安倍晋三政権時,大学教育(高等教育機関)において文系学部は不要だといってのけた自民党的な思考回路の「文教観」は,単に学問・研究に無知なだけでなく,基本から痴呆的であるに過ぎない「貧困の精神」を恥ずかしげもなく露呈させた(その2)

              (2015年8月17日,更新 2021年12月5日)

 2020年10月に表面化した問題,日本学術会議「新会員」の選定に対した菅 義偉首相・官邸側の,極端なまで陰湿・頑迷で,かつ単細胞になる露骨な介入は,自民党政権の極右・反動的な立場・イデオロギーにもとづく「特高警察的な会員の選別・排除」を意味した。

 だが,実際には理屈の面で,文系学部嫌いだときちんと説明できる中身は,なにももちあわせていなかった。単なる見当違いが顕著なだけであったまま,ひたすら無知・反動である学問理解をムキだしにしていた。それも,自民党に固有である前世紀的な頑迷・固陋ぶりを遺憾なく発揮するものであった。

  要点・1 一国首相の知(痴)的水準を正直に反映させた大学教育理念の不在・欠落にみてとれた,自民党的な文教政策の横暴と痴的退廃ぶり

  要点・2 竹内 洋稿「〈辛言直言〉文理のあり方(下)文系の多様な視点,今こそ」『日本経済新聞』2015年8月5日朝刊29面「大学」を素材に議論する

  補注)この「要点・2」が本日の記述分となる。「本稿(その1)」は,つぎの住所(リンク)である。

 

  竹内 洋稿「〈辛言直言〉文理のあり方(下)文系の多様な視点,今こそ」日本経済新聞』2015年8月5日朝刊29面「大学」

※人物紹介(2015年8月現在)   竹内 洋(たけうち・よう)は1942年生まれ,京都大学教育学部卒,京大教育学部長,関西大学人間健康学部長などを経て,2012年から関大東京センター長,京大名誉教授。著書に次段でかかげる『教養主義の没落-変わりゆくエリート学生文化-』中央公論新社,2003年のほか,『革新幻想の戦後史』中央公論新社,2011年などをある。

 竹内 洋は大学問題に関する著書を多く公表してきた学者である。ここでは『教養主義の没落-変わりゆくエリート学生文化-』中央公論新社,2003年,『学問の下流化』中央公論新社,2008年の2著のみ挙げておく。

 この2著の表題をみただけでも,21世紀に日本の大学が直面している現実的な課題を感じとれるはずである。それはともかく,竹内 洋稿の意見を聞こう。引照するのはインタビュー記事であった。

 --文部科学省が国立大学に対し,人文社会科学系の学部・大学院の廃止を含む見直しを求めるなど,日本の文系学部は転機を迎えている。大学側の反発は強いが,本来の文系学部の役割や,改革のあり方についてあらためて考える機会にもなる。

 日本の大学の歴史のなかでの論壇の動向など,文系分野に詳しい関西大学名誉教授の竹内 洋氏に,本来の役割などを聞いた。なお以下で,◇は記者,◆は竹内である。また,青文字の段落は引用者の補注(註記および補論)である。

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 ◇ 政府による,文系学部の廃止を含む見直し通知をどうみますか。

  ◆「歴史的には明治12〔1879〕年に伊藤博文が『教育議』を記し,学問は実用を期すことが大切で,科学技術に専念すべきだと説いている。当時の日本で近代化が急務だったからだ。いま,文系廃止などの話が出るのも,経済,科学技術分野でグローバル競争が激しくなっている背景があるのだろう。だが,要因はそれだけなのだろうか」

  「現状認識の問題もあると思う。社会の中枢には(1970年代後半ころからの)大学がレジャーランド化したといわれた時期に卒業した世代が多い。浮世離れした授業などのイメージがとくに文系に強いのではないか」

