,いつまでも時代がかった原始古代あるいはせいぜい封建時代の遺産でしかないこの制度を後生大事に守らねば,この日本という国が存続できないかのように信じこんでいる。
 
 東郷は,元外交官として東京裁判に関しては,こういう認識も示している。

 東京裁判で「平和に対する罪」に問われた「戦争犯罪人A級戦犯」への判決は,いかに納得できなくても,これを日本政府がサンフランシスコ講和条約によって受諾している以上,日本政府はもはや異議を申したてる立場にはない。そうでなければ,日本が戦後に作りあげてきた条約の秩序を壊すことになる。これは正気の沙汰ではない(285頁)。

 この意見は,自分の祖父〔前述のように東京裁判で判決禁錮20年となり服役中に病没した〕の存在を踏まえており,保守右翼国家主義的なイデオロギーをもって,東京裁判をやかましく否定する狂信的な日本の思想家たちを,猛烈に批難していた。

 

 一億火の玉〈信念〉の虚構的仮想性

 大東亜戦争に「一億火の玉」になって鬼畜米英を「撃ちてし止まむ」(『古事記』中の巻,神武天皇が東征したとき発したことばとされる)とは,「要するに将兵の士気を鼓舞する歌である」。

 注記)三國一朗『戦中用語集』岩波書店,1985年,127頁。

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 陸軍省は,昭和18〔1943〕年3月10日の「陸軍記念日」を意識し,同年2月23日,戦意昂揚のための標語『撃ちてし止まむ』をかかげたポスター5万枚を国民に配布した。この文句「撃ちてし止まむ!」は,国民運動の標語に昇格され,各所に掲示されもし,国民の目を惹くことになった。

 とくに,つぎに説明する日劇のビル壁面を広く使って垂らされたそれは「百畳敷の大写真」であったという。この写真をよくみよう。

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 その図柄には,鉄カブトをかぶり,防毒面の袋をかけた帝国陸軍の兵士が,なにごとかを怒号しながら,右手に握った手榴弾らしきものを,いましも前方の敵陣に向けて投げつけるとともに,恐らく突撃に移ろうとする緊迫した模様が写されている。

 これが当時,有楽町駅近くにあった朝日新聞社と道路ひとつを隔てた日劇(日本劇場)の正面の壁面いっぱいにとりつけられ,その巨大さと迫力ある画面のほどに気おされない者はなかった

 注記)三國,前掲書,126頁。

 陸軍省が用意し,日本帝国の臣民たちに周知させたこの標語「撃ちてし止まむ」は,「一億火の玉」となって「鬼畜米英と戦いぬくぞ」という意識を,高揚・維持させるためのものであった。

 日本政府は1943〔昭和18〕年6月25日「学徒戦時動員体制確立要綱」を決定し,さらに「勤労動員命令」によって学徒は学業を休止し,軍需生産に従事した(約3百万人を動員)。

 同年10月には,教育に関する「戦時非常措置方策」が閣議決定され,文科系高等教育諸学校の縮小・理工科系への転換・在学入隊者の卒業資格特例などが定められた。

 1944年〔昭和19年〕年10月になるや,徴兵適齢が20歳から19歳に引下げられ,学徒兵の総数は13万人に及んだと推定される。

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 付記)この日は雨降りになっていた。この画像資料では,行進する学生の隊列右側の地面が「降った雨水」で光って写っていることが分かる。

 ところが,朝鮮・台湾の植民地出身の学徒はその動員体制に組みこめられていなかった。そこで,1943〔昭和18〕年10月段階で徴集できなかった朝鮮人・台湾人学生,いいかえれば「徴兵猶予の停止」適用外の異法地域「朝鮮・台湾」の学生を徴集するためのみの法令として,日本の戸籍法非適用者を対象にした陸軍省令48号が「大学や高専に残る徴兵適齢期を越えた植民地学生」の爬羅剔抉(はら・てっけつ)を狙って公布された。

 注記)姜 徳相『朝鮮人学徒出陣-もう一つのわだつみのこえ-』岩波書店,1997年,3-4頁。

 さて,東郷和彦『歴史と外交』は,1945年段階で戦争集結のための交渉を日本が必死になって模索しているころ,同年7月20日駐ソ大使の佐藤尚武から「7千万人の民草枯れて上御一人御安泰なるを得べきや」という電報が届いていた,と書いている(236頁)。