 ★- みえにくい成果

 ◇ すぐに役立たないから廃止,では性急と大学側は反発しています。

  ◆「長い目で社会に必要との反論では消極的に聞こえる。より積極的に『いますぐ必要』といえるはずだ。社会には健全な批評や洞察のための『知』も欠かせない」

 ◇ たしかに,社会に役立つには文系で学ぶような教養も大事という声は根強くあります。

  ◆「ものしりになることと間違われやすいが,本来の意味の教養が大切だ。評論家の福田恆存は『教養とは,節度である』といった。身を修め,自己を抑制しながら議論したりできるためのもので,政治家やビジネスエリートはもちろん,市井の人も無縁でない」

 補注)ここで竹内 洋が指摘する「教養とは節度」という素養に関していえば,いまの日本のなかでこれを一番欠いているのが,ほかならぬ首相(2015年当時⇒)の安倍晋三であった。

 いまこの首相がおこなっている為政は,その欠点をもののみごとまでに高めている。しかし,ご当人にはその意識というか認識はまったくない。ここにこそ,いまの日本国が否応なしに突きつけられている〈現実の不幸〉があった。しかも,安倍の感性は反知性主義の,みごとなまでに悪いお手本を展示していた。

  ◆「このごろは社会のなかの『批評知』が弱いのではないか。言論もそれぞれの立場に系列化されがちで,両論が節度をもって交わされることが少ない気がする。日本の文系学部は,法学部だから法律しか教えないというのでなく,政治や哲学も基本的に学べる。経済学部も同様だ。本来,さまざまな視点で物事をみる力を育てるようになっている」

 ◇ 人材育成力の強化なども,国が大学への改革要請を強める理由のようですが。

  ◆「大学教員は膨大な時間を改革のための会議にとられている。文科省は大学が自由に使いやすい予算を減らし,国が推進するプロジェクトに補助金をつける傾向にある。実際の成果より,補助金のための『作文』が大事になりつつある。かつての社会主義計画経済のようになる不安が強い」

 補注)戦前・戦中の大日本帝国では,戦争の時代に入るまえから「国家社会主義」体制を提唱する学者がいた。林癸未夫『国家社会主義原理』章華社,昭和7年はその代表作であった。ドイツのナチス(略語)の原語が「国家社会主義ドイツ労働者党」(Nationalsozialistische Deutsche Arbeiter Partei:NSDAP) であることはよくしられている。

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 安倍晋三のいわゆるアベノミクスは,この国家社会主義的な政治体制の立場を経済・社会に対して要請(要求あるいは強要)するものだと,経済学者から批判を受けてもいた。もっともいま〔の2021年11月〕ともなれば,アベノミクス(アホノミクス・ダメノミクス・ウソノミクス)は音沙汰なしも同然であり,お呼びがかかる時は〈非難の嵐〉を覚悟すべき “奇説あつかい” される。

  ◆「官僚は自分の任期中になにか改革を,という意識が強すぎるのではないか。改革の成果は,とくに教育分野では短期間では目にみえにくい。結局,きちんとした検証もないまま,改革ばかりやっている感じがする」

 補注)「例の」法科大学院構想の設立実現後における惨状:崩壊現象について,いまでは誰も責任をとろうとしない。法科大学院を構想し,創設させるときは大声でその必要性や緊急度が高いことを盛んに唱えていた有名な人士が何人もいた。

 文部官僚も同断であるが,その後におけるこの専門的職業大学院の「倒壊現象」をまともに反省する者がいない。いまとなっては安倍晋三が首相だった時期の出来事としてみれば,つまり「アベがあのザマだったのだから,オレたちがなにかイチャモンをつけられる余地なんぞ,寸毫もあるまい」という感覚か?