 ところが,この7千万人という民草の数値とともに東郷は「ソ連を通ずる終戦工作が,一億玉砕をとなえる軍部を説得して終戦を実現するため・・・」(240頁)という記述も与えている。

 前段に出ていた表現である『一億火の玉』なる戦争標語は,いうまでもないが,植民地域の〈帝国臣民:朝鮮人・台湾人〉も勘定に入れた数値を踏まえて,そのように表現していた。しかし,当時の駐ソ大使佐藤尚武は「国体の護持=天皇1人の安泰」だけでなく「民草」の心配もしていたものの,その数は7千万人に限定していた。

 つまり,戦争のために玉砕するときは植民地およびその出身者たちも道連れにして1億人に殖やすが,天皇とともになるべくその生命を助けたい「民草」は7千万人〔日本民族だけ〕に区切っており,こちらでは朝鮮人や台湾人を除外していた。

 東郷はさきに「一日本人として,そこには,日本民族とはなにか,皇室とはどういう意味をもつかという,今日的な,重い問いかけが発生する」と問題提起していた。戦争の時代にあっては,植民地およびその出身者も強制的に道連れにして戦わせていたにもかかわらず,敗戦後のことがら=事態になると俄然,「植民地とその出身者の存在」など,まるでなきに等しい集団であったかのように語られている。

 補注)旧・大日本帝国の植民地であった朝鮮の人びとのなかからも,敗戦の時点までを総括的に眺望しての話題になるが,特攻隊員になった若者たちもいた。また将星の地位まで昇りつめた壮年の者たちもいた。従軍慰安婦など何十何万人いたのかすら,その後となっては勘定すらできないほど,狩り出されていた。

 一視同仁という帝国思想は,朝鮮人たちを戦争に動員するために都合よく使いまわされるコトバとしてあった。八紘一宇という非常に有名な文句・標語もあって,旧日本帝国が世界で一番すばらしい国という超絶的な国家思想を,語ろうとしていた。旧日帝朝鮮人たちに対して「創始改名」という押しつけもおこなった。

〔記事(本文)に戻る→〕 太平洋戦争開戦以来,日本は「自存自衛」と「大東亜共栄圏の建設」がこの戦争の目的であるとしてきた。新しい戦争指導大綱の決定は,この戦争目的が,「国体護持」と「皇土保衛」,すなわち天皇制の擁護と本土の防衛のみに変更されたことを意味していた。

 注記)NHK取材班編,太平洋戦争 日本の敗因5『外交なき戦争の終末』角川書店,平成6年,160頁。

 東郷は「自存自衛」は「私にとって,消しがたい原点でもあった」と,率直にも語っていた(『歴史と外交』303頁)。

 しかし,こうした「日本国の1人」としての「外務省官僚」による歴史認識は,かつての帝国臣民たち=朝鮮人の仲間たちに対して,きわめてご都合主義であり,利用価値がなくなると手前勝手に突きはなす気持を発露している。東郷は,自身の祖先に当たる民族であっても,日本帝国の「自存自衛」のためであれば,いとも簡単に切り捨てられる姿勢を披露していた。

 1945年までの日本帝国が〈純粋単一民族〉でなかった事実もさることながら,敗戦後においてもこの単純なる「民族観の虚構性」を仮想し,前提にしていた「日本国じたいの戦争責任」は,A級戦犯の刑死と昭和天皇の戦責問題とが〈輻輳する地点〉において,よりきびしく再考されねばならない。

 ところで,前出,姜 徳相『朝鮮人学徒出陣』は副題を「もう一つのわだつみのこえ」にしていた。学徒出陣という「戦争の問題」についてだけでなく,1945年までの日本帝国が〈火の玉〉のようになって戦おうとした『〈一億の民草〉の全存在』を忘却してはならない,と訴えていた。

 歴史の問題を考察するさいし,「忘却している事実そのもの」を,さらに「忘却しようとする態度」は許されない。あたかも認知症を装ったかのごとき歴史に対する〈意図的な無視の態度〉は,無意識にではなく,故意に演じられている「仮想的な虚偽のイデオロギー」といえる。

 しかし,歴史問題の現実的な検討においては,意図的な健忘症などが立ちいるすき間はない。

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