 つぎの指摘は2015年5月時点での法科大学院に対する批評であった。

 東北大学ロー(法科大学院)ほど極端でなくともほとんどの法科大学院は,同じように合格ラインを下げて入学者数を確保している。法科大学院修了が司法試験の受験資格である以上,このことがなにを意味するかは明白だ。予備試験合格者を除けば,法科大学院修了者=司法試験受験者であるから司法試験受験者の質の極端な低下を意味する。

 註記)http://jsakano1009.cocolog-nifty.com/blog/2015/05/post-4bf0.html

 補注)その後,法科大学院の状況がどう推移していったかとみれば,当初設立された74校のうち半数は廃学となった。しかし,各大学の,とくに私立大学の経営にとってはそれほど大きな支障を生まなかった。

  ◇ 限られた財源を効率的に使いたいという考えもあるようです。

  ◆「文系学部にはそんなに金がかからない。文系の研究の審査にかかわった経験からも理系のように大きな金額のプロジェクトはあまり必要ない。少額で多くの人に機会を与える方がいい」

  「研究成果は偶発的に生じることが少なくない。無駄を許容する範囲が狭まるのは仕方がない面もあるが,それでもある程度は必要だ」

 ★- 研究か教育選ぶ

 ◇ 大学がみずから変えるべきことは。

  ◆「教員の処遇の仕方は変えないといけない。いまは教育も研究も皆ほぼ同じようにやるかたちだが,教育と研究のどちらに重点を置くかを大学のタイプや本人の資質で選べるようにすべきだ。米国では教員を評価するさいの研究論文や教育などの比重も,研究型大学と教育中心大学では異なる」

 補注)日本の大学では一流大学で一流の研究に従事し,実績を挙げている教員がいる。あるいは,非一流大学で若者にとって大切な教育に当たり,りっぱにその成果を挙げている教員もいる。

 そして,前者の大学で研究のぱっとしない教員もいるし,また後者の大学でりっぱな研究をおこなっている教員もいるわけだが,「それらのすべて」がいっしょくたに待遇されているところに,日本の大学における「研究と教育」をめぐって,みのがせない「一定の問題」群が控えていた。

 最近では,任期制の問題が以上の現実状況のなかにまざりこんでおり,大学全体の今日的な状況が,いったいどのように把握されればいいのかについて,議論の方途を錯綜させがちにしてきた。

 竹内 洋が触れていたが,アメリカの大学のごときに「運営職員体制と教員組織体制との棲み分けの適切な職務分業」が,日本の大学ではそう簡単にはできていないまま,しかも最近になると,国立大学の独立行政法人化が大学経営の合理化・簡素化を誘導するのではなく,教授会とは別個となった管理体制側の「私物化」的な運営が弊害となって生まれる始末が発生している。

 問題は「大学も非一流,学生も非一流,学校法人の経営管理もろくになっていない大学」にあっても,いちおうは「大学は大学なの」だということで,要らぬ見栄を張っているつもりである。

 だが,結局は,中身を伴わない「大学もどきの大学も数多いこの業界事情」ゆえ,日本の大学業界(私立大学にひとまず,もっぱら関係する話題だが)に対して,非常に緩慢な話題を提供する原因になってもいる。

 前段で指摘し形容してみた「大学に該当する私大の一群」は,とてもではないが「大学といえるような代物ではない」高等教育機関に相当するのであるが,これをただちに始末(安楽死)させる決定的な手当は,いますぐにはみつからないでいる。

 しかも,ここで問題にならざるをえない大学群は「地方の私立で小規模」の大学が多く,とくに文系の大学でもある。最近は,偏差値で最高位に着けている一流大学が文部科学省からの指導で,定員枠の厳守を要請された。

 その結果,非一流大学のほうにその余波として均霑したのが,「定員割れ」が既存あるいは必定であったこちらの大学であっても,現時点的にはその定員割れを一時回避できている。とはいえ,18歳人口の低減傾向に鑑みればその効果は一時的でしかありえず,問題の先延ばしである事実に変化はない。

【参考記事・図表】

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 ここに,安倍晋三政権の文教政策が “文系軽視の姿勢” で踏みこんでくるすきが存在していなかったといえなくもない。もっとも,現政権は私立大学を相手にする以前に,直轄である国立大学群(不思議なことにいまは “独立行政法人” を名乗っているが)に向けて,文系軽視の文教政策をすでに実行してきた。

 この政治姿勢は「教育百年の大計」とは縁もゆかりもない考え方であった。戦争中に理系大学(学部・学科)を優遇し,文系を極端にないがしろにした文教政策の姿勢に通じる「現政権の近視眼的な高等教育」観,いいかえれば,学問研究のなんたるや皆目無知である自民党世襲政治屋の大学観は,きわめて稚拙であった。

〔インタビュー記事に戻る  ↓  〕

 ◇ 経済界には,大学は実学を重視すべきだという声もあります。

  ◆「レジャーランド時代とは違い,大学の現場には,日常的な話題に絡むテーマをとり上げるなど授業を工夫している教員も多い。経済界と大学側がたがいをよくしることも大切だ」(引用終わり)

 --以上のやりとりのなかで,竹内 洋の大学観は,とくべつに変わったことを答えていたのではなく,大学という高等教育機関にはなにが期待されているのかを,ごく常識的に考える必要性を語っていた。

 もっとも,アベノミクスに伏在していた新自由主義規制緩和路線の政策方針が,大学問題の方向性を検討する場面にまで浸透してきた問題や,それでなくとも,先進国中では高い授業料〔など入学時からの納付金〕の問題などは,以上の発言においては言及されていない。


 「『形式的改革』より産官と本質議論を」日本経済新聞』2015年8月5日朝刊29面「大学」に《続く記事》として参照する「記述」

 「改革にも節度がないと」。竹内 洋名誉教授は,教員の処遇をはじめ大学に変わらないといけない面があることは認める。だが現状は,形式的な改革に追われる不安が先に立つ。大学のあり方を本質的に問うより,国の方針に沿う予算を獲得することの方が「勲章」になりかねないからだ。

 竹内氏が挙げる「法律や政治など多様な視点で物事をみて議論する力」は,これまでは日本の大学が広く育んできたか疑問符もつく。ただ「廃止」を含む文科省主導の改革ばかりでいいのかどうか。プロジェクトに予算をかける理系とは異なる運営方法を含め,考えるべきことはまだある。

 補注)大学における学問体系として観た文系と理系は,ともに,その大事さにおいて優劣はつけられない。実践・実用・応用を強調したいあまり地道な基礎研究を軽視したら,いままで日本人学者にノーベル賞受賞者がたくさん出せていたけれども,このような成果がこの先は挙げられなくなる。この種の懸念は,当のノーベル賞受賞者たちのあいだから上がっていた。

 関連して触れるが,日本人でノーベル賞を獲得しているのはほとんど理系ばかりであって,文学者の川端康成大江健三郎以外,文系の学者がおらず「全滅状態」だと悲観されてもいる。もっとも,使用する言語の問題があいだに介在しているゆえ,そう簡単に悲観する必要はない。けれども,日本国文部科学省が高等教育に力をあらためて入れたいのであれば,それは文系だといわねばならない。

 少なくとも,これまでにおいて日本人学者が文系領域(文学を除外して)でノーベル賞を授賞されていない実績に照らせば,あらためてそのように強調しなければならない。ところが,文部科学省が口に出していうことといえば「理系」ばかりである。それでいて文系は……と,判ったようでわけの判らぬ議論をしている。「理系」であっても基礎研究・純粋研究の重要性は変わるところはない。

 付注)『日本経済新聞』2021年11月30日朝刊には,以上の記述に関連して,以下にかかげる解説記事が掲載されていた。この論説については即座に,自然科学分野=人文・社会科学分野であると完全にいいきれるための論拠,いいかえれば,その「=」の点に関した「学術研究上の絶対的な事由」がありうるのか,という疑問が湧いた。

 

 「学問の世界」がアングロサクソン系の世界観・価値観中心になる基準によって支配され,牛耳られてきた様相がまったくないなどとは,とてもいえまい。地球上で使用される言語が,学問の世界のあり方に関する場合だけとしても,英語だけですべてが済むならば「彼らの学術界における〈政治観〉」が中心・主軸になるほかない。

 

 恩蔵直人は早稲田大学商学部教授で,「日本のマーケティング研究の代表的な研究者の1人」だと紹介されているが,経営学におけるマーケティング研究の学域は,インターナショナリティが一番よくなじみやすい領域のひとつである。この理解からすれば,恩蔵が説明するように,ともかく「人文社会科学分野」に「大きな転機」〔と到来しているのだ〕といわれてみたところで,二つ返事で「しかり,同感」といって,賛同できない。発想が単純に過ぎて,そう簡単には着いていけない。

 

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〔日経・記事に戻る→〕 通商国家ベネチアで自由な精神の象徴といわれたパドバ大学は17世紀には強みが薄れた。地動説を唱えたガリレオが大学を去ったのも自由だった雰囲気の変化が一因といわれ,周辺国との競争激化などの国際環境下で「寛容な立場を貫くことはまことにむずかしい」(高坂正堯『文明が衰亡するとき』新潮社,1981年)一例とされる。

 今回の改革の背景にもグローバル競争の激化が指摘される。竹内氏は明治に遡って話を始めた。まさに歴史や国際環境を含む多様な視点で,あるべき姿をどう描くか。国が「廃止」まで踏みこむ前に,産官と大学が自由に文系の役割を議論すべきではないだろうか。(引用終わり)

 --以上の竹内の議論も,きわめてまともな方途であり主張である。それにしても,なにゆえ「文系」はどうでもよいかのような提唱がなされるのか? そのような議論を展開する人士たちは,きっと「文系」的な思考回路に重大な欠陥があるらしいと憶測しておく。

 

 「受験生に悲報…有名私大,約3千人の合格者削減? より狭き門に」『ビジネスジャーナル』2015年8月8日 06時00分,http://news.livedoor.com/article/detail/10445637/

 1)文部科学省補助金政策の限界

 うだるような酷暑のなか,世間はすっかり夏休みモードに包まれているが,来春の栄冠をめざす受験生は机に向かっているのだろう。ただ残念なことに,ストイックな日々を耐えている受験生にさらなる試練がくわわりそうだ。とくに合否のボーダー線上でせめぎあっている数多くの受験生にとっては過酷な現実だ。

 先〔7〕月20日,全国紙各紙で報じられたように,文部科学省は来年度から定員を上回る学生を入学させているマンモス私立大学に対して,補助金の交付額を削減することを決めた。

 具体的には,定員数8000人以上の大規模私大の場合,定員の1割を上回る学生を入学させると,大学の補助金を全額カットするというものだ。従来は2割以上であっただけに,基準が大きく引き下げられることになる。来年度から段階的に引き下げられ,2018年度には1割ルールを適用するという。

 補注)入学したのちに中途退学する学生減員の問題がある。文部科学省は「入学手続時の1割ルール」という規制強化(?)をかけるのではなく,完全に0割にするよう私立大学を指導すべきである。

 補注の 補注)この指摘(2015年時点のもの)についてはその後さらに,文部科学省の指導に変化があり,これはもっときびしくなっていた。上の〈補注〉で指摘した基準,つまり「定員にぴったり合わせる合格者数・率」とするように,その指導がなされている。

 以前であれば国立大学は完全な定員厳守であった。私立大学ではなぜ,いままで野放し状態で,2割もの「水増し:実現」を許してきたのか(さらに以前であればそれは3割であった)。私立大学の経営維持問題が念頭にあるにしても,考えてみるまでもなく,ずいぶん弛緩した国家側の指導でしかなったというほかない。

 大学設置基準によれば,私立大学でも定員を守れば経営維持ができる枠組を与えているはずである。それを2割--さらに以前〔昔〕であれば,もうめちゃくちゃで定員の2倍,なかには例外的であったが3倍近くも学生を入れた私立非一流大学も存在した--までは,それまで許してきたという規制そのものが,実に締まりのない・だらしない基準である。

【参考記事】-2019年1月時点での関連するある説明-

 

 文部科学省は2016年度から,入学定員を超過した私立大に対する私立大学等経常費補助金の配分基準をきびしくした。入学定員を超過して入学者を受け入れた私立大は,それだけ学生から入学金や授業料の収入をえており,そのような大学に国から補助金を配る必要はないということだ。定員の基準を少しでも超過して入学者を受け入れた場合,補助金を配らないことに決めたのだ。

 

 というのも,2014年度時点で,私立大の入学定員は約4万5000人も超過しており,その8割(約3万6000人)が3大都市圏の私立大に集中していた。片や,地方の私立大では定員割れを起こしており,東京一極集中を助長しているとみなされた。安倍内閣が進める地方創生の観点からも,大都市圏の私立大ばかりに学生が偏るのを防ぐ狙いもあった。

 

 2015年度までは,定員8000人以上の大規模大学の場合,入学定員充足率が120%以上になると補助金が受け取れなくなっていた。これを,2016年度以降,段階的に引き下げ,2018年度には110%以上になると補助金を受け取れないことにした。

  (中略)

 

   さらに,前述の文科省の方針と合わせて,2017年度以降に新学部を設立したい大学には,よりきびし入学定員超過を出さないような基準を課し,入学定員管理を厳格にするよう求めた。それも影響してか,新学部を創設して入学定員が増えているにもかかわらず,合計の入学者は減った大学があった。

 

 そして,文科省は,2019年度以降,私立大への補助金について,入学定員充足率が100%を超える大学には,定員超過入学者数に応じて学生経費相当額を減額することや,95%~100%にした大学には補助金を上乗せするとの方針を打ち出し,さらなる入学定員管理の厳格化を求めようとした。

 注記)土居丈朗・「慶應義塾大学 経済学部教授「都市圏の私立大学が合格者数を減らすわけ  定員管理の厳格化で,大学入試はどう変わる」『東洋経済 ONLINE』 2019/01/21 6:20,https://toyokeizai.net/articles/-/261124?page=2

〔記事『ビジネスジャーナル』2015年8月8日 に戻る  ↓  〕

 首都圏の大規模大学関係者が「痛いところをいきなり突かれました」と語るように,該当する私大側も動揺を隠せないようだ。もともと関係者のあいだでは,大規模な私立大学が定員を上回る学生を入学させていることは,よくしられていた。

 自治が広く認められている私立で,学生の受け入れ数は裁量の範囲内であること,また行き場を失う受験生を少しでも減らしたいという温情もあって,これまで黙認されてきたとみられる。ただ,現状を考えると弊害が大きくなっているのも事実だ。周知のとおり,少子化を無視した大学の乱立に伴って,ブランド大学と無名大学の格差はいちじるしく拡大してしまっている。

 補注)大学進学志望者はなるべくすべて受け入れたいという考え方は理解できなくもない。だが,大学教育の最低水準〔と想定しておきたいもの〕に,まるっきり手が届いてもいないような非一流大学の大群(特定の大集団)が存在する現状において,「行き場を失う受験生を少しでも減らしたいという温情」は無用な心配である。

 「大学は出たけれども」ユニクロや牛丼屋,山田うどんの「店長に(いずれ:そのうち:将来は)なれるよといった実態もまた,いまどきの大卒が就職先としては,ふつうによくある事例である。それでも,非一流大学卒の学歴がどうしても必要なのかといえば,即座に「否」と答えるほかない。

 そもそも非一流大学群では,文系としての教養科学的な教育態勢が成立しえないできた長い歴史(すでに部分的な現象としては半世紀近く前からあった)を,実際に体験してきている。

 したがって,この文系と理系の大学群のそれぞれの教育をどのように変えていくのか,それとも大学教育体制じたいを根本から,どのように大転換をさせていくのかといった問題が控えている。

 国立大学に比べて私立大学にあっては,理系の大学(学部・学科)が相対的にも絶対的にも少ない。文系の大学は,それも非一流大学になると,比率的には圧倒的に多い。こういった事情が有する意味・背景には,日本の高等教育に固有である〈特定の含意〉が示唆されている。

 文科省の狙いは,投網を打つようにして受験生をさらっていく大都市部のマンモス私大,すなわち有力私大の膨張を抑止しようとする点にある。ゆとり教育の蹉跌に始まり,最近では新国立競技場の巨額建設費問題まで失策続きの文科省だが,今回の補助金抑制策は一定の妥当性がある。

 2)受験生だけが損する?

 しかし,この施策は文科省,大学,受験生の三方のうち,受験生にとってデメリットが大きい。

 文科省からすれば,片手で毎年少なからぬ補助金(税金)をもらいながら,もう一方の手で定員を大幅に上回る学生を集めて懐を肥やしている強欲な私大に鉄槌を下すことができる。

 補注)この段落の内容は,現在の時点ではきびしく指導されており,文部科学省が経常費補助の減額を操作して対処する対象になってもいる。この点は既述した。

 大学側にしても,必らずしも悪い話ではないようだ。「かねてから,学生数が多すぎることを問題視していた教職員は少なくない。教育環境の向上の意味からは望ましいことではないか」(前出大学関係者)との声も聞かれる。

 だが,肝心の受験生にとってはメリットがない。現状でも高止まりしている一流私大の合格ラインがさらに上昇するからだ。

 【トップクラス私大の直近総定員超過率】--この数値は,2015年度入試における各大学の「入学者の水増し」比率である。

  早稲田大学 119% 立教大学 119%  青山学院大学 116%

  上智大学 116%  明治大学 114%  立命館大学 114%

  中央大学 114%  同志社大学 113% 慶應義塾大学 111%

  関西大学 110%  法政大学 107%  関西学院大学 105%

 以上は,「早慶上智」(早稲田大学慶應義塾大学上智大学),「MARCH」(明治大学青山学院大学立教大学中央大学,法政大学),「関関同立」(関西大学関西学院大学同志社大学立命館大学)などと略称される「トップクラス私大の総定員超過率に関した数値:比率」「水増し率」に関した,現実の記録であった。

 いずれも大規模大学に該当しており,1割ルールを厳密に適用されれば,現時点では12大学中9大学が補助金ゼロの憂き目に遭う。

 補注)この段落の話は,前段に説明がなされたその「1割ルール」に則した〈結果〉を語っていたわけである。

 返済不要,使途自由の補助金を拒否する大学はまず存在しないから,基準に沿って合格者数は絞りこまれるだろう。仮に1割ルールを超過している9大学が110%未満に学生数を抑えた場合,削減数は合わせて約2700人にもなる。少なくとも従来であれば合格していた3000人近くの受験生が涙をのむことになるわけだ。もちろんこれは最低限の数字であり,監督官庁の意向を配慮して,それ以上に合格者数が削減される可能性は十分にある。

 補注)以上の点をさらに前段の記述に合わせていいなおすと,文部科学省は事後,入学定員の確保:調整に関して非常に厳格な指導をおこなってきた。各大学は100%を目標に過不足のない入学定員の確保を調整しなければならない。

 また,以前,この削減数(に対する文部科学省の指導)によって「地方・私立・小規模の非一流大学」の定員割れが救えるのではないかと,筆者にいわせれば見当違いの主張がなされていたこともあった。

 つまり,「都市・私立・大規模の一流大学」に対する水増し実員「統制・削減策」の実施状況が,上記のごとき「非一流大学の定員割れ現象」に対しておこぼれをもたらす,それもいつまでもつづくそれだとみなしたかった「一流大学と非一流大学のそれぞれの定員充足状態」に関した理解,いいかえれば,「それらのあいだ」にはいつも直接に「なんらかの因果関係がありうる」とみなしたかったそうした考え方は,見当違いの解釈であった。というのは,それでなくとも非一流大学の定員割れ現象は〈時代の趨勢〉として事実,今後も押しとどめることは不可能であるからである。

 2015年度については定員割れした大学数が昨年度に比較して抑制されているかのような統計が把握されていたが(前掲した『読売新聞』記事の図表にもその傾向は表現されていた),これにはいろいろ工夫・対策が講じられての結果であって,定員割れの現象が絶対的な趨勢として減少に向かっている事実はない。実質的には現に確実に進行中である。

 1990年代初頭の第2次ベビーブーム世代の受験期を境にして,少子化の進行に反して大学や学部学科は増えつづけ,競うように門戸を広げてきたが,こと有力大学に関しては再び狭き門の時代に回帰しつつあるようだ。(④ での記事の引用はここで終わり)

 --さて本日の問題は,文系大学(学部・学科)不要論が関心事であった。いずれにせよ,日本の大学業界全体に関した「問題のあり方」を観察するに当たっては,その全体像の総括的な理解を十分に準備し,整理したうえで,そのなかから抽出すべき「当面する重要な課題」を提示したかたちを採り,そこから議論を展開してほしかった。

 なかでも国立大学と私立大学とを,そして,文系大学(学部・学科)と理系大学(学部・学科)とを,異様までに区分・識別したがる高等教育機関に対する認識は,大学問題を考察するに当たっていえば「害になっても益にはならない」。

 戦争の時代に理系でなければ大学ではないかのような「狂気の大学観」が横行していた。いままた,安倍晋三政権が文系の大学など要らない・潰せとでもいいたいかのような〈狂乱・無理解の時代精神〉を発露させていた。これを「異常な時代の大学観」とみないで,いったいなんと観るべきか?

 3)オジイチャンとオヤジの「伝統の重荷」を背負って

 安倍晋三の母方のオジイチャンも,また父上も東京大学法学部を卒業していた。晋三も東大法学部を卒業〔する以前に入学しておく必要があるが〕していれば,以上に論じたような話題は登壇しなかったかもしれない,と考えてみるしだいである。

 と,以上までを書いたところで,つぎの記事をみつけた。


 --『週刊ポスト』2015年5月29日号が説明していた安倍晋三「学歴関係」の素性をとりあげた記事である。この記事の題名のなかには「安倍晋三首相は『東大出身者とエリート官僚が嫌い』?   背景に家庭事情か」という文句もあった。

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 安倍内閣には東大出身者が少ない。「お友達」と呼ばれるなかで東大出身は厚労相塩崎恭久くらいで,東大から大蔵省というエリートコースを歩んだ経産相の宮沢洋一など計4人しかいない。

 「晋ちゃんは東大出身者とエリート官僚が嫌い。議員でも東大出身者とは肌が合わないのか敬遠する傾向がある。エリートだった祖父や父に対する学歴コンプレックスの裏返しではないか」とは,安倍と付きあいの長い議員の見方だ。

 安倍晋三の2歳上の実兄・寛信(現・三菱商事パッケージング社長)は成蹊大学卒業ののち,東京大学の大学院に進学していた。

 大学時代の安倍兄弟を教えた教授が10年ほど前,筆者の取材に手きびしく語った。「安倍君は保守主義を主張している。思想史でも勉強してからいうならまだいいが,大学時代,そんな勉強はしていなかった。ましてや経済,財政,金融などは最初から受けつけなかった」。

 その男が「母方の祖父」や「オヤジ」の七光り,看板・地盤・カバンを譲りうけて「総理大臣」になれていた。そして,アベノミクスだ,安保関連(戦争)法案だとかを,国会で議論させたりしてもきた。これでは,第3者に対して「危ない」としか形容する以外には,「感じさせうる中身・実体」が「なにもあるわけがなかった」。

 要は,晋三のその出自・学歴・履歴などのなかに,自然にかつ必然にしこまれてきたらしい「そのハチャメチャさ」ときたら,もともと「不安定さ」や「心許なさ」に関して「危険がいっぱい」なのであった。その結末はみるに,ご覧のとおりになったこの国がみごとに体現させられている。いまさらあらためて説明までもない。

 註記)以上,http://news.livedoor.com/article/detail/10131635/,2015年5月20日 07時00分 参照。

【参考記事】 最後に,関連する議論はたくさんあるが,ここでは1稿のみ,内田 樹「国立大学改革亡国論『文系学部廃止』は天下の愚策」『PRESIDENT Online』2015年05月30日 10:00,https://president.jp/articles/-/15406  を紹介しておく。

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